金谷武洋の『日本語に主語はいらない』

英文法の安易な移植により生まれた日本語文法の「主語」信仰を論破する

第36回 「日本語の特徴(その2)

2005-12-01 11:12:16 | 日本語ものがたり
 「食べます」という日本語の文の意味は「Je mange. Tu manges. Il mange. Elle mange. Nous mangeons. Vous mangez. Ils mangent. Elles mangent. On mange.」のどれかだが、そのどれかはこの文からだけでは分からず、それを決定するのは文脈だ、ということを前回述べた。

 これを聞いた学生が一様に驚くので、2つの言語の間に1対1に完全に対応する文はあまりないのだと説明する。共通点の多い英語とフランス語の間にだってそれは言えるのだ。例えば、ある英語の小説の中に「You are kind」という文があったとしよう。こんな簡単な文ですら、文脈を無視したらとても仏訳は出来ない。様々な可能性があるからだ。全ては「You」がどんな人物かにかかっている。男性か女性か。親しい人か親しくない人か。さらに、一人か二人以上か。それらに応じて、「Tu es gentil. Tu es gentille. Vous etes gentil, Vous etes gentille. Vous etes gentils. Vous etes gentilles.」と、少なくとも6通りの可能性がある。(表記出来ないのでアクサンは省略)そして「食べます」と時と同じように、この小説の中でどれが正しいのかは、文脈が決定するのである。

 前回の(1)発音が簡単なこと、(2)活用がないこと、に続いて、今回も日本語の特徴をさらに2点加えよう。先ず(3)動詞文の語順だ。動詞が文末に来るというのは英仏語などとの大きな違いである。上で見た「食べます」の様に、動詞さえあれば立派な文であるから、これを盆栽の鉢に見立てる。「レストランで」「8時に」「友達と」などと、必要に応じて鉢から上向きに何本か枝を伸ばすのが日本の文の作り方なのである。

 これに対して、動詞活用を持つ英仏語では主語がないと文が作れない。主語があり、それが活用を起こさせた動詞がそれに続く。「レストランで」「8時に」「友達と」などの情報は全て動詞の後に回される。こうした構文は、主語という頂上から下りて来る末広がりの3段構えだ。日本語の動詞文を多くても2段構えの「盆栽型」だとしたら、こちらは背の高い「クリスマスツリー型」と言えるだろう。

 「8時に友達と来る」に当たる英語文は、数多い可能性の中で例えば「He comes at eight o’clock with a friend」であるが、この英文の出発点は主語の「He」である。誰のことかが分かっているから名前でなくて「He」なのだが、それでも「He」と言わなければ文にならないのが英語(や仏語)の際立った特徴である。日本語(や朝鮮語)では誰のことかが分かっていれば言う必要がない。

 学生から「あなた」と呼ばれて砂を噛む様なやるせない思いをしなくても済むためにも、この基本文の違いを徹底的に教え込んだ方がいい。彼らの頭の中には「I」や「You」や「He/She/We/They/It」など人称代名詞がひしめきあって出番を待っているが、それはひとえに「主語がないと文が作れない」彼らの母語のせいなのである。「私はあなたを愛しています」式のバタ臭い日本語が出てくるのは母語から直訳するからだ。日本語なら単に「好き(だ)よ」でいい。こう言われて、その文脈が分からない日本人はいないだろう。

 (4)次なる特徴は形容詞。例えば「赤い」である。英仏語の「red/rouge」と日本語の「赤い」はどう違うのかと言えば、これが実は大違いなのだ。「red/rouge」は単語だが、日本語の「赤い」は文なのだから。

 単語なのだから 「red/rouge」をにらんでいても過去形にも否定形にもならないが、「赤い」の方は文だからそれが可能だ。「い」が変わって「赤くない?赤かった?赤くなかった」などとなる。同じことを英仏語で言おうとすると、例えば「It is red./C’est rouge」の動詞を変えなくてはいけない。英仏語の形容詞文というのは結局、動詞文なのである。

 英語には5つの基本文があると学校で習ったのを読者は覚えていらっしゃるだろうか。詳しい説明は省くが、SV, SVC, SVO, SVOO, SVOCの5つである。もちろん全部に主語(S)がある。主語だけでなく、動詞(V)も全部にある。英語の基本文は全部「主語を持つ動詞文」ということになる。

 これに対して、日本語には基本文がいくつあるのだろうか。答えは3つだ。こちらには主語はいらない。そして動詞文は3つの内の1つにすぎない。(あ)名詞文(例:赤ちゃんだ)、(い)動詞文(例:泣いている)、そして(う)形容詞文(例:可愛い)の3種類だ。初級日本語を教えるときは、(あ)と(う)はそれぞれ「赤ちゃんです」と「可愛いです」となって、一見同じタイプの文のようだが、これは現在肯定文の時だけである。それ以外では、名詞文の方は「です」が変わるのに、形容詞文の方は「です」はそのままで「い」が変わるのだから、やはり全く別種なのだ。(2005年10月)

