■『ネルソン・マンデラ』(鈴木出版)
カディール・ネルソン/作・絵 さくま ゆみこ/訳
ネルソン・マンデラ(Wiki
アパルトヘイト(Wiki
“アフリカーンス語で「分離、隔離」の意味を持つ言葉で、特に南アフリカ共和国における白人と
非白人(黒人、インド、パキスタン、マレーシアなどからのアジア系住民や、カラードとよばれる混血民)の
諸関係を規定する人種隔離政策のことを指す。”
マンデラ氏のことも、アパルトヘイトについても、名前のほかは、ぼんやりとしか知らなかったので、改めて借りてみた。
大型本の表紙に描かれたこの圧倒的な顔の絵を見ても分かるとおり、中身の絵にも文章なしでも十分訴えるものがある迫力満点。
カディール・ネルソン(Kadir Nelson)
アメリカ合衆国生まれ。絵本作家・画家。アフリカ系アメリカ人の文化や歴史をテーマにした作品で多方面で活躍するかたわら、
1999年からは絵本も手がけ、数々の賞を受賞。
おもな絵本作品に『ヘンリー・ブラウンの誕生日』、『ワンガリ・マータイさんとケニアの木々』(ともに鈴木出版)、
『ハリエットの道』(日本キリスト教団出版局)、『CORETTA SCOTT』(未邦訳)など多数。
【内容抜粋メモ】
マンデラ家の13人の子どものうち、一番賢かったロリシュラシュラは学校に行くことになった。
学校ではコーサ語の名前は使えず、教師は彼に「ネルソン」と名付けた。
父が9歳で亡くなり、ネルソンは、家族と離れて遠くにいる有力者の親戚と暮らすことになった。
有力者のおじさんの開く集まりでは、長老たちが語った。
「何世紀もの間、私たちは南アフリカで豊かに暮らしてきた。
しかし、ヨーロッパから土地や宝を求めて白人たちが来て戦いが始まり、
強力な武器によって、私たちは土地を奪われ、力をなくした」
ネルソンは、貧しいアフリカ人たちを守るために、弁護士を目指して猛勉強した。
南アフリカ政府は「アパルトヘイト」政策を開始。
国民を「白人」「カラード」「アジア人」「黒人」に分け、
白人しか入れない場所を設け、黒人らはあらゆる権利を奪われた。
※「カラード」先住民、混血、アジア人、インド系、マレー系
「白人専用」と書かれた看板
ネルソンは「アパルトヘイト」と闘う集会を開いた。
「アマンドラ(力を)!」
「ンガウェトゥ(われらに)!」
黒人は、法律によって意見を言うことを禁止されていた。
ネルソンは逮捕され、2週間投獄された。
ネルソンは、ウィニーと結婚、子どもができ、2人は力を合わせて「アパルトヘイト」と闘った。
警察は逮捕状をとってネルソンを探したが、ネルソンは公の場に出ず、変装をして、各所に泊まり歩いた。
リベリア、エチオピア、モロッコを訪ね、黒人が白人やエジプト人らと自由に暮らす姿を見て、
自分の国から憎しみと差別をなくそうと心に決めた。
ネルソンはふたたび逮捕され、ロベン島の刑務所に入れられた。
重労働の間も、本を読み、仲間の囚人に教えた。
南アフリカでは、「アパルトヘイト」に反対する集会、デモが起き、世界からも非難されたため、
政府は方針を変え、「白人専用」の看板もなくなった。
27年後、釈放された時、ネルソンの髪は白くなっていた。
集会でさまざまな肌の色の人たちの前で演説した。
「私たちは、恐ろしい過去を忘れ、南アフリカのよりよい未来を築かなくてはならない。
一緒に正義を求めて闘い続け、自由への最後の道のりを歩きましょう」
誰もが選挙に参加できるようになると、1千万人以上がネルソンを新しい大統領に選んだ。
南アフリカは自由の国となった。
【訳者あとがき 内容抜粋メモ】
南アフリカでは20C、白人は人口の7割以上を占める黒人からさまざまな権利を奪う法律をつくった。
黒人には選挙権がなく、仕事の賃金も安く、住む場所も制限されていた。
「ホームランド」と呼ばれる不毛の地では暮らしていけず、家族と離れて白人の召使いになったり、工場で働いた。
黒人の1人あたりの教育予算は、白人の1/10程度で、白人が使う言語を使うよう強いられた。
人種の違う男女の恋愛、結婚は禁止され、黒人は「パス」(身分証明書)を常に身につけさせられた。
ANC(アフリカ民族会議)は、この政策に反対し、ネルソンもその1人。副議長、議長を務めた。
「国家反逆罪」で逮捕されたネルソンは、27年間牢獄に閉じ込められた。
やがて世界中の人々が「アパルトヘイト」に反対しはじめ、中には白人もいた(C.ローパーも歌っている
1990年、ネルソンは釈放。
1994年、全人種が選挙に参加。ネルソンは大統領に選ばれ、1999年まで務めた。
ネルソンが素晴らしいのは、白人に対する積年の恨みをはらすのではなく、全人種が「虹の国」をつくろうと呼びかけたこと。
2013年12月、ネルソンは95歳で亡くなった。
