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中国史・現代中国関係のブログ

小野寺史郎『国旗・国歌・国慶――ナショナリズムとシンボルの中国近代史』

2011-11-27 05:28:27 | Weblog

書評「小野寺史郎『国旗・国歌・国慶――ナショナリズムとシンボルの中国近代史』(東京大学出版会、2011年)」

 1990年代から2000年代初めにかけて流行したナショナリズム研究は、近年はかなり停滞している。その理由は様々なだが、学問内在的な理由について言えば、それが歴史や社会の中に隠されていたナショナリズムを「発見」し、その自明性を問い直すという問題関心のなかで研究が行われてきたことがある。福沢諭吉や孫文が啓蒙家や革命家であるという以前に「ナショナリスト」であったというのは、最初は新鮮な驚きを獲得したとしても、そうした暴露の作業がひと通り済んでしまえば急速に陳腐化せざるを得ない。中国史研究の分野においても、吉澤誠一郎『愛国主義の創成』(岩波書店、2003年)、坂元ひろ子『中国民族主義の神話』(岩波書店、2004年)などを区切りとして、ナショナリズムをテーマとした研究が激減している(少なくとも狭い「民族問題」に限定されるようになっている)印象があり、私自身もほとんど興味関心を失いかけていた。

 本書は中国のナショナリズム研究に属するものであるが、それ以前のものと全く異なるのは、ナショナリズムを通じて中国近代史の枠組みを脱構築するというテーマが完全に後景に引き、徹底して国旗・国歌・暦法という具体的な事物に即して記述・分析が行われている点にある。国旗や国歌の研究というと、G・モッセに代表されるように、これまではそうしたナショナルなシンボルがいかに「国民」意識を形成する装置となったのかという点に関心が集中してきたが、本書では、国旗や国歌という具体的なモノそれ自体に焦点を絞り、それらが様々な政治的意図や対抗勢力とのせめぎあいの中でいかに構想され、変化していったのかの紆余曲折と数奇な運命の面白さが素直に描き出されている。堅い文体で書かれた学術書ではあるが、高校世界史程度の知識でも十分に理解可能な内容であり、読み始めると止まらない本である。

 本書の内容を簡単に紹介しておくと、以下のようになる。国旗について言うと、最初清朝は皇帝のシンボルとしての黄龍の意匠を採用したが、「中国」を表象するものとしては広く定着しなかった。孫文は革命派のシンボルとして青天白日満地紅旗を用いたが、実際の辛亥革命の過程では様々な意匠の旗が用いられ、中華民国が成立すると「五族共和」を表象するものとして五色旗が採用されてしまい、1920年代の国民革命と「北伐」の時期には、五色旗と青天白日満地紅旗の二つの国旗が中国国内で併存している状態になった。国歌の運命は国旗以上に複雑怪奇で、政局の混乱などで辛亥革命の9年後である1920年まで定まった国歌が存在せず、ようやく制定された「卿雲歌」も活発さに欠けるとして批判されて定着することなかった。1937年にようやく国民党の党歌を国歌として正式に定めたが、直後に起こった日本との戦争のなかでは映画のテーマ曲だった「義勇軍行進曲」が広く歌われ、歴史のなかに埋没してしまった。さらに暦法の転換も困難を極めた。1911年の辛亥革命は、暦法における陰暦から陽暦への「革命」「文明化」でもあり、それに基づいて武昌蜂起の10月10日をはじめとして様々な国慶日が設けられたが、再三再四の政府の指導にも関わらず、中国の民俗・慣習と深く結びついた陰暦が廃れることはなく、最終的に共産党は農村を動員する過程で陰暦の慣習を容認する戦略をとることになった。以上のように、民国期以前の中国では複数の国旗や国歌そして暦法がせめぎ合う状態が長い間続いていたのであり、これは国旗は「日の丸」で国歌は「君が代」以外に想像のしようがなく、陰暦の慣習もほとんど廃れてしまった、われわれ日本人の経験とはまさに対極的なものと言えるだろう。

 著者は1977年生まれということで、おそらく本書の研究テーマも、歴史学で「ナショナリズム」「国民国家」が流行した時代の空気の中で選択されたものに違いない。この流行を牽引した上の世代の研究者たちが、思想家の言説を中心とした知的相対化の作業で満足していたのに対して、本書の著者は彼らが着手しないまま残していた、国旗・国歌・暦法といったナショナルな価値観を体現する具体的な事物への探求への地道な作業を行っている。ナショナリズムの脱構築や相対化といったメッセージは一切ないものの、ナショナルなシンボルの形成とせめぎ合いのプロセスを丹念に追いかけることで、結果的にそうした視点が得られるものとなっている点も重要である。

 不満な点を一つ挙げるとすれば、あるナショナルなシンボルが正統性をもつにいたる要因の分析が弱いことである。日本の「君が代」の歌詞が日本国民に十分理解されているとは言い難いように、国旗や国歌がナショナルなシンボルとして定着するためには、意匠や曲それ自体の魅力よりも、政治体制の強さや安定性、そうしたシンボルが背負っている国民的な経験や記憶の共有といった要素が重要になる。大衆映画のテーマ曲に過ぎなかった「義勇軍行進曲」が国歌として採用され定着していったのは、まさに抗日戦という国民的な経験が決定的であった。あるいは歴史学者として、こうした言わば社会学的な問題については敢えて深入りしなかったのかもしれないが、国旗や国歌を研究する場合には避けて通れない問題であると考える。 

 ちなみに、この書評はBK1にも投稿されている。1年に1回くらいのペースでしか投稿していない。

(参考)

中国語版Wikipediaの「中国国旗」の項目
http://zh.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E5%9B%BD%E6%97%97


大清帝国国歌「鞏金甌」
http://www.youtube.com/watch?v=Wc9PEJMFeR4&feature=related

中華民国(北京政府)国歌「卿雲歌」
http://www.youtube.com/watch?v=CkR3lg_-FhM

北伐期国民党の暫定国歌「国民革命歌」
http://www.youtube.com/watch?v=rH3mJs8BpTM

中華民国(国民政府)国歌「中国国民党党歌」
http://www.youtube.com/watch?v=ef3SghEsDZI&feature=related

『風雲児女』(1935年)の「義勇軍行進曲」
http://v.youku.com/v_show/id_XMjkzNDMwMTY0.html


西洋社会学の知識の普及と中国近代における慈善事業の発展

2011-11-26 06:27:14 | Weblog
王娟・李曼琳「西洋社会学の知識の普及と中国近代における慈善事業の発展」『河南師範大学学報(哲学社会科学版)』第38卷第1 期(2011 年1 月)http://220.178.21.125/xkjyck/uploads/pdfdata/2011/20110712083617796.pdf


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 現代の社会学理論は、社会学は社会の健全な運営と、協調的な発展の条件やメカニズムに関する、総合的で具体性をもった社会科学である(姚純安『社会学在近代中的進程: 1895- 1919 年』三聯書店、2006年、4頁)。西洋的な学問の重要な学科として、社会学は19世紀末に中国に伝わりはじめた。当時、近代中国の社会の運営状況は日に日に悪化し、数多くの志士仁人が救亡図存、社会問題の解決のために西洋を学ぶブームが盛り上がったが、これが社会学が中国に伝わる大きな歴史的な背景である。19世紀の20世紀の境目には、中国は簡単な紹介からより集中的に西洋の社会学の著作を翻訳し、最初の普及のブームを形成した。20世紀初頭は、社会学と様々な社会思想の潮流が錯綜して入り混じり、国民は次第に社会学の知識で政治理論の根拠や概念の道具にしていた。1920、30年年代以降は、社会学は制度的な建設の時期に突入し、社会学の運用を重視して中国問題を分析、研究しはじめたが、これは移植と普及の段階から成長と力強い発展の時期への突入である。
 西洋の社会学の知識の近代中国における普及と社会学という学問の発展は、学術的な方面から近代の社会学の知識を把握する新しいタイプの知識人を生み出し、ひとつの全く新しい社会科学の学問体系を初歩的に創設した。慈善救済事業の角度から言えば、民国時期の社会学の設立と発展は、中国における早期の近代社会福祉事業と社会保障事業の進展を導き、近代中国慈善事業の全方位的な転換と自主的な発展を推進している。社会学が発揮しているこの種の積極的な役割と歴史的な影響は、主にいかの三つの点に表れている。

(1)教会の学校を主要な活動の場とする一群の外国の近代的知識人は、積極的に西洋の社会学の知識を移植すると同時に、キリスト教の宣教師と密接に協力して、広範に慈善的な性格をもった文化教育、医療・衛生および近代的な社会奉仕事業などの活動を展開している。西洋社会学の知識は主に、清末民国初期の西洋の宗教勢力が中国に陸続と教会学校を設立して伝授と普及を行う拠点となったが、これらの教会学校が早期に社会学を中国に移植する重要な場所であった。民国の時期には、北京と上海が西洋の社会学の知識を重要かつ推進する二つの重要な都市であった。最も早く社会学の課程を開設し、社会学の知識を伝授した教会学校は上海の聖ヨハン大学であり(1908年)、国立大学が社会学の課程および社会学系を開設してしたのは、清華学校が1917年に社会学課程を開設したように、教会学校に比べて遅い(閻明『一門学科与一个時代――社会学在中国』清華大学出版社、 2004年)。
 アメリカ宣教師のバージェス(歩済時)は北京で社会学の知識を普及し、社会奉仕事業を推進する重要な人物の一人である。1909年に彼が中国に来た後に、北京のキリスト教青年会(YMCA)で働き、この会は後に北京地域で事前公益事業を展開する最も重要な社会組織の一つとなった。バージェス本人は京師公益連合会や北京地方奉仕団など、発起・設立された慈善団体に参加している(劉錫廉価『北京慈善彙編』京師第一監獄、1923年、69- 72頁)。ほかに、同様に高く評価されるべきアメリカ人がギャンブル(甘博)である。著名な社会学者として、ギャンブルは生涯中国の城鎮と郷村社会の経済問題の調査と研究に力尽くした。かれは四度の中国旅行を経て、北京地域で西洋の社会学教育を導入し、燕京大学に社会学系を創設した。ギャンブルはこれと前後して北京YMCAと華北平民教育運動で研究の統率を担任し、北京と北方の郷村の社会経済の調査を主導し、さらに北京地域の社会奉仕活動を支援・展開した。

