2005年の大ベストセラー「国家の品格」(藤原正彦)以来、「品格」が現代日本社会のキーワードとなった感がある。そこで今回は、これも大きな話題となっている「横綱の品格」について考えてみたい。
先ず四股名が大きなヒントになる。このシリーズ第3回にも書いたが、相撲力士の四股名は俳号に似ていて面白い。江戸時代の三大俳人と言えば「芭蕉・蕪村・一茶」だろうが、この三つの俳号の共通点は一目瞭然で、三人に二字づつで合計六つ漢字がある内、四つまで草冠を配していることにある。その選択はまさか「偶然」ではなく、明らかに意図的な「植物志向」による命名である。自然と対峙してこれを征服しようとは思わずに、自然に包まれてそこに溶け込もうと願う日本人の姿がここにも見てとれよう。
この植物志向がスポーツに及んだ好例が相撲であり、力士の四股名は俳号と似ているのもそのせいだ。四股名だって力士としての理想の姿を名前に折り込んだものに違いないが、昔の双葉山から少し前に人気を集めた兄弟力士の貴乃花、若乃花兄弟まで、植物的なものが目立つのである。日本人にとって強い相撲とは、力士が自然の勢いを帯びた時である。だから、そこにあって不動の自然物(山・嶺・島・富士)であるか、人間のコントロールの効かないもの(海・川・波)であるか、そして自然に大きく育つ植物(花・杉・藤)などが四股名となるのだ。このことの傍証に動詞「する」の可能形が「出来る」であることも挙げられるだろう。これも語源は「いでくる(=出て来る)」であることは使われている漢字を見れば明らかだ。芽や花の様に出て来る、その自然の勢いこそが強さなのだ。
さて、こうした伝統と対立するように見える四股名がある。今何かと話題の東西横綱、白鵬と朝青龍などはその典型で、言うまでもなく「鵬」も「龍」も(架空の)動物だ。しかし、少なくとも日本の伝統的な美意識、世界観においては、強さの象徴が動物や人間や神話の英雄などであることはごく稀なことである。そのことと、これら二人の横綱が揃って外国出身であることが果して偶然であろうとは私には思えない。外来語をカタカナで書くように、無意識のうちに、日本人は外来のものを何らかの手段で区別しようとするのだろうか。白鵬の前には大鵬という優勝32回の大横綱がいたが、彼もまた父親は白系ロシア人であったと聞く。
相撲に対して、外来のスポーツであるプロ野球のチーム名を見ると、巨人だの虎だの鷹だの鯨だのが目白押しで実にくっきりと対照をなしていて面白い。もちろん、野球と相撲で違うのはチーム名と四股名においてだけではない。プロ野球ではアンパイヤ(審判)に食ってかかる選手を見るが、行司の軍配に「物言い」を付けるのは、土俵下の親方達ではあっても力士達ではない。ライバルの相撲部屋の力士たちが土俵上で乱闘するということはまず考えられないが、野球ではよく見られる。これは端的に言って、アメリカのスポーツである野球と、日本の国技である相撲のあり方が基本的に違うからなのだ。野球よりも相撲に近い「あちらのスポーツ」にプロレスがあるけれど、これは野球にさらに輪をかけて動物的である。勝ったレスラーの雄叫びやガッツポーズほど「品格」からほど遠いものもない。野球やプロレスは動物的、相撲は植物的なのである。相撲の起源が農耕民族の神事であったことと決して無関係ではない筈だ。
「やはらかに人分け行くや勝ち相撲」は江戸時代に高井几董(1741-1789)が詠んだ句だが、その進み具合には草を左右に吹き分ける野分の勢いが感じられる。そもそも相撲用語の「花道」は相撲節(すまいのせち)で、力士が土俵に入る際に左方は葵、右方は夕顔の花を髪にかざしたことから来ている。四股名に続いてここにも植物性が明らかだろう。
さて、横綱朝青龍の「品格」が様々な出来事を通じて疑問視されているのはご周知の通りだ。朝青龍に横綱の品格が疑われる最大の理由は、こうした「伝統的相撲精神」からの逸脱である。相手を睨みつけて威嚇したり、ガッツポーズと思える仕草をしたり、自分の親方との上下関係を混同して無視したり、懸賞金を左手で受け取るなどのルール違反を平気でするからである。そこに感じられるのは「強ければいいんだろう」という驕りでしかない。
