個人的に必要があって、今から簡単に勉強していきます。一週間くらいかかると思います。今まで真面目に勉強してこなかったツケが・・・。参考にするのは、毛里、王柯、平野各氏の研究。今更ながら気づいたのは、王柯さんが毛里さんや平野さんなど日本の研究をほとんど(というか全く)参照していないこと。費孝通すら言及していないので、記述の戦略として、既存研究を敢えて取り上げていないと考えたほうがいい。学会などで会う機会も多いだろうに、大丈夫なのだろうか・・・。
(1)近代以前
王朝国家における民族政策は「華夷秩序」の原則に基づき、中国皇帝の宗主権の絶対性を除けば、総じて緩やかなものであった。漢王朝は、服従した周辺の異民族集団を「外臣」と「内属」に分け、それらを「国」と定めて事実上の自治を認めていた。唐王朝のキビ制度も同様であり、中国王朝が異民族社会に直接介入することは基本的になかったのであり、それは間接統治という以前の、ヒラルキー的な交易関係とでも呼ぶべきものであった。
王朝国家の異民族に対する「支配」と呼べるようなものは、「土司制度」によって登場する。土司は元代に登場したもので、周辺民族の酋長を土司に任命してその地域を統治する権力を与えるものであり、これによって周辺民族は中国王朝の官僚組織に間接統治という形で緩やかに帰属していくことになる。唐代以前の異民族政策はほとんど「朝貢」に近いものであったが、土司制度では朝貢の性格を残しつつ、部分的に納税制度が導入されている。
この中国王朝の土司制度による間接統治が深化すると、次第に「改土帰流」という科挙官僚による直接統治へと移行し、少数民族は科挙制度の中に組み込まれて次第に「中国化」されていくようになる。清代になると土司そのものが次第に廃止され、雍正帝は少数民族の満州族が普遍的な「中華」の文化を代表するようになった以上、「華夷」の民族的な区別自体が意味がないことを(もちろん実際は満州人貴族は特権的に漢人から区別されていたわけだが)宣言した。こうして少数民族政権の下で、「改土帰流」が強力に推進されていくことになった。
ちなみにチベットとウィグルなどの「辺境」に関しては、状況は異なっている。それらには土司制度は導入されることはなく、せいぜい「衛所」を設けただけであり、弁髪も決して強制せず、その地から科挙官僚が輩出されることもまずなかった。漢族の移住も厳しく原則的には禁止されており、これらの地には「改土帰流」が及ぶことはむしろ阻止されていた。
(王柯の記述では「改土帰流」に対してかなり肯定的で、平野も清朝の「公正な帝国」を高く評価しているが、18から19世紀の苗族の大規模な反乱など、少なくない周辺民族の部分が「改土帰流」に抵抗していたことは明らかである。それに王柯の記述だと、「改土帰流」の記述の中に「辺境」が例外であったことがきちんと書かれていないだけではなく、近代における「国民化」「国民統合」との質的な違いがどうも曖昧であるが、この両者の質的相違をもっとはっきりと区別して論じるべきである。科挙官僚制が地域社会の運営には直接関与しない、きわめて粗放な体制であったことは歴史学研究では常識であり、その粗放さが周辺民族政策にも反映されていたに過ぎないだけではないのだろうか。多民族国家の伝統を土司制度と「改土帰流」に求める王柯の視点には、強い違和感を覚える。何より国家体制や社会経済への言及があまりになさすぎて、完全に「民族政策史」になってしまっている(もっともこれは他の研究にも多少なりとも言える)。王柯の欠点は、岩波の『多民族国家中国』ではそれほど目立たなかったが、最近の『「天下」を目指して-中国多民族国家の歩み』(農文協、2007年)では、よりはっきりしているように思われる。)
(2)清末~民国期
西欧列強による中国進出が始まると、「国境」を防衛するために「改土帰流」から除外されていた辺境の地にも、中央の官僚制度が持ち込まれ、新疆は「新疆省」に組み込まれることになった。
チベットは前に記述したことがあるので省略。「改土帰流」が強力かつ暴力的に推進された。
モンゴルに対しては、清朝はもともと内モンゴルと外モンゴルにわけ、前者に行政区の設置や漢族の移住を行う一方で、後者は緩やかな間接統治に留めておいたが、1906年以降の清末新政の中で新軍の配備や農地開墾などの推し進めたが反発が強まり、1911年に「漢族」を掲げた辛亥革命が起こって各省が独立宣言を行うと、すると、この機に乗じてロシアなどに独立の承認を求めていくことになる。その後はロシアと中国との交渉で、「中国領土の完全な一部」であることを前提にした高度な自治を認めるにとどまったが、1921年にソ連の影響で人民革命が起こり、24年にモンゴル人民共和国が成立することになる(中国が正式承認するのはヤルタ会談においてのこと)。
蒋介石の南京国民政府は1929年に蒙蔵委員会を設立し、モンゴル・チベットの上層指導者を取り込もうとしたが、国民政府自体の集権化が不十分なこともあり、あまり機能しなかった。内モンゴルや青海などでも省制度を導入しようとしたが、総じて頓挫した。民族理論も、アメリカのメルティング・ポット論と伝統的な宗族のネットワークを奇妙に結合させた、「中華民族」融合論であった。
