ブログ・プチパラ

未来のゴースト達のために

ブログ始めて1年未満。KY(空気読めてない)的なテーマの混淆され具合をお楽しみください。

みうらじゅんが説く「般若心経」の教え-「ギャーテー、ギャーテー」は「フレー!フレー!」である

2010年01月14日 | 宗教・スピリチュアル
私はみうらじゅん氏を尊敬しており、所詮私の思い込みだろうが、みうら氏のことが、まるで現代の聖者の一人のように見えてきて、困ってしまうことがある。

今日は、みうらじゅん対談集『正論。』(2009年)から、拙ブログに関係がありそうな所を抜き出しておこう。

ちなみにこの本は、およそ400ページにも渡って、みうらじゅんと、各界著名人の方たちとが対談を繰り広げているものである。

その論じられている内容とは、80パーセントくらいは「エロ話」のことであるといってよいだろう。
そして残りの19パーセントくらいは「下ネタ」である。

しかし、最後の1パーセントくらいのところで、仏教や仏像の話が出てくるので、ここに抜粋しておく。「小見出し」は私がつけている。


般若心経の「ギャーテー、ギャーテー」は「フレー!フレー!」である

<10p-11pより>
峯田和伸 般若心経はいつも持ち歩いているんですか?
みうら 文字が小さい上に老眼でよく読めないんだけどさ。あ、この最後のところ、ギャーテー、ギャーテー、ハーラーギャーテー(羯諦、羯諦、波羅羯諦)ってあるでしょ?

峯田 ギャーテーは聞いたことありますね。ギャーテーズとかいいますもんね。
みうら このギャーテーの部分が、訳してはいけないとされてたんですよ。ここだけは。

峯田 どういう意味なんですかね?
みうら どうやら「フレー! フレー!」ということみたいなんだ。…何も無い。肉体も無い。生きてることも滅することも汚いことも綺麗なことも無い。増えることも減ることも無い。全部無い無いですよ。でも修行を積む者だけには「フレー! フレー! 彼岸に行く者達よ!」って応援するんですよ。

峯田 彼岸ってお彼岸の…?
みうら そう。現世のことを此岸って呼び、あっちは彼岸。彼岸って死ぬことじゃなくて到達するというのかなあ。だから修行を積み重ねる人達だけには、「フレー! フレー!」って言うんですよ。これ僕の訳なんだけどね。(笑)

峯田 (笑)。「ギャーテー! ギャーテー!」と。
みうら 般若心経って、今風にいうと応援歌っぽい感じがするんですよ。最初はマイナスと取れることばっかり言っておいて、それじゃ救われないんじゃないか? って思わせといて、後半「でもね」を言い出す。あの『イマジン』と同じやり口ですよ。ジョン・レノンは多分これに影響を受けたんだと思うよ。


駐車場で説かれる仏の教え

<13pより>
みうら よく、駐車場のところに「空あり」って書いてあるでしょ。
峯田 見かけますね。

みうら 「空なし」ともあるんですよ。あるけど無いんだよね。無いけどあるように。
峯田 町中で説かれているんですよね。

みうら 釈迦が悟った「空」の思想は全ての問いに答えられることなんですよ。あの方はもう全て分かっちゃったんですよ、ボブ・ディランは「答えは風に吹かれている」と表現しましたが。
峯田 はーなるほど!

みうら ボブ・ディランは、結局答えは風に吹かれているだけで、あるかも知れないし、無いかも知れないって。

仏像も見た目が9割?

<318pより>
はな みうらさんの般若心経の本(『アウトドア般若心経』)。あれは凄かったね。
みうら ありがとうございます。実は般若心経って昔から凄くジョン・レノンの『イマジン』に似てるなって思ってた。

はな え? そうなの?
みうら 『イマジン』は「国境は無い、天国も無い」って言うでしょ? 般若心経も「無い、無い」だから。「色も無い、形も無い」っていうことだから。多分ジョンが釈迦の教えをパクッったとみたね。

はな パクリ? 『イマジン』パクリだったんだ。そっか。みうらさんって阿修羅像の置物持ってますよね? 結構大きいの。
みうら あれは奈良の土産物屋さんで買ったの。パクッてないよ(笑)。

はな ええー!
みうら そろそろ仏像教ってのを作らないとね。

はな いいね!
みうら それを「イマ寺院」って呼ぼうかな。今度はジョン・レノンの『イマジン』をパクッて。


・・・以上!


