メランコリア

メランコリアの国にようこそ。
ここにあるのはわたしの心象スケッチです。

『ネルソン・マンデラ』(鈴木出版)

2016-01-15 16:21:11 | 
『ネルソン・マンデラ』(鈴木出版)
カディール・ネルソン/作・絵 さくま ゆみこ/訳

ネルソン・マンデラ(Wiki
アパルトヘイト(Wiki
“アフリカーンス語で「分離、隔離」の意味を持つ言葉で、特に南アフリカ共和国における白人と
 非白人(黒人、インド、パキスタン、マレーシアなどからのアジア系住民や、カラードとよばれる混血民)の
 諸関係を規定する人種隔離政策のことを指す。”

マンデラ氏のことも、アパルトヘイトについても、名前のほかは、ぼんやりとしか知らなかったので、改めて借りてみた。
大型本の表紙に描かれたこの圧倒的な顔の絵を見ても分かるとおり、中身の絵にも文章なしでも十分訴えるものがある迫力満点。

カディール・ネルソン(Kadir Nelson)
アメリカ合衆国生まれ。絵本作家・画家。アフリカ系アメリカ人の文化や歴史をテーマにした作品で多方面で活躍するかたわら、
1999年からは絵本も手がけ、数々の賞を受賞。
おもな絵本作品に『ヘンリー・ブラウンの誕生日』、『ワンガリ・マータイさんとケニアの木々』(ともに鈴木出版)、
『ハリエットの道』(日本キリスト教団出版局)、『CORETTA SCOTT』(未邦訳)など多数。


【内容抜粋メモ】

マンデラ家の13人の子どものうち、一番賢かったロリシュラシュラは学校に行くことになった。
学校ではコーサ語の名前は使えず、教師は彼に「ネルソン」と名付けた。

父が9歳で亡くなり、ネルソンは、家族と離れて遠くにいる有力者の親戚と暮らすことになった。



有力者のおじさんの開く集まりでは、長老たちが語った。

「何世紀もの間、私たちは南アフリカで豊かに暮らしてきた。
 しかし、ヨーロッパから土地や宝を求めて白人たちが来て戦いが始まり、
 強力な武器によって、私たちは土地を奪われ、力をなくした」

ネルソンは、貧しいアフリカ人たちを守るために、弁護士を目指して猛勉強した。

南アフリカ政府は「アパルトヘイト」政策を開始。
国民を「白人」「カラード」「アジア人」「黒人」に分け、
白人しか入れない場所を設け、黒人らはあらゆる権利を奪われた。

「カラード」先住民、混血、アジア人、インド系、マレー系


「白人専用」と書かれた看板

ネルソンは「アパルトヘイト」と闘う集会を開いた。
「アマンドラ(力を)!」
「ンガウェトゥ(われらに)!」

黒人は、法律によって意見を言うことを禁止されていた。
ネルソンは逮捕され、2週間投獄された。

ネルソンは、ウィニーと結婚、子どもができ、2人は力を合わせて「アパルトヘイト」と闘った。

警察は逮捕状をとってネルソンを探したが、ネルソンは公の場に出ず、変装をして、各所に泊まり歩いた。

リベリア、エチオピア、モロッコを訪ね、黒人が白人やエジプト人らと自由に暮らす姿を見て、
自分の国から憎しみと差別をなくそうと心に決めた。

ネルソンはふたたび逮捕され、ロベン島の刑務所に入れられた。
重労働の間も、本を読み、仲間の囚人に教えた。



南アフリカでは、「アパルトヘイト」に反対する集会、デモが起き、世界からも非難されたため、
政府は方針を変え、「白人専用」の看板もなくなった。

27年後、釈放された時、ネルソンの髪は白くなっていた。
集会でさまざまな肌の色の人たちの前で演説した。

「私たちは、恐ろしい過去を忘れ、南アフリカのよりよい未来を築かなくてはならない。
 一緒に正義を求めて闘い続け、自由への最後の道のりを歩きましょう」



誰もが選挙に参加できるようになると、1千万人以上がネルソンを新しい大統領に選んだ。
南アフリカは自由の国となった。


【訳者あとがき 内容抜粋メモ】
南アフリカでは20C、白人は人口の7割以上を占める黒人からさまざまな権利を奪う法律をつくった。
黒人には選挙権がなく、仕事の賃金も安く、住む場所も制限されていた。
「ホームランド」と呼ばれる不毛の地では暮らしていけず、家族と離れて白人の召使いになったり、工場で働いた。

黒人の1人あたりの教育予算は、白人の1/10程度で、白人が使う言語を使うよう強いられた。
人種の違う男女の恋愛、結婚は禁止され、黒人は「パス」(身分証明書)を常に身につけさせられた。

