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ブログ・プチパラ

未来のゴースト達のために

ブログ始めて1年未満。KY(空気読めてない)的なテーマの混淆され具合をお楽しみください。

宮台真司とレヴィナス-〈世界〉の奇跡性、〈社会〉の奇跡性。

2009年12月29日 | 宗教・スピリチュアル
社会学者の宮台真司氏の「世界」と「社会」を巡る思索は、
人間の宗教性や霊性について考える上でも参考になる。

宮台氏は問う。「脱社会的存在」である者が、人を殺したりせず、自殺もせずに生きていけるのはなぜか。
暫定的な解答-世界という「奇跡へと開かれた感受性」があるから。

作家の田口ランディ氏との対談で、宮台氏はレヴィ・ストロースの『野生の思考』を引き合いに出し、三色スミレの花を見ていてその構造の「ありそうもなさ」に貫かれること、そのような感受性が「脱社会的存在」をこの世に押しとどめるのではないか、と言う。

それに答えて田口ランディ氏は、「世界」というより、人間が作る「社会」のありそうもなさに触れるという感受性があることに言及する。「それは透明な層のようにお互いに浸透しあっている」ので区別できない、と言う。

田口ランディ氏の「人間の社会が成立していること自体の奇跡性」への目の開かれ、のようなものについて、レヴィナスの『全体性と無限』の文章が参考になるかもしれない。レヴィナスの文章の「無限なものが社会性の端緒となる」「神とのあいだの社会性」「安息日における生活の可能性」といった表現は、社会性というものが宗教性とほとんどイコールになるような地点で紡がれる言葉が存在することを示唆している。

田口ランディ氏と宮台真司氏の対談「〈世界〉を経由して〈社会〉に戻る」 -田口ランディ『生きる意味を教えてください』(2008年)より

宮台真司 殺したいと思えば殺せるし、犯そうと思えば犯せるのに、それはしたくないと思う「脱社会的存在」がいるのは、なぜか。…連載では暫定的に答えを出しました。「奇跡へと開かれた感受性」です。レヴィ・ストロースが『野生の思考』(原題:三色スミレ)の中で、寝ころがって三色スミレの花を見ていて構造の「ありそうもなさ」に貫かれるくだりがあります。…彼は花に奇跡を見たけど、人やその営みに奇跡を見出す感受性が「脱社会的存在」を押し留めるんじゃないか。…
…よく言う話だけど、百の偶然、千の偶然が重なって、僕が今ここにいる。今ここに僕がいるのは不思議です。…生まれてからも、事故や事件を含めて、何度も首の皮一枚でつながってきたという不思議もあります。その意味では〈社会〉の中に〈世界〉を見ることもできます。あるいは〈社会〉を〈世界〉として-レヴィ・ストロース的まなざしで-眺めることもできます。

田口ランディ 作品ではあえて〈世界〉と〈社会〉を使い分けていて、〈世界〉について語っているものが比較的多いんです。超越系だからなんでしょうけどね(笑)。でも、やっぱり自分のなかではすごく〈社会〉に触れることによってしか得られない〈世界〉の手触りみたいなものを感じてるんですよね。〈社会〉をぶっとばして〈世界〉を触れないんです。それは透明な層のようにお互いに浸透しあっているものだから。


「社会性」と「宗教性」について-レヴィナス『全体性と無限』 熊野純彦 訳より 

「最後に、幸福と渇望を分離する隔たりによって、政治と宗教が分割される。政治は相互承認を目ざし、言い換えれば平等を目ざす。政治が保証しようとするのは幸福である。政治の法がそれを完了させ、聖化するものは、承認のための闘争である。宗教はこれに対して、〈渇望〉であって、承認のための闘争などではいささかもない。宗教とは、平等な者たちが形成する社会において可能な剰余である。栄えある卑小さ、責任と犠牲という剰余なのであって、それこそが平等そのものの条件なのである。」(上111p)

「〈無限なもの〉が生起するのは、分離された存在に場所を残す一箇の収縮において、全体性への侵入が放棄される場合である。…分離された存在に場所を残すような一箇の無限なものは、神的なもののように存在する。全体性を超えて、無限なものが社会性の端緒となるのである。」

「分離された存在と〈無限なもの〉とのあいだで設立される関係によって、〈無限なもの〉による創造的な収縮にあって存在した減少があがなわれる。人間が創造をあがなうのである。神とのあいだの社会性は、神になにかをつけくわえるものではなく、神を被造物から分け隔てる間隔がその社会性によって消失するわけでもない。全体化との対立において、その社会性は宗教となづけられた。創造者としての〈無限なもの〉が制限されること、したがって多元的なものが存在することは、〈無限なもの〉の完全性と両立する。」