関連記事:山崎隆之『一度は拝したい奈良の仏像』-阿修羅と金鼓の響き 2009年11月27日
(→すまない。阿修羅の記事だが、みうらじゅん・いとうせいこうの『見仏記』のような面白さはない。)

「始原の遅れ」-内田樹『いきなりはじめる浄土真宗』より

2010年01月14日 | 宗教・スピリチュアル
以下、内田樹『いきなりはじめる浄土真宗』より

『もちろん、すべての生物は世界の創造に遅れて到来したわけですが、同じ遅れて到来したものたちの中にあって、おそらく人間だけが、「自分たちは世界に遅れて到来した」ということを自覚しています。』

『この「遅れ」の感覚を基礎として、おそらく「人間的な時間意識」というものは発生してきたのでしょう。というのは、「私たちの生に絶対的に先行しているもの」に対して私たちは焼け付くような欲望を抱きますが、そのような欲望は動物にはありえないからです。』

『このときに、「私には分からないけれどもこのゲームを始めたものがあり、そうである以上、このゲームにはルールがあるはずだ」というふうに推論する人間の思考の趨向性を私は「宗教性」と呼びたいと思います。』

『レヴィナスはこの「私には知れないルール」のことを端的に「善」と名づけています。』
『ですから、レヴィナスにおいて、「被造物である」とは、「贈り物をすでに受け取ってしまった」という「贈与についての絶対的遅れ」を意味しています。』
『ですから、信仰とはこの「決して完済しえない被贈与感」のことであり・・』



・・・先日、佐藤優氏のキリスト教神学入門があまり良くないなぁ、という感想を書いた。
仏教の入門書になると、何があるかなぁ、と考えると、

やっぱり、評論家でブッディストの宮崎哲哉氏が薦めているものを中心にして読むのがよいと思う。
わたしはそうだったから。
値段も手ごろで読みやすいと思われるのは、

『老師と少年』
『えてこでもわかる 笑い飯哲夫訳 般若心経』
『アウトドア般若心経』
『いきなりはじめる浄土真宗』

などになる。

・・・なお、「笑い飯」という漫才師は、去年のM-1決勝戦で、あろうことか、自爆的に「チンポジ」というギャグをかまして優勝を逃した二人組だ。
年末のM-1効果で、哲夫の『般若心経』の本はアマゾンで結構売れてたみたいだ。数週間前に、アマゾンランキングの「宗教」部門を見ると、「1位」になっていた。
1月14日現在は「4位」。おそるべし、「チンポジ」効果。

関連記事:『老師と少年』-なつかしい痛みとは何か 2009年11月27日
関連記事:M-1優勝者決定-中田カウスのコメントはいつも的確だ 2009年12月20日

佐藤優氏の神学入門-『はじめての宗教論 右巻』はやや残念だった

2010年01月13日 | 宗教・スピリチュアル
佐藤優『はじめての宗教論 右巻』(NHK生活人新書)を私の兄が購入していたので、兄貴から借りて少し読ませてもらった。
結論として、キリスト教神学への入門書として、あまりいい本だとは思えなかった。
わたしは佐藤優氏の著作で、もっともよかったのは、『獄中記』だと思う。
『獄中記』でわたしのキリスト教神学への興味も強くなったからだ。

著者は、この本『はじめての宗教論 右巻』の導入部分、オバマ大統領と鳩山首相の話をしながら、これからの国際政治を理解するためには「見えない世界」のことを理解しなければならない、そのためには神学を学ばなければならない、と説く。

日本人の国際政治に対するコンプレックスをくすぐり、「だからキリスト教を勉強しないと時代に遅れるよ」、と脅しているように見えて、あまりいい心持ちはしなかった。

「宗教」が大事だと言うのなら、「国際政治のことなど、どーでもエエやんけ」、と私は思う。

佐藤優氏が、金日成の英雄神話と、キリストの伝説が似ていると言って、だからキリスト教はこれからも復活し続ける、という話の振り方をするところなど、「本気なのかな?」といぶかしく思った。

北朝鮮の金日成の神話とキリストの伝説に似ているところがあるとしても、それは単純に両者が同じ「物語の類型」を採用しているからだ、と考えることはできないのだろうか。

この本では、お勧めの神学入門書として、マクグラスの『キリスト教神学入門』を挙げている。

私もこの本はいい本だと思っているので、この機会にこの本の一部、今回はC・S・ルイスについて書かれているところを引用しておく。

C・S・ルイスの言葉―『それは、私たちが見出すことのなかった花の香りであり、耳にすることのなかった楽の音谺であり、一度も訪れたことなどない国からのたよりなのです。』
マクグラスの解説―『ルイスによれば、人間の内部には深くて強い憧れの感情がある。この感情は地上のどのようなものも経験も満たすことが出来ない。ルイスはこの感情を「喜び」と名付ける。彼によれば、喜びは、その起源と目的である神を指し示しているのである。』