カディール・ネルソン/作・絵 さくま ゆみこ/訳
ネルソン・マンデラ(Wiki
アパルトヘイト(Wiki
“アフリカーンス語で「分離、隔離」の意味を持つ言葉で、特に南アフリカ共和国における白人と
非白人(黒人、インド、パキスタン、マレーシアなどからのアジア系住民や、カラードとよばれる混血民)の
諸関係を規定する人種隔離政策のことを指す。”
マンデラ氏のことも、アパルトヘイトについても、名前のほかは、ぼんやりとしか知らなかったので、改めて借りてみた。
大型本の表紙に描かれたこの圧倒的な顔の絵を見ても分かるとおり、中身の絵にも文章なしでも十分訴えるものがある迫力満点。
カディール・ネルソン(Kadir Nelson)
アメリカ合衆国生まれ。絵本作家・画家。アフリカ系アメリカ人の文化や歴史をテーマにした作品で多方面で活躍するかたわら、
1999年からは絵本も手がけ、数々の賞を受賞。
おもな絵本作品に『ヘンリー・ブラウンの誕生日』、『ワンガリ・マータイさんとケニアの木々』(ともに鈴木出版)、
『ハリエットの道』(日本キリスト教団出版局)、『CORETTA SCOTT』(未邦訳)など多数。
【内容抜粋メモ】
マンデラ家の13人の子どものうち、一番賢かったロリシュラシュラは学校に行くことになった。
学校ではコーサ語の名前は使えず、教師は彼に「ネルソン」と名付けた。
父が9歳で亡くなり、ネルソンは、家族と離れて遠くにいる有力者の親戚と暮らすことになった。
有力者のおじさんの開く集まりでは、長老たちが語った。
「何世紀もの間、私たちは南アフリカで豊かに暮らしてきた。
しかし、ヨーロッパから土地や宝を求めて白人たちが来て戦いが始まり、
強力な武器によって、私たちは土地を奪われ、力をなくした」
ネルソンは、貧しいアフリカ人たちを守るために、弁護士を目指して猛勉強した。
南アフリカ政府は「アパルトヘイト」政策を開始。
国民を「白人」「カラード」「アジア人」「黒人」に分け、
白人しか入れない場所を設け、黒人らはあらゆる権利を奪われた。
※「カラード」先住民、混血、アジア人、インド系、マレー系
「白人専用」と書かれた看板
ネルソンは「アパルトヘイト」と闘う集会を開いた。
「アマンドラ(力を)!」
「ンガウェトゥ(われらに)!」
黒人は、法律によって意見を言うことを禁止されていた。
ネルソンは逮捕され、2週間投獄された。
ネルソンは、ウィニーと結婚、子どもができ、2人は力を合わせて「アパルトヘイト」と闘った。
警察は逮捕状をとってネルソンを探したが、ネルソンは公の場に出ず、変装をして、各所に泊まり歩いた。
リベリア、エチオピア、モロッコを訪ね、黒人が白人やエジプト人らと自由に暮らす姿を見て、
自分の国から憎しみと差別をなくそうと心に決めた。
ネルソンはふたたび逮捕され、ロベン島の刑務所に入れられた。
重労働の間も、本を読み、仲間の囚人に教えた。
南アフリカでは、「アパルトヘイト」に反対する集会、デモが起き、世界からも非難されたため、
政府は方針を変え、「白人専用」の看板もなくなった。
27年後、釈放された時、ネルソンの髪は白くなっていた。
集会でさまざまな肌の色の人たちの前で演説した。
「私たちは、恐ろしい過去を忘れ、南アフリカのよりよい未来を築かなくてはならない。
一緒に正義を求めて闘い続け、自由への最後の道のりを歩きましょう」
誰もが選挙に参加できるようになると、1千万人以上がネルソンを新しい大統領に選んだ。
南アフリカは自由の国となった。
【訳者あとがき 内容抜粋メモ】
南アフリカでは20C、白人は人口の7割以上を占める黒人からさまざまな権利を奪う法律をつくった。
黒人には選挙権がなく、仕事の賃金も安く、住む場所も制限されていた。
「ホームランド」と呼ばれる不毛の地では暮らしていけず、家族と離れて白人の召使いになったり、工場で働いた。
黒人の1人あたりの教育予算は、白人の1/10程度で、白人が使う言語を使うよう強いられた。
人種の違う男女の恋愛、結婚は禁止され、黒人は「パス」(身分証明書)を常に身につけさせられた。
ANC(アフリカ民族会議)は、この政策に反対し、ネルソンもその1人。副議長、議長を務めた。
「国家反逆罪」で逮捕されたネルソンは、27年間牢獄に閉じ込められた。
やがて世界中の人々が「アパルトヘイト」に反対しはじめ、中には白人もいた(C.ローパーも歌っている
1990年、ネルソンは釈放。
1994年、全人種が選挙に参加。ネルソンは大統領に選ばれ、1999年まで務めた。
ネルソンが素晴らしいのは、白人に対する積年の恨みをはらすのではなく、全人種が「虹の国」をつくろうと呼びかけたこと。
2013年12月、ネルソンは95歳で亡くなった。