(2)社会学の導入と発展のプロセスで、社会活動の展開を重視し、社会福祉事業の発展を主要な目標の一つする西洋の社会学が極めて重視する社会調査に力を尽し、中国の社会現象の研究に広範に応用しはじめるようにもなったが、その中には中国慈善事業の発展状況およびそれと密接にかかわる多くの社会問題が含まれていた。
 調査方法は西洋社会学の基本的な研究手段であり、民国の初期は国内外の一群の社会学の知識人が、実際に調査に用いはじめて当時の中国の社会状況を認識・分析した。彼らの社会調査に対する手段を非常に重視かつ尊重し、調査の内容は比較的広範にわたり、初期の多くは例えば教会、学校、病院などの機構に対して調査を行うなど、キリスト教の普及と直接的な関係があった。後に、社会学者は貧困、犯罪、慈善救済などの社会現象と社会生活に対して、非常に大きな関心を示すようになった。
 例えば、1921年にギャンブルがニューヨークで出版した『北京の社会調査』は、民国初期の北京地区の人口、教育、貧困、慈善事業、社会病理、社会犯罪、地域奉仕団体(社区服務団)などの各社会の次元にわたっており、当時において最初の東洋の都市に対する社会調査として高い評価を得た。ギャンブルは慈善事業と貧困状況に対する調査を通じて、中国の貧困の原因とそのほかの国家を比べて、より社会性をもったものであることを指摘した。これによって、辛亥革命の後、慈善事業と救済活動の目的および機能とには急速な変化が発生し、政府も既に、それと市民(公民)とが新しいタイプの関係であることを意識しはじめ、民間の慈善事業も日ごとに、施すものと施される者とが一種の平等な、人を助けることを喜びとする(助人為楽)奉仕の関係にあることをはっきりさせるべきことを理解するようになった。似たような結論と観点は、疑いなく当時の慈善活動と慈善事業の発展趨勢に対して、重要な啓発の意義を有していた。
 1926年、社会学術研究機構北京社会調査書が成立し、陶孟和が所長を担任した。彼らは科学的な方法を用いて社会的な事実を調査し、特に貧困、犯罪、救済、人口、教育などの国民の経済と生活(国計民生)に関係する社会問題に関心を注ぎ、調査結果を政府に提供し、これは現実に参考されるべき価値もつ重要なものであった(前掲『一門学科与一个時代』)。
 社会学の調査委研究の手段を用いて得られた調査結果は、中国における社会学の知識人の研究の情熱を非常に大きく駆り立てただけではなく、世の人は国の状況の現実に対する関心を強く呼び覚され、国家の活路である民族自尊心を追求し、社会学はこれによって急速な発展の時期に突入することになった。・・・・・
 社会学の力強い発展という歴史的な時期において、それに相応して多くの社会学研究組織と調査組織が出現しただけではなく、北京、南京、上海、成都など大都市で社会学の俊樹を背景あるいは基礎として、慈善救済機関を考察の対象とする一群の調査報告が大量に出現し、さらに社会問題と慈善救済事業に深い関心をもって調査した学士卒業論文と学術文章が、中国慈善事業の研究にも、それに相当する一つの小さなブームを出現させることになり(王娟『近代北京慈善事業研究』人民出版社、2010年、11頁)、これは当時の学術界に慈善事業の発展趨勢を思考させ、政府部門の慈善事業にかかわる法令・法規の制定に欠かせない現実的な根拠を提供するものであった。

(3)社会学者を代表とする、中国本土の新しいタイプの知識人が、社会学の中国化を推進し、中国における社会学の専門学科化のプロセスで、積極的に慈善事業と社会奉仕活動にも身を投じたが、彼らは特に社会学にかかわる理論によって、中国社会の改良を唱導し、中国伝統の慈善救助活動の近代的な転換を推進した。
 中国の伝統的な慈善救助活動に対して社会学的な性格をもった思考と分析を行い、初歩的に学術的な意義をもった慈善事業研究を行ったのは、20世紀の初期にはじまるものである。清末民国初期の中国で最初にアメリカに留学して社会学の学位を取得した、朱友漁の卒業論文『中国の慈善事業』(あるいは『中国慈善事業の精神』と訳す)が、この分野を切り開いた(開山)作品と言うことができる。朱友漁は中国の留学生の中で最も早く社会学を修めた重要人物であり、彼は1911年にコロンビア大学で社会学の博士の学位を取得し、帰国後に上海の聖ヨハン大学で社会学系の教員に任ぜられ、生涯にわたって宗教的な慈善教育活動に従事した(楊雅彬『近代中国社会学』中国社会科学出版社、2001年、67頁)。この本は古代の先哲の「慈善」の思想、鰥寡孤独者に対する各種の救済方法に言及しているだけではなく、特に宗族、村落、行会、公衆などの慈善救済の方面において発揮した役割を分析したものである。この本は実証的な歴史記述の豊富さには欠けるものの、最初に「中国独自の慈善博愛精神が近代民主主義の基礎になることができ、中国の土着から成長した(土生土長)善会・善堂が近代都市行政と近代地方行政の基礎となることができる」ことを前提とした(前瞻性)観点を提示し、現在も中国慈善事業を研究する日本の著名な学者である夫馬進の高い評価を得ている(夫馬進『中国善会善堂史研究』伍躍,楊文信等訳、商務印書館、2005年)。
 民国以来、いくつかの大学あるいは研究機関で社会学の過程が講義され、社会学の知識の導入と普及に力を尽し、 西洋の社会学を本土化させようとする中国の知識人が、情熱をもった学生と一緒になって、「社会改良」のスローガンの下で、まさに社会学が実践を重視し、社会活動を重視するという伝統的にみられた実践を、積極的に多様な形式の社会奉仕活動に展開させようとしたが(前掲『一門学科与一个時代』267-278頁)、近代の事慈善救済事業の進化・変容のプロセスのなかで、その固有の立場を深い知識(濃墨?)で描き出していった。ここでは学会への言及は比較的少ないが、無視できない貢献を行った、北京の社会活動家である劉錫廉を例として簡単に説明してみたい(同前、276-277頁、吴廷燮等『北京市志稿』燕山出版社、1989年、173-175頁)。
 民国時期の北京のYMCAの幹事として、かつて劉錫廉は北京全市の慈善機関を4年にわたる調査を行ったが、その目的は「貧困の原因を研究し、既存の各慈善団体を連合させ、様々な慈善事業機関の創設を激励し、慈善事業のなかの一切の複合的な病弊を取り除き、慈善事業の方法の基準を定め、北京にさらに有効な救済ができるようにする」ことであった。彼はこれに前後して、北京老若臨時救済会、北京地方服務団体聯合会、および教養保護囚犯的団体など、比較的社会的な影響力をもった若干の慈善団体の発起・成立を主宰かつ参加した。
 そのなかで、北京地方服務団は1919年に成立し、事務所が灯市口に設けられ、「この地の人のための奉仕を宗旨とする」とされていた。中には貧民生計所、婦女習工厰、平民学校、自動遊戯場、貧民借本処、貧民委員などの機関があり、救済に大きな成果があったことで各地もこれに倣って設立し、後に北京地方服務団体聯合会が組織・成立し、全市の慈善事業が力を出して協力し、事業を全市に拡充させていくことが期待されていた。
1922年には、外交部街に京師公益連合会が設立されている。この会は由汪大燮、宝惠、劉錫廉、バージェスなどの人が中国赤十字総会、北京YMCA、北京地方服務団、同善社、悟善社、貧民救済会などの57の団体と連合することによって発起された。その宗旨は「北京の慈善事業を専門的に運営する」ことであった。電報で奉直戦争の終結を陳情し、婦孺救済会を46か所設置し、埋葬、食糧、資金徴収、救済などの事業を手掛けるだけではなく、首都(京兆)の11件で農民の借金を救済し、同時に老弱臨時救済などその他の慈善団体が扶養・救助することを協力して助けた。
 積極的に具体的な慈善救助活動に参加する以外に、数多くの社会の病弊と社会の病態の現象に対して、社会学の知識人はさらに深い理論的な思考を行った。社会改良と社会改造の宗旨を実現するために、彼らが提示した解決方法の一つが、西洋の社会救済と社会福祉制度を参考にすることであった。たとえば陶孟和によると、「国民生産の不足」に対する方法の一つは「強力な政府による計画的な経済制度の実施」であったが(陶孟和『中国労働工生活程度』中国太平洋国際学会、1932年、4頁)、これは政府が全国民の社会保障を担うことに対する大雑把な理解をおおまかに見ることができる。他にも、教育と交通、組合互助制度などを含む詳細な解決方法を提示する研究者もいた。社会学者の中には、社会学と社会行政あるいは社会事業との関係を考えた時に、社会学が一種の科学であり、そして社会行政は一種の技術であり、両者ともそれぞれ別の理論的な基礎と応用領域があると指摘する者もいた。彼らは社会行政は個人と社会の需要を根拠として、経済、教育、文化、衛星などの行政施策を連携・調整させ、「人の全体の生活と社会福祉の完全な実現を図る」べきであると主張した。中国は主にまだ農業社会であるので、このために社会行政の活動を推進・実行するときに、政府が責任を持って担い手になるだけではなく、「中国における互助の伝統を十分に利用すべきである」という。1940年代になると、社会学者は各国の経験を参考にしつつ、中国の国情と民族もあわせて考慮し、予防と救済をともに重視すること、社会救済から社会保険へと発展させること、さらに進んで完成された社会保障体制と、経済の発展、社会的な富の蓄積を実現すること、政府の投資で社会投資を促進すること、社会、家庭および個人の協力によるべきこと、などなどを明確提示している(前掲『一門学科与一个時代』19頁)。

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 社会学の知識人が社会と関わる力の努力を通じて、社会学という学科のシステムが基本的に中国に確立した。社会学という重要な「理論的な道具」のおかげで、近代慈善事業の発展に多様化という段階をもたらす結果となり、以下に主に事前概念の変化と現代的な意義をもつ慈善事業の初歩的な確率という二つの側面から、大雑把に述べておきたい。

(1)慈善概念の内容に変化が生まれ、慈善救済の社会的な機能に明らかな転換が生じた
 民国時期は、社会学の領域内においては、中国の伝統的な「慈善」の概念を引き継いで広範な社会救済事業を指す以外は、より頻繁に西洋世界の「社会救済」あるいは「社会福祉」のなどの概念を引用して、同様あるいは類似した実質の内容を表示した。名詞の使用の頻度という角度から見ると、「慈善」は次第により多く「社会救済」によって取って代われるようになった。しかし、「社会救済」と「慈善」概念が並行していた初期の段階は、実際の機能は二者とも基本的に一致しており、「救済事業とはつまり救貧事業であり、それはつまり慈善事業であり、いわゆる温情主義の政策」であった(周震鱗『北平市社会局救済事業小史』北平特別市社会局第一習芸工厰、1929年、1- 2頁)。異なる点は、「慈善」が思想の内容と精神的な価値を重視する一つの概念であり、慈善が救済事業の道義性になっていたのに対して、「社会救済」が実質的な内容と手段を重視し、理性化と実用化をより明らかにしていたことであり、これは民国時期の西洋的な法律の思想と制度、特に社会学領域内の社会保障の知識と救済法規の広範な普及によるものであった(周成『地方慈善行政講義』泰東図書局、1923年、43頁)

