「王紹光が民主と「選主」を語る」
北大法律網・法学在線
http://big5.chinalawinfo.com/article.chinalawinfo.com/Article_Detail.asp?ArticleId=51012
――あなたの見るところ、現在の中国の民主主義の特色はどこにあるのでしょうか。
王紹光:民主という言葉については、多くの人は中国ではすでに周知のことだと指摘するのですが、それは異なる意味を持っているのです。他の国では、多くの人は民主主義とはつまり自由でり、だから自由が行われさえすれば、中国の民衆は民主主義を理解するようになり、大部分の人は人民が主人公となる(當家作主)ことだと理解するようになるだろうと考えています。中国の民衆の民主主義に対する認識も、外国人と比べてとくに差があるわけではなく、私たちのような中国のエリートと比べてもよく理解しています。ただ、エリートの思い描く民主主義というのは競争のある民主主義であり、それはある種の手順を踏まえた段取りなのですが、大部分の中国の民衆は、人民が主人公になることこそが民主主義の実質であると考えているのです。
私は中国の政治改革と民主化改革を、競争選挙の実現の突破口になるとは決して考えていませんし、また競争選挙が何かよいものをもたらすことができるとも、それが最も重要なものであるとも全く思っていません。むしろ、様々な方面において、民衆と利害関係者を自らの利害に関わる事務的な政策決定のプロセスに参加させることこそが最も重要であって、また実行可能なことが非常に多いのです。例えば医療制度改革について言えば、アメリカで医療制度改革は1992年から現在に至るまで唱えられていて、オバマの選挙運動の綱領においても医療制度改革は重要な内容の一つでありましたが、彼が成功できるかどうかについて、最初みんなはできると考えていましたが、現在はますます多くの人が疑問を持つようになっていて、1994年にヒラリー・クリントンが提出した医療改革法案の時と同じように流産する可能性もあります。中国の医療制度改革は2002年前後から提出されるようになり、特にSRAS以降に中国の医療体制は病にかかっているとまで言われるようになりました。その後、2005年に国務院発展研究センターが承認する以前の医療制度改革は基本的に成功しなかったのですが、承認されて以降は破竹の勢いで医療制度改革が進んで、中国は短時間で全ての住民をカバーすることのできる医療体制を形成できなければならなくなりました。まだ水準は低いですが、それはあらゆる住民をカバーするものです。これは、まさに民衆の表現に政府が対応したということを説明する好例であり、これこそが民主主義的な参加(民主参与)なのです。インターネット上では、現在の医療制度を批判する文章が大量に存在し、学者の書いた文章や新聞での議論もありますが、これこそが民主主義的な政策決定に参加したということなのであって、これこそがまさに民主主義なのです。
三農問題も同じで、三農問題は前世紀の90年代末から語られ始め、現在は三農問題は基本的に解決しました。失地農民はここ数年非常に深刻な問題であり、4000万の失地農民に対して、現在は各地で一連の、決して完全ではありませんが、以前よりもずっとよくなった保護政策が出現しています。これらのことが説明しているのは、こうした制度の中に民衆が表現してきた自らの願望や困難が表現され、制度がそれに応答してきたことです。どうして、このことを政治改革の重要な一例と見ないのでしょうか。最近のここ数年のあいだに中国で登場しているあらゆる政策が、みな時間差をもっており、五年前にはわずかにインターネット上あるいは新聞で議論する小さな問題だったのが、その後数年を過ぎてインターネット上で激しく議論される問題となり、さらに数年を過ぎて政府の政策と変わっていることを、あなたもご覧になってきたでしょう。これこそが民主主義なのです。これは直接的な民主主義であり、民衆の表現する願望に政府が対応する、民主とはこのようなものなのです。選挙で選ばれた人が必ず対応能力が最も高いわけではありません。私はアメリカ人とも話すのですが、あなたたちの制度と私たちの制度と、どちらが民衆に対する対応力が強いのかは、よく考えなければいけないことなのです。
------------------------------------------
「新左派」の代表の一人である王紹光のインタビュー記事。表題にある「選主」というのは、競争選挙で政治代表を選出する民主主義のこと。
「新左派」というと、反体制というイメージを思い浮かべるかもしれないが、そうではない。向こうで言う「新左派」とは、第一義的には「市場原理主義」や「グローバリズム」への批判者であって、むしろ国家・政府の指導的役割の重要性を認め、外国に対して中国にも「民主」「人権」を尊重する知識人がいるというアリバイにもなっているという意味で、現在のところ体制側に歓迎されている思想と言ってもよい。そのことは、中文版のウィキペディアの「新左派」の項目に、「代表人物あるいは同情者」として国家主席の胡錦涛が掲げられていることからも理解できる。http://zh.wikipedia.org/zh-tw/%E6%96%B0%E5%B7%A6%E6%B4%BE
逆に、王小東のように外国への妥協を何でも批判しようとする民族主義者や、康暁光のように真正面から民主主義に疑義を呈して指導者による「仁政」を主張するような保守派のほうが、(真正面から批判できないだけに)政府に煙たがれていると言える。実際、中国の現状に対する批判的な論調は、「新左派」よりも民族主義者や保守派のほうに多い。
「新左派」がきわめて体制的だというのは、中国人以外が読めば失笑を禁じえない、この文章にも象徴されている。現在の中国にも、実質的な民主主義が存在していないわけではないというのは、私自身もそう考えている(特に現在の日本と比べると強く感じる)ところがあるし、また外国人の観察者が、単純な「独裁国家」イメージに見ている人々に対して、「こうした側面を見落とすべきではない」という注意喚起を促すという点では大きな意味がある。しかし、中国国内の学者が自画自賛的に肯定しても、それは単なる体制翼賛の言説でしかなく、現在の中国が抱えている問題から目を逸らせる役割以上のものを果たしていない。「新左派」自身がどういう意図なのかはわからないが、いずれにせよ結果的に中国の非民主主義的な体制の延命に加担していることは間違いない。