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臓器移植法改正ー「脳死は人の死」は欺瞞。

2010年02月19日 | 生命・環境倫理
実際には、「生命の質」と「多数の者の福利の増進」が問題になっているのに、「脳死は人の死」という定義でごまかすのは欺瞞だ。


臓器移植法が改正され、2010年7月から施行されることとなっている。

気になるのは、「脳死は人の死」という定義と「臓器移植の可否」との関係である。

ここで問われているのは、「まだ身体全部が死んでいない人」から臓器を取り出すのが、どのような条件で許されるか、ということだ。

私が一つ指摘しておきたいことは、ここでは実際には「生命の質」と「多数の者の福利の増進」が問題になっており、どのような条件で医者の意図的な「生命の停止」が許されるのか、という判断がなされているはずなのに、そのあたりを「脳死は人の死」という定義でごまかすのは欺瞞だ、ということだ。

私は、脳死は人の死ではない、と思っている。

しかし、だからといって、これだけではまだ、「臓器移植には反対」にはつながらない。

たとえば、植物人間になってしまった人間のその後の「quality of life(生命の質)」や「幸福」と、その人から臓器提供を受ければ救われる人間たちの「quality of life」や「幸福」とを比較して、条件次第では前者の「生命の停止」が肯定されることがあるかもしれない、と思っているからだ。

というか、現に今の社会は、そのような「功利主義的判断」を行っているのではないか。

脳死と判定された人から、いくつかの条件の下に臓器を移植することが可能、とされているのが現代の社会なのだから、

脳死と判定された人は、臓器移植によって助かる子どもたちの「quality of life」の増進のために、速やかな生命の停止を求められる場合がある、そのほうが社会全体の幸福にとっては望ましい、

という価値判断が、すでになされていることになるのではないか。

生命倫理学の言葉で言えば「生命の神聖性」よりも「生命の質」を優先させる考え方に移行しているということであり、これはたとえば、安楽死はある条件の下で認められる、という考え方と整合性がある。

しかし、臓器移植法に賛成する人たちも、このあたりの価値観の表明がはっきりとしないのだ。

たとえば臓器移植法は、現行法でも、2010年7月から施行される改正法でも、「脳死した者の身体」を「死体」と呼んでいる。
これは「死体」から臓器を取り出すのだから許されるはずだ、という考え方が前提になっているのだろう。

しかし私は、脳みそという臓器が死んだくらいで、人間の身体がまるごと死んでいるわけではないと考える。

「脳死は人の死」という定義でごまかすことは、単なる欺瞞なのだ。実際にやっているのは、多くの人たちの幸福の「比較考量」の上での「生命の停止」なのだ。
(「人格」があるのかどうかは定かではないが、とにもかくにも「生きているもの」を殺すことを、「殺人」と呼ばず「生命の停止」とここでは呼んでいる)

このような視点を思いついたのは、私が最近倫理学者のピーター・シンガーの『生と死の倫理』という本を読んだからだ。

以前の記事でシンガーの考え方を紹介して私はこう書いている。(「ガダラの豚」に同情するシンガーの凄さーピーター・シンガー『生と死の倫理』を読む 2010年02月16日 より)

>シンガーはこの本で「生命の神聖性」という考え方を攻撃する。
>「脳死」は人の死、という定義を行った医者たちは、死の定義をずらすことで「生きている人間から臓器を取り出すわけではない。つまり殺人を犯しているわけではない」という言い訳ができるようなった。
>シンガーによればそれは「偽装」である。
>実際には「生命の質」に基づいた判断がなされているのに、「生命の神聖性」を冒していないという偽装が行なわれている。

今回の私の記事は、この線に沿って考えてみた結果である。


「脳死が死であるかどうかはっきり言えない医師」・・・普通では?ー『日本の論点 2010』ー河野太郎氏の論文より


『日本の論点 2010』に、臓器移植法の関する論文が二本入っている。

そのうち、父・河野洋平に肝臓を移植した経験などから、先般の臓器移植法の改正にも尽力されたという「河野太郎」氏の論文で、医者や看護士など現場にいる人たちにも「脳死=人の死」には疑いがあるということを、河野氏が憂えている箇所がある。

>(…)驚いたことに、医学部、看護学部の教育が脳死を取り上げていないためか、改正案を作成するためのヒアリング中に、脳死が死であるかどうかはっきり言えない医師や看護士がいた。医療の専門家になるべき人材が、きちんとしたカリキュラムのなかで脳死についてまず教育を受ける必要性を痛感した。(『日本の論点 2010』ー河野太郎氏の論文より)

そしてこの河野氏の「脳死が死であるかどうかはっきり言えない医師」という言葉に、「編集部の注」がつけられており、

>東大医学系研究科の会田薫子特任研究員らが08年10月-09年3月に実施した全国調査(日本救急医学会に所属する医師約2800人が対象・有効回答約 930人)では、半数近くが、臓器提供とは関係なく脳死診断をしていると回答したが、このうち3分の2は「脳死と診断しても呼吸器は外さない」。対して、「呼吸器外しを選択肢としている」は全体の2%、混乱する脳死現場の実情を浮き彫りにする結果となった(日本経済新聞09年10月25日付)

とある。これは「普通」の感覚ではないか。


「脳死は人の死ではない」という日本人の感覚って「アニミズム的感性」?ー『思想地図 vol.1』ー川瀬貴也氏の論文より


しかし、諸外国の人たちがいとも容易に「脳死は人の死」という医者の判断を受け入れるという事情があるらしいので、もしかするとこれは日本人だけの感覚なのかもしれない、とも思う。