 民国中後期には、「社会救済」と「慈善」の実質的な内容が次第に重視されるようになり、そして政府を主導的な力として、以前よりも自覚的に機能と性質の適応と調整が始まるようになった。結果として、「慈善」はその強い道徳的な価値の趣向のために、より自発性と社会性を強調して相対的に自主的な発展の道を歩んでいくのに対して、「社会救済はその政府の行為の性質を強調し、範囲を次第に民間の慈善事業へと拡大かつ包括していくようになった。このように、行政的な意味での「社会救済」(あるいは「社会福利」)と道義的な民間の「慈善」という、二つの相互に独立しているだけではなく密接に関係している体系が形成されたのである。この時期に出現している大量の社会救済の法令・法規と各地の慈善機関の調査報告などには、二者の内容が定まっていく過程が基本的に完成していることをはっきりと見ることができる。1928年の南京政府が中央に設立した社会部や、地方に設けた社会局(処)、社会部が管轄している各救済院および古い慈善機関など、この種の組織と制度の確立は、明らかに社会救済と民間慈善の間のこの種の機能が大きな趨勢になっていることを反映するものである。

(2)中国における初期の社会保障システムと現代的な意義をもった慈善事業を初歩的に構築することができた
 社会学者を主な代表とする新しいタイプの知識人は、清末で既に始まっていた慈善事業の変革の基礎の上にあり、大規模に西洋の社会救済、社会福祉、社会保険、社会保障などの知識、思想、法規と制度などを導入、吸収し、大いに近代慈善事業の転換を加速し、一方では民間慈善事業の自主性が強化され、相対的に独立した慈善救済の事務が展開したが、他方では政府は次第に権力と義務の関係に基づいた全国民的な社会保障事業の責任を担うようになり、近代社会保障事業の制度化と法制化の建設を行い始めていった。同時に、政府はさらに民間慈善事業に一定の自主的な発展の権利を与え、例えば経費の支援を提供すると同時に、さらに法律的な側面で監督、規律化と保護などを行っていく。ここから、この二つが並行的な発展の関係というだけではなく、実際に存在している行政的な指導と隷属の関係でもあるという、救済システムが中国に出現しはじめたのである。以上のように、西洋の社会学の知識が中国で普及かつ発展していくという大きな流れを借りる形で、中国の伝統的な慈善の思想と実践は自己革新(自我更新)の歴史的な任務を完成したのである。このように歴史的な角度から言えば、近代中国の慈善事業発展史において、西洋的な学問の影響と役割を承認かつ十分に肯定されるべきなのであり、それを衝撃と呼ぶにせよ挑戦と言うにせよ、中国の伝統的な慈善救済事業の転換は確実に、西洋の影響が東洋に及ぶ(西风东渐)潮流のなかで完成することができたのである。



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 民国期の社会学における社会福祉研究の概説。勉強のために翻訳したが、実際なかなか勉強になる内容だった。王娟は北京理工大学に所属する1974年生まれの歴史学者で、『近代北京慈善事業研究』という著作がある。李曼琳は北京印刷学院の広告学の研究者である。詳細は不明だが、おそらく前者が主著者であろう。

 中国における社会福祉研究は、まず1910年代末あたりに中国のYMCA周辺のアメリカの宣教師や学者からはじまり、彼らが中国の大学で社会学の講義を担当し、中国で社会調査をするようなったことによる。初期の中国人の研究者もYMCA周辺から生まれた。1920年代半ばになると、中国国内でも社会学が学問的に制度化されるようになり、慈善団体などの調査を行うだけではなく活動自体にも関わり、社会政策を積極的に提言していくようになる。1930年代の中国における社会学は、学問の受容においては先発国である日本よりも、少なくとも実証研究の面では進んでいた面があり(理論研究は現在に至るまで大きく遅れをとっている)、その代表が言うまでもなく燕京大学の費孝通である。この時期に、社会学者によって慈善事業に関する調査・研究の業績が蓄積されてきたことは、王娟らがこの文章で詳細に紹介している通りであり、こうした研究の再評価が待たれるところである。

 この文章で指摘されている重要な論点は、「慈善」と「社会救済」の関係であろう。19世紀から20世紀はじめまでの中国は、国家・政府の脆弱さや分裂と反比例するように慈善団体の活動が活発化したが、この慈善団体をどう評価していくのかは、社会福祉の問題に取り組んだ社会学者がまず直面した問題であった。1930年代半ばには、近代的な「社会救済」の立場から伝統中国的な「慈善」を否定的に評価するという論調で固まったが、ここで指摘されているように、両者の関係と位置付けがもともと曖昧であったとすると、いつどのような理由で分裂していったのかは、極めて重要で興味深い問題である。


中国における「国民」の語義と国家の構築

2011-11-16 07:34:11 | Weblog
郭台輝「中国における『国民』の語義と国家の構築――明治維新から辛亥革命へ」『社会学研究』2011年第4期
http://www.sociology2010.cass.cn/upload/2011/11/d20111109094958546.pdf

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3 近代の中国と日本における「国民」の語義の比較

 「国民」の日本明治前期における言葉の意味は、国家・政権に帰属し、かつ一定の政治的権利を有するメンバーの意識であり、中期以降は「人民」「公民」などの用語の語義と一緒になっただけではなく、「臣民」を含むものとなり、西洋のcitizen、nation、people、subjectなどの概念と融合して、これを本土化して支配的な用語にして、そこから一つの新しい言葉の意味の図式を生み出して、日本の明治政府の建設の道に役割を果たした。清末の中国の知識エリートが全面的に明治日本を学んだときに、「国民」が伝えるpeople、 citizenとnationの意味とは、日本の後発国家および東洋の(東方)国家としての特有の意味を保持しており、それと同時にさらに中国の多民族融合の伝統文化観念と結合して、自らの国家建設を成就させるというものであった。このように、19世紀末から20世紀初頭の中国と日本の「国民」の意味の移動を比較する必要があるわけである。

 近代西洋のCitizenは中世都市と近代社会の市民観念に源を持ち、18世紀後半に国家の次元にまで引き上げられて形成されたものであり、それは国家が必ず公民集団つまり「人民」の意志を基礎としなければならない、というものであった。そこに含まれる価値観について言えば、西洋文化の中の公民概念は英語のCitizen、フランスのCitoyen、さらにはドイツのBürgerのいずれも、「私」と無関係な純粋な「公」は存在せず、関連する自治、義務、奉仕などは、公共性の存在通じて判断されるが、個人主義という私人関係を基礎としている。このように、私的な存在なしには、公共関係も存在せず、公民もないのである。西洋の現代国家の建設が19世紀に完成し、法律的には実現された西洋の公民概念は、三重の意味を獲得したことが確認されている。つまり、かけがえのない個人として、他人の有する自由・平等の尊重を期待すること、一つのエスニシティ(族裔)あるいは文化集団の成員は、一つのネーション(民族)のなかに帰属とアイデンティティを見出すことができること、ある政治共同体の成員として、法律的にはその完成された人格に対する同等の保護と同等の尊重されうることである(哈貝馬斯 2003: 660)。19世紀後半の西学東漸はを通じて、こうした言葉の意味が既に部分的漢字文化圏のなかの「国民」に流入し、個体の自己の次元の自由・平等の観念、権利・義務と公共参加や意識を含むものとなった。しかし、個体の自我意識はしかし、しばしば文化的なエスニック共同体のメンバーの身分意識よって圧迫されていた。

 Nationのヨーロッパ文化のなかに含まれている意味も非常に複雑なものであり、一般には二つの大きな類型に分けられる。西欧とくに近代のフランスでは、主権国家と絶対主義統治の勃興が、政治国家の意義における「ネーション(民族)」の出現を促進した。この時の「ネーション」と「国家」が相互依存的なものであり、境界上で互いにくっつき、二重構造として同時に進行し、あるいは「ネーション」とは国家主権の強化と構築を満たし、「政治的ナショナリズム」を発展させるためのものであり、その成員としての「国民」はある国家-ネーション(state-nation)あるいはネーション-国家(nation-state)に帰属しているというだけではなく、平等に権利と義務を担ってもいるのである。・・・・

 西洋列強の侵略と掠奪によって生存の危機に直面した時に、東アジア地域はようやく意識的に近代に向けて転換し、中国の日本の両国は国家統一、独立と富強の国家主義意識を表現し、それによって「国民」はそれによく似た意味を有するようになった。主に表現されているのは二つである。だ一つには、国家アイデンティティの権利義務観念である。中国伝統儒家文化およびその展開である日本文化の中には、政治的な公民と経済的な市民は分離しており、公民に相当する市民といった現象は存在していない(堅田 2003: 104)。とりわけ全体としての東方文化には、西洋のような独立個体としての意味での公民観念がまったく存在しない。ただ19世紀後半に西洋文化の衝撃を受けた後に、文化と政治のエリートとくに自由民権運動の利権によって導入された一種の権利義務関係だけが、国家の独立と建設を満たす過程における集団アイデンティティの需要を意味するものであった。このように、近代日本と清末の中国における言語的な環境における「国民」およびそれに関わる権利、平等、自由、地位(身份)の観念と制度は、それが始まるや否や、国家主義と一緒に結合していったのである。これによって、中村正直や厳復のような中国と日本の啓蒙思想家、イギリスのJ・S・ミルの『自由論』とスマイルズの『自助論』を訳した時に、西洋社会の中の個体形式存在の公民概念を、集団存在的な国民に転換し、個体の権利・義務・主張を国家の次元で認識および解決し、そこからルソーが描き出したような積極参加と政治的自由の公民観念と互いに調和していくことになる(狭間直樹編 2001:120-155)。その次は社会進化論や強権・競争と国家有機体説が含まれている。ドイツのブルンチェリの国家有機体論は国権が民権より高いことを要求し、極めて強い国家至上の傾向があった。日本の啓蒙思想家に翻訳・紹介された後、その近代国家の形成と国民意識の高揚と生産に対する深い影響により、明治政府の運営と憲法制定の指導原則となった。日清戦争と三国干渉・遼東半島返還事件に従って、日本国内は西洋の列強と競争を要求する欲望や、国家主義を帝国主義へと進ませる声が次第に高まっていった。浮田和民の国民教育思想は優勝劣敗淘汰を強調する倫理帝国主義であり、国民が人格をそなえ、人権を享受する世界公民になることを要求した(鄭匡民,2009:199)。明らかに、この時の「国民」はもはや基本的な権利を保障するという国家のカテゴリーを突破し、西欧文化の意味における公民に含まれていた意味から離脱して、次第に文化民族的な意味を注入し、自我の主体性を欠いた、民衆の民族に対する高度なアイデンティティが国家の法律を単なる一種の幻想的な意識を満たすものとして用いられたものであり、自由・平等の権利の真の要求ではなかった。この意味において、近代日本は「国民不在」「国民のない」時代なのである。