C・S・ルイスは、イギリスの神学者であると同時に、最近はディズニー映画にもなった『ナルニア国物語』という傑作ファンタジーの生みの親でもある。

キリスト教神学への入門書としては、佐藤優氏のようにいきなり「金日成」の話とキリスト教と結びつけるより、マクグラスのようにC・S・ルイスの言葉を持ち出したほうが、一般の読者への受けがよくなるのではないか、と思う。

佐藤氏はこの本で、「存在の類比」というトマス・アクィナスの概念を説明する際に、マクグラスの『キリスト教神学入門』から多く引用している。

そういえば「存在の類比」については、熊野純彦氏の『西洋哲学史 古代から中世へ』(岩波新書)にも記述があった。

私は、キリスト教神学への入門書として、佐藤氏の本よりむしろ熊野氏のこの本を、お勧めしたいと思う。

そこでは、アウグスティヌス、ボエティウス、トマス・アクィナスなどの中世の神学者の考え方や伝記的エピソードが手際よく紹介されている。何よりも、キリスト教神学の「香り高さ」を伝えてくれる本だ。

というより、わたしは、佐藤優氏の『獄中記』と、この岩波新書の熊野純彦氏の文章を読んで、「何か、キリスト教神学ってよさげだなー。」と思って、マクグラスの入門書に興味を持った、という順番だったのだ。

今回、佐藤優氏の本を読んだのがきっかけで、マクグラスの入門書に興味を持つ人も多くなるのだろう。

しかし、マクグラスの『キリスト教神学入門』は、現在アマゾンで買えるものの、あまりに値段が高すぎる。(なんと7,875円!)

できれば全国の市立図書館に、マクグラスを一冊ずつ置いてもらいたい。

関連記事:三位一体のシンデレラ-キリスト教の「聖霊」って何?2009年12月22日
(→佐藤優氏の『獄中記』より引用-『ハーバーマスが「コミュニケーション」と名づけているものは、古代、中世のキリスト教神学が「聖霊」と呼んだものに近いのではないかという仮説を私は立てています。』。マクグラスの入門書より引用-『聖霊は長いこと三位一体のシンデレラであった。他の二人の姉妹は神学の舞踏会へと行くのに、聖霊はいつも取り残されてきたのである。』)
関連記事:『下流志向』を読む⑤-「等価交換モデル」とペラギウス主義 2009年11月23日
(→マクグラスの入門書より引用-『十六世紀のプロテスタント宗教改革の間、救済の言語における根本的な変化が起こり始めた。アウグスティヌスのような初期のキリスト教神学者たちは「恵みによる救い」という言語を用いる新約聖書の箇所を優先させていた。しかしながら、どのようにして神は罪人を受容し得るのかという問題との格闘によって、マルティン・ルターはパウロが主に「信仰による義認」について語っている箇所に焦点を合わせるようになった。どちらの文章においても要点は根本的に同じであると言う事もできるが、その要点を表現するのに用いられる言葉は違っているのである。宗教改革の最も重要な影響の一つは、「恵みによる救い」という言葉を「信仰による義認」という言葉に置き換えたということにある。』)

