史報

中国史・現代中国関係のブログ

中国民族政策史

2008-05-29 21:19:35 | Weblog
個人的に必要があって、今から簡単に勉強していきます。一週間くらいかかると思います。今まで真面目に勉強してこなかったツケが・・・。参考にするのは、毛里、王柯、平野各氏の研究。今更ながら気づいたのは、王柯さんが毛里さんや平野さんなど日本の研究をほとんど(というか全く)参照していないこと。費孝通すら言及していないので、記述の戦略として、既存研究を敢えて取り上げていないと考えたほうがいい。学会などで会う機会も多いだろうに、大丈夫なのだろうか・・・。

(1)近代以前

 王朝国家における民族政策は「華夷秩序」の原則に基づき、中国皇帝の宗主権の絶対性を除けば、総じて緩やかなものであった。漢王朝は、服従した周辺の異民族集団を「外臣」と「内属」に分け、それらを「国」と定めて事実上の自治を認めていた。唐王朝のキビ制度も同様であり、中国王朝が異民族社会に直接介入することは基本的になかったのであり、それは間接統治という以前の、ヒラルキー的な交易関係とでも呼ぶべきものであった。
 王朝国家の異民族に対する「支配」と呼べるようなものは、「土司制度」によって登場する。土司は元代に登場したもので、周辺民族の酋長を土司に任命してその地域を統治する権力を与えるものであり、これによって周辺民族は中国王朝の官僚組織に間接統治という形で緩やかに帰属していくことになる。唐代以前の異民族政策はほとんど「朝貢」に近いものであったが、土司制度では朝貢の性格を残しつつ、部分的に納税制度が導入されている。
 この中国王朝の土司制度による間接統治が深化すると、次第に「改土帰流」という科挙官僚による直接統治へと移行し、少数民族は科挙制度の中に組み込まれて次第に「中国化」されていくようになる。清代になると土司そのものが次第に廃止され、雍正帝は少数民族の満州族が普遍的な「中華」の文化を代表するようになった以上、「華夷」の民族的な区別自体が意味がないことを(もちろん実際は満州人貴族は特権的に漢人から区別されていたわけだが)宣言した。こうして少数民族政権の下で、「改土帰流」が強力に推進されていくことになった。
 ちなみにチベットとウィグルなどの「辺境」に関しては、状況は異なっている。それらには土司制度は導入されることはなく、せいぜい「衛所」を設けただけであり、弁髪も決して強制せず、その地から科挙官僚が輩出されることもまずなかった。漢族の移住も厳しく原則的には禁止されており、これらの地には「改土帰流」が及ぶことはむしろ阻止されていた。
 (王柯の記述では「改土帰流」に対してかなり肯定的で、平野も清朝の「公正な帝国」を高く評価しているが、18から19世紀の苗族の大規模な反乱など、少なくない周辺民族の部分が「改土帰流」に抵抗していたことは明らかである。それに王柯の記述だと、「改土帰流」の記述の中に「辺境」が例外であったことがきちんと書かれていないだけではなく、近代における「国民化」「国民統合」との質的な違いがどうも曖昧であるが、この両者の質的相違をもっとはっきりと区別して論じるべきである。科挙官僚制が地域社会の運営には直接関与しない、きわめて粗放な体制であったことは歴史学研究では常識であり、その粗放さが周辺民族政策にも反映されていたに過ぎないだけではないのだろうか。多民族国家の伝統を土司制度と「改土帰流」に求める王柯の視点には、強い違和感を覚える。何より国家体制や社会経済への言及があまりになさすぎて、完全に「民族政策史」になってしまっている(もっともこれは他の研究にも多少なりとも言える)。王柯の欠点は、岩波の『多民族国家中国』ではそれほど目立たなかったが、最近の『「天下」を目指して-中国多民族国家の歩み』(農文協、2007年)では、よりはっきりしているように思われる。)