 もし国家有機体説が明治日本の「国民主義」意識の論証であるとすれば、清末の中国は国家主義のアピールを強めていくものであった。梁啓超は20世紀初めの多くの文章の中で、浮田和民の国民観を紹介し、同時に「加藤弘之の紹介する社会ダーウィニズムが、国と国との競争とは国民の競争であり、この考えは梁啓超の厳復から受け継いだ観念を強化した」のである(黄克武,2006:51)。この種の理論は梁啓超が追及する二つの政治目標を満たすものであった。つまり、対内的には自由と民権を要求し、専制主義の政治体制に反対すること、対外的には富強で進歩的な国家を建設すること、帝国主義列強と競争することであり、こうして彼における1903年の後の主要な思想源泉が出来上がったのである。
 
 この種の「国家」は神聖化と人格化という特徴をそなえたものであり、一切のものを主宰し、社会と個人の利益からは独立し、意志と人格を有している。ゆえに「国民」とは結果的にはつまり「国家の子民」である。言い換えれば、抽象的な全体としての「国民」は、統治権威の主体であるものの、政治的な主体性を欠乏させた、あるいは道具的な「国の民」であることから、依然として抜け出ているとは言い難いのである(沈松侨,2002:725)。ゆえに、明治日本の国権と民権、清末中国の立憲と革命はみな同時に展開しているのであり、いったん始まると、集団的な「国民」あるいは「民族」を凝集させて「国権を強固にする」という目的に到達させることを目的として、近代主権国家の確立と拡張に手を出し、「民」はまさに「国」の理性的な目的に達するための手段にされたしまった。この意味において、国と民、立憲と立国は、国権至上の追及において高度に一致している。そして、1868年から1911年という時期に、東アジア地域では激しく西洋列強が争い合う場となるが、日中両国が直面する国内外の圧力、歴史の重荷、体制の仕組みが異なり、知識エリートが追求する価値理念と制度目標も異なっており、「国民」という用語は、いったんもともとの言語的な環境を抜け出して意味の違いを生み出すことに。それは主に、以下のように表現することができる。

 「国民」と「臣民」という言葉の意味の関係において、明治初期の日本の「国民」は、使われ始めは「人民」「民人」などの用語と競合し、中期以降に次第に支配的な地位となるが、これは憲法、天皇の詔書と小学校の教材では「臣民」と互いに調和できるものである。これと、近代の「虚構による」天皇およびその制度的な構築物とが次第に強固に関連づけられるようになり、「大部分の民権派と天皇崇拝が互いに結合した」だけではなく、民権を国権に服従させ、かつ学校教育と各種の社会団体・組織を通じて、「天皇崇拝と国体観念を次第に国民の意識の中に浸透させていった」のである(安丸 2010:9、198、201)。これが表わしているのは、ある新興政権の最重要任務は大衆の忠誠を維持および獲得することであり、そしてこの政権が再建する社会秩序および価値規範が西洋から模倣して移植したものであると、これによってもたらされる矛盾が、新しい政権に全ての局面で過敏な反応を生み出す可能性がある。明治天皇はまさに、内外で交互に迫る危機に対抗するために創り出されたものであり、西洋の立憲観念と日本伝統の天皇観念を近代的な権威主義的君主制に調和させたものであった。これはよく19世紀前半に出現したドイツモデルと比較されるが、やはり非常に異なるものである(曼 2007:199)。明治後期の日本の「国民」の語義は、政治と文化という意味を同時に束ねたものであり、地方にもともと存在していた政治アイデンティティが残ることを許容せず、公共責任と忠誠、象徴の記号、政治的な共通理解はすべて天皇体制のアイデンティティと帝国憲法の解釈に帰属させるものであった(Ikegami 1996: 219)。

 梁啓超を代表とする清末の知識エリートは戊戌変法に失敗した後に、清朝政府の逮捕から逃れるために日本に亡命したが、彼が取り入れた「国民」は「救国主義」の切迫した要求に応じるものであり、単に明治日本の「国家主義」ではなかった(狭間 2001:154)。ゆえに、「国民」を中国語の圏内に取り入れた後にいち早く受けいれられたことは、国民(国人)が清朝政府に失望して見放したことと大きく関係しており、使われ始めた時点で「国あって君なし」の民であること理解されていた。知識界は「国民」を、中国人が新時代を切り開く唯一の身分の呼称であると見て、「臣民」は「国民」の対立面となって放棄され、そこから伝統的な倫理秩序と一致する言語秩序が動揺していくことになる。

 同様に、亡命した知識人エリートが移植した「国民」の言語的な環境は、清末政府の脆弱・無能、西洋国家の弱肉強食および明治日本の帝国主義的傾向をこの目で見たことによるものであり、その意味は基本的に伝統政治秩序と対立した、文化的に理想の国民を作り出すことを図り、いち早く理想的な政治共同体を構築して「想像」の新しい国家と国民を「事実」である旧帝制と臣民と取り換えることであり、想像された「公民」によって新しい国家形式である選挙と自治を実現していくことであった。簡単に言えば、清末の「国民」のなかにある「国」と「民」は理念的に構築されたもの(构想出来)であり、これは完全に「虚構」の天皇を通じて「真実」の国家を構築した日本とは異なるものである。

 このように、明治日本はそのはじめから、二つの相互に協力しあう論理的な路線を展開していた。つまり、現実的な政治エリートは上から下へと天皇制を中心とした主権国家を構築し、理想的な知識エリートは、下から上への「国民共同体」の近代国家を建設した。後の自由民権運動では後者のロジックが極端化したが、その結果は理想が現実に負けて絶対主義政体が確立であり、これは「国民主義」の勃興が政治と文化の二つの力の成功裏の「共謀」であることを意味するものであった。清末中国は、ほとんどのこのロジックを顛倒させたものである。つまり、知識エリートはまず、清朝政府の正統性と「臣民」の合法性を捨て去り、国民性の批判と改造を通じて理想的な近代国家を構築しようとしたのであるが、そのコストの高さは推して知るべきであろう。梁啓超は1903年の後に転向し、康有為、楊度らの人物と一緒に皇権を再建して立憲を唱導し、立憲君主を追求し、啓蒙教育、文化改造と地方自治を宣伝したが、西洋列強の中国における激しい競争、瓜分と略奪のために、こうした漸進的な改良は受け入れられず、革命派の国民共和の主張と革命実践が要因に社会的に正当性をもったアイデンティティと支持を獲得することができなかった。
 
 ・・・・・・・・・
 
 (日本と)異なるのは、儒家文化の発祥地として、中国が長期に形成してきた中心意識が外来の新しい文化と観念の吸収を困難にしていることである。たとえアヘン戦争で西洋の軍事と文化から深い痛手を蒙っても、『万国公法』などの西洋で通用している文献の中のcitizenは依然として「籍民」「草民」あるいは「臣民」などの用語で訳されることで(刘禾 2009:324)、はじめて知識階層や官僚階層に受けいれられたのである。明らかに、「救亡図存在」の20世紀はじめに、清末中国の「国民」の語義がさらに混乱し、伝統と反伝統、西洋と反西洋、漢族と中華民族などが互いに衝突する言葉が一緒に絡み合ったものである。一方では、梁啓超の「新民」には儒家の経世の核心である、道徳の修養と人に対する革新が含まれている。集団主義の強調とギリシアの市民(公民)に少し類似しているところはあったが、先秦古典の伝統や(张灏,1995:124)、王陽明の新儒家の伝統および同時代の厳復の影響も受けており、古今東西の交錯、張力と適応などを体現するものである(黄克武,2006:導論)。他方では、まさに溝口雄三の所見のように、清末の「国民」の論述において、「国」は文明空間としての「天下」、人民の生存空間としての「国家」、体制としての「王朝」などのいくつかの種類の認識と混同されていた。「民」も一つの複雑に錯綜した概念であり、中華文明の漢民族を指す場合もあれば、「天下」としての民、あるいは「国家」の民である満、蒙、藏、ウィグルの五族であることもあり、中華民族は天下自然に存在している生民というだけではなく、中国の国民でもあり、「ヨーロッパや日本の同一概念とは相当に大きく異なる」ものである(溝口雄三 1996:46、85,1999:53)。

 明らかに、これと「民族」の意味の成立およびナショナリズムの自覚化は、すべて一緒のものである。「民族」の意味の複雑さは「国民」に引けをとらないものであり(方維規 2002)、そして「国民」は必然的に立件はと革命派の、「中華民族」という「大民族」なのか、それとも漢族という「小民族」なのかに関するアイデンティティの問題に巻き込まれていった。しかし影響が深いのは、立憲派が「中華民族」という大民族のアイデンティティを主張し、民族の歴史的融合と共生を強調したが、その目的は西洋列強による植民地分割がもたらす民族分裂の危機に連合して抵抗することであったことにある。たとえば、「中華民族」という言葉を創造した梁啓超は、早くも1902年に「中華の建国、実に夏の後に始まる・・・しかしてその名を用いて国民を代表するものである」と指摘し(梁啓超『中国学術思想変遷之大勢』1999e:563) 、楊度は「満漢平等」という「国民統一の策」の実行を主張した(劉晴波主編)。もし清末の立憲運動の拡大・展開が「大民族」の「国民」を立憲派の中で広範に広めたと言えるのであれば、そのように、辛亥革命の成功は革命派を「排満」から大民族の「同化」と融合へと転換させることを促し、ある種の比較的完成された現代の「中華民族」の観念と意識を基本的に確立し、「国民」はある種の歴史に合致して未来の発展を構築するネーション(民族)の地位となり、これはほとんど「国民」という国家における地位の意識と互いに重なるものである。

 「国民」は自覚的に「中華民族」というアイデンティティを形成するものとなり、190世紀の西洋のナショナリズム思潮の影響を受けたものでもあるが、もはや日本とドイツのような反民族的な地位とは異なるものである。それが表現しているのは、一つには、「中華民族」観念は虚構の集団的記憶ではなく、歴史文化が真の継続と歴史的な長期の融合の結果であることである。二つには、現実の力に適応する役割を発揮し、その目的は対外拡張ではなく自らの凝集であり、その目指すところは外来の侵略に共同で抵抗し、内部の紛争と分裂を防止することであったことである。三つには、中華民族内部の各民族が、強弱・大小に関わらず一律に平等であることであり、革命派はかつて一度は大漢族主義的な「排満」の主張を抱いていたが、「救亡図存」の時に、さらに立憲派の各民族一体化の思想を吸収した。四つには、清末の清朝政府の没落と専制に反対する力の強化に伴って、西洋と日本などの帝国主義による分割の深刻化し、中華民族の観念は神秘主義的な色彩を帯びたいかなる権力の中心によって主導されたものでは決してなく、知識エリートが自覚的に形成した大民族の意識であり、そして新興国家の政権は単にこうした観念の制度化を実現させただけであった。

