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中国史・現代中国関係のブログ

熟人社会から「主体なき熟人社会」へ

2011-05-21 08:00:20 | Weblog


呉重慶「熟人社会から『主体なき熟人社会』へ」『読書』2011年第1期    
http://www.sociology2010.cass.cn/news/159204.htm


 費孝通先生はかつて中国農村社会を「熟人社会」と呼び、「郷土社会は地方性の制限の下で、ここで生まれ死ぬという社会になっていた・・・これは一つの熟人社会であり、見知らぬ人(陌生人)がいない社会である」。「熟人社会」では、血縁と地縁が一致しており、いわゆる親類・友人の間柄(沾亲带故)あるいは親族でなくても親しく(非亲即故)、その自然地理的な境界と社会生活の境界はみなはっきりしており、同時に大体において重なり合ってもいて、閉鎖的な社会空間に属している。熟人社会の構造は「差序格局」であり、行動は親近の情と礼俗の規約を重視するが、親疎・遠近の別を追求するものである。熟人社会の行為は以下のロジックを含むものである。

 第一に、輿論が人を押さえつけていることである。熟人社会では、お互いに喧嘩しては仲直りし(抬头不见低头见)、密接な相互作用が情報をもたらすという均衡のとれた状態にあり、それゆえ輿論の発生と普及は全般的に速くて広範であり、いわゆる「一が十になり、十が百になって伝わる」。熟人社会のいわゆる「民風純朴」は、個人が自覚的に行ってきた道徳規範の産物というよりは、「熟人社会」での道徳輿論の圧力の結果であると言ったほうがよい。もし社会生活の流動性が非常に低い場合を考えみればいいが、人々は容易に日常で慣れ親しんでいる人間関係の範囲から抜けですことはできないのであり、何らかの非道徳的行為が後に多数の郷里の郷親からの譴責を受けることになることを考えざるを得ず、ゆえに人々はかねてから「ウサギは巣のそばの草は食べない」という、つまり閉鎖的な社会空間の道徳輿論の圧力を避けるために良くない結果を招くという金言を守ってきたのである。

 第二は「面子」に高い価値が置かれていることである。「見知らぬ人の社会」の無情で冷淡さとは異なり、熟人社会は人情味や体裁に満ちている。「木は皮を生かし、人は顔を生かす」とは、多くの人が「死んでも面子を守る」「死んでも面子を支える」「自分を実力以上に見せようとする」ことから、面子の重要性は理解可能であろう。・・・費孝通先生が言っているように、「中国郷土社会は差序格局に従って、親族の倫理を利用して社会集団を構成しており、各種の事業を運営している」のである。・・・・

 第三に、社会資本の積み重なりである。アメリカの社会学者であるジェームズ・S・コールマンは様々な「社会資本(social capital)」の特徴に触れた上で、「そうした社会資本は構造の内部にいる個人の行動のために便宜を提供している」「社会資本は生産性に関わるものであり、社会資本を有しているかどうかは、人々がなんらかの既定の目標を実現できるかどうかを決定するものである」と指摘している。一定の意義から言えば、熟人社会は各個体が有している「関係」であり、それはつまりその人の「社会資本」なのである。熟人社会の地理的な境界と社会的な境界が固定されかつ重なり合っているという状況の下では、お互いの長期的な相互扶助、そして力を持った道徳的輿論の拘束と促進の力の下で、「面子」と「関係」雪だるまのようにどんどんと大きくなり、社会資本もこれに従って累積かつ再生産され、さらには世代間の継承や転換実現することも可能になるのである。ゆえに、それによってこそ村民が長期にわたって信頼できる民間の権威が出現しするのである。民間の権威には、親子間などの世襲がある。
 前世紀の1980年代以来、中国農民の平均の収入は年を追って高くなっているが、農村社会はむしろ不断に解体されている。大量の農民の労働力が土地と故郷を離れ、農村は日に日に空洞化している。中国の農村人口のこうした大規模な流出は、歴史上前例がないと言うことができる。

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 農村の大量の労働力が土地と故郷を離れた後、熟人社会の行為ロジックまだ機能するのだろうか。私は試しに「主体なき熟人社会(baseless society of acquaintance)」という自作の概念で、中国農村の空洞化の後の社会生活を解釈かつ描き出してみたい。

 「主体なき熟人社会」は「熟人社会」という概念の基礎の上に提出されたものである。同時に、賀雪峰が村民委員会の選挙を研究した時に提示した「半熟人社会」の啓発を受けたものである。しかし「半熟人社会」が提示しているのは「熟人社会」との量(認知の程度)的な差異であり、その解釈力は村民委員会選挙の特定の事項で表現されている。それに対して「主体なき熟人社会」は「熟人社会」との間の質的な変化を提示するために、農村社会の空洞化の論理的メカニズムを解釈してみたい。
 
 アメリカの社会学者パーソンズの「社会システム」理論は、十分な数を備えた行動者がシステムの構成部分となっている考えるものであり、つまりそれは社会システム内部の統合および社会システムと文化モデルとの間の統合の必要条件の一つであった。そうでなければ、システムの均衡を維持できなくなって「逸脱(病態)」が現れる。郷村は依然として集住のコミュニティであり、近隣同士も依然として喧嘩しては仲直りという昔ながらの熟人であるものの、様々な兆候が明らかにしているように、現在の郷村は大量に青年・壮年の労働力が異なる場所で生活しており、郷村社会の日常生活の営みも「熟人社会」のロジックとは既に異なったものになっており、あるいはパーソンズのいう「逸脱」が現れるようになっていると言うことができる。私はこの「逸脱」した熟人社会を「主体なき熟人社会」と呼んでいるのである。

