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「仏教」がやっと駅前の本屋で買える!-平井俊榮・訳注『般若経』(ちくま学芸文庫)

2010年02月20日 | 宗教・スピリチュアル
駅前の本屋、キオスク、市立図書館等にもっと仏典を!


このようなコンパクトな「般若経典」が出るのを待っていた。

私には、仏典に「訓読文」が付いていることが重要なのだが、

その点、平井俊榮訳注『般若経(般若心経・金剛般若経・大品般若経)』 (ちくま学芸文庫 2009年) は申し分ない。

そもそも、ちくま学芸文庫は、『空海コレクション』 のシリーズを出したときから「すげえ」と思っていた。

私は日頃、過去の仏教の遺産がまだいっぱい残っているはずのこの日本で、たとえば「ブラリと立ち寄る駅前の本屋で買える本」として、仏典類があまりにも少ないことに不満や憂愁の念を抱いていた。

中途半端な仏教の「解説書」は多いんだけれど、そもそもそれらの基になるエッセンス類、「仏典」が少なすぎるのだ。

たとえばギリシャ神話とか聖書、西洋の哲学書の古典などは、駅前の本屋で文庫本で手に入れることは今の日本、そう困難なことではない。それらと比べると、仏教に関して古典へのアクセス可能性が薄すぎるのだ。仏典見たかったら大きな図書館へ行くか、何万円か払って購入しないといけない。
こんな状況で、日本が「とりあえず大乗仏教がさかんな国」だと言えるのか。

そういう状況が、少しづつマシになってきているようなので、よかった。

慶賀すべきことである。


西暦2世紀頃ー「さあ、俺たちの大乗仏教を広めよう!」ーやる気満々、開始早々、いきなりこんなこと言われたら・・・「菩薩」と言っても「名前」だけ。「衆生」と言っても「名前」だけ。「救い」と言っても「名前」だけ。汝らはこのことを知るように。・・・(´・ω・`)信者ショボーン


2世紀頃に、大乗仏教運動が起こって、そこで「般若経」の思想が生まれた。

「衆生」の救済を目指す「菩薩」たちの活動がさかんになった。
それらの活動と思想は、1000年以上の期間をかけて、日本にも多大な影響を及ぼした。
そのさなか、恐ろしいことに般若経典は、「菩薩というのは名前にすぎない。実際には存在しない。衆生というのも名前にすぎない。実際には存在しない。」などという「救済活動」に冷や水をぶっかけるような言葉で始まっている。

こんな宗教が、かつてあっただろうか。自分達の言葉遣い、スローガンを否定するところから「救済運動」が始まっているような宗教が。

たとえば、キリスト教の聖書や神学書に、「イエス・キリストは名のみの存在であり、イエス・キリストという男は存在しない。同じく聖霊や神も存在しない。三位一体とは、縁起のことにすぎない。」なんていう言葉が書かれていたら、どうだろうか。こんな文章を読んだらイエズス会の宣教師などは、何か「やる気」がなくなって、「宣教の意欲」が削がれてしまうのではないか。

しかし、それこそが「空」を掲げ、布教された各地でメタモルフォーゼを続けながら、ダイナミックな「転法輪」(ローリング・ストーン)を展開した、仏教の最初の姿なのである。
私は改めて、このことに驚く。


『大品般若経』ー「般若波羅蜜を行じて、我を見ず、衆生を見ず」


『大品般若経』習応品より

仏、舍利弗に告げたもう、「菩薩摩訶薩、般若波羅蜜を行ずる時、応に是の如く思惟すべし。

菩薩は但だ名字のみ有り、仏も亦た但だ字のみ有り、般若波羅蜜も亦た但だ字のみ有り、色も但だ字のみ有り、受・想・行・識も亦た但だ字のみ有り。

舍利弗よ、我の如きは但だ字のみ有り、一切の我は常に不可得なり。
衆生・壽者・命者・生者・養育・衆数・人者・作者・使作者・起者・使起者・受者・使受者・知者・見者、是の一切は皆な不可得なり。

不可得空なるが故に、但だ名字を以て説くのみ。

菩薩摩訶薩も亦た是の如し。般若波羅蜜を行じて、我を見ず、衆生を見ず、乃至、知者・見者を見ず、所説の名字も亦た見るべからず。

菩薩摩訶薩は、是の如く般若波羅蜜を行ずることを作す。

仏の智慧を除けば、一切声聞・辟支仏の上に過ぐるものなり。

不可得空を用っての故に。
所以(ゆえん)は何(いか)んとならば、是の菩薩摩訶薩は、諸の名字、法の名字、所著の処も亦た不可得なるが故なり。

舍利弗よ、菩薩摩訶薩は、能く是の如く行ずるを、般若波羅蜜を行ずと為す。」

(『般若経』 (ちくま学芸文庫)138p-139pより)


常啼菩薩ー「空閑林の中に於いて、空中の声の言うを聞く」


『般若経』のうち、「物語」風味のものとしては、常啼菩薩(じょうたいぼさつ)の話が印象深かった。彼はあるとき「空中の声」を聞いて般若波羅蜜の教えを求める旅に出る。「なぜ私はあの時、空中の声に聞かなかったのだろうか」いきなり後悔して憂愁に沈む、常啼菩薩。

『大品般若経』常啼品より

薩陀波崙菩薩(さつだはろんぼさつ)=常啼菩薩(じょうたいぼさつ)

空閑林(くうげんりん)の中に於いて、空中の声の言うを聞く、『汝善男子、是より東して行け。疲極(ひごく)を念ずること莫かれ、睡眠を念ずること莫かれ、飲食(おんじき)を念ずること莫かれ、昼夜を念ずること莫かれ、寒熱を念ずること莫かれ、内外(ないげ)を念ずること莫かれ。

善男子よ、行く時に左右を観ずること莫かれ、汝行く時に身相を壊(え)すること莫かれ、色相を壊すること莫かれ、受・想・行・識の相を壊すること莫かれ。

何を以ての故にとならば、若し是の諸(もろもろ)の相を壊するときは、仏法中に於いて則ち礙(さわり)有りと為せばなり。若し仏法中に於いて礙有るときは、便ち五道生死の中に往来し、亦た般若波羅蜜を得ること能わざるなり。』

(『般若経』 (ちくま学芸文庫)339pより)


常啼菩薩ー「我れ云何(いかん)が空中の声に問わざりし。」ー薩陀波崙菩薩、啼哭憂愁して是の念を作せり。


爾(そ)の時、薩陀波崙菩薩(さつだはろんぼさつ)は、是の空中の教えを受け已(おわ)りて、是れより東して行く。

久しからずして復た是の念を作せり。

我れ云何(いかん)が空中の声に問わざりし。我れ当に何処にか去るべきや、去ること当に遠なるや近なるべきや、当に誰に従って般若波羅蜜を聞くべきや、と。

是の時、即ち住して、啼哭(たいこく)憂愁して是の念を作せり。

我れ是の中に住して、一日一夜を過さん。若しくは二、三、四、五、六、七日七夜なりとも、此の中に於いて住せん。疲極(ひごく)を念ぜず、乃至、飢渇寒熱を念ぜず、般若波羅蜜を聴受する因縁を聞かずんば、終(つい)に起(た)たず、と。

(『般若経』 (ちくま学芸文庫)349pより)