 最後は、国民の意味が構築する主体の点である。いかなる言葉の意味も、言説は特定の言葉の環境が表現する観点から構築された結果であり、異なる言説集団が同一の言葉の理解と応用は全て同じというわけではない(不尽相同)。西洋文化に接触し、研究し、伝達する集団が異なり、日中両国の国民に対する異なる導入と応用に影響していることは、政府の政治権力と知識エリートの文化権力の差異に集中的に表現されている。明治日本の維新の前期は、国家の独立と国民統一とが、二つの方向で同時に転換した。つまり、政治権力における天皇制国家への集中と、文化権力における平等な権利と参加という国民意識の絶えざる浸透である。この二者が同時に緊密に結合して、「国民国家」観念の形成を推進していったのである。天皇専制の集中が強固になるに従い、政治権力と文化権力の間には緊張が生まれたが、後者が表現する自由民権運動は政治権力との対抗軸をつくることはできなかった。その後、「国民主義」の旗を掲げる国粋派と絶対主義の政治権力が合流し、「国民」を汎民族主義と帝国主義の深い淵に落ち込ませていくことになった。明らかに、ここでは政治権力と文化的権力とが相対的に独立し、相互作用と協力の関係にあった。それに対して、日清戦争、戊戌変法の失敗およびその後の一連の危機は、清末の知識エリートを突如として伝統的な帝制の知識資源と制度体系に対する信仰を失わせ、文化的権力は政治権力に対する伝統的な従属から脱することを要求するだけではなく、その反対に向かわせて、「国民」を「民智を開く」と天賦人権論、社会進化論、国家有機体説を表現する理論的な武器と見て、封建的な専制君権を批判し民権を伸長させるために用いた。同時に、文化権力内部の「国民」の争いは、より多くエリートの次元での理念・構想であり、社会・大衆の現実における基礎から抜け出て、国家主義の根本目標から逸脱するものであった。この種の「国民」一度現実政治における権力の重心と裏付けを失っているため、必然的に言葉の濫用と意味の浮遊という問題に遭遇することになった。外からの言葉の環境の急激な変化と知識エリートの「救国図存」の差し迫った心理に伴って、「国民」も急進的に自己の演繹と構築を行った。同時に、「国民」の意味を構築かつ広める主体として、清末の啓蒙思想集団は多く啓蒙と政治の改革という二つの任務を一身に兼ねており、新聞を通じて大衆とくに青年学生に革命・啓蒙を行うだけではなく、直接的に政治権力の顚覆、再建、改造に参加した。その結果として、「国民」に政治と倫理、教育と啓蒙、責任と義務、激情と夢想などの、多くの意味を過剰にかつ矛盾した形で担わせ、辛亥革命の爆発と清末政府の瓦解に至り、「国民」の意味はようやく落ち着き、次第に「中華民族」という政治的な言語のなかに合流しはじめることになった。

参考文献
鄭匡民,2009,『梁啓超啓蒙思想的東学背景』上海書店。
方维规,2002,「近代思想史上的“民族”、“nation”与 “中国”」香港『二十一世纪』6 月号。
哈貝馬斯、2003、『在事実与規範之間:関于法律和民主法治国的商談理論』童世駿訳、北京:生活•読書•新知三聯書店。
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黄克武,2006,『一个被放棄的選択——梁啓超調適思想之研究』北京:新星出版社。
Ikegami, Eiko 1996, “Citizenship and National Identiy in Early Meiji Japan, 1868-1889: A Comparative Assessment.” In Charles Tilly(ed.): Citizenship, Identity and Social History,London: Cambridge
堅田剛、2003、「公民」石塚正英主編『哲学•思想翻訳語事典』論創社。
梁啓超,1999e,「中国学術思想変遷之大勢」張品興主編『梁啓超全集』北京:北京出版社。
劉禾,2008,『跨语際実践践——文学、民族文化与被訳介的現代性(中国,1900-1937)》,宋偉傑等訳,北京:生活•読書•新知三聯書店。
曼,迈克尔,2002,『社会権力的来源』(第1巻)(劉北城、李少軍訳)、上海:上海人民出版社。
溝口雄三,1996,『日本人視野中的中国学』(李甦平等訳)北京:中国人民大学出版社。
――――,1999,『作為“方法”的中国』(林右崇訳)台北:台湾“国立”編訳館。
沈松僑,2002、『国権与民権:晚清的‘国民’論述,1895-1911』台湾“中央”研究院。
安丸良夫,2010,『近代天皇観的形成』(劉金才、徐滔等訳)北京:北京大学出版社。
張灝、1995、『梁啓超与中国思想的過渡:1890-. 1907』(崔志海・葛夫平訳)南京:江蘇人民出版社

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 日本と中国の「国民」概念を比較した論文。郭台輝は華南師範大学の副教授で、元々はヨーロッパ市民社会の政治思想が専門のようである。
 
 中国ではマルクス主義の政治イデオロギーの影響もあり、日本でいう「国民」は全て「人民」と呼ぶのが慣例になっている。「国民」は学術的にも日常的にも、ほとんど用いられていない。nationも、日本では文脈に応じて「国民」と「民族」に訳し分けられるが、中国ではエスニックな文化を含意しない場面でも、ほぼ「民族」と訳している。民国期までは「国民」も普通に用いられていた。

 中国と日本のネーション概念の比較は、意外なことであるが、1990年代の国民国家論の隆盛にも関わらず、溝口雄三『中国の公と私』ぐらいしか見当たらない。日本と中国の間の「思想連鎖」のプロセスについては、山室信一氏をはじめとした多くの研究の蓄積があるが、その意味論的な構造の比較については、安直な文明論や文化決定論に陥りやすいものとして避けられてきた印象がある。私自身は「思想連鎖」系の議論が、日本と中国の間の知識サークルを研究しているようであまり魅力的に思えなかった一方、日中間の比較も安直に思われるのを恐れて避けてきた経緯がある。そのように、今までありそうでなかった研究という意味で、この郭台輝の論文は貴重である。
 
 ただし、肝心の日中間の「国民」概念の異同が、郭台輝の議論では必ずしも明確になってはない。これは溝口氏が、日本の「民」がある領域性を前提にしているのに対して、中国の「民」は人々の間の水平的な公平性に基づくものであると、非常に明快に図式化しているのと比べると不満が残る点である。では引用されている事実そのものに目新しい点があるかというと、そういうわけでもない。あえて細かな点を捨象して郭台輝の分析する日本と中国の差異をまとめれば、日本における「国民」が天皇に対する「臣民」という「虚構」を通じて国家統合を実現するという文脈で理解できるのに対して、中国の「国民」は清朝の伝統的な体制からの脱却という、理念的な政治的・文化的運動の文脈で用いられたことにある。日本の「国民」が第一義的に「国家の人」であり、それを民族文化的な「虚構」によって統合させるものであったのに対して、中国の「国民」はあるべき理想的な国家を想像するためのものであったという。

 こうした理解は、大筋では特に異論はないが、若干の違和感もある。一つには、中国の「国民」が理念的・急進的であったというのは、郭台輝の分析があくまで清末という「革命」の時代に限定されているためではないかということと、そしてもう一つは、日本の「国民」概念に対して中国のそれを肯定的に評価する傾向である。例えば、「「中華民族」観念は虚構の集団的記憶ではない」と言い切っているが、これはおよそ承服しがたい見解である。

 特に「国民」のような政治的な概念の場合、単に意味を比較するというだけではなく、その政治的な文脈を一つ一つ丁寧に解きほぐしていくような作業が必要である。意味論を比較する場合は、溝口氏のように大胆に図式化すべきである。この論文はどっちつかずの中途半端な印象がある。

喪服制度から見る差序格局

2011-11-11 07:11:35 | Weblog
呉飛「喪服制度から見る差序格局――ある経典の概念に対する再考察」『開放時代』2011年第1期
http://www.sociology2010.cass.cn/upload/2011/11/d20111103100010968.pdf


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3 差序格局の解釈の限界

 差序格局の提示している、現代社会科学角度からの中国の文化と社会に対する理解は、一里塚(里程碑)の意義を有している。しかし、われわれはここに留まることはできない。というのは、そうでなければさらに深いレベルの研究に入ることができず、古今の中国の非常に多くの社会文化現象に対して分析・解釈することはできなくなってしまうからである。だが、筆者は孫立平、閻雲翔、翟学偉などの先生たちとは異なり、「定義が厳密ではない」ことが差序格局の大きな問題であるとは考えていない。費孝通が用いている散文的な筆致は、決して後の学者が差序格局を理解するのを妨げていない。人々がこの概念を用いるときは、大部分は自らが何を言っているのかをはっきりさせている。差序格局の主要な問題は、むしろ実質的なものである。それは、喪服制度のいつくかの要点をつかまえてはいるものの、いまだなお喪服制度豊かさを把握できておらず、その強調するところが喪服制度の中の一つの点に過ぎないことにある。

(1)親を親とし、尊を尊とする

 まず強調しなければならないのは、費孝通が「差序格局」という文章を書いた本来の目的は、中国人がどうしてこうも「自分勝手(自私)」であるのかを探究することにあったことである。この点は、後のこの概念に対する使用と分析のなかで、常に意識的・無意識的に軽視されてきたことである。いくつかの非学術的な文化批評の文章を別にすると、後の学者はほとんど価値中立的な立場に基づいて、「差序格局」の概念を使用して中国人の行動様式を分析している。文化的な批判の時代が既に過去のものとなり、学者たちは差序格局に対して新しい理解をもつようになったのであるが、われわれは費孝通がこの概念を提示した時に元々持っていた言葉の意味を軽視することはできない。というのも、この出発点は差序格局の全ての分析および『郷土中国』のなかの非常に多くの関連する篇章を貫いており、潜在的にそれ以降の学者のこの概念に対する理解に影響しているからである。
 
 1930、40年代は、「愚」「病」「私」に、しばしば「弱」が加わって、一般的に中国人の大きな病理として数えられていた。多くの学者はこのことを語り、費孝通もこうした観点を受け入れて、そして「私という欠点(毛病)は中国では実に愚と病よりもさらに普遍的に多く、上から下まで、ほとんどこの欠点に侵されていないものはない」(費孝通『郷土中国・生育制度』北京大学出版社、1998年、26頁)という。「私」という病に侵されているとして、これが結局のところ文化的な原因であるのかどうかというのが、彼の「差序格局」という文章の出発点であった。彼の理解では、「私」の実質とはつまり、集団と自己の境界をどのように線引きするかという問題である。まさにこの点において、中国文化と西洋文化は大きな違いが存在していた。西洋文化は「団体格局」であり、団体と個人とが非常に明確に分かれている。中国文化は「差序格局」であり、集団と自己との境界が等差的に異なることに従って異なるものである。しかし、どの段階においても、中国人はみな自らの圏内の利益を考え、圏外の利益を犠牲にするのであり、つまりは永遠に自己を中心として、親疎・遠近を根拠に問題を考慮し、それによって永遠に「自私」であるということになる。