 青年・壮年が大量に土地と故郷を離れてしまった後の農村コミュニティが「主体なき熟人社会」と呼ばれる理由は、青年・壮年が農村コミュニティの中で最も活躍すべき成員であり、家庭の大黒柱であり、コミュニティの公共事務の参加者よび利益の衝突の当事者だからである。革命の衝撃を経験してから後、老人の伝統的権威は弱くなり、青年・壮年は日に日に次第に農村社会生活の主体になった。大量の青年・壮年が農村コミュニティにおいて長期に「その場に」いないことは、農村の社会生活の欠陥を構成するものである。

「主体なき熟人社会」は「熟人社会」とは何らかの異なる特徴を有しているのか

 第一に、輿論が機能不全になっている。上に述べたとおり、熟人社会の行為のロジックはまず道徳輿論の圧力に依存することである。知られているように、輿論圧力の形成は、一定の数の生活共同体の成員が口頭で広める輿論が大きな効果への依存によるものであり、「一が十を伝え、十が百を伝える」ことだけで「一滴で人を溺死させる」輿論の効果を生み出すことができるのである。もし世論の広まりが単に「一」にとどまって「十」あるいは誰にも広めることができない場合は、当事者はまさに世論に対して「馬耳東風」になり、さらには大胆にも「無人の境を行くが如し」という勘違いが起こる。農村社会の主体となる成員が数多く欠けていることにより、自然村落の範囲の道徳輿論は「千夫所指(後ろ指を指される)」「万人共斥」という「同仇敵愾」式の圧力を形成することは難しくなっている。そこで、「主体なき熟人社会」では、人が笑えないような現象が起こっている。農業をしている家の息子の妻が義理の父と母を虐待して、老夫婦は我慢の限界に達して他の遠くの村に行っている息子に苦境を訴え、そして年末が近づいて、息子とそのほかの青年・壮年は一度家に帰って年を越し、息子の妻はいつもの態度を一変させ、恭しく奉敬行孝し、息子はわけがわからなくなり、往々にして自分の両親が間違っていると責めてしまう。我々は息子の妻の虚偽の極みを指弾することができるが、事実として、「息子の嫁」たちの行為は理解可能なものである。つまり、その行為の「道徳」の含量が全体としてその直面している道徳輿論の圧力と正比例の関係にあり、そして道徳輿論の圧力も輿論を広めている者の数と正比例の関係にあるのである。

 第二に、「面子」の価値が低下したことである。・・・・

 第三に、社会資本が流出・散逸してしまったことである。大量の青年・壮年の労働力が外に仕事に出るようになるに従って、「主体なき熟人社会」の社会的な境界は流動化して曖昧なものとなり、若い人はすでに外部世界と様々な実用的な価値を有した「友達」のネットワークを打ち立てている。村民の人間関係の密接な程度から見ると、比較的一般的な状況は、親族関係が血縁関係を超えて、「友達」関係が親戚関係に勝るようになっている。これは家族パーティの中で客を迎える時に、最も明確に表れている。少数の外に出稼ぎに出た人がついに村人として認められたのだが、彼らは人生の成功の程度の高低によって、「家」の所在を確定しており、50万元を稼いだ者は家を大都市に構え、20万元稼いだ者は家を県城に構え、10万元稼いだ者は家を本当の家郷から少し離れただけの鎮区の中心所在地に家を引っ越したがっている。・・・・このように、郷村コミュニティの社会資本は外に向かうメカニズムが起こり始めており、コミュニティ内で蓄積することは難しく、土着的な民衆の間の権威は日に日に没落している。もともと、村民の間で紛争が起こった時は、民衆の間で権威を持った者が間に入って落ち着いて調整・調停を行うことができたが、「知識と経験が豊富(見多識広)」の出稼ぎ労働者である若い人について言えば、どの人も生まれた土地で民衆の間で権威を持っている人の「小言」を全く大事にしない。誰もがお互いに不満を持っているため、これが裏社会のよくない勢力が郷村の紛争に手を出す機会を提供している。つまり、仲裁できる人がいない状況の下では、「公平に扱(擺平)」ってもらうように頼むしかない。

 第四に、熟人社会の特徴の周期性の表れである。「主体なき熟人社会」と呼ばれるゆえんは、今日に至るまで村では依然として熟人の圏内で生活しているというだけではなく、「主体がない」農村社会も、依然として周期的に熟人社会の部分的な特徴を顕わにしているためでもある。

 現在の出稼ぎ労働は、基本的には家庭の収入を増やすことが目的である。農業生産の周期性と家庭生活の周期性および郷村の行事の周期性に従い、出稼ぎ労働者は必ず周期的に村を離れては戻ってきて、渡り鳥の集団のように、都市と農村の間を頻繁に往来している。村は平時はものさびしい感じだが、その年の祝祭日になると異常なほど賑やかになる。こうした景観の出現は、主には中国の都市と農村との二元構造の制度的な配置がもたらすものである。大きな帰郷の周期(家庭生命の周期など)小さな帰郷の周期(村の祭日の周期と農業生産の周期)とかぶっている。大きな帰省の周期具体的には手稼ぎの年限を指し、男性は一般に女性よりも7年から8年ほど長い。小さな帰省の周期は具体的には数か月の田植あるいは稲刈りおよび年越しの時期の帰郷を指すものである。この中には黄宗智先生のいわゆる「半工半耕」ロジックだけではなく、白南先生の言う「家族戦略(family strategy)」も役割を果たしており、「家族戦略」とコスト収益の比較の角度から考察すると、男性を中心とする家族の経済瀬産の機能が外に移っている時に、女性を中心とする家族の出生、養育の機能は労働力の生産であって外に移すことは難しく、女性が土地や故郷を離れるのは多くの場合は結婚前あるいは結婚後に出産する前および子供が学校に行く2,3歳まである。我々はまさに、これをさらに「男工女育」のロジックに帰結させることができる。
 農民工の周期的な帰郷は、受動的な「半工半耕」と「男工女育」などの生存のロジックの支配を受けていることのほかに、さらに社会的および文化的な心理の要求によっても駆り立てられている。これは主に、出稼ぎ労働者が年の終りに帰郷して年を越す風景のなかに見られるものである。
 まずは、紛争を解決することへの要求である。正常な熟人社会では、どの家族の責任者も農村いるので、民衆の間で権威を持っている人の役割が加わって、紛争はだいたいはすぐに解決することができる。いわゆる「大きな問題を小さくして解決する(大事化小,小事化了)」わけである。しかし郷村の「主体」が村に存在しない状況では、村の家人の間に摩擦が発生すると往々にして日を追って蓄積し、「男」が帰郷する時を待って解決する。さらに、出稼ぎ労働に行く村人の間には矛盾が生まれても、だいたいは年末に帰郷すると、双方が第三者の調停を受けることができる。これは典型的な「年末にけりをつける(年終算総帳”」である。私はフィールド調査で訪問した、治安を担当している副鎮長はこう語っている。