「全体性を超えて、無限なものが社会性の端緒となるのである。」

「全体化との対立において、その社会性は宗教と名づけられた。」

「無限なものは〈善さ〉の秩序をみずからに開く。」

「〈渇望〉の秩序-たがいにたがいを欠いているわけではない、異邦人のあいだの関係の秩序―…そのとき、…安息日における生活の可能性が創設される。安息日において存在は、生活の必要と必然性をいっとき宙づりにするのである。」(上200p~204p)

「他者との社会性が、あるという無意味なざわめきのおわりをしるすのであって…。」(下180p)

関連記事:『思想地図 vol.4』を読む⑤-内田樹と握手できそうな所を探す 2009年11月30日
(→私が宮台氏の「宗教的感受性」について関心を持っていることに触れている箇所があります。…そういえば、宮台氏の過去の著作でわたしが一番傑作だと思ったのは、『サイファ覚醒せよ』だった。桜を見て脱魂状態になってしまうという宮台氏のトランス体質には大いに共感したものだ。『日本の難点』は小説や随筆でも読むような気持ちで読んだが、いちばん印象に残ったのは娘の話とシュタイナー教育の話を語っているところで、ほかの政治的な話についてはほとんど記憶に残っていないのだ。…)

関連記事:安息日のためのベーシック・インカム 2009年12月13日
(→ちょっとだけ、レヴィナスからの引用があります。…内省したり祈る時間としての「安息日」のために、ベーッシック・インカムが必要なのだ、という主張はどこかに存在しないのだろうか。…「安息日において存在は、生活の必要と必然性をいっとき宙づりにするのである。」(レヴィナス『全体性と無限』)…いずれにせよ、「生活の必要と必然性をいっとき宙づりにする」時間は、人類にとって必要な時間なのではないか。…)

三位一体のシンデレラ-キリスト教の「聖霊」って何? 

2009年12月22日 | 宗教・スピリチュアル
いちばんわかりにくい「聖霊」

キリスト教神学の中で「聖霊」ってどういう役割を果たしているのだろうか。

以前から気になっている。

神学に興味ない人にはすまない。

キリスト教には三位一体という教理がある。

三位一体というのは「父」と「子」と「聖霊」-これらは「三」にして「一」の存在である。
このうち、一番わかりにくいのが「聖霊」だろう。

私が手元に置いている、A.E.マクグラス『キリスト教神学入門』という本には、「聖霊は三位一体のシンデレラ」という言葉があった。
次のように。
  

「聖霊は長いこと三位一体のシンデレラであった。他の二人の姉妹は神学の舞踏会へと行くのに、聖霊はいつも取り残されてきたのである。」(A.E.マクグラス『キリスト教神学入門』)


つまり、古代のキリスト教の神学者たちにとって、まずは「神」と「イエス・キリスト」との関係を決定することが先決で、「聖霊」についてはずっと置き去りにされてきたのである。

聖霊って「自然」がかもしだす聖なる雰囲気じゃないの?

日本語の「聖霊」という言葉が、音の響きとして日本語の「精霊」と同じなのが、私としてはちょっと厄介である。

なぜなら私は、日本人的なアニミスティックな感覚で「聖霊」(=「人格」)を「精霊」(=「気配」のようなもの)に引きつけて理解してしまいそうになるからだ。

宮崎駿のアニメ「隣のトトロ」みたいな、森に住む精霊みたいなイメージを思い浮かべてくれるといい。それが「精霊」である。あるいは、西行法師の「何ごとのおはしますかは知らねども かたじけなさに涙こぼるる」という文句も、日本人的な「神」の感覚で、こちらのほうが私には感覚的にわかりやすい。しかしキリスト教の「聖霊」というのは、イエス・キリストや神と同じく「人格」を持っているといわれる。しかもそれが「ひとつ」の存在であるらしい。よくわからなくなる。

前掲『キリスト教神学入門』では聖霊についてアウグスティヌスの有名な説などが紹介されていたけれど、まだ足りないような気がする。しかし、この本には、キリスト教徒の聖霊体験というのが、宗教的なトランス体験の一種であるらしいことが、現代の「聖霊運動」などに触れることで示されている。私はこの宗教経験としての「聖霊体験」というものに興味があるのだ。

現代の教会で「聖霊」がどういう風に扱われているのか、具体的な例を知りたい。あるいは、もうちょっとくだけたわかりやすい話を聞きたいと思った。

ポップでわかりやすい平野耕一氏の『よくわかる聖霊論』

そこで図書館で参考になりそうな本を探していると、平野耕一『よくわかる聖霊論』(2009年)という本を見つけた。

これはよい本。本当に読みやすくて、わかりやすい。

聖書からの引用が多く、聖書ではどういうときに「聖霊」という言葉が使われるのか整理されていて、それらを見比べることができる。
なんとなく大体の輪郭がつかめるようになっている。