ナルニア国への「憧れ」-マクグラス『キリスト教神学入門』より

2010年01月13日 | 宗教・スピリチュアル
関連記事:佐藤優氏の神学入門-『はじめての宗教論 右巻』はやや残念だった2010年01月13日

マクグラス『キリスト教神学入門』(269p-270p)より、C・S・ルイスの「憧れ」論を引用。

…アウグスティヌスの最近の最も優れた弁証法学的解釈者の一人が、二十世紀のオックスフォードの文芸批評家・神学者であったC・S・ルイスである。ルイスの著作の最も独創的な面の一つは、おそらく彼が常に、また力強く宗教的な想像力に訴えようとしたところにあるのではなかろうか。そのようにして彼はアウグスティヌスの格言、「憧れが心を深くする」を展開したのである。アウグスティヌスのようにルイスも、我々の実存の時間と空間を越えた次元を指し示しているある深い人間の感情に気づいていた。ルイスによれば、人間の内部には深くて強い憧れの感情がある。この感情は地上のどのようなものも経験も満たすことが出来ない。ルイスはこの感情を「喜び」と名付ける。彼によれば、喜びは、その起源と目的である神を指し示しているのである(そこから彼の有名な自伝の題、『不意なる歓び』が由来している)。ルイスによれば、喜びとは「それ自体が他のいかなる満足よりも望ましい、満たされることのない欲求である。…それを一度、経験した者は、必ずまたそれを欲しがる」。
…ルイスはこの問題をさらに「栄光の重み」と題した説教において論じている。これはオックスフォード大学で一九四一年の六月八日になされたもので、ルイスは「どのような自然の幸福も満足させることの出来ない欲求」、「なおも彷徨い、その対象についても不確かな欲求、その対象が本当に存在する方向に、まだほとんど見ることが出来ないでいる欲求」について語っている。人間の欲求には何か自滅的なものがある。というのも、欲求の対象が適えられると、満たされない欲求が残されるように思われるからである。ルイスは明らかにアウグスティヌスを思い出させる表現を用いて、古くからの美の探究を例に取り上げる。
…(以下、ルイスの文章)…そこに美がところを得ていると私たちが考えた書物や音楽は、それをあてにしようものなら、私たちを裏切ることでしょう。美はそういうもののなかにはなく、それはただそういうものを通じて現われたのであって、そういうものを通じて現われたものは憧れであったからです。美とか、自分自身の過去の追憶とか、こういうものは、私たちが真に願い求めるもののよき心象ですが、もしそれを物自体だと間違えたら、それはもの言えぬ偶像になり変わって崇拝者たちの胸を打ち砕くのです。物自体ではないからです。それは、私たちが見出すことのなかった花の香りであり、耳にすることのなかった楽の音谺であり、一度も訪れたことなどない国からのたよりなのです。(以上)
…強調されている基本的な点は徹底的にアウグスティヌス的である。つまり、被造世界は創造主に対する憧れの感情を作り出すのだが、それは自分では満たすことの出来ないものなのである。このようにして、本質的にアウグスティヌス的な枠組みが人間の一般的な経験に適用されて、巧みな神学的解釈を与えているわけである。

エリートは「恨み」なしに「民衆」を考慮することができなければならない。または「対抗史」としての聖書。

2010年01月13日 | 宗教・スピリチュアル
池田信夫氏のブログで、ニーチェを引用してワーキング・プアのルサンチマンを非難する箇所がある。(→池田信夫氏『貧困ビジネス』(2009年11月14日)

私は、社会を動かすエリートや知識人たちは、もちろん、ルサンチマンなしに、物事を明澄なアタマで考えることが出来なければならないと思う。

でないとわれわれ民衆は、安心して暮らせない。

でも、同時に、民衆にルサンチマンがあることを考慮に入れて物事を動かしていかないと、マズイことになりそうな気がする。

一般民衆に、ルサンチマンという人間的感情の一滴もない「超人」を求めるのは酷というものである。

また、池田氏が、ニーチェを引用して、キリスト教を「貧困ビジネス」と呼んで、「ルサンチマン」や「宗教」を簡単に片づけるような書き方をしているところが、私には少し気になった。日本の知識人の「宗教」に対するスタンスが、私はいつも気になるのである。

たとえば、池田氏が読者によく勧めている、フーコーの『社会は防衛しなければならない』という本に、「対抗史」としての聖書、という考え方が述べられている箇所がある。こういうところを読むと、ヨーロッパ人であるミシェル・フーコーやニーチェには、キリスト教や宗教がもつ複雑面妖な魅力が、よりリアルなものとして把握されていたことが私にも何となく想像できる。キリスト教の伝統がないわが国で、発言力の強いインテリの一人が、ニーチェを引用しつつ国内の低収入のワーキング・プアのルサンチマンを叩くというのは、あまり見よいものではなかった。その辺り、ちょっと残念だったのだ。


