私達の「祈り」は、善悪の基準を明確にしなければ、御本尊様から有り難い、御利益を頂くことが出来ません。
心の迷いである貪瞋癡の三毒や三惑が中心になっている「祈り」は、絶対に叶うことがないのです。この点を信心をする私達は心得て「祈り」を御本尊様に捧げることが大切で、そこに祈りが必ず叶う筋道があります。
日蓮大聖人は『経王殿御返事』に、
「あひかまへて御信心を出だし此の御本尊に祈念せしめ給へ。何事か成就せざるべき。『充満其願、如清涼池』『現世安穏、後生善処』疑ひなからん。」(御書685)
と仰せであります。日蓮大聖人が御図顕された三大秘法の御本尊様に祈念すれば、何事も成就し、願うことが心を満たし、清涼池という、清々しく涼しい池のように、落ち着いた気持ちになれるということです。また、現在は安穏で、未来は善いところに生まれることが出来ます。
法門的に「戒定慧の三学」が厳然と存在します。正しい「祈り」は、三大秘法の御本尊様の意に通じる「戒定慧の三学」を、私達は信心をもって祈らなければいけません。このところに意識を持ち、勤行唱題に邁進すれば、叶わない祈りはありません。
時に、祈りが叶わないと言う人は、「戒定慧の三学」を信じず、邪智が拠り所になっている場合があります。「戒定慧の三学」とは、三大秘法の御本尊様のことです。御本尊様に御題目を唱えていても、邪な考えで祈っては、道理から外れ、当然祈りは叶いません。邪な考えは、気持ちから完全に払拭させなければいけません。邪智には、我慢偏執が根底にあり、貪瞋癡の三毒からの願望であります。この汚れた気持ちからの「祈り」は絶対に叶うことがないのです。
以上のことを理解して、御本尊様に御題目を唱えて「祈り」を捧げれば、日蓮大聖人が仰せになるようになります。つまり『聖愚問答抄』に、
「只南無妙法蓮華経とだにも唱へ奉らば滅せぬ罪や有るべき、来たらぬ福(さいわい)や有るべき。真実なり甚深なり、是を信受すべし」(御書406)
と仰せのように、御本尊様に御題目を唱えれば、滅しない罪はなく、祈念しても来ない幸いはなく、真実であるから御本尊様を信受すれば、必ず祈りは叶うと重ねて御指南であります。
更に、第二十六世日寛上人は『観心本尊抄文段』に、
「故にこの本尊の功徳、無量無辺にして広大深遠の妙用あり。故に暫くもこの本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱うれば、則ち祈りとして叶わざるなく、罪として滅せざるなく、福として来らざるなく、理として顕れざるなきなり。妙楽の所謂『正境に縁すれば功徳猶多し』とはこれなり」(御書文段189)
と御指南であります。
「祈り」は、祈る内容が大事です。「戒」という「防非止悪」のもと、善と悪を判別し、悪を止めて善を生じる「祈り」が大切です。悪に通じる「祈り」は叶わず、善に通じる「祈り」は、信心根本に祈れば叶えられるのであります。御本尊様に向かう姿勢、勤行唱題が「祈り」を叶える私達の心構えです。私達の身口意の三業にわたる、信心の姿を御本尊様が御覧になられ、正しい「祈り」であれば、「祈り」が叶えられ、有り難い功徳を頂くことが出来るのであります。