 喪服制度が確立している倫理体系の中にこうした側面が含まれないと言うことはできないが、これは喪服制度のなかの唯一の側面では決してない。近年の研究の中では、多くの学者は決して費孝通のようにこの概念を使って「私」の概念を批判することはないが、彼の深い影響は大きく受けている(杜瑛「国内“差序格局”研究的文献綜述」『河海大学学报(哲学社会科学版)』第8 卷第1 期、2006 年3月)。彼らは差序格局が倫理道徳モデルであり、社会県関係であるというだけではなく、希少資源の分配でもあると言うのであり、そこで強調されるのは親疎・遠近という次元(維度)であり、この次元は費孝通が「私」を解釈する主要な論拠であったものである。閻雲翔の提示する等級制度だけが、この次元を超えたものである。この点は深い洞察を持っているものの、私はこれは費孝通の本意ではないと考えている。閻雲翔は、費孝通の論じている差序格局は、実際のところは一つの同心円の構造ではなく、尊卑・上下の構造であると述べている。この点は費孝通の原文のなかでは読み取ることのできないものであり、閻雲翔が差序格局の啓発された後に、発展して出てきた思想に違いない。費孝通の差序格局の核心は同心円の構造であり、こうした構造は閻雲翔の等級構造と解釈することではできない。閻雲翔は、差序格局は一つの立体的な構造であって、平面的な構造ではないと語っているが、これは一つの有益な説明方法である。しかし、費孝通自身はもちろんのこと、後の学者も誰も、未だかつて差序格局を立体的な構造として理解したことはない。ただし、喪服制度は一つの典型的な立体的構造であり、この二つ方面を同時に見ることができる。本服図によると、父子兄弟はみな一体となって親となり、ゆえに父親、兄弟だけではなく子どももみな斉服の期間喪に服さなければならないのであり、これはまさに同心円の構造である。しかし、五服図が典型的な同心円の構造ではない理由は、それが親疎の原則に照らして構築された本服図の上に、さらに等級原則を用いて調整を加えていることである。『儀礼・喪服』からはじまる、父親に対する喪服の制度は、斬衰3年に加隆(不明――訳者註)され、祖父、曾祖父、高祖父はすべて斉衰に加隆されるが、これが現しているのは、父兄先輩の後輩に対する等級制度である。例えばさらに、本服に照らして、兄弟姉妹も一体となって親となっている。姉妹が嫁入りするまでは、兄弟と一緒に斉衰の期間喪に服さなければならない。しかしもし嫁入りした後は、喪服が1等「大功」に格下げとなる。これなども男女の間の等級的な差別を体現するものである。費孝通の言うところの同心円的な差序格局は、「至亲以期断(親しさで境界線を引く)」という本服の構造であり、「親を親とする」という原則を根拠としている。しかし、現実の礼制の実際の構造では、「尊を尊とする」を根拠として、出入、長幼、服従、名服の関係が、加、降などの調整の後、われわれが見ている五服図になるのである。歴代の五服図は多くの調整があり、その大部分は親疎関係と東急関係を一層強調するものである。

 喪服制度は非常に複雑で、その中の大小様々な原則があるが、それによって非常に多くの細部の問題が数千年来論争が止むことがなかった。しかし大体において言えば、その最も核心の原則は「親親」と「尊尊」の二つに他ならない。「親を親とする」とは、費孝通が言うところの同心円の構造であり、「尊を尊とする」とは閻雲翔が言うところの等級制度である。もし、喪服制度のなかの差序格局が中国人の「私」という欠点を生み出していると言うのであれば、それは「親親」原則の一つの結果には違いない。まさに、孔子が「父は子このために隠し、子は父のために隠す」という親親の原則のために、「親しければ匿ってもよい(親親容隐)」は、とりわけ伝統中国の法律の一つの基本原則となった。これもまさに、親を親とする原則のためなのであり、費孝通の言っているような、家のために国を犠牲にするという状況なのである。こうした点は確かに存在する。しかし、これは喪服制度の全体からは程遠いものであり、さらには喪服制度に伴う唯一の文化的な結果でもないのである。



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 費孝通の「差序格局」概念の限界を、喪服制度を手がかりに明らかにしようとする、意欲的な論文である。呉飛は北京大学哲学系の副教授で、自殺の研究などに業績がある(http://www.douban.com/event/11377518/)。

 「差序格局」の重要な点は、費孝通が中国的な「私」の克服を目指すことを動機としていたというだけではなく、江南地方の農村社会の調査を通じて編み出したモデルであるという点にある。「差序格局」は、本来的には社会制度や政治体制といった中国社会のハードの部分を説明するようなものではないので、喪服制度などには必ずしも当てはまらないという直感そのものは間違っていない。

 その上で、呉飛の議論には異論がある。呉飛は「親親」の原則だけでは見知らぬ人との関係や国家への服従は不可能であり、喪服制度を根拠に「尊尊」の原則も考慮されるべきだと主張しているが、これは「差序格局」の同心円の範囲が伸縮自在であるという点を、適切に評価していない。要するに「親」の範囲が、その個人の勢力や人格的な力に応じて伸縮するとすれば、それは広い範囲において「親」を獲得した何らかの有力な個人を通じて、見知らぬ人同士がつながることができていることを意味しているのである。

 これは、どうして中国王朝が科挙受験で行政組織の知識ではなく、一見統治に有益とはあまり思えないような、儒教という人間のあるべき道徳・倫理を書き込んだテキストを課したのかを考えてみればいい。それは、伝統中国の政治文化においては、統治者が統治者たりえているのは、より広範かつ多くの人々に慕われるような道徳的な人格を備えているから、と理解されていたからである。「尊尊」原則の存在は否定しないが、それはあくまで「親親」の下位概念で、「親親」の原則を固定化・体制化したものとして理解されるべきだろう。たとえば、「天子」が世界で最も「尊」を受けている存在であるとしたら、それは「天子」が世界のなかで、もっとも人々から「親」を獲得する人格的能力を備えているからに他ならない。「親」を獲得するための原理と方法こそが、まさに儒教であると言うことができる。

 「親親」に「尊尊」を加えることで「差序格局」概念の汎用性を高めようとする意図はよくわかるが、中国社会の秩序や関係性の原理を理解するに当たって、お互いに異なる二つの原則を並列させてもかえって混乱するだけだろう。「差序格局」に関する論文は数多く、ここでも何度か紹介してきたが、その多くがこの論文と似て、「差序格局」概念を発展させようとしてかえって混乱を招いていることが多い。

社会管理は早急に強化と刷新を要している

2011-11-09 07:54:01 | Weblog
李培林「社会管理は早急に強化と刷新を要している」『中国人大』2011年15期
http://www.sociology2010.cass.cn/upload/2011/09/d20110930132059234.pdf


 国内の情勢からみると、我が国の過去30年余りの改革開放や経済社会発展は、一つの新しい段階に入っている。この新しい段階の経済社会発展の情勢の一つの突出した特徴は、経済が急速な発展をし続けていること、政治が相対的安定を維持していること、社会問題の多発と顕在化である。現在の社会問題の多発と顕在化には、多くの要因の影響があり、管理体制からみると、その中で一つの重要な原因は、現行の社会管理体制が何らかの点で急速な工業化、都市化、市場化と国際化のプロセスに完全に適応できていないことであり、社会管理の強化と刷新が切に求められている。わが国の社会管理が直面している状況や新しい問題は、主に以下のいくつかの点に表現しておきたい。

1.社会的な流動性が急速になり、膨大な流動人口を管理する業務の負担が大きくなっている

 改革開放後のわが国の急速な工業化のプロセスは、膨大な規模の流動人口を形成している。しかしわが国では、ブラジルやインドなどの国家の工業化・都市化の深刻なスラム化現象は出現しておらず、これはわが国の社会管理の点における一つの成果である。しかし、数多くの都市の農村から都市へ移動する流動人口は、真に都市生活のシステムに融け込むことが難しく、戸籍、就業、住居、子どもの教育、社会保障などの点で非常に多くの困難に直面している。都市流入人口の多数は、都市と農村の結合部と地下建築(?)に集住し、多くの都市が行ってきた都市人口の応じて割り当てる社会管理と公共サービスのシステムも、新しい人口の構造を根拠にした調整を行ってはおらず、大体において流動人口が集住する都市と農村の結合部の管理の力は非常に弱くなっており、このために窃盗、強盗、裏社会、麻薬、売春などの社会問題を引き起こしており、いくつかの流動人口の大規模集住地区では比較的突出している。膨大な規模の流動人口を管理し、全ての方面に社会管理体制を行き渡らせることは、非常に重い負担の任務となっている。

2.都市化が経済発展の新しい動力となり、土地収用、住居の撤去が引き起こす矛盾と衝突が持続的に増加している

今世紀に入ってから、中国の都市化のプロセスは加速しているが、これは経済社会発展の必然的な趨勢である。工業化の後、都市化が現在のところ既にわが国の経済社会発展の新しい強力な動力となっている。都市と農村の二元構造を打ち破り、都市と農村の一体的な発展を実現することが各地の重要な発展目標となっている。しかし、都市化のプロセスにおいて、都市化は工業化に後れを取っており、人口の都市化はさらに土地の都市化に後れを取っている問題が、比較的目立つようになっている。2010年のGDPの増加に占める農業の比重は10%に過ぎないが、農業に従事する人員の全国の従業人員おける比率は依然として38%であり、農村に居住する農民も52%で、これは既に都市に半年以上居住している農村戸籍人口の統計を都市の定住人口としたものである。土地の価格上昇が地方経済の重要な推進力となり、そして政府が財政収入の重要な来源を支配できるというインセンティヴの下で、新しい(新一輪)「土地置換」(?)がブームとなり、大規模な範囲で農地を占拠して強硬に立ち退かせる問題が引き起こしている社会問題が増加しており、これがもたらす悪性の事件や集団的な事件は頻繁に発生し、社会の調和と生産の安定にとって負の影響を与えている。統計によると、2006年から2008年にかけて、国家が農業用地のバランスの維持(耕地占補平衡)を要求する状況のもとでも、全国の耕地が実際に12480万畝も減少し、年平均では4200万畝近く減少し、「十五」(第10次5か年計画の2001-2005年――訳者註)期間の年平均2260万畝の水準よりもずっと高い。いかにして人口の都市化と土地の非農業化のプロセスでよりよく発展と安定の関係に対処し、民衆の利益に深刻な損害を与える事件の発生を防止・途絶させることが、高度に重視されることが求められている。