以下、フーコー『社会は防衛しなければならない』73pより、「対抗史」としての聖書-ローマとエルサレム-栄光と闇、について述べているところを引用する。


>この民族間戦争の新しい言説とともに浮かびあがるのは、結局のところ、ローマ流の政治-伝説的な歴史よりもはるかにユダヤ人たちの神話-宗教的な歴史に近い何かです。私たちはティトゥス・リウィウスよりもずっと聖書の近くに立ち、権力の不断の栄光と歴史を日々語りつづける年代記編者の形式よりもずっとヘブライ的聖書の形式のなかにいるのだといえる。一般的にいって、少なくとも中世後半以降、聖書は、王の権力や教会の専制に対する宗教的、精神的、政治的な異議申し立てが分節化されるときの大形式であったことを決して忘れてはならないのです。この形式は、それにしばしば聖書のテクストを参照すること自体がそうであったように、ほとんどの場合、異議申し立てや批判や反対の言説として機能していた。中世においては、エルサレムを口にすることはいつでも、あらゆる種類のバビロンの甦りに異議をとなえることだったのです。エルサレムは常に永遠なるローマ、皇帝たちのローマ、大競技場で正しき信者たちの血を流させていたローマへの異議申し立てに使われていたのです。エルサレムとは中世における宗教的および政治的な異議申し立てだったのです。聖書は貧困と反乱の武器でした。その意味で、中世末期、16世紀に、宗教改革の時代に、またイギリスの革命の時代に、主権と王の歴史-ローマの歴史-に厳密に対立する歴史形式が生まれ、この新しい歴史が予言と約束という聖書の偉大な形式に結びつくことは、従って驚くべきことではなかったと私は思います。(73p)

>中世半ばに、ペトラルカは驚くべき、しかし根本的と思われる次のような問いを提起しました。彼はこう述べたのです。「歴史において、ローマの賛美でない何かが存在するだろうか?」(76p)

追記:日本だったら、このような戦闘的な対抗史(contre-histoire)の役割を果たした宗教書となると、私には、妹尾義郎や大正・昭和の日蓮主義者たちが依拠した『法華経』くらいしか思い浮かばない。佐藤優氏みたいに、『神皇正皇記』とか言う人もいるかもしれないけど。(→松岡正剛の千夜千冊-寺内大吉『化城の昭和史』上・下


関連記事:労働者、安息日、神の命令―『イザヤ書』58章より引用 2010年01月11日
(→旧約聖書より、神が政治的・倫理的な命令を述べている箇所の引用です。)
関連記事:年末にフーコーと経済誌を一緒に読むⅠ 2009年12月30日
(→ミシェル・フーコー『生政治の誕生』よりの引用があります。)
関連記事:年末にフーコーと経済誌を一緒に読むⅢ 2009年12月30日
(→ミシェル・フーコー『生政治の誕生』よりの引用があります。)

関連記事:石原慎太郎知事の「派遣村」批判に一理あり 2010年01月11日
(→現代の『法華経』信者の一人、石原慎太郎氏に関する記事です。)
関連記事:『下流志向』を読む①-消費主体としての子供、「ヨイトマケの唄」2009年11月17日
(→現代の『法華経』信者の一人、美輪明宏氏に関する記事です。)

レヴィナス―「社会を維持せよ」という「神の命令」

2010年01月11日 | 宗教・スピリチュアル
哲学者レヴィナスの本を読んでいると、レヴィナスは、「人間の社会が成立していること自体が、とても不思議」、という感覚について述べているように感じる。

ブーバーの「我と汝」という思想について語っているところで、レヴィナスは『「我-汝」つまり人間との社会性の延長上に神との関係は生じる。』と語っており、このあたりが、私が仮説として立てている「社会が成立していること自体が奇跡、という感覚」を述べているんじゃないかな、と思った。(エマニュエル・レヴィナス,内田樹訳の『観念に到来する神について』より引用

『イザヤ書』58章では、神に怒りを向けられた民が、「わたしたちは、ちゃんとあなたのために断食したり、いろいろと信仰深い行為をしています。なのに、なぜあなたはそんなに怒っているのですか」と問い掛けると、神は「私が好む断食とは、貧しい隣人に家を与え、服を与え、食を与えることではないか」と答える箇所がある。

ここでレヴィナスはそのあたりを参照しているようだ。

もしかするとこういう感覚は、レヴィナスだけではなく、ヨーロッパの知識人には長く共有されていた感覚なのかもしれない。

たとえば、社会保障や福祉の制度。ヨーロッパではかなり充実しているようだが、
それも、ヨーロッパに永いあいだ聖書の伝統があったことを抜きにしては考えられないのではないか。

「社会を維持せよ」というのが、もともと「神の命令」だったから。

振り返って日本では、最近、テレビで「派遣村」とか作って、家のない人に住居を与え、食をふるまう様子が紹介されている。

やっているのは内閣府参与の湯浅誠氏ら。
だが、本来はこういうことは、とっくに宗教家がやっているべきことなのかもしれない。アメリカなら、キリスト教の教会だろう。
日本だったら、「お坊さんたち」がやっててもおかしくないことだと思う。