(3)中国共産党と毛沢東時代
(4)「多民族国家」時代
(1)近代以前
王朝国家における民族政策は「華夷秩序」の原則に基づき、中国皇帝の宗主権の絶対性を除けば、総じて緩やかなものであった。漢王朝は、服従した周辺の異民族集団を「外臣」と「内属」に分け、それらを「国」と定めて事実上の自治を認めていた。唐王朝のキビ制度も同様であり、中国王朝が異民族社会に直接介入することは基本的になかったのであり、それは間接統治という以前の、ヒラルキー的な交易関係とでも呼ぶべきものであった。
王朝国家の異民族に対する「支配」と呼べるようなものは、「土司制度」によって登場する。土司は元代に登場したもので、周辺民族の酋長を土司に任命してその地域を統治する権力を与えるものであり、これによって周辺民族は中国王朝の官僚組織に間接統治という形で緩やかに帰属していくことになる。唐代以前の異民族政策はほとんど「朝貢」に近いものであったが、土司制度では朝貢の性格を残しつつ、部分的に納税制度が導入されている。
この中国王朝の土司制度による間接統治が深化すると、次第に「改土帰流」という科挙官僚による直接統治へと移行し、少数民族は科挙制度の中に組み込まれて次第に「中国化」されていくようになる。清代になると土司そのものが次第に廃止され、雍正帝は少数民族の満州族が普遍的な「中華」の文化を代表するようになった以上、「華夷」の民族的な区別自体が意味がないことを(もちろん実際は満州人貴族は特権的に漢人から区別されていたわけだが)宣言した。こうして少数民族政権の下で、「改土帰流」が強力に推進されていくことになった。
ちなみにチベットとウィグルなどの「辺境」に関しては、状況は異なっている。それらには土司制度は導入されることはなく、せいぜい「衛所」を設けただけであり、弁髪も決して強制せず、その地から科挙官僚が輩出されることもまずなかった。漢族の移住も厳しく原則的には禁止されており、これらの地には「改土帰流」が及ぶことはむしろ阻止されていた。
(王柯の記述では「改土帰流」に対してかなり肯定的で、平野も清朝の「公正な帝国」を高く評価しているが、18から19世紀の苗族の大規模な反乱など、少なくない周辺民族の部分が「改土帰流」に抵抗していたことは明らかである。それに王柯の記述だと、「改土帰流」の記述の中に「辺境」が例外であったことがきちんと書かれていないだけではなく、近代における「国民化」「国民統合」との質的な違いがどうも曖昧であるが、この両者の質的相違をもっとはっきりと区別して論じるべきである。科挙官僚制が地域社会の運営には直接関与しない、きわめて粗放な体制であったことは歴史学研究では常識であり、その粗放さが周辺民族政策にも反映されていたに過ぎないだけではないのだろうか。多民族国家の伝統を土司制度と「改土帰流」に求める王柯の視点には、強い違和感を覚える。何より国家体制や社会経済への言及があまりになさすぎて、完全に「民族政策史」になってしまっている(もっともこれは他の研究にも多少なりとも言える)。王柯の欠点は、岩波の『多民族国家中国』ではそれほど目立たなかったが、最近の『「天下」を目指して-中国多民族国家の歩み』(農文協、2007年)では、よりはっきりしているように思われる。)
(2)清末~民国期
西欧列強による中国進出が始まると、「国境」を防衛するために「改土帰流」から除外されていた辺境の地にも、中央の官僚制度が持ち込まれ、新疆は「新疆省」に組み込まれることになった。
チベットは前に記述したことがあるので省略。「改土帰流」が強力かつ暴力的に推進された。
モンゴルに対しては、清朝はもともと内モンゴルと外モンゴルにわけ、前者に行政区の設置や漢族の移住を行う一方で、後者は緩やかな間接統治に留めておいたが、1906年以降の清末新政の中で新軍の配備や農地開墾などの推し進めたが反発が強まり、1911年に「漢族」を掲げた辛亥革命が起こって各省が独立宣言を行うと、すると、この機に乗じてロシアなどに独立の承認を求めていくことになる。その後はロシアと中国との交渉で、「中国領土の完全な一部」であることを前提にした高度な自治を認めるにとどまったが、1921年にソ連の影響で人民革命が起こり、24年にモンゴル人民共和国が成立することになる(中国が正式承認するのはヤルタ会談においてのこと)。
蒋介石の南京国民政府は1929年に蒙蔵委員会を設立し、モンゴル・チベットの上層指導者を取り込もうとしたが、国民政府自体の集権化が不十分なこともあり、あまり機能しなかった。内モンゴルや青海などでも省制度を導入しようとしたが、総じて頓挫した。民族理論も、アメリカのメルティング・ポット論と伝統的な宗族のネットワークを奇妙に結合させた、「中華民族」融合論であった。
(3)中国共産党と毛沢東時代
(4)「多民族国家」時代