3.労働力の需要と供給の関係に変化が発生し、民間(非公有制)での労働集約型企業の労働関係の緊張問題が目立っている

わが国の初級の労働力市場関係に深刻な変化が生まれており、新しい労働力の数量は次第に低下し、「十三五」(第13次5か年計画の2015-2020年――訳者註)の期間はマイナス成長に転換するものと予測されている。これと同時に、理論的には農村は依然として2憶あまりの労働力需要を輩出しているものの、農業労働の高齢化現象化が深刻化しているため、農村高齢労働力は最初に非農業労働市場の青年の需要と対等に競いあうことは難しく、2004年依頼に断続的に現れている労働者不足(招工難)問題の常態化と悪化を引き起こしている。この背景の下で、農民工の賃金水準は急速に上昇階段をのぼり、新生代の農民工の労働保護意識と権利維持意識も明らかに強化され、二度と農村生活に戻りたくはないが都市に留まるものも難しいということが、新生代の農民工が直面する困難となっている。そして労働力コストの増加、原材料価格の上昇と人民元の価格上昇は、すべて労働集約型の輸出企業の利益空間を圧縮して、企業主の利益に影響を与えている。この背景の下で、現在、非公有制の労働集約型の企業労働関係の緊張問題が目立つようになり、労働関係の衝突が顕在化しているのである。2010年の、南海ホンダ工場を代表とする、賃上げを目標とした集団ストライキ事件は、「バタフライ効果」を生み出して、沿海部のその他の地区に波及し、全国で前後して数十の規模の大きな集団ストライキ事件が発生した。そしてフォックスコン企業の新生代農民工の連続飛び降り自殺事件は、全社会を震撼させるものであった。こうした事件は、新生代農民工の権利意識の強化と、体面的な労働関係を調和させることに対する渇望が屈折したものである。このように、いかに新しい形勢においてよりよく労働関係を協調させ、労働関係の衝突を法制上のルートに乗せて規範化し、調停かつ処理しくのかは、現在早急に解決を要する問題である。

4.農村の末端財政の力量が脆弱であり、地方の末端の官民関係は調和が必要である

 わが国は1994年に分税制を実行して以来、財政は総体として状況が好転しているが、全国多数の地方県以下の末端財政は依然として相対的に薄弱であり、かなりの部分の郷鎮の財政は高額の負債で運営されている。農業税を撤廃して移行は、農業生産地区の末端財政は、他地域からの財政移転による支出に依存しなければならなくなり、財政状況はさらに厳しさを増している。ある地方においては、末端における事務権限と財政権限が一致しない(不匹配)状況がより目立っており、地方財政の一括した経費を必要とする様々な社会的な事務が比較的多く、中央は三令五申で「乱収費」を厳禁しているが、地方政府のなかには財源不足の状況で「群衆収費」という名目にすり替えている問題があって、何度禁止してもなくならない。これに加えて、改革開放以来、地方の歴代政府は非常に多くの社会問題を累積しており、末端政府は往々にして安易に目の前の政治的成果(政績)を重視し、そして「今朝不理前朝政(?)」の規則を守り、現在の末端の官民関係にかかわる問題をさらに増やし、特に民衆の怒りを買うようになっている。近年の民衆の政府対する満足度の調査結果では、民衆の政府に対する満足度が、中央から末端にいくに従って下がるという減少を明らかにしている。農村地域のなかには、農村の空洞化と凋落減少が出現し、郷村の産業はなくなり、若者は去り、富者は都市に家を買って住み、幹部も郷・鎮に住むことがなくなってしまっている。いかに新しい情勢の中で末端の官民関係をよりよく調整し、よりよい社会主義新農村を建設していくのかは、国家の長期安定に関わる社会管理の大問題である。

5.末端の管理体制に変化が発生し、社会問題を解決するメカニズムが弱まった

 わが国の社会管理の基礎は、過去は仕事の「単位」により依存しており、「単位組織」も過去には問題を解決する末端のメカニズムであった。現在、絶対多数の城鎮の従業員は、「単位人」から「社会人」に変わっている。こうした状況では、政府は往々にして直接に分散化した個人に直接向き合い、統治の摩擦のコストが大量に増加し、上から下への社会的な事務の徹底と実行も、下から上への社会問題の調停と解決も、いずれも妨げられている。たとえば税収、治安、民生、社会保障、就業、衛生・防疫はおよび徴兵、献血のような社会的な事務は、現在は「単位」に頼るだけでは完全に実行することは非常に難しくなっている。ほかに末端で発生しているいつかの社会的な紛争と矛盾は、現在は「末端で解決する」ことはできず、民衆からすれば「役人を訴える(打官司)」はコストがあまりに高く、相当の部分の民衆は「陳情して法を信じず」、末端政府に要求を伝えるが、現在は政治と企業が分離し、政治と社会も分離しているので、飛び越えて北京に直接陳情するという現象が次第に目立つようになり、民衆の陳情とそれを阻止する地方政府との激しい衝突を招いている。いくつかの地方では、社会問題は長年蓄積してきた広範な民衆の怒りによるものがあるので、きわめて簡単に予想外の事情で集団的な事件を生み出してしまう。ゆえに、いかに社会管理のコストを低下させ、有効に問題を解消する末端の社会メカニズムを形成していくかは、社会管理体制が探究する必要のある新しい問題である。

6.所得格差の拡大と分配の不公平の問題が、社会問題を引き起こす真相の原因となっている

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7.集団的な事件の問題が目立つようになり、様々な新しいタイプの社会的なリスクが高度に重視される必要がある

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8.社会の転換が加速し、社会の治安が直面する問題は日に日に複雑になっている

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 李培林が「社会管理」の問題について論じた総論的文章。詳細は不明だが、おそらく発表媒体からみて全人代の報告を基にしたものである。

 この文章で李培林は、中国における社会管理の弛緩の背景として、農村から都市への人口の流動化と、それに伴う農地の投機化よる紛争の発生、都市に定住した農民工の権利意識の向上、農業税撤廃以降の末端行政の財政難と官民関係の緊張化、「単位」などの中間的組織の弱体化による政府の統治コスト増などを指摘している。

李培林はこの文章の中で、社会管理の方法として、中国の「国情」から出発すれば、中央集権的な路線も民間組織に依存した方法も不可能であり、基層党組織の主導でいわゆる「社会的企業」のような社会サービスを担う末端組織の設立を促し、「社区」を通じて社会管理を担うようになるべきだと主張している。

地方エリートと農村社会の再建

2011-11-05 10:03:33 | Weblog

宣朝慶「地方エリートと農村社会の再建――定県実験における士紳と平民教育促進会の衝突」『社会学研究』2011年第4期
http://www.sociology2010.cass.cn/upload/2011/10/d20111027151930625.pdf


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 本文の基本的な観点は、近代以来の中国農村の社会再建は基本的には現代化に向かう一つのプロセスであり、社会エリートが社会の現代化を推進する重要な役割を果たしているというものである。民国時期には、国家の権威は失墜し、政治体制は全面的に音をたてて瓦解し、広大な農地農村経済は衰退し、社会は混乱し、至る所できわめて混乱した無政府状態に陥っており、社会エリートがこの権力の真空を埋めて、農村社会の再建の点で少なくない努力を行っていた。社会学の標準に照らすと、社会エリートは権力、声望と財富などの点で比較的優勢な個体あるいは集団などを指すものである。過去の研究で最も住されてきたのは紳士エリートであり、費孝通の「双軌政治」、張忠礼の「士紳社会」、デュアラ(杜賛奇)の「インボリューション」モデルなどは、ひとしく国家と社会のなかで演じされている特殊な役割を分析したものである(陳世栄「国家与地方社会的互動――近代社会菁英的研究典範与未来的研究趨勢」『中央研究院近代史研究所集刊』第54 期、2006年)。郷村建設運動のなかで、専門的な知識分子集団は一群の特殊な社会エリートとして、郷村自治(郷治)を推進する士紳階層と一緒に、農村社会の再建において重要な役割を発揮したのである。彼らと士紳エリートが最も大きく異なるのは、西洋の高等教育を受けて、学術界あるいは全国で、国際的に名声を博し、より広範な資源動員能力を有していたことである。まさに士紳エリートが、農村社会の破産のなかでその機能のマイナス面が強くなり、地方社会の転換を促進・形成することができなくなった時に、専門知識人集団が現代農業の技術や社会的な組合の技術と制度を導入し、地方社会が持続的に近代化された社会に進んでいくことを推し進めてきた。このプロセスのなかで、まさに1930年代の定県で現れたような、新旧エリートの衝突と対抗が必然的に出現したのである。


1 権威の失墜――士紳の不満の根源および表現

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 定県が県政建設の実験県に指定された後に、士紳が政治生活のなかで徹底的に周辺化したことが、彼らが平民教育促進会に反対する根本原因であった。

 伝統的な郷村は紳治であり、これは清末民国時期に、比較的長い期間持続したものである(費孝通『中国紳士』趙旭東訳、三聯書店、2009年、66頁、黄宗智『華北小農経済与社会変遷』中華書局、2004年、242-243頁)。これまでの観点では、清末民初は地方では「新政」が実施された後に、民衆の税費負担が激増し、伝統的なパトロン型の地方エリートは次々と辞職し、政治舞台から退出して、恥知らずにも(地皮無頼)機会に乗じて権力を握って濫用し、民衆からの恨みは頂点に達していた、と理解されてきた。李懐印の研究は、こうした現象はあくまで主に華北地区の土地が貧弱で村のコミュニティ(村社)が散漫な「周辺」の地帯で存在していることを明らかにしている。彼によると、冀中南の獲鹿県では、宗族の紐帯を基礎とした自発的な組合制度が継続的に存在しており、パトロン型のエリートは決して舞台から退出することなく、むしろ次々と村長あるいは県議事会や参事会のメンバーに選ばれて、そしてこれを舞台として官府と駆け引きをして、何度も県衙門による税金や税種の増加を打ち負かしたのだという(李懐印『華北村治――晩清和民国時期的国家与郷村』歳有生等訳、中華書局、2008年)。彼はその究極的な要因として二つ挙げている。ひとつは、清末新政は紳権を拡張し、学校建設、衛生、農工商務、道路工事、社会救済と慈善などの公共事業など、多くの伝統時代の非制度的な紳権を正式に認めさせ、郷村の士紳階層の地方の公権力と公共利益に対するコントロールをさらに直接的なものにしてきたことである(王先明「20世紀前期中国郷村社会建設路径的歴史反思」『天津社会科学』第6 期)。もう一つの原因は、家族・地主と承認勢力が地方エリートの主体部分を構成しているという、士紳集団の重層的な構造である。1905年の科挙廃止後、士農工商の四民意識は次第に廃れ、士紳の概念は次第に伝統的な士紳、新しい学問の士、商人あるいは紳商などの内に含む様々な集団を広く含むものとなった。新しい士紳集団は政治参加を通じ、商会、農会、教育界などの社団組織を把握し、特定の社会利益に対するコントロールを実現したが、ここから士紳集団を基本的に官紳(政治に参与)、商紳(地方経済に参加して農会と商会を把握)、学紳(伝統的な紳士と知識分子を含み、教育界を把握し、地方文化教育に参与)の三つの部分に分けることができる(同前、255-265頁)。定県と獲鹿県の状況は互いに似ている。・・・1920年代―30年代、定県地方エリートの上層は基本的に伝統的な士紳、新式学問の知識人、商人といくつかの家族地主を主とするものであり、富農と家族の長がその支持者であった。・・・平民教育促進会も「士紳」などのその地のエリート分子にかかわる呼称を用いて、身分が自らと違うことを示そうとしていた。