『イザヤ書』58章には、「安息日」についても語られている。

ヨーロッパ諸国で、労働法制の中で「休息」というのがあれだけ重んじられているというのも、もとはといえば、神が定めた「安息日」と関係があるのかもしれない。

関連記事:宮台真司とレヴィナス-〈世界〉の奇跡性、〈社会〉の奇跡性。2009年12月29日
関連記事:安息日のためのベーシック・インカム 2009年12月13日

社会性と宗教性―レヴィナス『観念に到来する神について』より引用

2010年01月11日 | 宗教・スピリチュアル
以下、エマニュエル・レヴィナス,内田樹訳『観念に到来する神について』276pより引用。

>人間は神の姿に似せて造られたという聖書の古い主題は、こうして新たな意味を持つことになる。しかし、神と人間の相似が知られるのは「汝」においてであって「我」においてではない。他者へと向かう運動はそれ自体が神へと通じているのである。

 ブーバーの場合、「我-汝」つまり人間との社会性の延長上に神との関係は生じる。ここでもまた、神の顕現は「汝」として接近された人間との出会いにもとづいて、つまり倫理にもとづいて待望されるという聖書的主題が聴き取られるだろう。
 
 あらためて『イザヤ書』五十八章に言及する必要があるだろうか。

 モーゼ五書の(それほど有名ではない)ページを引用してみるべきだろうか。そこでは、「あなたの神を恐れなさい」という言葉が、とりわけ人間に対する尊敬と隣人に対する気遣いを命じる一連の聖句のうちに意味深い仕方で現われる。

 それを読むと、まるで「神を恐れなさい」という命令がそこに書き加えられたのは、ただ単に「耳の聞こえないものを侮ってはならない」や「目の見えないものの前につまずくものを置いてはならない」(『レビ記』19・14)や「互いに害を与えてはならない」(『レビ記』25・17)や「もしあなたの兄弟が貧しくなり、あなたのもとで暮らしが立たなくなったなら、あなたは彼を在住異邦人として扶養し、あなたのもとで彼が生活できるようにしなさい。彼から利息も利得もとらないようにしなさい」(『レビ記』25・35-36)といった命令を強調するためだけであるかのように思われる。

 まるで「神を恐れなさい」という命令が倫理的な禁制によって定義されているかのように。

 まるで「神への恐れ」とはこの他者への恐れのことでもあるかのように。

(レヴィナス『観念に到来する神について』276p)

関連記事:レヴィナス―「社会を維持せよ」という「神の命令」2010年01月11日

労働者、安息日、神の命令―『イザヤ書』58章より引用

2010年01月11日 | 宗教・スピリチュアル
以下、『イザヤ書』58章より引用

>せいいっぱい大声で叫べ。
角笛のように、声をあげよ。
わたしの民に彼らのそむきの罪を告げ、
ヤコブの家にその罪を告げよ。

しかし、彼らは日ごとにわたしを求め、わたしの道を知ることを望んでいる。
義を行い、
神の定めを捨てたことのない国のように、
彼らはわたしの正しいさばきをわたしに求め、
神に近づくことを望んでいる。
「なぜ、私たちが断食したのに、
あなたはご覧にならなかったのですか。
私たちが身を戒めたのに、
どうしてそれを認めてくださらないのですか。」

見よ。あなたがたは、
断食の日に自分の好むことをし、
あなたがたの労働者をみな、圧迫する。
見よ。あなたがたが断食をするのは、
争いとけんかをするためであり、
不法にこぶしを打ちつけるためだ。
あなたがたは今、断食をしているが、
あなたがたの声はいと高き所に届かない。
わたしの好む断食、人が身を戒める日は、
このようなものだろうか。
葦のように頭を垂れ、
荒布と灰を敷き広げることだけだろうか。
これを、あなたがたは断食と呼び、
主に喜ばれる日と呼ぶのか。

わたしの好む断食は、これではないか。
悪のきずなを解き、くびきのなわめをほどき、
しいたげられた者たちを自由の身とし、
すべてのくびきを砕くことではないか。
飢えた者にはあなたのパンを分け与え、
家のない貧しい人々を家に入れ、
裸の人を見て、これに着せ、
あなたの肉親の世話をすることではないか。
そのとき、暁のようにあなたの光がさしいで、
あなたの傷はすみやかにいやされる。
あなたの義はあなたの前に進み、
主の栄光が、あなたのしんがりとなられる。
そのとき、あなたが呼ぶと、主は答え、
あなたが叫ぶと、
「わたしはここにいる」と仰せられる。
もし、あなたの中から、くびきを除き、
うしろ指をさすことや、
つまらないおしゃべりを除き、
飢えた者に心を配り、
悩む者の願いを満足させるなら、
あなたの光は、やみの中に輝き上り、
あなたの暗やみは、真昼のようになる。
主は絶えず、あなたを導いて、
焼けつく土地でも、あなたの思いを満たし、
あなたの骨を強くする。
あなたは、潤された園のようになり、
水のかれない源のようになる。
あなたのうちのある者は、昔の廃墟を建て直し、
あなたは古代の礎を築き直し、
「破れを繕う者、
市街に住めるように回復する者」と呼ばれよう。