「治安は腊月(旧暦12月)の20日から正月の15日までが、事件が最も発生する時期だ。いつもは村でも民事の、宅地や経済の紛争といった事件が起こっているが、基本的には手を出さず、激しい衝突も起こらない。というも、80%の青年・壮年の男子が常に外にいて、村に主役が存在せず、喧嘩を起こせないからだ。それが、年末にみんなが年越しのために帰ってくると、矛盾がこの一月足らずの間に集中して全て爆発してしまう。また出稼ぎに出た者のなかには、外でつくってきた経済的なもめ事を、年末に村に持ち帰ってけりをつけようとする者もいる。ゆえに、我々はいつも旧暦の12月から1月に、もめ事の手がかりを把握し、民衆の報告に基づいて、今年どんな大きな事件が発生し得るのかを分析し、その後に幹部が各村の治安を請け負い、事前に予防接種を打って、矛盾を解消しておくのである。」

 どうして村人がみな年末に「けりをつける」ことを選択するのだろうか。それは、帰るべき人がこの時にみな帰ってきて、みんなが一堂に会し、物事の道理をその人に聞いてもらい、紛争解決の決着をその人に評価してもらい、道理があるとされた者は口々に褒められるが、道理がないとされた者は最悪の事態では「恥をかく」ことになるからである。こうした現象は「主体なき熟人社会」における熟人社会の特徴の周期性の現れを表現するものである。

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 上に述べた「主体なき熟人社会」の四つの特徴は、変化の中の中国農村社会の特徴の現れであり、「主体なき熟人社会」という概念の解釈能力が「熟人社会」の概念よりも大きいことの現れでもある。それは、村の成員の人間関係の高い認知が決して熟人社会の必要条件を構成していないことを明らかにするものである。熟人社会の形成は、依然として農村コミュニティの中の「主体」成員が常に存在していることによって決まるものである。

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 最近、不勉強だった農村社会関連の文章を読んでいるが、「熟人社会」の概念を目にすることが非常に多くなった。「熟人」とは「よく知っている人」のことだが、日本語では上手く対応できない。「知り合い」と訳せなくもないが、日本で「知り合い」というと、家族・親戚や隣近所の外で関係ができた人を指すが、中国の「熟人」には家族や隣近所も含まれている。

 費孝通の『郷土中国』が由来だというが、これは少なくとも正確なものではない。読み返してみても、「熟悉」「熟人」という言い方は頻繁にあるが、少なくとも分析概念として「熟人社会」は用いられていない。この文章を含めて多くの議論では、「熟人社会」の内容が「差序格局」ということになっていて、もちろんそう理解するのが自然かつ当然であるが、『郷土中国』は元々が断片的なエッセイ集でもあり、「熟人社会」が「差序格局」であるという言い方を費孝通自身が明確にしているわけではない。費孝通の「熟悉」「熟人」の関する下りを読んでも、「差序格局」に込められているダイナミックな人間関係の伸縮性が念頭にある感じがなく、単にテンニースの「ゲマインシャフト」の言い換えに過ぎないのではないか、という印象は否めない。この文章でも、その程度の意味でしか使っていない。

 そもそもこの手の議論では、農村社会の変化に多大な影響をもたらした抗日戦や人民公社といった歴史が全く言及されず、「熟人社会」が牧歌的に描かれる傾向がある。実際ところ、1940年代までの中国の農村は、飢饉、伝染病、戦乱といった三重苦に悩まされていた。科挙制度の崩壊以降、儒教的な郷紳の存在は力を失い、「土豪劣紳」が幅を利かせていた。文革時期などは、同じ村人でもいつ告発されるかと疑心暗鬼を抱かなければならなかった。しかし、なんだか最近になってこれが崩壊し始めた、と言いたがる研究が多い。

 この文章の「主体なき熟人社会」という概念は正直なところ違和感がある。「周期性」に関する話が面白いが、「熟人社会」という概念を使わないと論じられない問題というわけではない。程度ではなく質的な差異を問題にしているというのだが、正直なところ程度問題としか読めなかった。


「村落宗族共同体」は「村荘」のレベルに留まっている

2011-05-19 08:47:57 | Weblog

杜靖「村落宗族共同体」は「村荘」のレベルに留まっている」『中国社会科学報』2011年03月10号(第170期)
http://www.sociology2010.cass.cn/news/160871.htm