聖霊は、ときに「鳩」または「風」にたとえられる。


『またヨハネは証言して言った。「御霊が鳩のように天から下って、この方の上にとどまられるのを私は見ました。」』(ヨハネ1・32)

『風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。』(ヨハネ3・8)


この本ではほかに、油、証印、息と風、火などが聖霊の象徴として使われると書いてある。各々について聖書からの引用があり、それぞれにわかりやすい解説がついている。ほかにも聖霊がどういう機能を果たすのか、聖霊はどんなときに働くのか、などがこまかく解説されている。

この本のアマゾンのレビューで「装丁がかっこいい」というコメントがあったけど、私もそう思う。本の作りも内容も、ちょっとアメリカ的なポップな感じがする。

内容では、聖霊がアルコールと対比されるというところが私には面白かった。


『また、酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい。』(エペソ5・18)


当たり前のことかもしれないけど、やはり聖霊は「トランス」体験と関係ありそうなのだ。キリスト教以外の宗教体験とつながっているような気がする。

「聖霊」は聖書では「御霊」とも言うが、それは時に「悲しんだり」「とりなしをしてくださったり」する存在らしくて、聖霊はとても「人格的」な存在なのである。
ここがよくわからないところなんだ。


『神の聖霊を悲しませてはいけません。』(エペソ4.・30)

『御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。』(ローマ8・26)

聖霊の「誤配」はないのだろうか?

もうひとつ、この本で何度も強調されているのは、聖霊というのは、クリスチャンだけに訪れるものだ、ということ。

つまりクリスチャンではない人間にとっては聖霊なんて関係のない話だという。
なーんだ、がっかり。
でも、聖霊にしたって、そこで「誤配」みたいなものが起こることもあるのではないだろうか。
と、なおも食い下がってみたくなる。

手紙が間違って郵便配達されるように(=誤配)、クリスチャンの聖霊も、非キリスト教徒の人間に間違って配達されてしまう、ということはないのかな?

佐藤優氏(同志社大学の神学部出身で、鈴木宗男氏とともに有名になった人)がその本『獄中記』(2006年)で、「聖霊」というのは「コミュニケーション」なのかもしれない、という説を立てていたけど、あれはその後どうなったのだろう?


『ハーバーマスが「コミュニケーション」と名づけているものは、古代、中世のキリスト教神学が「聖霊」と呼んだものに近いのではないかという仮説を私は立てています。』(佐藤優『獄中記』194p)


「聖霊」が「コミュニケーション」であり「ネットワーク」であるというのなら、ますますそこに「誤配の可能性」が生まれやすくなるような気がする。(東浩紀『存在論的、郵便的』(1998年)参照)

ネット上で佐藤優氏の「キリスト教神学概論」という文章が読めるみたいだけど、これは私には難しすぎる。これなら、A.E.マクグラス『キリスト教神学入門』のほうが私にとってずっとわかりやすい文章である。

2ちゃんねる用語の「神」とキリスト教の「神」について

ただ、『よくわかる聖霊論』という本を書いた平野耕一氏は、アメリカ帰りの人で、現在、東京ホライズンチャペルの牧師さんらしいのだけど、そのHPで平野氏の説教集をダウンロードして読んでみると、平野氏がイチローのことを「神」と呼ぶ日本人を非難したり、興福寺の阿修羅像を大切にすることを「偶像崇拝」と決めつけるなど、いかにもキリスト教徒らしい考え方をされるのを見て、ちょっとがっかりした。これでは、2ちゃんねるなどネットで使われる賞賛の言葉としての「神」、というのも糾弾の対象となるのだろう。2ちゃんねるの「神」という言葉は、わたしには「神業」や「神さびた神社」など、昔から形容詞的に「神々しさ」を名指してきた日本人の伝統と合致している用法のように思えるので、こうした「広がりのなさ」は、ちょっと残念。

それにしても、キリスト教徒が考える「神」と日本人が考える「神」とのちがいを考える上で、平野耕一氏の説教は「典型的」なもので、参考になると思うので、以下に一部引用しておく。


[以下、東京ホライズンチャペル・平野耕一氏の説教 2009年9月20日の聖日礼拝メッセージ『信仰から信仰へ』より]

…日本人は、何でも神にしてしまうところがあります。イチロー選手がメジャーリーグで活躍しています。
…テレビを見ていると、観客席に大きなプラカードを持っている人がいて、「一郎は神だ」と書いてあるのです。メジャーリーグの選手にはクリスチャンが多くて、彼らはホームランやヒットを打つと、天に向けて指を指して、「これは、神様、あなたのおかげです。感謝します。栄光をあなたにお返しします」というジェスャーをします。観客席にいる人達に、「自分は神を信じてプレイしているのだと」あかししているのです。
…そういう文化の中で、「イチローは神だ」というのは、本当に恥ずかしい。イチローが「一流である」とか、「世界一だ」と言うのは構わないけれど、「イチローは神だ」と言ったら、アメリカ人はおかしいと思うでしょう。しかし、日本の人達は、そういうことができてしまう精神構造を持っているようですね。