もし、あなたが安息日に出歩くことをやめ、
わたしの聖日に自分の好むことをせず、
安息日を「喜びの日」と呼び、
主の聖日を「はえある日」と呼び、
これを尊んで旅をせず、
自分の好むことを求めず、むだ口を慎むなら、
そのとき、あなたは主をあなたの喜びとしよう。
「わたしはあなたに地の高い所を踏み行かせ、
あなたの父ヤコブのゆずりの地で
あなたを養う」と
主の御口が語られたからである。

関連記事:レヴィナス―「社会を維持せよ」という「神の命令」2010年01月11日

落ち込んだときは『ヨブ記』を読んで元気を出そう!

2010年01月09日 | 宗教・スピリチュアル
寝る前に、布団に腹ばいになって、旧約聖書の『ヨブ記』を読んでいる。

ヨブという、神に試されてメチャクチャ悲惨な人の話だ。

>だが、私は全能者に語りかけ、
 神と論じ合ってみたい。(『ヨブ記』13・3)

私にだってヨブほど激しくはないけど、人生が不如意でありかつ社会が不条理であるかのように感じられる時、「これはいったいどういうことなのか」と神に問い正してみたいという感情が湧いてくることはある。だからヨブの言葉に共感するところはある。

しかしヨブのありさまはヒドイな。

>サタンは主の前から出て行き、ヨブの足の裏から頭の頂まで、悪性の腫物で彼を打った。
ヨブは土器のかけらを取って自分の身をかき、また灰の中にすわった。
すると彼の妻が彼に言った。「それでもなお、あなたは自分の誠実を堅く保つのですか。神をのろって死になさい。」
しかし、彼は彼女に言った。「あなたは愚かな女が言うようなことを言っている。私たちは幸いを神から受けるのだから、わざわいをも受けなければならないではないか。」ヨブはこのようになっても、罪を犯すようなことを口にしなかった。(『ヨブ記』2・7-10)

ヨブは可哀想に、ほんの神様のいたずら心で、死ぬるほどのひどい目に合って、「あなた、死になさい!」と、ついに女房にも愛想を尽かされてしまった。

信仰深いヨブは、それでもなおもじっと耐えていた。
しかしついに逆ギレして、神を呪い始める。

>その後、ヨブは口を開いて自分の生まれた日をのろった。
ヨブは声を出して言った。
私の生まれた日は滅びうせよ。
「男の子が胎に宿った」と言ったその夜も。
その日はやみになれ。
神もその日を顧みるな。
光もその上を照らすな。
やみと暗黒がこれを取り戻し、雲がこの上をとどまれ。(3・1-5)

人生において苦しいことの一つは、「世間様」にお前は正しくないと言われた時、「いや、お前は正しい」と言ってくれる審判者がどこにもいないということだ。ヨブも神と自分とを仲裁してくれる者がいない、そのことを嘆いている。私がヨブに共感するところだ。

>神は私のように人間ではないから、
私は「さあ、さばきの座にいっしょに行こう」
と申し入れることはできない。
私たちふたりの上に手を置く仲裁者が私たちの間にはいない。(9・32-33)

いったい誰が正しいのか。

>私は、神を呼び、
神が答えてくださった者であるのに、
私は自分の友の物笑いとなっている。
潔白で正しい者が物笑いとなっている。
安らかだと思っている者は
衰えている者をさげすみ、
足のよろめく者を押し倒す。
荒らす者の天幕は栄え、
神を怒らせる者は安らかである。(12・4-6)

ヨブの「安らかだと思っている者は、衰えている者をさげすみ、足のよろめく者を押し倒す。」っていうのには少し泣けるね。日本の「世間」というモヤモヤした空気も似たようなものかも。

>だが、私は全能者に語りかけ、
神と論じ合ってみたい。(13・3)

「これ以上、俺に何も言うな。」説教してくる友人たちの言葉がうっとうしくて、ヨブはこんな言葉まで吐いてしまう。

>あなたがたの格言は灰のことわざだ。
あなたがたの盾は粘土の盾だ。
黙れ。私にかかわり合うな。(13・12-13)