 宗族郷村と村落共同体の視角とは、多くが似ているあるいは交差しているように見えることはあっても、それぞれに現われている中国村落の文化の図像は異なっている。それらら二つの学術的なルートであり、出発点が異なり、出発の方向も異なり、一定の交わりを経たり、あるいは共通の道を歩むことはあるかもしれないが、二つの道はそれぞれの方向に従って延びていったものである。
 
清水盛光も中国の家系研究の大家であるが、彼は著作の中で「村落宗族共同体」の概念を提示した時、そこで指しているのは宗族あるいは家系集団の研究ではなく、「村荘」に関する研究であり、少なくとも学術の重点は「村荘」のレベルにとどまっていた。

 林耀華の「宗族郷村」の概念と清水盛光の「村落相続共同体」の概念は、意味しているもの交わったり共通しているところがあるが、どう「社区」と「共同体」の概念を区別しようとも、二人の抱いている中国の宗族あるいは家系集団の概念の違いや、あるいはその強調する所に関する内容から見ると、「宗族郷村」研究と「村落相続共同体」の理論は、等しく異なる理論的な分析枠組みとして看做すべきである。現在の学術研究がまさに細分化の方向に発展している中で、筆者はこれに対して区別を行うことは十分に必要なことであると考えている。

「社区」と「共同体」は表面的には似ているが実際は異なる(貌合神離)

 海外の中国の経験的な研究においては、英米の社区を分析枠組みとする中国研究の思考様式(初期の自給自足的な実体性を持った社区および後の地域社会のネットワークのなかの社区、国家と地方社会との関係の中の社区と大小の伝統の相互作用の中の社区といった多様な形式を含む)と、日本の漢学界の共同体理論を特色とする観察の道筋が、国際的な中国学研究の二つの大きな伝統と基本的な枠組みである。林耀華の宗族郷村分析の道筋と、清水盛光の「村落相続共同体」の道筋は、それぞれこの二つの大きな枠組みに従属したものであり、それらは各自の構成部分というだけではなく、その全体的な思考様式が反映したものでもある。
 事実、日本の学術界の共同体理論は当時の英米の社区研究の思考様式の注意を引いたが、主に参考にしたのはドイツの共同体理論であった。そして戦前のドイツと英米の知識の系譜は、二つとも異なる道筋であった。

 日本の中国農村研究の中の共同体の考え方は、日本の第二次大戦の機関の大東亜共同体構想を学術的に投影したものであり、英米の中国農村の研究は中国を彼らを中軸とした世界システムの一部に引き入れようという、いわゆる西洋中心主義的な「配慮(関懐)」から出たものである。英米の学術伝統の影響を受けた中国学者の郷村研究は民族の救亡図存と発展という内在的な要求と夢想から起こったものである。

 テンニース共同体の概念を提示して「社会」と区別した時(呉文藻も「社区」と「社会」が互いに対称的なものと語っていた)、「社会」は高度に契約的な性質の基礎の上に打ち立てられたが、「社区」の概念と比較すると、共同体は依然としてかなり濃厚な「will」の意味内容を含むものであった。そして、共同の「人と人の活動の要素」のほかは、「社区」はむしろ主に「地域性」あるいは「地理性」の単位であった。当然、国内外のそれぞれの学者は後も共同体に「地域性」あるいは「地理性」の単位をおおまかに与えてきたが、同時に「社区(コミュニティ)」に「意志性」の内容を与える学者もいた。しかし、これらの学者はこの二つの概念に対して深く探求あるいは考察することはなく、それぞれの考えに任せるだけで、当然用法は混乱することになった。
  
 しかし、学者のなかにはこれは区別を持ち込めない問題であると意識して、まさに「社区」あるいは「共同体」の概念が彼らの研究の中心的な道具になった時に、明確に境界を定めて混同もしくは誤読を起こさないようにしている。そのほか、人類学の「社区」研究の思考様式は、研究している村落が、文化的に各方面からの協力による有機体あるいは平衡体であることを強調している。そして日本の中国農村の共同体理論は、おもに集団的な「共同関係」と「共同行動」を際立たせている。簡単な例を挙げれば、もし「人類学・社会学の燕京学派は一つの学術共同体である」と言えるとすると、この記述の判断は完全に成立することができる。しかし、もし「人類学・社会学の燕京学派が一つの学術社区」であると言えば、明らかに人から笑われてしまうだろう。

 中国の経験的な研究のなかの社区の思考様式は、人の行為の原因を解釈する時に「社会構造」の必要の角度から着目する。それに対して共同体理論は、非常に大きな程度において行動する者の個体の願望を参考にしている。
 
  以上の様々な理由は、我々に林耀華の「宗族郷村」と清水盛光の「村落宗族共同体」の概念に対して区別をつさせざるを得ないものである。

「村落宗族共同体」は「村荘」のレベルにとどまっている

 非常の大きな程度において、「宗族村落」はその中の「宗族」の成分によって定義されている。しかし、何が中国の宗族であるのかに関しては、百年来学術界のずっと止むことのない論争であった。林耀華と清水盛光は等しく中国宗族研究における大家であるが、その見方はあまり一致していない。

 清水盛光の『中国族産制度考』『家族』『中国家族の構造』は等しく中国の家族・宗族に関する社会史の著作であり、彼は比較的、大・小の宗法の一致性や通底性の研究を重視している。彼の『中国社会研究――社会学的考察』という本では、「村落宗族共同体」の概念における「宗族」(親族集団)が、研究の確信の上で統一性を有している。清水盛光はダニエル・カルプ(葛学溥)の中国familismの研究を参考にしており、後の中国家系集団研究はカルプの研究成果を部分的に取り入れたものであるが、しかしカルプ本人のfamilism研究は決して西洋人類学の家系集団の理論志向の脈絡のなかにあることに無自覚ではなかった。同様に、清水盛光の中国宗族に関する研究も西洋の家系集団の研究の系譜に由来しているのではなく、彼本人もこうした意図は初めから持っていなかった。

