正林寺法華講員手引書

『折伏・家庭訪問・教化育成・法統相続・教学研鑚・邪義破折・支部組織の充実強化に活用』 法華講正林寺支部 正林編集部

自受用身とは日蓮大聖人

2005-11-20 | 手引書⑫

 「自受用身」とは、仏様のことです。「自受用身」にも、応仏昇進の自受用身と久遠元初の自受用身があります。前者が釈尊であり、後者が日蓮大聖人です。「自受用身」は、「ほしいままにうけもちいるみ」とも読み、仏様の自由自在の境界を意味しています。一念に具わる三千の生命を、自由自在に操ることが出来るのです。
 私達も御本尊様を受持し、御題目を疑うことなく唱えるところに、有り難い仏様の生命を頂くことが出来るのであります。そこに「真の幸福」があります。
 日蓮大聖人は『御義口伝』に、
 「自とは始めなり、速成就仏身の身とは終はりなり、始終自身なり。中の文字は受用なり。仍(よ)って自我偈は自受用身なり。法界を自身と開き、法界自受用身なれば自我偈に非ずと云ふ事無し。自受用身(ほしいままにうけもちいるみ)とは一念三千なり。伝教の云はく、一念三千即自受用身、自受用身とは尊形を出でたる仏と。出尊形仏(しゅっそんぎょうぶつ)とは無作の三身と云ふ事なり云云。今日蓮等の類南無妙法蓮華経と唱へ奉る者是なり云云」(御書1772)
と御指南であります。勤行唱題において、自我偈を唱えることにより、仏様の境界である自受用身に近付くことが出来、更に御題目を唱えることで境智冥合し成仏に向かうのです。
 日蓮大聖人は、真言宗で説くところの弘法大師の邪義、「大日法身」を『真言天台勝劣事』で破折されています。故に、
 「弘法大師の二教論には楞伽(りょうが)経に依って法身の説法を立て給へり。其の楞伽経と云ふは釈迦の説にして、未顕真実(みけんしんじつ)の権教(ごんきょう)なり。法華経の自受用身に及ばざれば、法身の説法とはいへども、いみじくもなし。此の上に法は定(さだ)んで説かず、報は二義に通ずるの二身の有るをば一向知らざるなり。故に大日法身の説法と云ふは定んで法華の他受用身に当たるなり」(御書448)
と自受用身が勝れており、真言宗で崇める大日法身が劣ることを御指南です。当然、釈尊である応仏昇進の自受用身より劣り、久遠元初の自受用身より劣ることはいうまでもありません。真言宗を信仰する方の破折の要点になります。
 「久遠元初の自受用身」の別名を「本地無作の三身」といいます。内証の寿量品に秘められており、相伝に非ざれば知ることの出来ない甚深の御法門です。日蓮正宗の根幹となります。つまり第二十六世日寛上人は『法華取要抄文段』に、
 「所詮、内証の寿量品の意は、一品の始終、皆これ本門三箇の秘法を説き顕すなり。且く題号の『如来』の二字の如きは、若し文上の意は天台の釈の如し。如来というは十方三世の二仏、三仏、本仏、迹仏の通号なり。今正しく本地三仏の功徳を栓量するなりと云云。本地三仏とは即ちこれ釈尊久遠本果の三身なり。その相は常の如し云云。若し内証の寿量品の意は、正に御義口伝の如し。如来とは釈尊、総じては十方三世の諸仏なり。別しては本地無作の三身なり云云。本地無作の三身とは、即ちこれ釈尊久遠名字の三身なり。また久遠元初の自受用身と名づくるなり。自受用身とは境智冥合の真仏なり。(中 略)故に文上の寿量の意は、釈尊久遠本果の三身を如来というなり。若し内証の寿量品の意は、釈尊久遠名字の三身を如来と説くなり。(中 略)故に知んぬ、久遠名字の釈尊は即ちこれ今日の蓮祖聖人なることを。今日の蓮祖聖人は即ちこれ久遠名字の釈尊なり。故に末法今時、内証の寿量品の如来とは、全くこれ蓮祖聖人の御事なり。故に口伝に云く云云。これを秘すべし、これを秘すべし」(御書文段513)
と仰せです。自受用身とは仏様である日蓮大聖人のことであります。