…それでは、なぜ、人間は偶像が好きで、偶像礼拝が世界にはびこっているのか。
…第一に、自分の好みに合った偶像を選ぶことができるからです。自分でチョイスできる。蛇がいいな、お狐さまがいい、お狸さまがいい。鳥がいい、牛がいいと、自分で選ぶことができます。
…第二に、これらの偶像は、皆人間の手の技です。芸術というのは、もともと自然世界を描くためにあったのではなく、偶像をつくるためにあったのです。

…ですから、最高のアーティストが、自分の最高の能力をかけてつくるのが偶像なのです。8 年前、日本とパリでアートの交換をしました。日本の芸術作品がルーブル博物館に行って展示され、ルーブル博物館からアートが送られて来て日本で展示される。ドラクロワのフランス革命の絵を筆頭として、何枚かの絵が送られて来たのですが、日本の方から何を送ったかというと、興福寺という寺にある阿修羅像です。インド由来の女神が、何本もの手を持って踊っている偶像です。結局、日本が送るものは偶像なのだとがっかりしました。日本が持っている最高の芸術作品は、偶像なのか。それが日本の代表的な芸術作品としてパリに行った。よくできた。最高傑作だと言って。

…では、偶像をもって神様をほめたたえるのかというと、そうではなく、自分の手の技に自己満足するだけです。これは自分が作った、自分の技術だ、これは神をつくった手だ、なんとすばらしい手だろうと、自分をあがめるわけです。

[以上]

関連記事: 佐藤優氏の神学入門-『はじめての宗教論 右巻』はやや残念だった 2010年01月13日
(→佐藤優氏の本の感想。マクグラスの文章の紹介。)

『老師と少年』-なつかしい痛みとは何か

2009年11月27日 | 宗教・スピリチュアル
南直哉氏の『老師と少年』について、玄侑宗久氏がこの本を「懐かしい痛み」と表現されたのに胸を衝かれたことがある。(南直哉・玄侑宗久の対談集『“問い”の問答』にて。)

このような場合、宗教書であってもそれは、癒しをもたらすというより、痛みを顕在化させる機能を持つ。

私たちが宗教(芸術や音楽でもいいのだけど)に触れるとき、それまで自分では気づいてなかった胸の奥にある「痛くないトゲ」が、「痛いトゲ」として顕在化することがある。

その後その経験がすぐに「痛くなったトゲ」を溶かしてくれることもあるし、そのままホッタラカシにされることもある。南直哉氏の著作は後者である。スピリチュアルな「癒し」のイメージとは程遠い。

これと似た感覚を他に求めてみると、昔、大島弓子などの漫画を読んでいた時、私はそれと似たようなものを感じることがあった。「痛い刺・痛くない刺」という題名の作品が大島弓子にあって、まさに大島弓子を読むことが、私にとっては「痛くない刺」の顕在化、なのであった。
少女漫画を読むときのピリピリとした感覚が、仏教書を読むときの感覚と似ているというのは、どういうことなのだろう。

自分以外の、他の人はこういう感覚を味わうのだろうか。
ある人にとっては、音楽や歌を聴いている時にこのような「懐かしい痛み」を感じることが多いのだろうか。でもそれは自分の感覚と、どのくらい重なっている感覚なのだろうか。こういうことがはっきりとわかればいいのにな、と思う。

本年度、宗教書部門で私にヒットしたのは、漫才師の笑い飯・哲夫が書いた『えてこでもわかる 笑い飯哲夫訳 般若心経』だ。私は宮崎哲弥氏の文章でその存在を知って読んだ。
この本の白眉は、チョコボールを食べようとして箱を手にしたらフワッと持ち上がってしまい「なんや、空(から)やんけ」と期待を裏切られる、それが仏教の「空(くう)」なのだ、と説明している箇所だと思う。次のページには、「チョコ空(から)やんけ」の心象風景を表している写真が挿入されていて、それを見て私は胸がザワついた。これも「懐かしい痛み」のひとつである。

山崎隆之『一度は拝したい奈良の仏像』-阿修羅と金鼓の響き

2009年11月27日 | 宗教・スピリチュアル
一月ほど前、大阪の天王寺さんをスタートとして、観心寺、奈良の西大寺、法隆寺、室生寺などの寺を巡っていたことがある。何よりも仏像が見たかったし、今じぶんに必要なのはたぶん「奈良」だろう、という予感があった。