 そして林耀華は中国宗族研究は主に宋代の大小の宗族による系譜学の庶民化がそれぞれ指し示している対象を考察し、その「宗族」の概念が「理念が先にある」ことと「国学の古典から現在の民俗の古今に関連する研究に至る」ことを強調している。さらに重要なことは、彼は自らの中国宗族研究を自覚的に世界の系譜学の理論体系の中に入れようとしたことである。ブラウン、林耀華、エヴァンス・プリチャード、フォルテス、フリードマンなどなど、彼らは世界的に広まっていた一つの非常に大きな流派に属し、里弗斯(?)より始まる、世界人類学市場の「家系集団研究学派」と呼ぶことができる。清水盛光はいまだにその中に入っていない。

 林耀華の「宗族郷村」概念の重点は、本質的には中国の村荘の運営の問題に関するものであったとしても、決して村荘の研究にあったわけではない。世界の人類学における親族制度研究の重要な成果として、彼の「宗族郷村」の理論は中国に認知された外は、その学術の目的は世界の人類学における家系集団研究の多様性を豊かにし、世界の人類学の家系集団理論知識の生産に対して参加していくことにあった。彼は後に行った「金翼」の家族制度、苗族の親族制度と彝族の家系の研究は、一つの思考様式に貫かれている。このほか、二次大戦前の人類学の主流は植民地の原始的な社会であり、二次大戦の終結後は、植民地が次々に独立し、研究対象が失われたことで、彼らは大規模に郷村に転向しはじめることになった。清水盛光も中国の家系集団の研究の大家であるが、「村荘」の研究に関しては、少なくとも学術の重点は「村荘」のレベルにとどまっていた。彼の研究は、満州鉄道の研究であり、その多くは戦時と「占後」(中国を占領した後の)日本がいかに中国の郷村を組織し管理・運営するかという問題に資するためのものであった。

 そのほか、林耀華の「宗族郷村」が指しているのは、単一の宗族村落の類型である。それに対して清水盛光の「村落宗族共同体」は、宗族村落全体が一つの共同体であるというだけではなく、単一の宗族村落内部の異なる家系の分枝をも指し示すものであり、一つの村落内部で若干異なる宗族共同体が存在していることを指し示すものである。最後の種の状況は、エミリー・アハーンの言う多宗族(several lineages/multilineage)村荘である。

いわゆる「会って握手する」

 当然ながら、「宗族郷村」と「村落宗族共同体」の概念を区別すると同時に、二者が交わる点も見なければならない。簡単に言えば、「宗族郷村」と「村落宗族共同体」の概念は、二つの点で同じ見方に立っている。第一には、一族が集まって住んでいること、第二には宗族が一つの共同で財産を管理する(合作共財)団体であることである。

 理念の共有を形成している原因は二つある。第一に、『白虎通』(後漢時代の古文・近文の論争書――訳者註)巻8の「宗族」では、「族とは何か。族とは湊であり、聚であり、いわゆる恩愛が相流れて湊まることである」と述べられている。中国本土の宗族概念は、「聚族して住む」という特徴があり、林耀華と清水盛光の共通の確信となっていた。第二に、中国の相続は集団的に土地を所有するなど族産を有して地方の業務に協力するという特徴があり、林耀華は西洋の系譜学の共同財産管理団体(corporate group)という概念から出発し、そして清水盛光は共同体の観念から出発することで、「会って握手」(碰頭握手)をしたのである。

 全体として言えば、「宗族郷村」と「村落宗族共同体」の視角とがそれぞれ提示している中国村落の文化的な図像は異なるものであり、両者が多く似ているあるいは交わっているように見えるかことがあったとしても、二つの道はやはりそれぞれの方向に沿って伸びていったのである。さらに言えば二つの道は平行したものではなく、一つの道でもないのである。

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 勉強のために訳してみたが、正直なところ理解がかえって混乱した。林耀華の「宗族郷村」と清水盛光の「村落宗族共同体」の違いが明確に理解できなったが、前者が「家系=系譜genealogy」に基づき、後者が土地と村落に基づいているという違いがあるということだろう。中国の農村を家系という観点から理解すべきか、村落共同体という観点から理解すべきかという対立である。

 理解が難しいのは、日本ではcommunityというと「共同体」という定訳があるが、中国では「社区」「共同体」という二つの訳が存在していることにもよるのだろう。日本で「共同体」というと、生まれ持った運命的な結びつきという受動的なニュアンスだが、中国の「共同体」では「一緒に協力する」という能動的な意味合いがより強まる。それでは「社区」が日本の「共同体」に完全に重なるかというとそうではなく、やはりこれも「コミュニティ」とカタカナで訳したほうが無難な概念である。ちなみにテンニースの『ゲマインシャフトとゲゼルシャフト』の中国語表記は『社区和社会』である。

 この文章で触れていないのは、清水盛光は確かに中国農村の土着性や閉鎖的な特質を強調していたが、橘僕などの所見に従って「共同体」的性格が弱く、「合理的打算」に基づくものという側面も強調していたことである。そして、こうした理解が戦前の日本の中国侵出を支持・正当化するものであったことは、あらためて言うまでもない。原田史起氏などは、清水の自然村の「生成的自治」と行政村の「構成的自治」の区別に着目しているが、個人的にはこれを含めて清水の中国社会論全体が、「ゲマインシャフトとゲゼルシャフト」の反復でしかないのではないかという印象というか違和感がある。


大学生の村官が遭遇している現実の困難

2011-05-16 13:45:01 | Weblog

彭飛武「大学生の村官が遭遇している現実の困難」『内蒙古農業大学学報(社会科学版)』2010年第2期。
http://www.sociology2010.cass.cn/news/146559.htm