ANC(アフリカ民族会議)は、この政策に反対し、ネルソンもその1人。副議長、議長を務めた。
「国家反逆罪」で逮捕されたネルソンは、27年間牢獄に閉じ込められた。

やがて世界中の人々が「アパルトヘイト」に反対しはじめ、中には白人もいた(C.ローパーも歌っている

1990年、ネルソンは釈放。
1994年、全人種が選挙に参加。ネルソンは大統領に選ばれ、1999年まで務めた。

ネルソンが素晴らしいのは、白人に対する積年の恨みをはらすのではなく、全人種が「虹の国」をつくろうと呼びかけたこと。

2013年12月、ネルソンは95歳で亡くなった。


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フィジー(1999.12.2-6)

2016-01-15 15:53:21 | 町歩き
※notes and movies(1999.10~ part1)からの転記。

「おでかけスポットリスト」カテゴリーの「小さな旅」に追加しました。


全然使い道のなかったカード



【12.2】

2、3日前に風邪ひいたかも・・・

8時に起きて、荷物チェック。
12:30、友だちから電話があった。

家を出て、15時、家族と上野で待ち合わせ。
京成線で成田。19時離陸

父と2人で4人がけの席でひたすら寝る。
映画は『The General's Daughter(将軍の娘、1999)』ほか。
機内食(朝食)、煮魚、クロワッサンサンドは悪くなかった。



【12.3】

ほとんど寝ぼけて7:30着
今回は無線機も心配をよそにすんなり税関を通った。

「市内観光」
バスでラウンジへ。女性ガイドのモリタ?さんは、明るくて、説明をして、すぐに「市内観光」へ。






「村でカバの歓迎の儀式」
兄は歌にツラレテ「ナタ~」w
なにか器に入った謎の液体を飲まなきゃならなかったが、そんなに不味くなかった。
みんなで一緒に踊った。
















教会は手造りで、日本人カップルが午後から式を挙げるらしい。

ランチは、インド風スープ、ステーキ、モロコシチップみたいなもの、クレープ、デザートはココナッツアイスでgood。

ホテルに着いて、みんな無線のセッティングにかりだされたが、私は1人部屋の中で時間を持て余している(手伝わなかったんだ

噂の「Calling Card」を成田で父と買ったのに、フィジーにはアクセス番号がなかった(苦笑)。

19時までまったりして(そーだお土産屋に行ったんだ)、タクシーで予約したモキャンボホテルまで2ドルで行って、
夕食は、カレー、魚などのバイキング。
赤い巻きストールとカードを買った(スタッフに“God bless you.”と言われた)。

この日はお風呂に入って、速攻寝た



【12.4】

7時に起きて、朝食もバイキング。ハム、ソーセージ、トースト、ホットケーキ、ぐでぐでのパスタなど。

「NADI」
ショッピング。タクシーで5ドル。ジャックスとかで友だちのお土産を全部そろえた。
ランチは、ピザ、ペプシ、野菜、エビなどのシーフード。

14時頃に戻って、ホテルのプールへ
深いところはけっこー2mほどあって、思わず水を飲んじゃった母に爆笑
ジャグジーもあり、団体の女子学生が来て、一気に学校のプール化。

部屋に戻ってシャワーを浴びたところ。
途中の手彫りのお土産が欲しくて、買うかも。硬い木を使っているそう。出来上がるのに3日かかる→結局買わなかった。

夕食は、ホテルのバイキング。野菜炒めでgood。

この夜は悲惨だった!! 父が22時すぎまで無線をやってて、
兄がソファベッドで寝て、母と私は狭いダブルベッド。

喉がモーレツ痛くて、やっと眠ったら5:30に父に起こされ「時間違った」て/怒
で、モーニングコールも忘れられて、起きたのは6:20。



【12.5】

朝食は昨日と同じメニューのバイキング。

「ビーチコンパー島」
7:50、バスを待てども来ず。やっときて船着場へ。

説明を受けて、島を一周(10分)のつもりが、母が途中で挫折(あとほんの少しで一周だった)。
1800円の水中メガネ(割れた)で少し見たけどサイパンほどじゃなかった。
真っ青なヒトデがキレイ!!

兄はまた陽に焼いている間、私と母は1日5ドル(1時間3ドル)+40ドル補償金の
シュノーケルセットをレンタルしたら、こっちのほうが見やすい!

13時、ランチはバイキング。ポテト、オクラの野菜炒め、フルーツ、アイスティー、コーラフロートetc...

14時「Fish Feeding」
底に魚が見える小さい船。最初からのんびりで1時間も周ってすっかり船酔い
もういいですって感じ。揚げたパンをやると2~3種類の群れがきて触れた。

しばらく砂浜で休んでいたら、「パラセイリング」も面白そうで、16:15の船で帰れるか?

