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自尊心などなしでやっていける能力-『自己牢獄を超えて 仏教心理学入門』より

2010年01月28日 | 宗教・スピリチュアル
やや「ニューエイジ」風味か?―『自己牢獄を超えて』


イギリス人が書いた仏教書『自己牢獄を超えて 仏教心理学入門』(2006年、原著は2003年)は、かなり独特な仏教解釈を示す本である。パーリ語仏典に基づいたかなり厳格な教理解釈をすると同時に、癒し系・ニューエイジ系の思想とも共鳴するところがある。たとえば仏教の四諦説の「苦・集・滅・道」のうち「滅」を煩悩を滅ぼすこと、ではなくて、煩悩を抱きしめ、「包容すること」(containment)と解釈したりする。わたしはこういう癒し系の感覚が嫌いではないが、たとえばラディカル・ブッディストを自称する仏教者・宮崎哲弥氏などであれば、この本は肌に合わないだろうし、そこに仏教教理上の問題を指摘することもできるだろう。

しかしやはり素材が仏教なだけあって、時々過激だが、なおかつ深みのあることを言っているところが私は好きだ。今回この本に注目したのは、「人は尊厳なしにやっていけるものなのか? 人は自尊心なしにやっていけるものなのか?」という問いに対する、仏教側の答えのようなものを探してのことである。


The Self-prison: Self as a Defence Structure(防衛構造としての自己)


題名の「自己牢獄」というのは、仏教では「自己」というものを「牢獄」であるとする、という著者らの立場をもっともはっきりと示すことばだ。

この本の「自己という牢獄:防衛構造としての自己(The Self-prison: Self as a Defence Structure)」(39p-41p)という節から引用。

>仏教心理学は(西洋の「自己心理学」に対して)「非自己心理学」と呼ばれることがあります。自己(セルフ)とは、苦悩に対する反応の中に組み込まれている防衛構造(defence structure)です。(39p)

>仏教心理学によれば、自己とは、喪失と無常の現実から来る痛みを経験しないですむように自分を守るために作り出す「城砦」なのです。それはわたしたちが持つ最大の防衛装置なのです。しかしそれは同時に「牢獄」なのです。この城砦をきちんとした状態で維持することが人生をかけた一台プロジェクトとなり、多大なエネルギーがそのために費やされます。(40p)


人間の苦しみこそが、自己という牢獄を打ち砕く「気高い真理」=「苦諦」


そして著者は釈尊の伝記的なエピソードからも、「自己」にたいする仏教の考えについて説明している。ブッダが若い頃住んでいた宮殿を、「自己」と考える。「四門出遊」でブッダが出会うさまざまな人間たちの苦しみを、「自己牢獄」から解き放つ「真理」だと考える。他者の苦しみこそが、自己という牢獄を打ち砕く「気高い真理」(=「苦諦」)なのだと、著者は力説する。この辺りの著者の解釈の仕方、説明の仕方は、独自性のあるものだ。つまりかなり自由自在な説法である。しかし私は読んだ時、何か光を当てられたように感じた。

以下「釈尊の物語における自己牢獄の喩え(The Metaphor of the Self-prison in the Buddha's Story)」(42p-44p)という節より。

>(若きシッダールタが住んでいた)宮殿のまわりには、その向こう側にあるいろいろな問題が渦巻く世界に対抗するための強固な壁がありました。防御のための自己というイメージと同じく、それは内側にばかり眼を向け、自分のことばかりを考えるために作られています。そういう壁の内側で、シッダールタは普通の人々が味わう苦しみについて無知のまま生きていました。彼はまさにアヴィディヤー(「無明」)の状態にあったと言えるでしょう。彼が自由になるためには、宮殿の外にあるドゥッカ(「苦」)との衝撃的な出会いが必要だったのです。(43p)

>釈尊は宮殿を去り、苦しみという現実に直面することによって、そういう状態から脱しました。彼は四つの光景、つまり無常がもたらすあらゆる苦痛の象徴を自分の目で見ました。自分を欺くあらゆる壮大さを備えた宮殿を後にし、スピリチュアルな生き方を求める旅に出たのです。彼を解放したのはドゥッカ(「苦」)でした。ドゥッカに出会うことを通して城砦を築くのだとすれば、そこからわたしたちを解放するのもまたそのドゥッカなのです。こういう理由から、ドゥッカを気高いものであると見なすことができるのです。(43p)


「自尊心」(self-esteem)なしでやっていける能力ー自己を解放する「縁起」の思想


仏教的「非自己のパラダイム」で考えれば、「個人の尊厳」や「承認を巡る闘争」や「尊厳の再分配」といった問題も、その意味内容が変わって来るのではないか? 「東洋と西洋の比較(Comparing East with West)」(179p-181p)という節で、「非自己のパラダイム」についての説明がある。