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1 伝統的農村の現実の苦境

  国家は新しい農村建設を実行し、全国の90パーセント以上を占める中西部の伝統的な農村は風景を一変させている。このように制度設計のはじめから見ると、大学生村官計画がターゲットにしているのは、こうした伝統的な農村である。「伝統的な農業は三つの運命にさらされている。一つは都市化の進行に随って、これらの村落ではますます農民が都市に移動し、村落は空洞化さらには消滅してしまっている。二つには、伝統的な村落は工業化に向かっている。現在、伝統的農村における工業の発展が、農村で農業をせず企業で働く(離土不離郷)といった工業化を実現しようと望んでいるが、買い手市場の条件の下では、もはや可能なものではなくなっている。三つには現状を維持した基礎の上で緩やかな改革であり、これは大体上述の二つの方向性を含むものである。つまり農民は緩やかに外に流出し、だんだんより多くの農民も都市に流れてという、相当にゆっくりと長いプロセスである。未来の数十年、伝統農業の村落の絶対多数はこの第三番目の運命に陥ろうとしている。これは、もし我々があえて悲観的な話をしているわけではない」(賀雪峰「大学生の村官計画に待ったをかける」http://xcjs.hw01.com/a/0807/30/65795.htm)。

  ここで言えるのは、これは中国のマクロ経済の構造によるものであって、他の要素が伝統的農村が三番目の運命に陥ることを決定しているのではない、ということである。こうした、構造的な運命から逃れることができることができるのは少数であろう。将来比較的長期にわたって、人為に依存した力で伝統的な農村の現状を変えようとするには極めて困難である。華中科技大学の中国農村統治研究センターの主任である賀雪峰教授は、ここでわれわれのために大学生の村官が直面している伝統的な農村の構造を観察する、非常にすぐれた視角を提供している。

  まさに伝統的な農村の構造という視角に基づくと、こうした伝統農村の収入を決定しているものは、主に伝統的な農業収入と外に出て働く労働者の所得である。そこで、村の幹部は経済で大いに力を発揮しとうするのだが、実現することは難しい。この前提の下で、大学生の村官の受け入れを期待されるのは、身に刃物を背負うような非常に大きな圧力となっている。「もし増収のためのプロジェクトが生み出せないと、ほとんど政治的な実績(政績)がなくなってしまい、農村がこの数年で残している大量の問題も、若者が短期間では対応できるものではなくなる。農産品の生産は、自然なものと経済的なものとがともに結合するプロセスであり、もし人為的に自然の条件の制約を超えて単純な経済的利益を追求すれば、必ずや全社会にのしかかる代償は巨大なものになるだろう。

 2 「熟人社会」の統治に直面する苦境

  全国で農業税が撤廃されてからというもの、省行政の費用を削減するために、大部分の農村はすべて村を合併して村幹部を減らし、村民の組長をなくした。しかし実際のところ、農村の村務管理のレベルでは、村民の組長の地位は、その他の人と比べると非常に高いものがある。村民の組長は本当の熟人社会であり、熟人社会の統治には、その内在的なロジックがある。長い間郷村の統治に関心を抱いてきた賀雪峰は、貴州省の湄潭県の集合村の個別調査に対して、熟人社会が有している内在的な構造の力を指摘している。彼によると、集合村だけではなく、また単に貴州省に限らず、全国の農村がすべて自然村、生産隊あるいは村民組を基礎単位として、人間関係(人情)の交際を通じた生産と生活上の相互合作の伝統を有していると言う。こうした人情における付き合いや、生産・生活上の互助合作は、構造的な力を形成するものである。こうした構造的な力は、戸族、門子、小親族、自然村、生産隊、村民組あるいは近隣の団体などである。熟人社会のこの種の内在的に固有の構造的な力に直面することは、その組の村民がよく知っている組長がいるだけで、村民との長期の信頼と「ある種の自分自身に対するアイデンティティ」を構築することができる。この種の信頼とアイデンティティは、日常の村務活動にとって不可欠なものである。日常的な活動のなかで誰もが村民の組長の話を聞きたがっており、村民組長も村の近隣の間の矛盾を解決する時に村民との軋轢を起こさないようにしている。

 次に、村の日常的な活動は季節性、臨時性、応急性といった特徴を有している。村務活動が必要とするものは抽象的な知識や法律ではなく、地方に根差した道理、村の実情、村民の心性などである。粘り強く細心に注意を払った活動の方法というのは、硬軟織り交ぜるという利点がある。これらはみな、村の実情に非常に熟知し、村民の心性をよく理解している、長く村で生活している現地の人が最もよく物事を扱うことができ、外から来た若い大学生ができるものではない。」言い換えれば、これらの村務活動は、最も基層にいる、最もその組織を熟知しているメンバーによって完成されることが必要なのであり、大学生の村官は卒業したばかりの学生で、このようなすぐに組織のメンバーを調整して問題を解決する基本的な能力に欠けており、往々にして何らかの突発的な緊急時が起こるとどうしたらよいかわからなくなってしまう。実際の話でも、大部分の村官が活動の中で最も障害となっているのは、複雑な村務の紛糾への対応が難しいことにある。

