正林寺法華講員手引書

『折伏・家庭訪問・教化育成・法統相続・教学研鑚・邪義破折・支部組織の充実強化に活用』 法華講正林寺支部 正林編集部

末法の正しい仏像とは日蓮大聖人

2005-11-21 | 手引書⑥

 今現在、末法時代に一番相応しい本尊として崇める「仏像」は、日蓮大聖人であります。日蓮大聖人以外は、正法時代と像法時代に利益があった仏像です。
 「仏像」といいますと観念的に謗法の考えが頭に過ぎる方が多いでしょうが、日蓮正宗における「仏像」の考えは、生き仏の日蓮大聖人であり、大聖人御入滅後は、日蓮大聖人の御魂が染め流された、三大秘法の大曼陀羅本尊を生きておられる大聖人と拝するのです。
 『観心本尊抄』に、
 「此の本門の肝心、南無妙法蓮華経の五字に於ては仏猶(なお)文殊薬王等にも之を付属したまはず、何(いか)に況(いわ)んや其の已外(いげ)をや。但(ただ)地涌千界を召して八品を説いて之を付属したまふ。其の本尊の為体(ていたらく)、本師の娑婆の上に宝塔空(くう)に居(こ)し、塔中(たっちゅう)の妙法蓮華経の左右に釈迦牟尼仏・多宝仏、釈尊の脇士(きょうじ)上行等の四菩薩、文殊・弥勒等は四菩薩の眷属(けんぞく)として末座に居し、迹化(しゃっけ)・他方の大小の諸菩薩は万民の大地に処(しょ)して雲閣月卿(うんかくげっけい)を見るが如く、十方の諸仏は大地の上に処したまふ。迹仏迹土を表する故なり。是くの如き本尊は在世五十余年に之(これ)無し、八年の間但八品に限る。正像二千年の間は小乗の釈尊は迦葉・阿難を脇士と為(な)し、権大乗並びに涅槃・法華経の迹門等の釈尊は文殊・普賢等を以て脇士と為す。此等の仏をば正像に造り画(えが)けども未(いま)だ寿量の仏有(ましま)さず。末法に来入して始めて此の仏像出現せしむべきか。」(御書654)
と仰せのように、末法の正しい「仏像」は釈尊でもなく、釈尊を本師とする垂迹仏や菩薩・御地蔵さんでもない、日蓮大聖人であることを御教示された御書です。
 末法の正しい「仏像」は、墨に大聖人の魂が込められた御題目の南無妙法蓮華経が「仏像」になります。「仏像」ということで邪宗邪師が主張する、固定観念的な「仏像」を想像することなく、末法における正法正師の御教示を素直に信じることであります。
 梵漢文字の曼陀羅本尊ではない、外見・形だけの「仏像」は、正法像法時代においての本尊であり、末法時代では全く御利益がありません。末法時代は、釈尊から多宝塔中相承を受けられた、日蓮大聖人の仰せになる「仏像」を尊崇する事で御利益があります。この「仏像」が本門戒壇の大御本尊様となり、寺院に御安置される御本尊様や、各家庭にお迎えされた御形木の御本尊様が正しい「仏像」です。
 末法は形だけの「仏像」でなく、文字の曼陀羅を御本尊とし「仏像」とするのには深い意味があります。深い意味は日蓮大聖人からの唯授一人血脈相承において、時の御法主上人猊下から御指南を賜り「信」をもって拝受することです。
 その意味を上げるとすれば、末法は五濁爛漫といわれる人々の生命が濁る世の中であります。外見を取り繕い、世間を上手く生きていこうと考え、悪事を志す人が充満する時代です。その外見に惑わされることなく、心の中身を悟るようにということで、外見や形だけの「仏像」ではなく、文字の曼陀羅御本尊をもって、心の中の気持ちを察し生きましょうということで、末法の御本尊があるのであります。その末法濁悪の衆生の気持ちを察していけることで「我此土安穏」な境界が築き上げられます。文字は心の中を現し伝えるものです。相手の心を明らかに見ることが大事です。
 以上、末法時代である現在は、日蓮大聖人を「仏像」である仏様と崇め奉り、大聖人が御図顕あそばされた三大秘法の曼陀羅御本尊に、御題目を唱えることが大事であります。