どの寺もよかったし、いろいろなことを感じたり考えたりしたが、最後に見た興福寺の阿修羅ももちろんよかった。

阿修羅像のあの独特な表情は、「金鼓(こんく)」の響きが微妙に消えるまで耳を澄まして懺悔し、心を浄化させようとするプロセス」を表しているという。
今回私は、そのように「消えていく響きに耳を澄ます阿修羅」という前知識で、阿修羅を見ていた。
今年は日本中で大ブレイクした阿修羅の、あたかも凱旋記念のような展示だったのだが、阿修羅の「悔い」を秘めた表情や、あまりにも小さくて細い体を見ていると、せつない気持ちにさせられた。
堂内は拝観者が多く、かなりざわざわしていたのだが、阿修羅の周囲の空間はひっそりとしていて、阿修羅は口びるをかみしめて、聞こえない音を聞こうと、いまだに耳を澄ましつづけているように見えた。千年以上もそのようにして、いったい何を悔いているのだろうと思った。

山崎隆之『一度は拝したい奈良の仏像』(学研新書)より。

・阿修羅像のあの独特な表情は、「金鼓(こんく)」の響きが微妙に消えるまで耳を澄まして懺悔し、心を浄化させようとするプロセス」を表している。

・阿修羅を含む神仏群像の配置・表現は、『金光明最勝王経(こんこうみょうさいしょうおうきょう)』の「夢見金鼓懺悔品(むけんこんくざんげぼん)」に基づく。

「阿修羅の正面に向いた耳は金鼓の音をじっと静かに聞くかのようでもある。また、まっすぐ前を見つめるその眼は、何かを注視しているようでもあり、自分の内面に向けられているようでもある。」

…山崎隆之氏はさらに、阿修羅を含む群像に「少年のあどけない表情」が多いことに関して、そこに光明皇后の「変成男子(へんじょうなんし)」への強い願いが込められているのではないか、と想像する。

「皇后の祖父、藤原鎌足は、蘇我氏を倒して権力の座についた。そして、父、不比等は、天皇家と姻戚関係を結んで勢力を拡大し、政治の実権を握った。その影で、犠牲となった者も少なくなかったであろう。当時の皇族側の実力者、長屋王もその一人であった。」

「皇后自身も、実子である皇太子、基王(もといおう)の早逝という悲劇に見舞われた。その背景に、藤原氏と対立した左大臣、長屋王の呪詛によるとの見方もある。皇族でない光明子が強引な形で皇后になったのは、長屋王を死に追いやったその年のことであった。皇后自身にも、罪の意識がなかったとはいえまい。」

「のち、皇后は、いっそう仏教信仰を深め、悲田院、施薬院を設けて貧者や病者を救う。さらに法華滅罪寺を建てるなど、罪障の消滅を切実に願っていた。」

「皇后の願いは、遠い未来に男子として生まれ変わることである。それが、約束されていたとしたら、どれほど安心であろうか。その理想の少年の姿を、阿修羅像に重ねたのではないか。ことによると、八部衆像の中に失ったわが子、基王の面影も見ていたかもしれない。阿修羅像との対面は、皇后にとっては、信仰心をより深めるとともに、秘かな楽しみであり、大いなる法悦であったと筆者は想像している。」(以上、山崎隆之『一度は拝したい奈良の仏像』より)

関連記事:三位一体のシンデレラ-キリスト教の「聖霊」って何? 2009年12月22日
(→この記事の後半部分で、キリスト教の牧師の方が、「阿修羅像」を大切にすることを「偶像崇拝」と非難します。そりゃひどいよ、と日本人の私は思いました。)

南直哉×宮崎哲哉の動画にコメント

2009年11月14日 | 宗教・スピリチュアル
以前、南直哉×宮崎哲哉のYou tube 動画に自分がコメントしたことを思い出した。
朝日ニュースター「ニュースの深層」という番組で、2008年12月に放映された『生きるために 宗教の役割とは?』という動画。 You tube で見ることができる。
そこのコメント欄で、gogosakai という方が

「うつ病の人でもありのままで良いと思う事ができた人がいます。しかし他者からの一方的な責任を取れない場合、人は自殺せざるを得 ません。これをどのように回避し、社会的にも生活し得る自信をど のように高められるのかをどなたかお答えいただけませんか?」

と書いておられたので、過去の自分は以下のようにコメントさせて頂いた(らしい)。

(2009年2月頃書いたもの)
「南氏の著作には「生きる意味より死なない工夫」という言葉がありました。
でもある程度、自尊心や生きる意味が感じられたほうがいいです。
それには時間をかけた他人との関係性の自覚が大事。
それもすぐには無理。だからつらくても焦らないこと、よく食べてよく寝ること。」