(2)清末~民国期
 西欧列強による中国進出が始まると、「国境」を防衛するために「改土帰流」から除外されていた辺境の地にも、中央の官僚制度が持ち込まれ、新疆は「新疆省」に組み込まれることになった。
 チベットは前に記述したことがあるので省略。「改土帰流」が強力かつ暴力的に推進された。
 モンゴルに対しては、清朝はもともと内モンゴルと外モンゴルにわけ、前者に行政区の設置や漢族の移住を行う一方で、後者は緩やかな間接統治に留めておいたが、1906年以降の清末新政の中で新軍の配備や農地開墾などの推し進めたが反発が強まり、1911年に「漢族」を掲げた辛亥革命が起こって各省が独立宣言を行うと、すると、この機に乗じてロシアなどに独立の承認を求めていくことになる。その後はロシアと中国との交渉で、「中国領土の完全な一部」であることを前提にした高度な自治を認めるにとどまったが、1921年にソ連の影響で人民革命が起こり、24年にモンゴル人民共和国が成立することになる(中国が正式承認するのはヤルタ会談においてのこと)。
 蒋介石の南京国民政府は1929年に蒙蔵委員会を設立し、モンゴル・チベットの上層指導者を取り込もうとしたが、国民政府自体の集権化が不十分なこともあり、あまり機能しなかった。内モンゴルや青海などでも省制度を導入しようとしたが、総じて頓挫した。民族理論も、アメリカのメルティング・ポット論と伝統的な宗族のネットワークを奇妙に結合させた、「中華民族」融合論であった。


(3)中国共産党と毛沢東時代


(4)「多民族国家」時代



二つの国民国家

2008-05-26 20:57:04 | Weblog
一口に「国民国家」といっても、1970年代までの国民国家と、1980年代以降特に冷戦崩壊以降の国民国家の二段階がある。とりあえずノートということで。

第一段階の国民国家は、国家が社会の隅々まで国民生活をコントロールしようとする国家である。その原型は軍隊である。学校教育から監獄に至るまでのさまざまな「規律・訓練」を通じて、国民の国家に対する忠誠心(愛国心)と、支配・秩序の安定化を図ろうとする。非常に手間隙をかけて国民に対する規律・訓練が施されるので、決して早逝したり外国に逃亡したりしないように、様々な福利厚生が提供される。いわゆる「福祉国家」である。

第二段階の国民国家は、これとはかなり様相を異にする。これには三つの背景がある。第一に、総力戦と核戦争の時代になって国家間戦争のコストと危険度が臨界点に達し、多くの国で徴兵制も廃止されて軍隊モデルで国家が捉えられなくなったこと。第二に、福祉・医療制度の完備に伴う財政圧力と少子高齢化に伴って、欧米では1970年代末に、そして日本では90年代になって「福祉国家の危機」が叫ばれるようになったこと。最後には、「多国籍企業」や国際投資ファンドの登場を象徴とする「グローバル化」の力によって、国家が企業や市場を育成・保護するのではなく、企業や市場によって国家が選択される時代になっていったことである。

第一段階では、国民生活の一挙手一投足に至るまで国家が介入し、国民の国家に対する忠誠心(反抗の契機を含めて)を確保しようとした。国民が平等に高い政治能力と愛国心を持っていることが、強く安定した国家の形成を可能にすると考えられていたからである。医療や福祉も「強い国民の身体」をつくることが、まずもって目標であった。

しかし第二段階では、国家が「魅力的な市場」を提供し、企業や投資家の高い支持を得ることが第一の目標となる。そのためには市場を徹底的に開放して、経済制度や法制度を「グローバル・スタンダード」に合わせていくことが不可欠になる。国民に対しては、他国民との競争に打ち勝つための平等な「規律・訓練」を施すのではなく、国民内部相互での競争を加速させることよって「経済の活力」を高めることが目指されるようになる。国民の能力を均等化することが目指されなくなると、統治者にとって医療・福祉制度は徐々に国家の財政コスト以上の意味がなくなり、その削減の圧力が強まっていく。