>自己というものがアテにならないものであり、何かを材料にして構成されたものであり、基本的には防衛のためのものであるという仏教の理解は、ほとんどの西洋的アプローチとは非常に異なったパラダイムに基づいた心理学へのアプローチを生み出します。それを「非自己のパラダイム」と呼ぶことができるでしょう。

>「非自己のパラダイム」は、一般的な西洋的思考の見地から見れば相当に異質な意味合いを含んでいます。わたしたちが仏教的な見方のほうを選び取り、もはや西洋的な思考のモード(様式)に後戻りすることがないようにするためには、この両者の相違についてよく理解し、それをきちんと見据えておく必要があります。しかし同時に、自己の観点から組み立てられている西洋心理学が提供すべき価値あるものまで放棄してしまわないように、よく注意しなくてはなりません。西洋のモデルにおいて自己を高揚させるものとして述べられているものすべてが仏教的思考と相容れないというわけではありません。もしそのように主張するとすれば、たくさんの有益な実践を失う結果になるでしょう。

>西洋において自己は肯定的なイメージで受け取られてきましたから、そこで有用でポジティブであるとされている考えや実践は、仏教心理学においては理論上、自己を組み立てたり、アイデンティティ形成を助けることに加担しているものとして理解されます。しかし、そのように理解されるもののすべてが、これまでわたしたちが探求してきた仏教的モデルにおいて述べられている自己という形成物を作り上げる手段として常に機能しているわけではありません。勇気、性格の強靭さ、決意、自信、探求を続けるエネルギーといったさまざまな特質(西洋の文脈では自分は自分であるという強烈な感覚を持つことに連関している)は、仏教的訓練においても同じように大切であるとされています。しかし、それらの特質は西洋心理学においてのように自尊心(self-esteem)を作り上げるものとしてではなく、自尊心などなくともやっていける能力をもたらすものとして考えられているのです。

>同様に、非自己の教えは殉教者のような自己犠牲的立場のことを言っているのではありません。仏教的パラダイムにおいては、そういった行動は否定的アイデンティティと否定的な世界観を作り出してしまうだけだとされます。したがって自分本位の感覚的快楽への惑溺がそうであるように、それもまたやはり習癖エネルギーと執着の産物なのです。仏教的アプローチは自己を作り上げるものでもなく、またそれを壊すものでもありません。そのどちらでもなく、世界との関係においてわれわれの実存が置かれている位置(ポジション)の現実(リアリティ)をはっきりと認識することなのです。わたしたちはさまざまな条件、とりわけ物理的環境に依存して存在しています。自分が誰であるかは住んでいる文脈に依存しています。われわれは条件によって発生し(「縁起」)、出来事や状況に条件づけられつつ存在しています。非自己の教えは複雑な存在者としての人が、複雑な世界において機能しながら存在していることを否定するものではありません。「非自己」説は人が他の人や環境とダイナミックに出会いながら存在していると考えます。そして常に新しく展開し続ける社会過程と、人々がお互いにとっての条件となり合うあり方に注目します。

>釈尊は人などというものは存在しないとする抽象的な「非自己」説を説いたのではありません。そうではなく、世界に対して自分の「思惑・もくろみ」を押し付けることで、誤った世界の見方を作り上げてしまうことについての実際的な理解を教えているのです。このことはサンユッタ・ニカーヤの次の一節を読めば明らかです。そこでは釈尊がヴァッチャゴッタと次のような会話をしています。

ヴァッチャゴッタ:ゴータマ先生、自己は有ですか?
釈尊は黙ったままだった。
ヴァッチャゴッタ:ゴータマ先生、自己は無ですか?
釈尊は黙ったままだった。
ヴァッチャゴッタは去っていった。
アナンダ:釈尊よ、 ヴァッチャゴッタの問いに答えなかったのはどういう訳なのですか?
釈尊:もしわたしが「自己は有である」と答えたなら、彼はわたしが常住論者に組していると受け取っただろう、もしわたしが「自己は無である」と答えたなら、虚無論者に組していると受け取っただろう。真実は、すべてのサンスカーラは無常であるという、ただそれだけのことなのだが、わたしがヴァッチャゴッタになんと答えようと、彼の混乱を余計に増すだけだろう。

>初めのうち、非自己の教えは多くの西洋人にとって心地よくないものとして感じられます。わたしたちの社会は個性と個人的自由という理想に大きな重みを置いているからです。非自己についての考え方は社会の基盤を脅かし、わたしたちの足元でその土台を切り崩すかのように思えるのです。しかし、実際には、非自己の教えは深遠な解放をもたらしてくれるものなのです。(『自己牢獄を超えて 仏教心理学入門』179p-181p)