何度も指摘されるように、横綱には強いだけではなく「心・技・体」が求められる。「けたぐり・張り手」など「小細工」を使わず、「自然物を彷彿とさせる」風格と勢いで相手を圧倒するしてこそ「横綱相撲」と日本人は賞賛してきたのだ。2006年11月場所8日目に朝青龍がけたぐりで勝った点について、女性初めての横綱審議委員である内館牧子氏が「けたぐりという言葉からして下品。あの品格のなさは何なんだと思う」と言い、朝青龍が仕切りのさいに廻しを叩いて気合を入れる仕草についても「みっともない」と喝破したが、私も全く同感だ。芭蕉の有名な俳句で言うなら、力士の理想は「古池」であって、「蛙」ではいけないのだ。蛙ですらいけないのに、四股名通りに「龍」になられてはさらに困る。
2場所出場禁止という前代未聞の懲罰の真の意味を理解の上、猛省することなく「勝てばいいのだろう」とひたすら優勝することで挽回しようと考えているのなら、この困った横綱は相撲協会の威信にかけても遅かれ早かれ引退を勧告せざるをえないのではないか。引退後は「元」横綱朝青龍としてプロレスで活躍すればいい。そちらはルールもへったくれもない動物的なショーなのだし、品格など始めから持ち合わせない方が喜ばれるのだから。 (2008年3月)
応援のクリック、よろしくお願いいたします。
先ず四股名が大きなヒントになる。このシリーズ第3回にも書いたが、相撲力士の四股名は俳号に似ていて面白い。江戸時代の三大俳人と言えば「芭蕉・蕪村・一茶」だろうが、この三つの俳号の共通点は一目瞭然で、三人に二字づつで合計六つ漢字がある内、四つまで草冠を配していることにある。その選択はまさか「偶然」ではなく、明らかに意図的な「植物志向」による命名である。自然と対峙してこれを征服しようとは思わずに、自然に包まれてそこに溶け込もうと願う日本人の姿がここにも見てとれよう。
この植物志向がスポーツに及んだ好例が相撲であり、力士の四股名は俳号と似ているのもそのせいだ。四股名だって力士としての理想の姿を名前に折り込んだものに違いないが、昔の双葉山から少し前に人気を集めた兄弟力士の貴乃花、若乃花兄弟まで、植物的なものが目立つのである。日本人にとって強い相撲とは、力士が自然の勢いを帯びた時である。だから、そこにあって不動の自然物(山・嶺・島・富士)であるか、人間のコントロールの効かないもの(海・川・波)であるか、そして自然に大きく育つ植物(花・杉・藤)などが四股名となるのだ。このことの傍証に動詞「する」の可能形が「出来る」であることも挙げられるだろう。これも語源は「いでくる(=出て来る)」であることは使われている漢字を見れば明らかだ。芽や花の様に出て来る、その自然の勢いこそが強さなのだ。
さて、こうした伝統と対立するように見える四股名がある。今何かと話題の東西横綱、白鵬と朝青龍などはその典型で、言うまでもなく「鵬」も「龍」も(架空の)動物だ。しかし、少なくとも日本の伝統的な美意識、世界観においては、強さの象徴が動物や人間や神話の英雄などであることはごく稀なことである。そのことと、これら二人の横綱が揃って外国出身であることが果して偶然であろうとは私には思えない。外来語をカタカナで書くように、無意識のうちに、日本人は外来のものを何らかの手段で区別しようとするのだろうか。白鵬の前には大鵬という優勝32回の大横綱がいたが、彼もまた父親は白系ロシア人であったと聞く。
相撲に対して、外来のスポーツであるプロ野球のチーム名を見ると、巨人だの虎だの鷹だの鯨だのが目白押しで実にくっきりと対照をなしていて面白い。もちろん、野球と相撲で違うのはチーム名と四股名においてだけではない。プロ野球ではアンパイヤ(審判)に食ってかかる選手を見るが、行司の軍配に「物言い」を付けるのは、土俵下の親方達ではあっても力士達ではない。ライバルの相撲部屋の力士たちが土俵上で乱闘するということはまず考えられないが、野球ではよく見られる。これは端的に言って、アメリカのスポーツである野球と、日本の国技である相撲のあり方が基本的に違うからなのだ。野球よりも相撲に近い「あちらのスポーツ」にプロレスがあるけれど、これは野球にさらに輪をかけて動物的である。勝ったレスラーの雄叫びやガッツポーズほど「品格」からほど遠いものもない。野球やプロレスは動物的、相撲は植物的なのである。相撲の起源が農耕民族の神事であったことと決して無関係ではない筈だ。
