今回は先ず「子供たち」という言葉を考えてみます。耳で聞いても、書いてある字(「こどもたち、子供達」)を見ても、一見全く普通の日本語の単語と思われますよね、でも、実はちょっと不思議な言葉なのです。英語のチャイルド(Child)、仏語のアンファン(Enfant)に当たる日本語は、元来は「こども」ではなく、その前半の「こ(子)」だけで十分でした。今でも「男の子」「女の子」「親子」「江戸っ子」「道産子」など多くの言葉に使われていますし、諺の「可愛い子には旅をさせよ」や「嫁して三年、子なきは去る」など、何よりその発想が古めかしい表現に出てきます。そんな「子」が、1シラブルだけでは短すぎると思われたものか、特に(男の、女の、などが)何も前につかない場合には「子」の後ろに「とも」をつけ、その「と」が連濁で「ど」に変わった「こども(子供)」の方がいつの間にか普通になってしまったのです。
さて、ここで考えなければいけないのは、後半の「とも」の意味です。本来はなかった単語を加えるのなら、何か新たな意味が加わる筈です。そこで、付け加えられた「とも」をよく見ると、漢字は「供」で、これは、「わたしども」「家来ども」のように、複数を示す接尾語でした。それがなぜか、今では、一人でも数人でも、つまり単複同様に「子供」と言うことができるようになりました。
そう考えると、冒頭の「子供たち」が「実はちょっと不思議な言葉」という意味がお分かりでしょう。最後の「達(たち)」だって「とも」同様の複数を表す接尾辞なのに、こちらは「複数」という意味が現在まで保たれているからです。たった一人の子供を「子供たち」とは言えません。もっとも、今から100年後の日本人が、赤ん坊の写真を見せて「こいつが今度生まれた子供たちでね、名前は太郎とつけました」などと絶対に言わないとは保証出来ないのですが。言葉は生きていて常に変化し続けるものだからです。
さて、話をちょっと広げますと、元来の複数の意味を失った接尾辞は実は「供(とも)」だけではありません。上の「子供たち」の例で、「こちら(=達)は複数の意味を保っています」と言ったばかりの「達(たち)」も、実は「同じ穴のムジナ」。その前につく言葉によっては「単に言葉を長くするため」にこれが使われることがあるのです。例えば、友人の意味の「とも(友)」の場合です。これも「我が友」や、昔ならキャンプファイヤーで必ず「友よ〜夜明け前の闇の中で」と歌われた名曲「友よ」(岡林信康)のように、現在でも「友」だけで英語のフレンド(friend)、仏語のアミ(ami)の意味です。ところが、時代とともに、こちらも後ろに「複数の接尾語」がついた「ともだち(友達)」の方が頻繁に使われるようになりました。そして、「子供」と全く同様に、「友達」も、単数複数のどちらでも使えるのです。さらに、驚くべきことに、上の「子供」と全く同じで、連濁して「たち」が「だち」に変わるところまで一緒なのです。
それでは「とも」と「たち」の順番を入れ替えてみたらどうでしょうか。実は、それをしたのが「子供たち」と「友達ども」なのです。一緒に「ツル」んで、社会的に見てもあまり感心できないことをしでかす仲間をよく「悪友」と言いますが、この悪い友達は「友達ども」と言えそうです。ちょっとした好奇心でグーグル検索をしてみたら「友達ども」は100万件以上もヒットしたぐらいですから完全に市民権を得た現代日本語の語彙と言えるでしょう。
以上をまとめると、こうなります。例として挙げた二つの大和言葉(=外来語ではない和語)の「子」と「友」は、非常に似通った語形変化を遂げました。先ず、第一ステップ。これは接尾語を付けて語を伸ばすことです。その際に複数の意味は付加されませんでした。こうして元の形よりも使われだしたのが、共に単複同形の「こども(子供)」と「ともだち(友達)」です。さて、そうすると今度は新たな問題が生まれました。あえて「複数」の意味を強調したい場合の表現ができなくなったのです。そこで第二ステップとして考え出されたのが、第一ステップで使われなかった、もう一つの「複数の接尾語」の助けを借りることです。
こうして、まるで「子」と「友」がどこかで会って相談して決めたかのように、第二ステップでは「子供」に「たち」が、「友達」には「ども」が選ばれてそれぞれめでたく「子供たち」と「友達ども」に決定されたというのがその顛末です。その正体はそれぞれ「子+複数a+複数b」、「友+複数b+複数a」にすぎないのですが、複数の接尾辞aとbを取っ替えっこするという大胆な「トモダチ作戦」です。その成功を祝って、今では悪友となってすっかり打ち解けた「子」と「友」はニヤリと笑いながらハイファイブ。居酒屋の隅で乾杯しているなんて光景を想像してみるのも一興です。長い冬が終わってようやく春の陽光に包まれだしたモントリオールにはふさわしい「日本語ものがたり」ではないかと思い、ご紹介した次第です。
さて、最後に、これは関西出身の友人から聞いたことなのですが、複数を表す接尾語では「とも/ども」より、「たち/だち」の方がずっと敬意がこもった丁寧表現なのだそうですね。そう言えば、関西のテレビ局のト−クショーなどでは、関東で「お子さん」というところを「お子たち」と言っているのに気付いたことがありました。一方、自分の子には「子供」と言っているのを聞いて、友人の指摘を思い出したものです。さらに丁寧度を上げるなら複数に「かた(方)」が使われます。単数複数にこだわらないとされる日本語ですが、この他にも「私」なら、へりくだった「私ども」「私ら」が、「あなた」であれば敬意を表した「あなたたち」「あなたがた」などと、なかなかどうして、微妙に変化をつけた表現が可能であるわけで、改めて日本語の懐の深さに思いを馳せた次第です。
釈迦に説法な話かもしれませんが、「子供たち」における接尾辞の冗長化というと、ちょうど英語の children も似たような変化を経ているのがとても興味深いですね。
古英語では cild(子供)の複数形は cildru であったのに、次第に -r(u) の接尾辞が廃れるに従って複数の意味合いが薄れた結果、更に複数を表す接尾辞が二重で付加されて現代英語では children になっています。これってまさに日本語の「子供達」の語と同じ状態ですよね。子供といえば昔は沢山いるのが当たり前ということで、複数形が酷使されて意味が擦り減りやすいのでしょうか。
ただし日本語と違って単数形は母音が割れただけでほぼ古英語のまま child ですし、複数形の接尾辞 -r も -n もせいぜい後者が oxen などに化石的に形を残すだけで、既に機能上は死んでいるも同然です。「とも」や「たち」が現役で使われているのとは大きな違いですね。
二重複数形(Double plural) という現象は日本語だけでなく色んな言葉にあるのですね。ご教示感謝いたします。今後もどうぞよろしく。