自分で書いたのに、自分の言葉ではないような感じがして、不思議な気持ちになる。

受動意識仮説と「こびとさんたち」

2009年11月14日 | 宗教・スピリチュアル
2005年の4月頃、仏教関係のサイト宛てに書いた文章を貼り付けしておく。
前野隆司『脳はなぜ「心」を作ったのか』という本を読んだ感想になっている。
ブログ「内田樹の研究室」の「こびとさんをたいせつに」2009年10月03日という文章を読んだとき、この本のことを思い出した。

///以下、2005年4月頃、仏教関係のサイト宛てに書いた前野隆司『脳はなぜ「心」を作ったのか』の感想///

前野隆司「受動意識仮説」 2005,4,8,

       
 こんにちは、sincekeです。今回は、前野隆司『脳はなぜ「心」を作ったのか』(筑摩書房 2004年)という本を紹介させて頂きます。この本は、「私」という現象や「クオリア」の問題を、「工学系」の立場から解き明かしたというものです。とても面白く、仏教の「無我」を考えるのにも、ヒントになるかと思いました。

 私は今年の正月に、日本テーラワーダ仏教協会のスマナサーラ長老の文章に出会ってショックを受け、改めて仏教のことをもっと知りたいと思い、関連書物を図書館から借り出して読むようになりました。私は「縁起」や「無我」に関心があるのですが、どうも仏教には「無我説」と「輪廻説」が混在しているようです。私はこの二つは両立しないのではないか、と思っています。まだきちんと知識の整理ができたわけではありませんが。

 『ミリンダ王の問い』(平凡社東洋文庫)という本には、仏教徒のナーガセーナが、「無我」や「輪廻」をたとえ話で説明しているところがあります。ギリシャ人の王に理解させようとして、ナーガセーナは無我を「車のたとえ」で、輪廻を「ろうそくのたとえ」で説明しているのですが、私はこのたとえに満足することが出来ませんでした。『ミリンダ王の問い』は、仏教学者が「ギリシャ的思惟とインド的思惟の対決」と喧伝しているくらい有名な本なので、結構期待して読んだのですが、ミリンダ王がすぐに「もっともです、ナーガセーナよ」と納得してしまうのを読むと、「お前、それでも『ギリシャ的思惟』の代表か、もうちょっとしっかりしろよ」とツッコミをいれたくなります。

 こうした説明にどうしても納得できない人はやはり他にもいるらしく、インド哲学者の宮元啓一氏は、「このたとえはひどい。ろうそくの火を次のろうそくに移すのだったら、その前のろうそくの火には消えてもらわなければ、輪廻は説明できないはず」と述べておられます(宮元啓一・石飛道子『ビックリ!インド人の頭の中ー超論理思考を読む』(講談社 2003年))

 「いったい、無我や縁起って何なのだろう。自分や私がない、というのはどういうことだろう」と思っていたときに、前野隆司さんの『脳はなぜ「心」を作ったのか』という本に出会いました。読んで、驚きました。この本は、工学系の立場から「私」や「心」の秘密を解き明かした、と豪語しています。すごい。

 まずリベットという科学者の実験がおもしろかった。人間が、意識的に「行動しよう」と思う0.3秒前には、既に脳内で準備電位が発生しているという、驚くべき実験結果です。「私」の不思議さ、当たり前に「私は私である」と思いこむことの胡散臭さ、みたいなものに、ハタと気づかせてくれます。ここからいろいろな論理的帰結を引き出せるわけですが、この本にはたとえば次のようなことが書かれています。

 「私」という自己意識のクオリアは、進化の過程で獲得された「錯覚」だ。意識とは、脳内のニューラルネットワーク(小人たち)の連想ゲームを「川下で」受動的に受け止める働きにすぎない(これを『受動意識仮説』という)。私達が主体的に思考していると思っていることは、実は脳内の小人たちの自律分散処理を受動的に受け止めているだけのこと。脳神経学では、脳内の「小人たち」の活動を束ねている主体は何か、といういわゆる「バインディング問題」があるが、それは問題の立て方自体が間違っている。(前野隆司の)『受動意識仮説』に基づけば、数十年後には、人間よりも優れた心を持ったロボットがきっと作れる!