「やはらかに人分け行くや勝ち相撲」は江戸時代に高井几董(1741-1789)が詠んだ句だが、その進み具合には草を左右に吹き分ける野分の勢いが感じられる。そもそも相撲用語の「花道」は相撲節(すまいのせち)で、力士が土俵に入る際に左方は葵、右方は夕顔の花を髪にかざしたことから来ている。四股名に続いてここにも植物性が明らかだろう。
さて、横綱朝青龍の「品格」が様々な出来事を通じて疑問視されているのはご周知の通りだ。朝青龍に横綱の品格が疑われる最大の理由は、こうした「伝統的相撲精神」からの逸脱である。相手を睨みつけて威嚇したり、ガッツポーズと思える仕草をしたり、自分の親方との上下関係を混同して無視したり、懸賞金を左手で受け取るなどのルール違反を平気でするからである。そこに感じられるのは「強ければいいんだろう」という驕りでしかない。
何度も指摘されるように、横綱には強いだけではなく「心・技・体」が求められる。「けたぐり・張り手」など「小細工」を使わず、「自然物を彷彿とさせる」風格と勢いで相手を圧倒するしてこそ「横綱相撲」と日本人は賞賛してきたのだ。2006年11月場所8日目に朝青龍がけたぐりで勝った点について、女性初めての横綱審議委員である内館牧子氏が「けたぐりという言葉からして下品。あの品格のなさは何なんだと思う」と言い、朝青龍が仕切りのさいに廻しを叩いて気合を入れる仕草についても「みっともない」と喝破したが、私も全く同感だ。芭蕉の有名な俳句で言うなら、力士の理想は「古池」であって、「蛙」ではいけないのだ。蛙ですらいけないのに、四股名通りに「龍」になられてはさらに困る。
2場所出場禁止という前代未聞の懲罰の真の意味を理解の上、猛省することなく「勝てばいいのだろう」とひたすら優勝することで挽回しようと考えているのなら、この困った横綱は相撲協会の威信にかけても遅かれ早かれ引退を勧告せざるをえないのではないか。引退後は「元」横綱朝青龍としてプロレスで活躍すればいい。そちらはルールもへったくれもない動物的なショーなのだし、品格など始めから持ち合わせない方が喜ばれるのだから。 (2008年3月)
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ぐっと渋くていい感じ。
次の話題がまつ遠しいです^^;
ととワールドこそ豪華絢爛じゃありませんか。
「こだわり酒屋のひとり言」
http://mixi.jp/view_community.pl?id=1812194
第一、エッセーの数がこっちの3倍近いもんね。
時津風部屋の殺人事件を思い出してしまうと、
旧態依然な相撲界に対する挑発行為は寧ろ正義ではと感じてしまいます。
外国人力士にとって協会が鑑となり得てないのに、薄らいでる伝統(品格)の空気だけ読めと迫っても、失笑をかうだけかと。
コメント、有難うございます。
相撲協会批判はいくらでも出来ますが、それと横綱の品格の問題は別個に扱うことが出来ると思います。このエッセーを書いたことが相撲協会を支持することにはなりません。
時津風部屋の事件は、「酒を呑むと別人になる」親方が最大の原因ではなかったか、と思います。明らかに殺人事件ですから逮捕されて当然です。
実は、外国人の友人が(東京で在職)日本語表現の勉強に苦しんでいるため、サイトを探しておりましたら先生のサイトに出逢う事となりました。もう既に紹介しておりますが、大変おもしろい切り口ですので、私も勉強させて戴いております。
今後も楽しみにしています。よろしくお願いします。
三上文法の普及振興のために、微力ながら細々と書き続けていこうと思っています。
間違いを指摘して下さってありがとうございます。
今、4刷まで来ていますが、次回増刷の機会があったときに
訂正致します。
どうぞお元気で。