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レヴィナス―「社会を維持せよ」という「神の命令」

2010年01月11日 | 宗教・スピリチュアル
哲学者レヴィナスの本を読んでいると、レヴィナスは、「人間の社会が成立していること自体が、とても不思議」、という感覚について述べているように感じる。

ブーバーの「我と汝」という思想について語っているところで、レヴィナスは『「我-汝」つまり人間との社会性の延長上に神との関係は生じる。』と語っており、このあたりが、私が仮説として立てている「社会が成立していること自体が奇跡、という感覚」を述べているんじゃないかな、と思った。(エマニュエル・レヴィナス,内田樹訳の『観念に到来する神について』より引用

『イザヤ書』58章では、神に怒りを向けられた民が、「わたしたちは、ちゃんとあなたのために断食したり、いろいろと信仰深い行為をしています。なのに、なぜあなたはそんなに怒っているのですか」と問い掛けると、神は「私が好む断食とは、貧しい隣人に家を与え、服を与え、食を与えることではないか」と答える箇所がある。

ここでレヴィナスはそのあたりを参照しているようだ。

もしかするとこういう感覚は、レヴィナスだけではなく、ヨーロッパの知識人には長く共有されていた感覚なのかもしれない。

たとえば、社会保障や福祉の制度。ヨーロッパではかなり充実しているようだが、
それも、ヨーロッパに永いあいだ聖書の伝統があったことを抜きにしては考えられないのではないか。

「社会を維持せよ」というのが、もともと「神の命令」だったから。

振り返って日本では、最近、テレビで「派遣村」とか作って、家のない人に住居を与え、食をふるまう様子が紹介されている。

やっているのは内閣府参与の湯浅誠氏ら。
だが、本来はこういうことは、とっくに宗教家がやっているべきことなのかもしれない。アメリカなら、キリスト教の教会だろう。
日本だったら、「お坊さんたち」がやっててもおかしくないことだと思う。

『イザヤ書』58章には、「安息日」についても語られている。

ヨーロッパ諸国で、労働法制の中で「休息」というのがあれだけ重んじられているというのも、もとはといえば、神が定めた「安息日」と関係があるのかもしれない。

関連記事:宮台真司とレヴィナス-〈世界〉の奇跡性、〈社会〉の奇跡性。2009年12月29日
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