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4 コメント

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名詞文についての一考察 (ルウム)
2011-07-24 16:18:42
「お父さんだ」「優しい」「笑っている」という表現は、述語中心の日本語では、それぞれ名詞文、形容詞文、動詞文として成り立っているという考え方があります。

「うだるように暑い今日この頃です」のように、物足りない感じがしない文も中にはありますが、一般的にはどこか物足りない感じがします。

それは「何々が」や「何々は」が無いためだと思うのですが、ただそれは情報不足なだけであって、基本文としては成り立っているということなのだろう、と思っています。

さて、その中の名詞文について、次のようなことを考えました。ご意見をいただければ幸いです。


「ただいま」という声が玄関から聞こえると、「お父さんだ」と、末っ子のはずんだ声が響いた。ほとんど同時に、次男が「お父さんが帰ってきた」と叫んだ。「そうだね。お父さんだ。帰ってきたのは、お父さんだよ。お父さんが帰ってきたんだ」と、二人に向かって何度も念を押すように言ったのは、長男だった。待ちに待ったお父さんがついに帰ってきたのだった。

上述の場面で、「お父さんだ」と言った末っ子の頭の中に、「帰ってきたのは、お父さんだ」という文が出来上がっていたかどうかはわからない。「ただいまと言ったのは、お父さんだ」かもしれないし、「玄関にいるのは、お父さんだ」かもしれない。そのいずれかはわからないが、そのいずれか、もしくはこれらに近い認識があったと考えられる。

「お父さんが帰ってきた」と言った次男には、その言葉通りの認識があったと考えられる。

「そうだね。お父さんだ。帰ってきたのは、お父さんだよ。お父さんが帰ってきたんだ」と言った長男には、その言葉の通り、「帰ってきたのは、お父さんだ」や「お父さんが帰ってきた」という認識があったと考えられる。

長男の発話の中の最初の「お父さんだ」に即して言えば、

  <「が」文での認識>      <「は」文での認識>         <発話>
 「お父さんが帰ってきた」 = 「帰ってきたのは、お父さんだ」  →  「お父さんだ」

と、まとめることができる。

末っ子の認識と発話についても、同様に

      <認識>                  <発話>
「帰ってきたのは、お父さんだ」       →  「お父さんだ」
「ただいまと言ったのは、お父さんだ」   →  「お父さんだ」
「玄関にいるのは、お父さんだ」       →  「お父さんだ」
これらに近い「○○は、お父さんだ」    →  「お父さんだ」

のいずれかと、まとめることができる。

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お父さんだ。 (たき)
2011-07-31 23:11:41
ルウムさん、

「認識」のさまざまな多様性は結局「文脈」で、それを踏まえて「お父さんだ」という「発話」があるわけですよね。

ですから名詞文「お父さんだ」は、これだけで立派になりたっている基本文です。
返信する
あ、お父さんだ (ルウム)
2011-08-06 17:34:34
ご回答ありがとうございました。名詞文「お父さんだ」は、これだけで立派になりたっている基本文だということがよくわかりました。

   「認識」のさまざまな多様性は、結局「文脈」である。

この文については、「「ただいま」という声が玄関から聞こえた」というのが、「お父さんだ」という発話に至る前の、そもそもの「文脈」と考えられるが、この声を3人兄弟が聞いてそれぞれ持った認識はさまざまであり、たとえば、「ただいまと言ったのは、お父さんだ」、「玄関にいるのは、お父さんだ」、「帰ってきたのは、お父さんだ」など、さまざまな多様性が存在する、これも結局「文脈」であるということだと解釈しました。

言い換えれば、「認識」の段階にも「文脈」というものを認めるということだと思います。

ところで、気がついたのですが、例文の「お父さんだ」は、「あ、お父さんだ」としてもよく、「お父さんが帰ってきた」も、「あ、お父さんが帰ってきた」としてもよいようです。「ただいま」という声を聞いて驚いた様子や、何か発見した様子を表している状況と思われるからです。

「ただいま」という声を聞いてから「あ、お父さんだ」という発話までに、頭の中でどういう動きがあったか。「あの声は、お父さんの声だ」という認識がまず生まれ、そこから、上述のさまざまな「認識」が出てくるのではないかと考えられます。

ということは、驚きや発見を表すような発話でも、見たり聞いたりしたときに、頭の中で一瞬のうちに認識の流れが生まれ、推論のようなことが行われている、そして、それは、人によって状況によって、さまざまな多様性があって、それが発話以前の「文脈」として位置づけられるのだと思いました。

こういう考えで特に問題ないでしょうか?
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文脈 (たき)
2011-08-14 10:29:04
はい、それでいいと思います。

つまり発話は場面があって初めて成り立つということですね。
そしておっしゃるように、場面は同じでも、話者の捉え方はさまざまだということでしょう。
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