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"bokuttenani - ぼくってなに" هيا بنا إلى الاحلامات

"判断留保"
“僕らしくなくても僕は僕なんだ 君らしくなくても君は君なんだ” 【ハイロウズのNo.1】

思考のカタログ

2020-05-27 09:22:45 | homo - 人間
思考・感情(欲求とか悲しみとか)・生活・社会などについて批判したり吟味したりしている、と思っていたら、いつの間にか、その批判そのものが型にはまってたりする。
(例えば「二元論」という型を批判しているつもりが「あの人がまた二元論的にモノゴトを解釈している」という、型にはまった批判を自分がしていたりする。そして、この入子構造は無限に続き得ます、論理的には。でも、人間の思考能力やイメージ力はその無限の入子構造は把握できないとは思う。「速度」「加速度(単位時間あたりの速度の増加)」あるいは「加速度の増加度」ぐらいはイメージできても「加速度の増加度の増加度」とかいうと、もうなに言ってるかわかんないよね)

面白いし、考え方の引き出しは増える、と思う。でも気をつけないけど、型にはまる。

思考のカタログ
感性のカタログ
生活様式のカタログ
欲求のカタログ
(「世界は欲しいモノにあふれている」という番組があった。NHKだった。タイトルしか見てないけど、私は「けしからん!」と思ってしまう。私の妄想はこの番組を「経済発展」を促す政府の戦略だとか、番組制作者と癒着している産業界の広告塔だとか思い込んでいる。内容はともかくこのタイトルだけは好かん 笑。好き嫌いの話になった 汗。なんだろう、こんなふうに名前だけ見て表面だけ見て、妄想で物事を判断している私の悪いくせだ。コンビニに溢れている雑誌類はまさに、欲求のカタログだよね。旅・音楽・映画・お菓子・おしゃれなお店・・・・・・)

「有意義」とは
「素敵」とは

なんだろう。
衣食住が足りすぎて、生存の先にある欲求を創出して、無理やりにでも生み出して、欲求することを欲求して。。。そうでもしないと、「幸せ」を感じられなくなった?

「幸せ」とは

・・・・
・・・・

という、ありがちな(?)批判の型にはまったりする。「大量生産・大量消費・大量は生き」を批判する、みたいな。これは真っ当だと思ってるけど。

メタ・フィジックス
メタ「メタ・フィジックス」

批判
批判の批判

「意味の世界を生きている」とは

2020-05-27 07:23:28 | homo - 人間
コップ
グラス
湯呑み
おちょこ
さかずき
・・・

これらは全部、何かを飲むときに使う容器を指す日本語です。
たくさんの種類があります。
でも、世界の言語の中には、飲み物の容器を示す言葉の種類がもっとたくさん10や100もある言語もあるかもしれないし、
たった一つの言葉、例えば「飲み飲み」とかで、済ませてしまう言語もあるかもしれない、
あるいは、「飲み物の容器」という特定の容器を示す言葉はなくて、液体を入れようが、個体を入れようが、気体を入れようが、容器は全部「容器」という一つの言葉で済ませてしまう言語もあれば
「空洞」で済ませたり、あるいは、そんな何かを入れるための道具に対応する言葉がない言語もあるかもしれない。
もしかしたら、「空洞のようなものに何かを入れる」、という行為・概念が存在しない言語・文化もあるかもしれない。


これらの言語の違いは思考の様式の違いに対応するだろうから
世界を見渡した時の複雑さや意味合いが違ってくるだろう。

何か「入れ物」のようなものを例えば、我々が「ワイングラス」と呼ぶものを見かけた時に
「あそこにワイングラスがある、ワインを飲みたいなー」と思う人もいれば
「あれはいいお皿だ、去年の春にあれにさくらんぼをたくさん盛ったものだなー」なんて思い出す人もいれば、
その「ワイングラス」を見かけても、世界に散らばる無数の事物の一つとして、目の前を素通りする人もいるだろう。

僕たちは、意味に縛られすぎていないだろうか。
新しい言葉を知った時に、新しい概念・考え方・世界の見方を知る、世界の見方が広がることもあるけれど、
世界の見方を限定的にしてしまうこともある。


目に映るもの全てを「人間の文脈」「社会の中における役割」「人間の生活における意味合い」つまり、人間の物語の中の一つの駒・歯車のようなものとして
いつも捉えてしまう、と、それはそれで疲れることもあるし、なんか
つまらない
自由がない。

感じるものを感じるままに。
「感じる」
それもまた、言葉なのだが。

シンボル

シンボルやラベルを欲求・消費する私たち

体験の本質はどうした!?

存在の本質はどうした!?

生の本質のことだ!

今生きているこの一周

今ここで起こっている現象のことだよ
体験のことだよ!