決定的に異なるのは、移民に対する態度である。第一段階では、全人格が国家と同一化するような国民形成が目指されるので、他の国家からやってきた移民は好ましいものではなかった。しかし第二段階では、「競争の活力」を高めるものとして、そして発展途上国からの「廉価な労働力」としてむしろ奨励される。グローバルな市場は、言うまでもなく高賃金の水準を求める労働者が企業と激しく対立している国よりも、国民の権利意識がそれほど高くなく、安く膨大な労働力が存在している国を選好するようになる。

第一段階では、国家の国力がその国民の生活水準とおおむね一致していた。そこで非難の対象となったのは、先進国家の発展途上国家に対する、国家間の「搾取」であった。しかし第二段階では中国やインドに代表されるように、超先進国と発展途上国が矛盾なく共存しているようになっている。「アメリカ人は裕福である」とか「インド人は貧しい」といった物言いが、もはや通用しなくなっているのである。

これを「国民国家の終焉」と捉える議論が少なくないが、これは端的な事実として間違いであるだけではなく、論理的にも完全に誤っている。第一に、第二段階では「機会の平等」を最低限保障する(アリバイをつくる)ための普通教育制度は、むしろかえって重視されるようになること、第二に国家は国民になぜ激しいを競争して福祉サービスの削減をしなければならないかの理由として「国を危機から救う」という「愛国心」を持ち出すこと、第三にグローバルな企業や投資家がより「魅力的な市場」を提供する国家を選択する際に、その選択肢や差異を示すものとしての、「日本」や「中国」といったナショナルな指標が重要な意味をもつからである。

そして重要なのは「監視的権力」が強まることである。第一段階では、規律と道徳が内面化された国民を形成することで、国家の安定・秩序が維持されるという発想に立っていた。しかし第二段階では、そうした「立派な国民」の育成が放棄され、そのかわり秩序を維持するために監視の網の目を張り巡らしていくという方法が選択される。そして監視的権力も、「国民生活を守る」というスローガンで正当化されている。これは単に監視テクノロジーの発達というだけではなくて、規律的権力による国民の形成がグローバルな市場競争と国家財政とって大きなネックとなったからである。

第二段階の国民国家は、第一段階が資本主義と社会主義に分岐したように、まったく対極な二つの道に分岐している。第一には北・西欧など、市場原理と矛盾しない消費税を大規模に導入し、移民の入国管理も強化することによって「福祉国家」を維持しようとするものである。第二にはアメリカなど「自己責任」の原則を徹底化していくことで、社会保障をはじめとする国家の統治コストを減らしていくという方向である。第一の道がいいかどうかは判断できかねるが、第二の道はいろいろな本や報道に接する限り、かなり悲惨な状態になっている。アメリカの福祉医療制度はもはや発展途上国以下と言ってよく、国家の財政赤字もほとんど解消していない。

中国は「福祉国家」以前で経済成長の真っ只中だから、アメリカ型になってしまうのはよくわかる。しかし不可解なのは、福祉国家の歴史が長くて低成長国家である、明らかに北西欧型のほうが現実的であるように思われる日本もが、アメリカ型を目指していることである。格差社会に批判的で北西欧モデルが好ましいと思っている人も、実際は行政の規模を縮小するアメリカ的方法を支持していることが少なくない。今の民主党などがその矛盾の最も典型的なものだが、これはどういうことなのか・・・・?

