ブログ・プチパラ

未来のゴースト達のために

ブログ始めて1年未満。KY(空気読めてない)的なテーマの混淆され具合をお楽しみください。

栗本薫のこと-「生やす」とき、百鬼丸は苦痛のあまり叫んだりする。

2009年11月21日 | 日記
今年2009年は、なぜだか知らないけど、マイケル・ジャクソンをはじめ、20世紀の文化を代表するような人物が次々と亡くなっていく年だ。
忌野清志郎、レヴィ・ストロース、三遊亭円楽だってそうである。

栗本薫も、その中の大きな星のひとつだったと思うのだが、私はこの方の小説にはあまり詳しくない。
一度だけ、中学生時代に「天国への階段」という小説を読んだ覚えがあるだけだ。
だからわたしは、筆名・中島梓で書かれた『コミュニケーション不全症候群』のほうを思い出す。
私はこの本を、20歳前後に繰り返し読んでいた。
私にとって一番印象深かったのは、今でも時々思い出す、手塚治虫の「どろろ」百鬼丸について書かれている箇所である。

『百鬼丸こそは、社会と時代によって自分の「居場所」を奪い取られ、それを人工の幻想のなかに見つけてそこで生き延びなくてはならなかった現代の弱者たちの姿の予言である』(中島梓『コミュニケーション不全症候群』)

手塚治虫の作品の中で、「どろろ」はかなり私の好きな作品の部類に入る。
百鬼丸が、魔物を倒すたび、激痛と共に「身体・器官」を「生やす」シーンは子どものころ初めて読んだ時から特に印象深かった。

『実の父親の出世欲のために魔物にその体の各部分をうばいとられ、魔物を倒してそのたびに手や足や口、声や耳を取り戻さなくてはならない百鬼丸はあまりにも、それが描かれてから二十年ほどして私たちのおちいっているこの現代の状況を象徴している。』

中島梓『コミュニケーション不全症候群』の「あなたは現代の百鬼丸である」という診断は自分によくあてはまるような気がして、どうしたら感覚器官を生やせるのか?と課題を立てていろいろと試行錯誤したつもりになったことがあった。今も自分が何かしているとき、百鬼丸と似たようなことをしているのかもしれない、と思うことがある。

『百鬼丸はともかくも〈人間〉に戻らなくてはならぬ。実の親のエゴによって目も鼻も口も手足もなにもない芋虫のような赤ん坊にされてしまった百鬼丸が生き延びるには、たとえどのような魔物とたたかい、取り戻すのはどういうパートであるにせよ、ともかく本来自分自身であったところのものをすべて取り戻す以外にはないのだ。』


最初は「芋虫」ではじまった、何もかも奪われている子ども、百鬼丸。
しかし奪われてしまった「手や足や口、声や耳」は、罪深い父親を「糾弾」することで取り戻されるわけではないだろう。
自分の内部から「生やす」しかないのだ。
それがあまりにもつらいので、百鬼丸は自分の眼球や腕を生やすとき、あんなにもわめいたり、悶えたりするのだろうと思う。