コロナの騒ぎ

2020-04-16 21:54:20 | homo - 人間
自分に直接関わるからなのか、自分の身内に関わるかもしれないからなのか、ニュースが「大変だ!」と言ってるからなのか、なんとなく周りがそういう雰囲気だからなのか、わからないけど、こんなにも人の言葉や振る舞いは変わるものなんだな。変わることはできるんだなー、と、初めて知った。良い変化なのかどうかは、まだ、わからないけど。

いわゆる「コロナ」が収束した後に、というか今すぐにでもだけど、自分や目の前の我が子にだけでなく「目に見えるほど自分に関わる」こと以外の問題にも人が時間やエネルギーを注ぐように人が変わらないのなら、人類はもう絶滅する、という、ルールになっているらしい。神様の間では。巨大化しすぎた恐竜が絶滅したように、牙が伸びすぎたサーベルタイガーが絶滅したように、頭がでっかくなりすぎた人類もきっと絶滅するんだ。

という未来じゃなくて、人も動物もお互いに支配も侵略もせず、仲良くはなくとも、搾取しない世界、だと、良いなあ!

何を食べるのか、着るのか、使うのか、どこに住むのか、何を買うのか、は搾取するかしないかの、分岐点かも知れない。

耕す私と耕される彼ら

2020-04-06 20:03:45 | homo - 人間
想像してみてください。

あなたは平和で暖かい暮らしをしている。ある日 突然、空から、あなたの体の何百倍も何万倍もの大きさの固い大きなスコップが降ってくる。ザックザックと大地を切り裂きひっくり返しあなたの暮らしをめちゃくちゃにする。家も身体もバラバラに引きちぎられる。家族と引き離され、熱い熱い灼熱の太陽に晒されて、住処も身体も焼き尽くされて干からびてしまう。。。。


庭を開墾した。元はフキや野ユリが生い茂っていたけど、ジャガイモを育てたいと思い、耕した。そのフキやら野ユリやらの球根や茎を取り払いながら。その罪悪感。見れば、何十、何百の虫たちが土のなかで慌て逃げ惑っている。その罪悪感。

すごく後味の悪い、開墾。
開墾とは、侵略だ。

耕すとはこういうことか。
俺の耕しかたが、悪いのか、優しくなかったのか。

「自然農法」とか「不耕起」とか最近はやってるのかな。

草木も虫も、元々、暮らしていた生き物たちをほぼ根こそぎ
文字通り根こそぎ、蹴散らしてしまった。
のたうちまわるミミズ。

元々、暮らしていた生き物たち

ベジタリアンでもビーガンでも。

殺生は避けられないのか。

だから、忘れないように、
自分の手で、育てて食べたい。

それとも育てて取るじゃない、何かがあるかな。
恵を、慎ましくいただくような形が。

「自分」と「世界」 : 「自分」てそんなに大事?

2020-04-01 07:19:27 | homo - 人間
自分のことを大事にしすぎると窮屈になるかも「幸せにならなきゃ」「有用にならなきゃ」「安全でいなきゃ」・・・などなど。人類のことを大事にしすぎても同じように窮屈になるかも。「大事にする」ということは、逆に他者も含めて、すべての生き物や地球・宇宙も含めて、全体的に幸せ、みんなが幸せならいいや、って思えたほうが楽かもしれない。無理してるんじゃない、その方が本当に簡単で開放的。自由。「自分が死なないこと」にこだわるよりも、地球の命が豊かに循環して巡り行く姿の壮大さや美しさ奔放さを感じている方が楽しい。その方が「大事にする」をしてるかも。

殺虫剤・農薬・ホウ酸団子・・・・・地球は繋がってる一つだと思うけど、土・空気・水・・・・自分が体に入れる水・食べ物・空気はこの地球の生態系からやってくる。そのひと繋がりの一つを自分で汚染しまくっている。俺は時々怖いけど。その辺に生えている野草をなんの憂いもなくたべたいじゃん。誰かが殺虫剤をまいたかも、なんて心配せずに。誰かが何処かで道端に捨てた乾電池とか変な液体とかガスとか、そういうものが土を巡って空気を巡って自分のところに戻ってくると思ったら、怖いじゃん。

すべてのものは ひとつのエネルギー、つまり同じものから出来ている、とは思いつつも。だから心をいつも元気に健康にしていたいけど。

目の前に現れた敵を、即効性のある「除菌スプレー」「洗剤」とかで消滅(?)させるよりも、受け入れて混じり合って変化していった方が楽しかったりして。

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人間は便利さ快適さを求めて自然をコントロール、いやコントロールなんて出来ていない、ただ形を歪めまくって、無理やりに快適な生活空間・都市空間を作りまくっている。そんな人間は衰退するなり絶滅するなりしたほうが地球全体にとっては幸せだとしたら悲しい?正直あまり悲しくもない。どの生命も各々それ自体が「自分自身」「我」であるし、今を生きる主体・意識・感覚・・・・だと思う。

等価!!

だと思うのです。

時間軸をみても同じこと。
十年前の自分・今日の自分・十年後の自分、それぞれに「今を生きる我」である。その瞬間に完結する生命の燃焼・現象かな。体験は完結しつつも、この社会においては「濱口悠介」で識別される生物個体をとおしてつながってる、他の生き物ともつながってる。

と言いつつ、各々の生物種が個体が「己の利益!」だけを純粋に追い求めてみても、それで「自然と!」ばらんす・循環が保たれてきたのがこの生態系かもしれない、と、思ったりもする。