まだ読んでいる途中だが、こんな絶望しきっているヨブがその後どうなるか知りたくて、ページを飛ばして最後の場面を読んでみる。

すると最終行に、こんなに神への呪いをぶちまけていたヨブが、幸せに暮らして「長生き」したことが書いてある。

長生きしたんだ、ヨブ。
よかった、と、ちょっとホッとする。

>ヨブは長寿を保ち、老いて死んだ。(『ヨブ記』42・17)

゜.+:。☆ヾ(´∀`*) ヨカッタネ。

「バグダッドから一マイル」-かすかに音楽の調べが聞こえてくる

2010年01月09日 | 宗教・スピリチュアル
気の持ちようは気の持ちよう

寒い時は、「足湯」や「腕湯」をしたり、「しょうが湯」などを喫して体を温めましょう。

(拙ブログより再録:『そういうときは、頭に血が昇っていることが多いので、「足湯」や「腕湯」をすすめます。風呂場でおけにお湯を張って、足首から先を数分間つけるというのが、「足湯」。「腕湯」は洗面所にお湯を張って、ひじから先だけをお湯につけるというものです。身体の先端だけを温めるようにすれば、全身がホッとした楽な気分になります。冬の寒い日には、ホットコーヒーを買って缶に手を当てて、指の先端を温めるだけで、全身が温かくなるような気持ちがするでしょう。それと同じことです。あるいは、近くのドラッグストアに行って、粉末状の「しょうが湯」を買ってきてそれを飲むのもよろしい。老婆心ながら、とにかく身体を温めろ、と忠告しておきます。』)-ホワイトカラーエグゼンプションの議論について自分なりに整理 2010年01月07日より-

あるいは不安を静めるために、イメージ療法みたいなことをするのもよいかもしれません。

イスラム教のスーフィーには、今は砂漠だけど、「バグダッドまではあと一マイルなのだ」という希望を持つための、瞑想法というか、イメージの技術があるそうです。
何だか自分の将来が不安だ、と感じている人は、以下の文章を読んで試されてみてはどうでしょうか。
バグダッドから一マイル。もしくは、「バグダッドまで一マイル」。

スピリチュアル本からの引用です。
こういうのも誰かにとって気休めくらいには、なるかもしれないでしょう。
そうさ。
気の持ちようなんて、気の持ちようで何とかなるのさ。

バグダッドから一マイル

<以下キャロライン・メイス『チャクラで生きる』(263p-264p)より
スーフィの教えにある「バグダッドから一マイル」というワークについて>

…目を閉じて、自分が砂漠の道を歩いているのを思い浮かべる。寂しい道で、永遠に続くように思える道だ。ちょうど中近東のハイウェーのようだ。灼熱の太陽、足の下にある熱い砂の感触、そして耐えられないほどの喉の渇きと疲れが身体を圧倒するのを感じてみよう。乾ききった風景、そして自分の寂しさと絶望を体験してみる。この気持ちがはっきりと感じられるようになったら、道のそばにある小さな岩の一群を見つけて、そこで夜を越す準備をする。日が沈むのを眺め、涼しい夜風が吹いてくるのを感じる。旅の疲れを癒し、新鮮な空気を胸いっぱい吸って、身体が徐々に回復しはじめるのを感じる。

…さて、岩陰から外に出て、まわりを見渡してみよう。それほど遠くないところに、ちらちらと光る明かりが見える。そして、その数がだんだん増えてくるではないか。最初からそこにあったのだろうが、まぶしい砂漠の太陽のもとでは、それが見えなかったのだ。かすかに音楽のしらべが聞こえてくるのを耳にして、人々であふれかえる街が実はすぐそばにあり、もう歩いていける距離であることを悟る。不毛な砂漠の真ん中にいると思っていたのが、実はあなたはバグダットからわずか一マイルのところにいたのだ。このことに気づいたときの感情を全身にしみわたらせよう。もうすぐ楽になれるところまで来ているのだ。あとはほんの少し歩けばいいだけなのである。そう悟り、緊張感が解けていくなかで、短い感謝の祈りを捧げよう。

…治癒の努力を始めてからひと月たっても身体に何の変化もみられないとしても、必ずしも変化が起きていないからではない。変化は波動のレベルで起きているのであり、いずれ必ず、精神的にも、霊的にも、そして身体にさえも、いい方向に向かう反応を引き起こすはずだ。自分で気づいているよりも、ゴールはずっと近いのかもしれない。

END.