『思想地図 vol.1 特集・日本』(2008年)
の川瀬貴也氏の論文『「まつろわぬもの」としての宗教』では、一部、臓器移植問題が扱われており、そこで文化人類学者のマーガレット・ロックという人が、日本人が臓器移植に抵抗感を覚える原因の一つとして「アニミズム的感性」を挙げているらしいと知る。

ーそうかもしれない。
自分の中に、日本古来の「アニミズム的感性」みたいなものが残存していることを、私もときどき感じる。
たとえば、粘菌だって森だって「生きている」という感覚。
神社の近くの古い木を見ると思わず「敬虔」な気持ちになる。

イメージとしてすぐに思いつく例を挙げれば、南方熊楠、宮沢賢治、宮崎アニメの『隣のトトロ』、水木しげるの妖怪漫画などに通低しているあの感覚ー「目玉おやじ」はたしかに「目玉」だけど、私にはやっぱり「生きている」と感じられる。

水木しげるの漫画なんて読んでいると、「肝臓」という「臓器」が死んだ時と、「脳みそ」という「臓器」が死んだ時と、どう違うのかよくわからなくなってくる。\(^o^)/

体の一部はともかく生きているじゃないか、という感覚。

>欧米ではさほどの抵抗なく受け入れられた「脳死」という概念が日本では何故このように抵抗に遭うのか。文化人類学者のマーガレット・ロックは膨大な文献・インタビュー調査を通じた比較検討の上で、控えめではあるが、「日本人は人体解剖の歴史が浅いこと」「遺体を傷つけることを忌避してきたこと」「医者という専門家に対する敬意の度合いが欧米より低いこと」「死の社会性(死を意味づける家族の存在)を重んじること」「無機物や機械にもいのちを感じるアニミズム的な感性」などが日本における脳死概念受容の進展を妨げてきたという仮説を唱えている。(『思想地図 vol.1』ー川瀬貴也論文『「まつろわぬもの」としての宗教』より)

川瀬貴也論文は、脳死忌避と日本人の「宗教性」との関連を扱っている。

>日本人の脳死忌避の答えは容易には見つからないし、短絡的に「日本の伝統的な身体観」というものを措定して解釈することも慎まねばならないだろう。脳死という、テクノロジーによって生み出された新しい「死」の形に、受容であれ拒否であれ、明確な答えを与えてくれる「伝統」を探る試みそのものを批判する視座すらあり得るだろう。ただ言えるのは、このような「脳死・臓器移植の拒否」という事態から、日本人の「宗教性」が思いがけずあぶり出された、という事実だけである。我々はこの事実の中核にある「何か」にまだいかなる輪郭も与えてはいないが、確かに「それ」はあるのである。(川瀬貴也論文)

この川瀬貴也氏の論文がすごいと思ったのは、日本の新興宗教にも取り組んでいるところで、

>この脳死・臓器移植問題について、各教団はいかなる回答を与えてきただろうか。大雑把に言って、臓器の提供を「博愛」とか「利他行」として合理化しつつも、積極的にそれを信者に勧めることはしないという中途半端に見えるスタンスをとる教団がほとんどであると言ってよいだろう。

とあって注釈で、「大本教」や「幸福の科学」といった教団の出版物にまでチェックを入れていることがわかる。

>「脳死」を死とみなさないスタンスを最も鮮明に打ち出した教団は、大本である。人類愛善会・生命倫理問題対策会議編『異議あり!脳死・臓器移植』天声社、 1999年を参照。他に幸福の科学も独自の身体観、霊魂観から反対を表明している。大川隆法『永遠の生命の世界』幸福の科学出版、2004年、第三章を参照。ただし、幸福の科学は臓器移植に絶対反対の立場はとっておらず、霊的な苦痛を覚悟の上なら認めている。

臓器移植と「功利主義」との関係は。
臓器移植問題においても、「功利主義」の正しい理解と、「宗教性」を深めること、両方ともしっかりと考えることが必要なはずなのに、それがちゃんとなされているようには見えない。だから合理的な「功利主義」の考えを深めることもできないし、合理を超えた「宗教性」を深めることもできない。

>では、教団の特殊な語彙ではなく、例えば功利主義的な考えは訴求力を持つだろうか。もちろん、一定の訴求力を持つであろうし、現に持っているであろう。脳死臓器移植は一人の脳死体から複数の臓器を提供でき、多くの人を助けられるという点から見ても、非常に功利主義的に納得のいく話であるし、合理的とすら言えよう。しかし、その合理性に納得できないという感性を否定することはできないし、またそれを否定してはならないだろう。結局、この功利主義にある意味対抗できるのは、合理性を超越するものと見なされている「宗教性」であろう。我々は具体的な「信仰」を失ったといっても、このような場面で再び「宗教性」を召喚してしまうのである。(川瀬貴也論文より)


おまけ:大本教の出口王仁三郎のエピソードー『日本の論点 2010』ー松本健一氏の論文より


ついでに臓器移植に反対しているという「大本教」について、たまたま『日本の論点 2010』の別の論文、松本健一氏の論文に「出口王仁三郎」のエピソードが紹介されていたので少し抜粋しておく。

日本の敗戦を予言していたのは、唯物論者の中江丑吉、大本教の出口王仁三郎、2.26事件の思想的指導者とされた北一輝の三人ぐらいのものだった、という話の文脈で、以下、出口王仁三郎の予言のエピソード。

>(…)出口王仁三郎は満州事変の1931年を語呂合わせで「いくさのはじめ」と読んで好戦気分をあおりたてたジャーナリズムに対して、この年は皇紀 2591年だから語呂合わせでいえば「じごくのはじめ」じゃないか、といった。そしてその4年後の1935年、大本教本部が「不敬」を理由として爆破されると、「日本もいずれは焼野原になるんだ」、と予言した。(『日本の論点 2010』松本健一氏の論文より)

出口王仁三郎ってすごいですね。