全然だめですね・・・・・もう一回勉強して考えます。

中国を理解すること

2008-05-14 21:23:15 | Weblog
四川大地震からの復旧を祈りつつ・・・。ちょっとノートを。

「中国を理解する」というのはどういうことか。

1970年代以前に活躍した中国の専門家たちは(貝塚茂樹、宮崎市定、竹内好、そして今も健在の陳舜臣・・)、「中国」というものを丸ごと理解しようとしていた。専門家の数が今ほど多くはなく、国交回復以前および直後における現実の中国の情報も限られたものであったため、こうした「中国通」の人々の権威は絶大であった。

1990年代になると、こうした「中国」を丸ごと語るという物言いは通用しなくなくなった。学者そのもの権威が低下したことに加えて、日本から中国へのビジネスマン、旅行者、留学生が増え、専門家ではなくても生活体験や旅行体験から中国というものを語ることができるようになり、また中国人自身も日本で発言したり本を書いたりするようになった。勢い、中国のすべてを知っているかのような顔をすることが、通用しずらくなったのである。70年代以前の「中国通」が概ね毛沢東と共産党に好意的であったことも、彼らの信用性を低下させた一因でもある。

こうした時代に対応して、中国の専門研究者は中国全体を理解・説明するということをやめて、個別の政治、経済、移民、歴史といった問題に沈潜していった。要するに、「中国の専門家」ではなく、「中国政治」「中国経済」の専門家になったわけである。古代史から共産党まで何でも語るような、70年代以前の「中国通」に当たる役割を果たしている人が、今は存在しない状態になっている。

ただし中国全体を語るという作法がなくなったわけではない。問題は、それが非専門家の間で増殖していることである。専門家は「中国とは○○です」という言い方が「みっともない」こと、つまり「それは一面的ですよ」と他の中国研究者や中国人からすぐさま返されてしまうことをよく知っているので、そういう言い方はまずしない。

しかしその一方で、「中国は○○である」という言い方をすることを全くためらわない人たちがいる。それは、中国でビジネスをした経験がある、5年以上住んでいる、夫や妻が中国人であるという「非専門家」の人々であり、あるいは大学の先生ではあっても学会ではなく新書や論壇誌などを中心に活動している人々などである。

前にも書いたが、こういう人たちは70年代以前の「中国は○○である」と語った人たちは全く異なる。昔の人は、中国の古典、歴史・文化、小説や風俗などを、とにかく出きる限り学ぼうとする知的意欲が半端ではなかった。陳舜臣以降中国史小説は盛んになったが、逆立ちしても氏に全く敵わないのは、古典や漢文・漢詩の素養が桁違いであり、近代史の資料収集も下手な学者を優に超えていた。氏はもともと中国近代史を書こうとしていたのだが、近代を理解するには古代を知らなければならないと、『中国の歴史』や『十八史略』などの大著を次々にものしたのである。

このような人から「中国は○○である」と言われることには、その内容に疑問があろうとも(実際陳氏の歴史観には疑問も多い)、私はほとんど違和感がない。しかし今の「中国は○○である」と断じる人々は、それが個人的な体験の域を出ておらず、せいぜいそれをちょっと学問的に味付けしたという類のものが多い。体験はもちろん重要であるが、昔の人のような「中国の本質を見極めたい!」という情熱や探究心が決定的に欠けているのである。ほかの人はどう思うか知らないが、中国の「真の姿」を伝えているかどうかと言う以前に、その中国を見ようとする態度において「不誠実」なものを感じる。

もちろん、これは単に誠実さの問題ではなく、いくつかの必然的な理由がある。一つには体験が豊富になりすぎて「中国はもうわかった」という自信がかえってついてしまっていること、もう一つは中国の情報を受け取る一般人の側も、中国に関する深く広大な知識を「中国通」に求めていないからである。「孔子の時代から中国というのは・・・」という仰々しく述べる人よりも、「中国ではミネラルウォーターでも水が危ないんですよ、実際私もですね・・・」という人が「受ける」のである。

中国の専門家はというと、こういう風潮を白眼視しつつ、専門的立場からしか慎重に発言しないということをしている。今回のチベット問題でも、中国の専門家とはいえない人々の主張が声が大きくて歯切れがよく、専門家はほとんど何の主張も行わず、せいぜい「私の専門からだとこう言えます」的な議論を展開して、とってつけたように「対話が必要」としか言えないという情けない状態にある。

