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「ガダラの豚」に同情するシンガーの凄さーピーター・シンガー『生と死の倫理』を読む

2010年02月16日 | 生命・環境倫理
ピーター・シンガー・樫則章訳『生と死の倫理 伝統的倫理の崩壊』(1998年,原著1994年)を読む。

>科学技術は「それができるなら、それをしよう」という規則を作り出し、倫理学は「それをすることができるとしても、それをしてよいか」と問う。(35p)

医療の分野においても、考えるべきことは、いろいろある。
医療資源の希少性。臓器移植の必要性。
障害を持って生まれてくる子どもへの配慮。
親への配慮。


脳死問題に関してー「生命の神聖性」と「生命の質」


シンガーはこの本で「生命の神聖性」という考え方を攻撃する。
「脳死」は人の死、という定義を行った医者たちは、死の定義をずらすことで「生きている人間から臓器を取り出すわけではない。つまり殺人を犯しているわけではない」という言い訳ができるようなった。

シンガーによればそれは「偽装」である。

実際には「生命の質」に基づいた判断がなされているのに、「生命の神聖性」を冒していないという偽装が行なわれている。

必要なのは、(西洋の)伝統的な倫理について我々が「もう一度考え直す」ことである。

>ハーバード脳死委員会は主に医学の専門家から成り立っていたー(…)1968年8月、『アメリカ医師会雑誌』に報告書(『不可逆的昏睡の定義』)を発表した。(…)「われわれの第一の目的は不可逆的昏睡を死の新たな判定基準として定義することである。この定義が必要とされる理由は二つある。(1)蘇生手段および生命維持手段の改善によって、絶望的なほど損傷を受けた人々の生命を救おうとする努力がますます増大した。これらの努力も、ときには部分的にしか効を奏せず、その結果、心臓は動いているが、脳が不可逆的に損傷を受けた患者が出るようになった。知性を永久に失った患者、その家族、病院、およびこれらの昏睡状態にある患者によって必要な病院のベッドをふさがれている他の患者にもたらされる負担は甚大である。(2)死の定義の時代遅れの基準によって移植用臓器の獲得に関する論争が生じるおそれがある。

>ハーバード脳死委員会は二つの重要な問題に直面していた。回復の見込みがまったくない患者が人工呼吸器につながれていながら、誰もそのスイッチを切ろうとしない。生命を救うために使うことのできる臓器は、潜在的な臓器提供者の血液循環が止まるのを待っていれば役に立たなくなってしまう。委員会はこれら二つの問題を「脳の観察可能な活動が止まった人を死者の側に分類する」という大胆な方便によって解決しようとしたのである。この死の再定義は、その結果が望ましいものであることが明らかだったので、反対論にあうことはほとんどなく、たいていどこででも認められた。それにもかかわらず、それは初めからまちがっていたのである。定義し直すことで問題を解決しようとしてもめったにうまくいくものではない。そして、この場合も例外ではなかった。(シンガー『生と死の倫理』72p)

こと、「倫理的」な問題に関しては、どんな発言であっても「ロジカル」に「首尾一貫」しているから正しい、とまでは言えない。「歴史」や「感情」を考慮に入れると「論理的・首尾一貫性」が保てなくなる可能性もある。

しかし、それでもピーター・シンガーの「論理的一貫性」は私にとってはインパクトが強く、われわれの無反省な倫理的・慣習的思考を厳しく批判にさらす効果がある。


なぜ「人間」の生命だけが擁護されるのか。


たとえば、ベジタリアンのシンガーからすれば、無条件で中絶に反対する「生命擁護派」は、そもそも名前が不正確である。人間以外の動物の「生命」は尊重していないわけであるから。

>中絶反対運動を「生命擁護派」と表現することは、中絶の合法性を唱える人たちを「選択擁護派」と表現することとまったく同じくらい誤解を招きやすい、ということである。生命擁護運動のなかには菜食主義の人がほとんどいない。この運動に参加しているほとんどの人たちは、人間と人間以外の動物の間にはっきり線を引いている。彼らは人間の生命を守りたいと思っているのであって、食事をとるときはいつも動物を殺すことに賛成しているのである。したがって、生命擁護運動は自らを「人命の擁護派」と呼ぶべきなのである。しかし、それでもまだ不十分である。というのは、この運動は戦争における殺人や死刑制度には反対していないからである。したがって、「罪のない人間の生命の擁護派」のほうが適切である。ところが、これでさえまだ十分ではない。なぜなら、世界の貧しい地域の子どもたちが栄養不良や予防可能な病気のために死ぬことがないようにするほうがー中絶と戦うことよりもー罪のない人間の生命を救うためのはるかに確実で有効な方法であるにもかかわらず、この運動はそのための活動を何一つしていないからである。(114p-115p)