“How many people are waiting?”(怪しい英語だ)“4”と言われ、事情を話したら、
スタッフさんは電話で運転手に「早めるよう」言ってくれて「彼の次だ」と言われた。

日本人男性は、思いっきり戻る場所が過ぎてたw

フィリピン系のカップルの後に“3 instructions. 1.walk 2.sit 3.pull”(1.歩いて 2.座って 3.引っ張る)

男性より先に行こうとして“I'm little nervous”とゆったら、
“OK! You're single? You got boyfriend in Japan?”と聞かれて、“Say No”の歌を歌われたww

“But, Yes, sorry.”「日本で結婚しよう。飛行機代は君が払ってね」と冗談を言われて、
別のスタッフが“I'll pay.”など笑わせてくれて陽気な人たち

初体験のパラセイリングはすっごい気持ちよかった~ 風もパーフェクト!
おりる時のサインがちょっと見えなかったけど無事着地。

(途中、イタズラされて、パラセイリングを引っ張ってるボートの運転手がスピードをゆるめて、
 私は、体半分以上、海に落ちたんだよね

15時、お茶は飲めず、16:15過ぎてたけど、船で帰った。



現地ガイドの日本人女性は、4年半も住んでいるそう!
「ここんとこ天気が悪かったのに、みなさんは日ごろの行いが良くて快晴! ラッキーかも

今18時過ぎか。これからもう少しでご飯。
楽しい時間はあっとゆー間。今度はバナナボートにも乗ってみたいな

夕食は、ホテルのバイキング。22時過ぎまで喋って、今度は私がソファベッドのほうで寝た。



【12.6】

6:20頃起床。1時頃にものすごいスコールがあった
朝食はバイキングで食べ終わったところ。8:30頃出発。

なっかなかバスが来なくて、9時過ぎまで待った! これぞフィジータイム
空港はややシンプル。おばあちゃん団体とは最後まで一緒だった。
「prouds」でちょっと買い物をした。

機内の映画は『Big Daddy』と『Wild Wild West』。
『Wild Wild West』は冒頭を見逃したから、観るもんか~~~と頑張った。ヒマだったのに

(私は映画を観る際、最初から最後までちゃんと観たい。どんなにつまらなくても、怖くても。
 だから『Wild Wild West』は、その後、映画館で観た。
notes and movies(1999.10~ part2)参照

8時間ちょっとで無事に成田に到着。すぐエクスプレスで1時間、東京駅で解散。
アパートに着いたのは19:30頃。洗濯も荷解きもして、また友だちから電話があって・・・

7日にはちゃんと会社に行った。エライ



夕食のテーブルにいつも花が置いてあった。男性もスカートを履いてこれを着ける。


紅茶はフツーだけど、コーヒーは焼き芋の香り


現地の人は、誰を見ても同じ顔に見える。おばちゃんがずっと狙って配ってた宣伝のカード


追。
フィジー空港でしか日本円に換金できなかった。

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ジム1月6回目(2016.1.15)

2016-01-15 15:25:14 | 日記
リラックスヨガⅠ
このインストラクターさんもドライアイに悩んでいるそうで、聞いたら、
やっぱり眼科でもらった目薬をつけてもあまり変わらないそう

いつものように足先からもみほぐす。「足首も手首と連動しているので、よくほぐしてあげてください」

今回は立位のバランスがなくてよかった。ひねりのポーズも出来る範囲でやれたし。


エアロシンプル(40分)
前のクラスの15分後、同じインストラクターさんが今度は激しいエアロもやる。
しかも40分。30分がいいんだけどなあ。たった10分の違いが大きい

最初はヤル気マンマンで動いてるけど、20分過ぎたあたりから、口は渇くし、息が上がるし、体は疲れて、集中力も落ちる
逆にやることはどんどん増やされていくから、だんだんついていけなくなって、また前後左右反対現象がはじまる

このインストラクターさんは、やる前に説明して、それほど難しい動きはしないんだけど、
「レッグカール」に両手をあげる仕草を入れるだけでもこんがらがる。
それも、ただ上げるだけじゃなくて、ちゃんと意識して上げて、下げる時は肩甲骨、脇をしめて、負荷をかけないと意味がない。

汗だく&ゼエハアな息になって、体力&気力の限界です

「エアロビクス用語集」参照
ステップだけでも、40分間でマンボステップ、ステップタッチ、ステップニー、ボックスステップ、Vステップすべてやったな。
曲がかかっている間は、とりあえずその場で足踏みしてるのが基本だし。

ほかにも、こんなに動きがいっぱい入ってる。
「ニーアップ」
「ランジアップ」
「ダウンアップ」
「フロント・トゥー・バックステップ」

音楽は♪Girls Just Want To Have Fun/Cyndi Lauper もかかってたv


●ストレッチ
汗がひくまでストレッチポールと柔軟をしていたら、いつも見かける白髪で快活な奥さまが話しかけてくれて、楽しくお喋りした。


●温泉
ムリせずに、温泉でゆっくり体を温めてから帰った。

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