 士紳の地方の権力構造における重要性に鑑みて、民国時期の郷村建設者は基本的に士紳たちに支持と協力を求める傾向があった。・・・・しかし、平民教育促進会の郷村建設は完全に郷村が元来有していた長老政治や村級組織に完全に依存するのでは決してなく、平民教育学校の卒業生の同窓会を基礎とするものであり、特に1933年の県政建設の実験を転換点として、平民教育学校の同窓会は政治改革、経済発展、社会自治などの点で重要な役割を発揮し、士紳は地方の権力構造において深刻に周辺化され、平民教育会との矛盾と衝突がついに爆発したのである。

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2 組織の重層構造――平民学校卒業同窓会の士紳の権勢に対する挑戦

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3 地方自治――士紳と国家の近代化という場における役割

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 実験県の任務を与えられた後に、晏陽初、陳筑山が県政建設研究院を主宰し、研究院の実験部の主任である霍六丁が県長に任命され、地方社会の発展の主導権は士紳から全面的に平民教育促進会に全面的に転換することになった。霍六丁は県政改革を主宰して、古い租税を徴収する県衙門を人民ために福利を図る気候に改造したことは、士紳の権力に極めて大きな手を加え、士紳の既得利益に深刻な打撃を与えるものであった。「官吏の統治という点では、県府と属している各局の組織を調整し、従来のおくれた規則を削除し、不正をはたらいた人員を懲戒する。民生方面では、村民が資金を収集する方法を規定し、保衛団費を随粮带征に改め、農産倉庫貸借処をつくり、禁アヘン運動を励行する」(王維顕「『模範県』期与『実験区』期的定県県政」『政治経済学報』第5 卷第3 期、1936年)。霍六丁の「新しい役人は最初は張り切る(新官上任三把火)」は、特に賭博禁止が士紳の面子をつぶし(顔面掃地)、平民学校の卒業生同窓会の摘発によって、勢力のある士紳、名のある人士が参加していた賭博集団仲間、罪を得ていた大塩商人王家、旧式の士紳である趙家および白家、谷家や趙家などの大家族を逮捕した。同時に、定県は模範県時代の地方自治モデルを取り消し、県政委員会、郷村建設員会などの部分を名誉職として現地の開明指針に残し、大部分の権力を平民学校卒業同窓会に帰属させた。こうした措置は、平民教育促進会の事業に対して非常に大きな推進作用を引き起こしたが、豪紳、劣紳たちの激しい反抗も引き起こした。

 近代化の主体という角度から見ると、国家との相対で言えば、平民教育促進会と士紳集団は明らかに地方的な代表に属するものである。本来であれば、二者は国家との協力には向かわず、自主的に郷村の近代化を十分に完成できることを希望しているが、彼らは最終的に郷村建設の指導権の問題で深刻な分裂を生み出してしまった。平民教育促進会は士紳の農村の権力に対する壟断を徹底的に打破するために、最終的に国家との協力を選択したのである。こうして、表面的に見れば、定県の郷村建設過程で出現した矛盾は地方士紳階層と平民教育促進会との矛盾であるが、実のところその背後には地方士紳と中央政権との矛盾が屈折しており、それは地方社会の近代化の指導権をめぐる争奪戦だったのである。ゆえに、まさに士紳が平民教育促進会に対して不満を表明する時、政府の立場を代表する役人は、促進会を庇う態度をとり、県長を交替させることがあっても、各項の改革は依然として現状を維持することを指示してきた。しかし、こうした争いの過程で、士紳は結局のところ勝利を得た。士紳たちの激しい反対が、県政事業全体の正常な展開に深刻な影響を与えたため、霍六丁は定県を離れざるを得なくなってしまったのである。後任者である呂復は士紳たちが選んだ人物であり、基本的に規則に従って通例どおりのことしかせず、特に「輿論の尊重」「民に休息を与える」ことを施政の要とし、平民教育促進会の県政建設実験ははっきりと士紳に妥協すべきことを表明した。

4 農村の破産――士紳イメージの悪化

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5 結語

 1926-37年、定県の社会エリート集団は現地の士紳と平民教育促進会のメンバーによって構成されていた。郷村建設の過程で、平民教育促進会と士紳とでは協力だけではなく衝突もあったが、協力の大部分は教育の領域で、衝突の大部分は経済と政治の領域に集中していた。これらの領域の分布をはっきりと区別することは非常に難しく、また家族、商人の勢力は農村社会で一貫して複雑な関係にあるものの、基本的には、学紳と平民教育促進会との協力は良好であり、官紳や商紳と平民教育促進会との関係は緊張に満ちたものであった。1930年代の農村破産の危機的局面の分析を通じて明らかになったことは、平民教育促進会と士紳との間の社会衝突の背後には制度の不在(缺失)という構造的な問題を暗に含むものであるということである。近代農村の破産はもはやこれまでのような天災や戦争などの固有の要因による産物ではなく、中国が西洋列強主導の工業化のルートと市場システムに否応なく組み込まれたことの産物である。こうした経済危機への対応で、伝統的な農村は全く十分な制度的準備を持たなかった。金融恐慌の中で、農村の慣習に照らして金融の調整の役割を担ってきた士紳エリートは、大体において社会が期待する役割を維持することが難しくなり、高利貸しは暴力で利益を貪り、社会的な混乱を引き起こすことになった。平民教育促進会は定県で金融組合を組織、導入し、銀行を設立し、農村の資金問題を解決したことは、農村社会の再建に対してかなりの意義を持つ制度の探究である。

 同時に、特殊な歴史時期や特殊な社会構造の限定のなかで、士紳エリートと平民教育促進会の衝突は決して一つのレベルで展開したのではなく、比較的立体的な形で中国農村の近代化の複雑性を展開・表現していた。清末以来、士紳エリートは地方社会の指導階層として、地方の近代化を推進する内在的な原動力を具えていたが、彼らは知識の蓄積や専門的な職能などの点で、農業と郷村建設の重い責任を担うことは困難であった。農村が発展するには、外部組織とのコミュニケーションや接続が必要であり、新しい専門的なサービス機構を探究していかなくてはならない。平民教育促進会はまさに、こうした種類の機構として、時宜を得て出現することになったわけである。しかし、双方の協力は文化理念、経済的利益や権力コントロールなどの問題でしばしば歪んだものとなり、平民教育促進会に国家の支持を求めさせることになった。これと同時に、国家も近代を推進する独立の力として、士紳エリートが協力せずに困っていることに対して、平民教育促進会が農村復興を促進し、定県県政建設実験はこの路線で行われることに期待したのである。しかし、平民教育促進会が無力で、国家は土地制度を改革する意思がなく、士紳の大土地占有者の身分と農村の領袖という権勢も動揺することがなかったため、平民教育促進会は包容、迂回の態度をとり、粘り強く彼らの支持と協力を得ていくしかなかった。まさに改革が士紳の既得権益に抵触し、士紳の反対に直面した時に、平民教育促進会は守勢をとらざるを得なかった。このように、国家と平民教育促進会はいずれも伝統的な社会構造、特に階級構造の制限を受けて、社会建設の能力は大きく削がれることになり、これは不可避的に矛盾が一層進む伏線となったのである。


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 1920年代から30年代にかけての中国では、農村の教育水準を上げることを通じて地域社会の秩序と自治も確立していこうという、「平民教育」「郷村建設」を掲げる運動が盛んになった。梁漱溟、陶行知、晏陽初などが代表的な運動家として知られているが、宣朝慶はこの論文で、晏陽初の河北省定県における中華平民教育促進会の運動を取り上げている。

 晏陽初は、13歳から中国国内のイギリス宣教師のミッション系の学校で学んで敬虔なキリスト教徒となり、その後アメリカのイェール大学とプリンストン大学に留学する。帰国後はYMCAの活動に従事し、これを基盤に「平民教育」の運動を展開するようになる。晏陽初の平民教育運動は、そのアメリカの人脈を生かしてロックフェラー財団からの潤沢な資金援助と、南京国民政府からの政治的支援を受け、識字率の向上などに一定の成果を上げている。

 晏陽初が平民教育運動の拠点としていたのが河北省定県であるが、宣朝慶はこの論文で、その運動の本拠地ですら郷紳層(士紳)との対立の中で失敗に至ったことを描き出している。つまり平民教育運動と郷村建設の失敗は、第一義的には農村社会で権威をもった郷紳層との、特に政治・経済の面での連携の失敗なのである。アメリカとキリスト教の価値観を背景とした晏陽初の平民教育運動は、中国における農村土着の生活様式の意義や経済構造の問題を軽視していたと評価されることが多いが、それは郷紳層に対する姿勢にも表れた可能性がある。

 宣朝慶は、運動・郷紳層・国家という三つのアクターの関係で平民教育運動の挫折の原因を分析し、運動が郷紳層と激しく対立するなかで国家と共闘するようになったというプロセスを描き出しているが、この論文では国家に関する分析が弱い印象がある。そもそも、国家と平民教育・郷村建設運動との関係は、必ずしも一様なものではない。晏陽初のようにナショナリズムを掲げて全面的に国家の支持を得たものもあれば、梁漱溟のように「郷治」の理念からなるべく国家と距離をとろうとしたものもあり、よりプラグマティズムの哲学に忠実な陶行知などは、蒋介石から弾圧を受けていた。

 全体としては、国家と郷紳層は対立関係にあったのではなく、むしろ国民国家統合と地方統治のために(伝統的には非政治的な名望的権威者だった)郷紳層に行政権限を与えたことが、農民の郷紳層に対する激しい憎悪を生み出す背景となり、共産党政権を生み出す土壌となったと理解したほうが、歴史の流れとしてはすっきり理解できるように思われる。平民教育・郷村建設運動は、こうした流れに対して農村社会という場で近代知識エリートと郷紳層とを連携させる(つまり共産党政権の出現を阻止し得た)可能性をもった試みとして位置付けることもできる。個人的には非常に興味のあるテーマであり、同様の実証研究の積み上げを期待したい。