 3 税制改革後の農村統治のロジックの変化をめぐる苦境

  国家の農業税改革後に、農村に内在する統治のロジックに変化が生じた。税制改革以降の農村の新しい形勢について、周飛舟は郷村基層政権の行為モデルに変化生まれていると考えている。つまり、基層政権は過去の「汲取型」から、農民との関係がさらに散漫になった「懸浮型」に変わっているというのである(www.sociology.cass.cn/shxw/shll/P020060811301220152259.pdf)。郷村基層政権のこうした行為モデルの転換は、特に農村における公共財の供給の領域で突出して表れている。わが国の農村の公共財は主に水田の水利施設、農業技術、公共安全、公共衛星、交通、普通教育などを含むものである。国家が農業税を撤廃する前は、農村の公共財の供給は農村組織によって農民に対して費用を徴収していた。農業税を撤廃した後は、郷村の組織は農民から関連の費用を徴収せず、国家は「一事一議」の方法で農業の公共財に必要な資金を調達することを求めるようになる。しかし、こうした方法は大部分の農村ではもはや実行が難しくなっている。そこで、農民から二度と税を徴収しなくなったために、郷村組織はもはや農村の公共事務に介入する積極性を失っている。

  郷村の統治を研究する若手の学者である趙暁峰は、豫平平原に対する調査に基づいて、農村の基層組織の幹部隊伍が税制改革後に深刻な分裂がおこっていることを見出した。彼によると、この現象の原因は主に税制改革後、限られた利益追求型のブローカーの空間は、同時郷村基層組織が抱えるメンバーの生存のロジックから生み出される利益追求の求めを満たすことができていない。典型的な言い方では、主要ではない幹部は何もせず、上にも下にも責任を負うことができず、行政に消極的になっているのである。

  まさに税制改革後の郷村基層政権の行為モデルの転換によって、郷村の干爵随体(?)上、村民に公共サービスを包括的に提供するという重要な活動の領域に消極的になっている。こうした大きな環境の背景の下で、大学生の村官は村落内部の事務の処理を行おうとして挫折した経験をした後に、熟人社会という複雑なネットワークから飛び出して、村落の外の事務つまり公共領域で力を発揮しようとする。しかし、同じように何をするのも難しい狭い地帯に直面することを思い知らされる。強い情熱を持った卒業したばかりの大学生の村官にとって、深刻に彼らの活動の積極性を失わせていることは疑い得ない。例えば、調査における一人の江蘇省の村官の女性はこう語っている。「農村の活動はとても平凡なものですが、難しさという点ではより大きいです。いつでも強い情熱は持っていますが、活動する時には拳でクッションを何度も殴るように、力がなくなってしまうのです。」

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  都市の大学生を農村の行政官として派遣するという事業は、大学生の就職難対策と、農村問題対策との両面から、2000年代半ばから本格化している。何やら文革時代の「下放」を思い起こさせるが、将来の就職のためのキャリアになるとして、これに応じる大学生はことのほか多い。個人的にも、なかなか面白い事業だと思っている。これについては、中国農村政治史研究の第一人者である田原史起氏が詳細な解説を行っている。上の文章とは異なり、割に肯定的な紹介である。(「「大学生村官」について」http://www.spc.jst.go.jp/experiences/impressions/impr_09013.html)。

  悪名高かった農業税であるが、それが撤廃されて以降は、個々の農民の負担はもちろん緩和されたとしても、農村統治の自己責任原則が強まり、その荒廃がかえって加速している。大学生村官事業はこの「ポスト農業税」体制の文脈で理解することができるが、財源がない、「熟人社会」の壁、村民が農村統治に熱心でなくなっている、などなどの困難にも直面している。「関係」「人情」の疲弊してしまう中国在住のビジネスマンの話は枚挙にいとまがないが、それは中国人の大学生村官にとっても同様のようである。中国社会における「関係」「人情」の根強さを主張する議論は非常に多いが、個人的には大都市部の若い世代は必ずしもそうではなくなっているという印象もある。


「国家/社会」理論の中国郷村統治研究への適用可能性

2011-05-09 00:20:37 | Weblog

陳方南「中国郷村統治問題の研究の方法論の考察――『国家/社会』は適用できるか」
『江海学刊』2011年第1期
http://www.ccrs.org.cn/show_7680.aspx

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 「国家/社会」理論の中国郷村統治研究への適用可能性

 「国家/社会」理論は、社会学研究の重要な方法論である。現実の社会では、郷村政治は国家権力の管理の末端であり、国家権力と社会組織が相互作用する場となっている。公共政策、社会組織と公衆の生活とは、すべてまさにこの場で相互作用している。そこで我々はこう問わなければならない。つまり、「国家/社会」の分析枠組みは、わが国の郷村ガバナンスの問題を考察する一つの有効な枠組みになりうるのか否かということである。実践的な角度から見ると、わが国の郷村管理体制改革は国家政権の主導の下で進行しているが、ここから国家の権力の下への浸透を国家政権の単一化であると設定するのは科学的なものではない。国家の社会に対する一方的な影響を過分に強調することは、社会の国家に対する逆方向の関係や国家と社会の駆け引きおよびその効果を軽視するものである。そのほか、もし末端の組織の力を社会的な変化の原動力とすると、国際的な領域で経験的な証拠を見つけ出せなくなってしまう。そこで、新しい理論仮説を求めることの必要性が目立って現れるようになっている。「国家/社会」の分析モデルはその意義にかなっているのは、それが農村社会と国家権力との相互作用の分析の理路と方法論の探求を導くことにある。

 郷村の統治モデルの歴史的な進化からみると、中国の郷村統治の改革はずっと国家と郷村社会とのダイナミックな交替の相互作用の中に存在してきた。一方では、国家権力の過度介入がある時は、郷村の伝統はずっと解消されてしまっており、農民の自主性は抑制されて、国家権力もここに退出の歴史要求のタイミングを計っている。他方では、国家が郷村に権力を解放する時は、民主的な空気が改善されて、農村の活力は増強されていても、度が過ぎた権力の解放による農村社会と中国全体の社会的な統治の筋道から外れて、そこで国家介入の要求が強まっていくことになる。中国農村の政治的な変化に関連して、私たちが発見したのは、中国の農村社会の政治体制改革が、実質的には郷村の社会的な資源を国家が統合することであり、農村社会の自治を推進し、農村社会と国家権力の相互作用と流通の発展プロセスを促進するものであることにある。