それでも平野聡氏など、少しでも発言しているのはまだかなりましなほうで、『世界』や『論座』などリベラル左派の論壇誌はまともにチベット問題を扱ってすらない。そのため、「非暴力主義」を掲げるダライラマの関係者の発言が、国際政治における軍事的プレゼンスの重要性を声高に訴えるタカ派の雑誌に掲載されるという、奇妙な事態になっている。こうした事態に、専門家はもう少し危機感を感じてもよいはずだろう。今回初めてチベット問題をまじめに考えるようになった人々は、「中国とは所詮○○だ」と、声高に批判する人々こそ「平和」「人権」に対して真剣な態度を示していると見なすようになるだろう。それは当然のことだ。

まとめよう。かつては学問上の中国の専門研究家が、同時に「中国」を全体として説明する権威と能力を持っていたのに対して、今は中国の研究者は自らの専門領域を踏み越えて「中国」全体を語ること(および研究すること)をしなくなった一方、「中国」全体を説明する作法が非/半専門家によって、新書からブログといった場所で増殖していった。日本人一般は前者の専門研究の堅苦しさについていけず、また昔のような教養主義信仰も完全に消滅しているので、勢い後者に依拠して中国の理解を行ってしまうことになる。

専門家もそろそろ、「中国とは何か」を全体として語る時期に来ているのではないだろうか。問題はその方法である。その方法が何かが難しいのだが・・・・。

公式見解

2008-05-03 16:21:02 | Weblog
http://www.china-embassy.or.jp/jpn/zt/zgxz/t62928.htm

>1959年の叛乱平定後、中央人民政府はチベットで民主改革を進め、暗黒の封建農奴制を廃止し、百万に及ぶ農奴と奴隷は自由の身になり、もはや農奴主の個人の財産として売買、譲渡、交換、債務返済に使われることはなくなり、農奴主に労働を強いられることもなくなった。

いかに「公式見解」とは言え、さすがにこれはひどい。少なくとも日本向けには、もう少し穏健で常識的な文章を使うべきじゃないか。

「封建農奴制」なんていう言葉は、中国国内でも既にアカデミズムではとっくに(笑)扱いになっているが、まだ公式レベルでは依然として通用しているというか、正確に言うと「使わなければいけないことになっている」ところがある。

歴史資料を当たるとよくわかることだが、中国の文献は読むのもうんざりするくらいの、タイトルを一瞥しただけで内容がわかってしまうような、建前的な言辞があまりに多すぎる。これはもちろん、中国人が言葉というのは本質的に「政治的なもの」「社会的なもの」ということを、よく理解しているからである。日本人は、自分の心の「本音」を語ることをやたらに好むが、中国人は「理」や「正」を語ることを好む。日本の小説は個人の内面を微細に描くものが少なくないが、中国の小説ではそういうものは少なく、あくまで社会への関心を背景にしている。それは森鴎外と夏目漱石、魯迅と老舎の違いを比べれて見ればよいだろう。この精神の違いが、政治のレベルになるときわめてはっきりしてしまう。日本人は公式的論理ばかりを振りかざす中国人が「馬鹿」に見えてしかたないし、中国人は日本人の無邪気な「本音」を「政治的な挑発だ」と受け取って怒る。

「封建農奴制」なんていう規定はもちろん間違いである。しかしはっきりしておかなければならないのは、チベットはイギリス式の議会制民主主義を断固拒否した歴史を有していることである。そして、それをやろうとしたダライラマ政権の関心も、民主主義というよりは、中央集権化による「民族国家」形成に存在していた。

中国に抵抗する人たちにも二つの側面があって、それは亡命政権を中心とする「近代的」な国民国家をモデルにしている人たちと、伝統的寺院の社会的権力の維持や復活を目指す人々である。前者に反発した後者の勢力が、パンチェンラマを中心に「親中」路線を選択したが、共産党政権がチベット伝統社会を破壊したことで、彼らも潜在的には「反中」になってしまった。今のパンチェンラマや全人代の代表のような本当の「親中」派は、おそらくチベット国内ではほとんど信頼されていないだろう。