カトリックには昔、「赤ちゃんがお腹を蹴ったとき」を「生命の始まり」とみなす考え方もあったートマス・アクィナスの「胎動初感」説


カトリックの考え方も批判にさらされる。
しかし昔からカトリックが「受胎の瞬間」を「生命の始まり」とみなしていたわけではない、とシンガーは指摘する。

たとえばこの本で紹介されている、トマス・アクィナスの「胎動初感」説。

「ケアの倫理学」のノディングズなら何と言うだろうかと思った。
アクィナスが言う「体内で胎児が動くのを妊婦が初めて感じるとき」というのは、ノディングズが重視している「出会い」や対話が始まる瞬間ではないだろうか。

>リベラル・カトリックの人たちはカトリック教会の教えを緩和しようとして、しばしば次のような指摘をしている。すなわり、トマス・アクィナスのような中世のキリスト教哲学者たちの主張によれば、胚や胎児は「胎動初感」のさいに霊魂が宿るまで「形相を与えられていない(アンフォームド)」ので、自ら動くことはできないー「胎動初感」とは、体内で胎児が動くのを妊婦が初めて感じるときである。アクィナスは、これが起こるのは男の胎児の場合、受胎から40日後、女の胎児の場合、受胎から80日後であると信じていた。胎動初感以前の胎児の成長について科学的知識がまったくなかった頃、胎動初感が生命の始まりと考えられたことは無理のないことだった。したがって、胎動初感以前に中絶することは殺人ではなく、むしろ人口抑制策だとみなされていた。ローマ・カトリック教会や多くの国の法律制度で「受胎の瞬間から中絶は殺人の一形態である」と広く主張されるようになったのは20世紀に入ってからにすぎない。(115p)


オランダの安楽死とアメリカの社会保障制度


オランダの安楽死について。
シンガーは安楽死を肯定するわけだが、たとえばそれをそのままアメリカなどに持ってくるときには、オランダとアメリカの社会保障制度の違いなどを考慮に入れる必要があるという。この辺りまでちゃんと説き及ぶところが、私が「シンガーってすごいな…」とつい感心してしまうところだ。

>オランダで安楽死がおこなわれているからといって、それをそのまま他の国に持ち込むことは容易ではないかもしれない。とくにアメリカ人は、オランダは高水準の医療と社会保障とを全国民に与えている福祉国家であるという事実を覚えておいたほうがよい。十分な医療を受ける経済的なゆとりがないからという理由で安楽死を必要とする患者は一人もいないのである。(198p)


イエスに崖から追い落とされた「ガダラの豚」たちに同情するシンガー。


聖書に、イエス・キリストが悪霊たちを豚の群れの中に追いやり、豚たちを崖から転落死させるエピソードがある。

しかしこのエピソードを読んで、崖から落ちていく「豚」のほうが気になった人がいるだろうか。

シンガーは筋金入りの動物解放論者として、イエスではなく「豚」のほうに同情の視点を置くのである。これには驚いた。

ちなみにこのエピソードは、中島らもの小説『ガダラの豚』の題名の由来ともなっている。

>イエス自身の行ないも、人間以外の生命に対する無関心さを示す例を二つ与えている。イエスはイチジクの木にイチジクの実がなっていないことを見つけると突然怒り出し、イチジクの木を呪ったが、そのためにイチジクの木は衰え、枯れてしまった。別のあるときに、イエスは悪魔を追い払い、豚の群のなかに追い込んだ。それから、豚の群は海を目指して突進し、溺れ死んだ。初期の教父たちのなかで最も影響力のあったアウグスチヌスは、このようなイエスのおこないは熟慮のうえでおこなわれたものであり、人間以外の生命の価値について私たちに何かを教えようと意図したものであると信じて疑わなかった。

>>(アウグスチヌス)動物を殺したり、植物を枯らしたりしないようにすることが迷信の極みであることをキリスト自ら示されたのである。われわれと獣と木との間に共通の権利は何もないと判断し、豚の群のなかに悪魔を追いやり、呪いをかけて実のなっていない木を枯れさせられたのである。たしかに、豚には罪がなく、木にも罪はなかった。
(ピーター・シンガー『生と死の倫理』208p-209p)

どうだろうか。シンガーの凄さというか、少なくとも「無視することは出来ない」というインパクトの強さが少しでも伝わっただろうか。


関連記事:臓器移植法改正ー「脳死は人の死」は欺瞞。 2010年02月19日
(→以上のようなシンガーの立場を踏まえて考えてみると、臓器移植問題に関する現在の日本の議論に「欺瞞」があることがあぶり出される。)