(1)人民公社化の時期の「政社合一」の郷村統治モデル
 1949年の建国後、国家政権は社会の数多くの領域に介入し、農村も強制力のある人民公社化のシステムを実行し、農民のために提供された、利害関心を表出する場の社会組織はそれ以外に存在しなかった。この段階における中国農村は、農民は直接に国家・政権のコントロール下に置かれ、郷村組織は基本的に国家に「組み込まれた」のである。人民公社の権力体制は中国政治の一体化を促進し、国家・政権の郷村社会に対する動員とコントロールを強化した。残念なことに、人民公社化は郷村社会の伝統である「権力文化のネットワーク」をも破壊し、広大な農民の創造性と能動性を失わせてしまった。そこで、強い政権の下では農村社会は分裂が見られるようになり、客観的には国家権力の適度な提出を要求し、「郷村政治」の郷村統治モデルがこうして出現するようになった。

(2)「郷村政治」の「放権型」の統治モデル
 「政社合一」モデルの欠点のために、80年代以降に国家は郷村社会統治モデルへと修正し、郷鎮政権と郷村自治の結合、つまり「郷村政治」モデルを強調するようになった。「郷政村治」は農民の政治参加を強調し、それによって村民の国家に対するアイデンティティを確立し、村民の自己管理と国家統治の統一を達成しようとするものである。村民自治を通じて、農民は法律という手段を運用して自らの組織を立ち上げることができるようになり、郷村社会の中の様々な営利組織に対抗して、自らの利益を守ろうとするものである。しかし全体的に見ると、実践されている「郷政村治」は主に郷政と村治の融合として表現されており、「郷政」が強化されると、村民自治の元々の意義はことごとく喪失し、どこからどう見ても、「政社合一」の郷村統治モデルに比べて、「郷村政治」は国家の郷村社会の統合に対する有効性と活発性を向上させ、郷村民の間の自己統合の能力を向上させ、郷村社会と国家の関係を改善するものであった。しかし、中国農村では国家機構が巨大なために、「郷政」は常にある種周辺化された状態に置かれている。郷政は郷村社会の権力の入り口を握っていて、郷村権力の分散化と分裂は深刻化すると、そこで再び「国家・政権のインボリューション」が復活することになるのである。ゆえに、「郷政村治」下の農民は決して真の意味で憲法上の公民にはなっていないのである。

(3)税制改革後の郷村統治モデル
 上に述べた通り、1980年代の「郷政村治」の統治モデルは、決して真の意味での権力の解放ではなかった。そこで、1990年代以来、中国農村の政治構造の調整をやり直し、こうして税制改革が中国農村の歴史舞台に登場するようになった。農村税制改革の主旨は、行政の事業による費用徴収と政府の基金の資金集めを取りやめ、さらに郷統籌費(学校や道路など村の公共的な事業のための一般経費)を取りやめ。農業税の税率を調整し、村提留(地元の企業とその社員が村に負担する保留金) の徴収と使用方法の改革などである。税制改革以降、郷村の統治は法律的な契約による、間接統治化と多元化の方向への発展と向かうようになっている。ゆえに、農村税改革は決して単純な「費用を税に改める」ことではなく、それは中国の農村社会における国家、農村集団、農民という三者に対する利害関係の再調整なのであり、そして一定程度農村の幹部と民衆との緊張関係を緩和するものである。21世紀に入り、農村の税制改革深い発展の段階の突入し、国務院は農業税を免除して社会主義新農村を建設するという二つの大きい重要な動きを見せており、これは時代の発展要求であり、国家権力と農村社会の相互作用的な発展の必然の産物でもある。新農村建設は財政上から国家の農村社会に対する資金の支援を強化するものであり、かつ郷村民間組織を包括する国家社会の各部分を平等な主体として扱い、ここから都市・農村の社会発展を強化・計画し、職業的に既に分化している都市と農村の際の基礎の上に、国家と社会の発展の相互作用関係を再構築していくものである。国家が発展して強くならなければ、中国社会に二千年あまりついて回る「皇粮国税」から逃れる重要な戦略的振る舞いが出てくることなど不可能である。農村社会の進歩がなければ、国家の強さも単なる畸形的な姿にしか過ぎなくなる。このように、新農村建設プロセスのなかの国家・政府と郷村民の間との関係は一種の直接的な相互作用関係なのであり、それは郷村社会と国家政権との合作を強調して、農民、郷村民の間と国家政権をその中に包括した、中国農村の共同統治に対して有している国家と社会の力を実現しているのである。

 このように我々が見てきたように、新中国の成立以来、中国の郷村の統治は「政社合一」「郷政村治」と「後税制」の統治という三つの段階を経ている。全体的に見れば、20世紀の中国は伝統的な農業国から現代的な工業国へと転換してきた社会である。新中国が成立した時、中国は「弱い国家、弱い社会」であり、郷村秩序もきわめて弱く、そこで国家は強い政治権力による郷村統治のモデルを採用したのであり、改革開放後、国家の権力は分散し、農村経済は不断に発展し、国家の不断の強大になっているが、農村の危機はかえって深まっており、そこで「強い国家、弱い社会」という権力体制が、「三農」危機を中国社会の発展の重要な障害にさせているのである。この後、「郷政村治」の「国家が退出して民間が進む(国退民進)」と郷村税費改革のプロセスは、さらに農村社会と国家利益関係との比較的大きなレベルでの調整を可能にしている。