お盆、そして、流山のお施餓鬼シーズンが終わり、まもなく秋のお彼岸です。パチパチ!
昨日、夕方の利根運河の土手。

利根運河の彼岸花は、なぜお彼岸前に散ってしまうのでしょう…
もともと、お彼岸期間に咲くので、彼岸花という名前なのですが(諸説あり)
先日、他宗派の方と「彼岸」の考え方について、少し話しました。きっと、ほとんどの宗派では、流れる川のこちら側の迷いの岸が此岸(しがん)、あちら側の悟りの岸が彼岸(ひがん)です。
「みんなー!ニューヨー、もとい、彼岸に行きたいかーっ!」
「おーっ!」
「罰ゲームは怖くないかーっ!」
「おーっ!」
「じゃあ、連れてって、あ・げ・る」
という感じ、あるいは、どなたかが迎えにきてくださるのでしょう(、、、だと思います^^;)。
他には、迷いの岸だからこそ、白蓮華のように生きられるのだ!という考え方もありますし、六波羅蜜の修行をして、自ら川を渡る(悟りの境地に辿りつく)という考え方もあります。
私には、「こちら岸もあちらから見れば彼岸だ」という気づきの先に、悟りがある、という考え方がしっくりきます。
そうすると、迷いとは、間に流れる川のことになり、私たちの拘りや偏った物の見方という“流れ”が、無くなれば、此岸も彼岸も地続きになり、あちらとこちら、という区別すら無くなる。
、、、、、と良いのですが(^^;)
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