 私は、工学系の人というのは、「性格が明るくて、実験が失敗したりしても、なかなかへこたれない人たち」、というイメージ・先入観を持っています。前野隆司さんも工学系の人だけあって、読んでいるこっちまで楽しくなるほど、楽観的な未来を予見してくれています。たとえば、心を持ったロボットを作れるのは勿論のこと、将来は、心に欠点のないロボット、人間に優しく、慈愛に満ちたロボットなんかが作られるだろう、と予測したりしています。私も、著者につられて、もうすぐ「心」を持ったロボットができるかもしれない、とは思います。けれども、根が悲観的なのか、ロボットであっても、「心」である以上、貪・瞋・痴の「煩悩」が生まれることは避けられないのではないか、などと心配してしまいます。

 その他、注目すべきなのは、心の秘密を解くのに、ペンローズみたいに量子力学や素粒子の概念を借りてこなくてもいいよ、と言っていることや、茂木健一郎さんが「脳の機能局在の考え方だけでは、『私』という秘密は絶対に解けない」と言っているらしいが、そんなこともないよ、と言っているところです。仏教に興味を持つと、何か仏教って素粒子の世界に似ているなあ、と思うことがありますが、しろうと考えで、安易に仏教と物理学を結びつけるのはやばいかもしれない、と思いました。私はペンローズの「皇帝なんとか」という本を読んだことはありません。茂木健一郎さんの本は「脳の中の小さな神々」というインタビュー集を一冊だけ読みました。茂木さんは最近、禅僧と対談したりして、なんとなく仏教に近づいているような気もします。しかし、仏教者は、科学者が近づいてきただけですぐに喜んではならないだろう、と思います。「もっともです、茂木健一郎よ、もっともです、養老孟司よ」なんて言ってると、ついにはミリンダ王になってしまうかもしれないから。

 脳の機能局在、という話で私は思いついたのですが、「言語野」や「運動野」みたいに、「私は私である」という自己意識を生み出す機能が、脳のどこかに局在していて、いつかそれが発見されて「自我野」とか「アートマン野」と命名されるかもしれない、と思いました。ああ、とうとう見つけた、これが「私」だったのか、と。

 地平線上に近いお月様はやたらにでかく見えます。これは人間の目の錯覚だそうですが、錯覚とは、進化の過程で、生き残るのに都合がよかったから残ったのでしょう。「私は自己同一性をもって私である」という錯覚の一種も、そういう風に考えると、エピソード記憶や長期記憶を保持するのに便利だったので、生きるのに有利だから残ったのでしょう。しかし、「生きるのに都合がよかったから」というだけでこんなにも強固にされてしまう「我」って一体何なのだろうか? それがアートマンとかいって宇宙全体とつながる、とか、そんなことは、とんでもないことだ。また、「かけがえのない私」というもの、他の「私」とは取り替えのきかない「この私」なんて、あるのだろうか。

 とまあ、この本は、いろいろなことを考えさせてくれました。座禅しろとか瞑想しろとか言うだけではなく、人間と同じ心を持った「ロボット」を作ってみせることで、仏教の「無我説」を証明できるかもしれないな、あるいは少なくとも「アートマン説」を否定できるかもしれないな、などと考えて、ワクワクしました。

///以上、2005年4月頃、仏教関係のサイト宛てに書いた前野隆司『脳はなぜ「心」を作ったのか』の感想///

サネヤ・ロウマン著『オープニング・トゥ・チャネル』を試す

2009年11月14日 | 宗教・スピリチュアル
サネヤ・ロウマン著『オープニング・トゥ・チャネル』というスピリチュアル本を読んで、自分でもチャネリングを試していたことがあった(おいおい)。俺って頭おかしいのかな、とも思う。でも、自分がこういう「向こうに行っちゃった」的なものを試しているときって、日常生活では機嫌がよくて、つきあいやすそうな人間になっているような気がする。人間って、不思議だ。2009年の10月頃に書いたメモを貼り付けしておく。

///以下、サネヤ・ロウマン著『オープニング・トゥ・チャネル』を読んでチャネリングを試していた頃のメモ///

ガイドとのコミュニケーション
2009 10/13

奈良・西大寺行きの近鉄電車に乗る。
西大寺で十一面観音を見て、その帰りの列車内で、糸口をつかんだような感じになった。
オリンのチャネリングの本しかカバンに入れていなかった。
車中、読む。
通路が出来ることを願っていると、今までマヤの緑色のお面みたいなやや無愛想な顔と、
聞き取れないくぐもった声だったのが、すうと柔和な光を帯びた優しい顔に変化した。
そのように想像することが、自然にできた。
そして自分の頭や体もすうと涼しげな感覚を感じるようになったので、それを成功であると判断した。
前日、みうらじゅんの郷土愛を語る映像で、瞑想するために空いた電車に乗る、という話を参考にした所もあった。

名前を聞くと、まず「モ」だけ浮かび、自分で補いながら、おそらくまだ仮の名で、モロックということになった。
みろくとかけているのですか? と尋ねると、静かに微笑した。
姿は、仏像にも似ているが、聖母マリアとか天使を描くときのキリスト教絵画のイメージにも近く、白い人間的な肌を持っていた。今はとりあえず、私にわかりやすいような姿をされているのだろうと思う。

対話のような形式ですすんだが、思い出せる順番で書き留めておくことにする。
近鉄電車や御堂筋線の中では、頭の中で鳴り響くように、声をイメージする。
千里中央からは、歩きながら低い声をつぶやきながら対話するようにした。

千里中央を出てからだと思うが、好きという感情とは何ですか? 私は好きという感情を大事にして、それを柱、あるいはベースのひとつとして、生きていこうと考えているのですが、何を自分が好きなのかわからなくなってくることが多いのです。好きとは何ですか? と尋ねる。

好きという感情は、自分と一致しているときに覚える喜びの感情のことだ。
対象が好きという感情を生み出しているわけではない。
という答え。

自分を好きという感情は、好きという感情の中でも特別なもの、とのこと。

好きになる技術を得たかったら、まず自分を愛する技術を学ばなければならない、といったアイディアが、数回の質問と答えの往還で、浮かび上がってきた。

では自分を愛するコツとは? と聞くと、

自分の痛みや苦しみ、欠点を見過ぎないことだ。

私はたとえば中学時代を黄金時代と思って喜びとともに思い出しているつもりだったが、

お前は結構痛みや苦しみや悲しみを伴って過去を思い出している、と指摘された。

中学時代のうれしかったこと、楽しかったことを思い出すときも、それがもう終わってしまった、あのような友達関係はもう持てない、好きな女の子との関係もあの一瞬で終わってしまった、などと、喪失感や痛みとともに思い出しているのであって、自分のポジティブな記憶に光を当てているように見えて、実はポジティブでない想起の仕方をしているというのだ。

ではポジティブな想起とは?

と質問すると、畳の上でゴロゴロして光のなかにほこりが舞うのを眺めている自分を思い出す。
あのように一人でも満ち足りていた瞬間を思い出すほうが、傷や欠如に彩られていない自分に近づくのに役立つという示唆であるように思えた。

みうらじゅんのことも聞いた。

過去の体験とのからみでは、高校時代に宗教書をノーベル化学賞を取ったあの外人に渡そうとしたときのことが思い出された。あのときガイドやガイドのようなもの達はどのように思っていたのか聞いてみたが、悲しく思っただけということだった。止めたいとも、背中を押したいとも思わなかったらしい。自分の信念を人に押し付けるのが怖くなった、自分の信念を保ち続けるのが怖くなった。この両者には微妙な違いがある。押し付けるのがまずいとわかるのは優しさだが、keep the faith することも生きていく上では大事である。その押し付けるこわさや、そこからの優しさへの飢えが芽生えたが、それと、今のみうらじゅんへの関心はつながっている、とのこと。

たしかにMJに私はピースフルなもの、スピリチュアルなものを感じているが、また徹底的なだらけたギャグセンスも感じている。これは自分が見たいものを見ているのであって、あえて悟らない、権威を持とうとしないようなMJの目線に、自分を修正する何かを求めているのだと思う。

奈良の仏像など見ているのは、過去の自分の要素の確認や、未来の自分への期待だと思うのですが、これにはどのような意味がありますか、と問いかけてみる。

仏像の前に立つとき、お前は多くの自分と対座していることになる、という。

仏像の前でお前が抱く感情の中には、自分のものでないものが混ざっていることに気づかないか。

それはお前が既に縫い取られている、既に縫いこまれていることを気づかせるためのものなのだ、という。

そして自分で補足して、孤独と不安の中にある自分を、あえて一人にして仏像と体面することで、一人ではない自分に気づかせるために、私は私を仏像の前に連れて行った、ということになるのでしょうか、と自分で飲み込むように質問した。

最後にいつでも会えるでしょうか、私には今あなたのことがもっとも必要なのです、と言う。

後ろ姿を見せるようにして、また、と別れる。

近鉄電車乗っているときに問いかけたときは、私は今日何をすればいいでしょうか、自分の方向性、就職のことなど、たずねたが、はかばかしい返事が聞こえなかったのか、今すぐには思い出せない。

ひとつ思い出した。他人がいることに苦痛を感じることについてきくと、
それはお前がひとりでいる時間を持ちたいと思っていることの裏返しではないか、との答え。
ひとりになるにはどうしたらよいか、と質問すると、
今お前は私とコミュニケーションしようとしているではないか、と。
ひとりになることに成功しているではないか、ということ。

千里中央からの道で、
前から誰かが歩いてくるのとすれ違うとき、やはり他人の目が気になるな、と思っていると、

お前は、お前の人生だろう!
これは、お前の人生だろう!

と言われた。

もう成功しているではないか。なんとなくでも私との通路がよくなったと感じている、それはサクセスではないか?

といったことを言われる。

///以上、サネヤ・ロウマン著『オープニング・トゥ・チャネル』を読んでチャネリングを試していた頃のメモ///

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