王娟・李曼琳「西洋社会学の知識の普及と中国近代における慈善事業の発展」『河南師範大学学報(哲学社会科学版)』第38卷第1 期(2011 年1 月)http://220.178.21.125/xkjyck/uploads/pdfdata/2011/20110712083617796.pdf
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民国期の社会学における社会福祉研究の概説。勉強のために翻訳したが、実際なかなか勉強になる内容だった。王娟は北京理工大学に所属する1974年生まれの歴史学者で、『近代北京慈善事業研究』という著作がある。李曼琳は北京印刷学院の広告学の研究者である。詳細は不明だが、おそらく前者が主著者であろう。
中国における社会福祉研究は、まず1910年代末あたりに中国のYMCA周辺のアメリカの宣教師や学者からはじまり、彼らが中国の大学で社会学の講義を担当し、中国で社会調査をするようなったことによる。初期の中国人の研究者もYMCA周辺から生まれた。1920年代半ばになると、中国国内でも社会学が学問的に制度化されるようになり、慈善団体などの調査を行うだけではなく活動自体にも関わり、社会政策を積極的に提言していくようになる。1930年代の中国における社会学は、学問の受容においては先発国である日本よりも、少なくとも実証研究の面では進んでいた面があり(理論研究は現在に至るまで大きく遅れをとっている)、その代表が言うまでもなく燕京大学の費孝通である。この時期に、社会学者によって慈善事業に関する調査・研究の業績が蓄積されてきたことは、王娟らがこの文章で詳細に紹介している通りであり、こうした研究の再評価が待たれるところである。
この文章で指摘されている重要な論点は、「慈善」と「社会救済」の関係であろう。19世紀から20世紀はじめまでの中国は、国家・政府の脆弱さや分裂と反比例するように慈善団体の活動が活発化したが、この慈善団体をどう評価していくのかは、社会福祉の問題に取り組んだ社会学者がまず直面した問題であった。1930年代半ばには、近代的な「社会救済」の立場から伝統中国的な「慈善」を否定的に評価するという論調で固まったが、ここで指摘されているように、両者の関係と位置付けがもともと曖昧であったとすると、いつどのような理由で分裂していったのかは、極めて重要で興味深い問題である。
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二
現代の社会学理論は、社会学は社会の健全な運営と、協調的な発展の条件やメカニズムに関する、総合的で具体性をもった社会科学である(姚純安『社会学在近代中的進程: 1895- 1919 年』三聯書店、2006年、4頁)。西洋的な学問の重要な学科として、社会学は19世紀末に中国に伝わりはじめた。当時、近代中国の社会の運営状況は日に日に悪化し、数多くの志士仁人が救亡図存、社会問題の解決のために西洋を学ぶブームが盛り上がったが、これが社会学が中国に伝わる大きな歴史的な背景である。19世紀の20世紀の境目には、中国は簡単な紹介からより集中的に西洋の社会学の著作を翻訳し、最初の普及のブームを形成した。20世紀初頭は、社会学と様々な社会思想の潮流が錯綜して入り混じり、国民は次第に社会学の知識で政治理論の根拠や概念の道具にしていた。1920、30年年代以降は、社会学は制度的な建設の時期に突入し、社会学の運用を重視して中国問題を分析、研究しはじめたが、これは移植と普及の段階から成長と力強い発展の時期への突入である。
西洋の社会学の知識の近代中国における普及と社会学という学問の発展は、学術的な方面から近代の社会学の知識を把握する新しいタイプの知識人を生み出し、ひとつの全く新しい社会科学の学問体系を初歩的に創設した。慈善救済事業の角度から言えば、民国時期の社会学の設立と発展は、中国における早期の近代社会福祉事業と社会保障事業の進展を導き、近代中国慈善事業の全方位的な転換と自主的な発展を推進している。社会学が発揮しているこの種の積極的な役割と歴史的な影響は、主にいかの三つの点に表れている。
(1)教会の学校を主要な活動の場とする一群の外国の近代的知識人は、積極的に西洋の社会学の知識を移植すると同時に、キリスト教の宣教師と密接に協力して、広範に慈善的な性格をもった文化教育、医療・衛生および近代的な社会奉仕事業などの活動を展開している。西洋社会学の知識は主に、清末民国初期の西洋の宗教勢力が中国に陸続と教会学校を設立して伝授と普及を行う拠点となったが、これらの教会学校が早期に社会学を中国に移植する重要な場所であった。民国の時期には、北京と上海が西洋の社会学の知識を重要かつ推進する二つの重要な都市であった。最も早く社会学の課程を開設し、社会学の知識を伝授した教会学校は上海の聖ヨハン大学であり(1908年)、国立大学が社会学の課程および社会学系を開設してしたのは、清華学校が1917年に社会学課程を開設したように、教会学校に比べて遅い(閻明『一門学科与一个時代――社会学在中国』清華大学出版社、 2004年)。
アメリカ宣教師のバージェス(歩済時)は北京で社会学の知識を普及し、社会奉仕事業を推進する重要な人物の一人である。1909年に彼が中国に来た後に、北京のキリスト教青年会(YMCA)で働き、この会は後に北京地域で事前公益事業を展開する最も重要な社会組織の一つとなった。バージェス本人は京師公益連合会や北京地方奉仕団など、発起・設立された慈善団体に参加している(劉錫廉価『北京慈善彙編』京師第一監獄、1923年、69- 72頁)。ほかに、同様に高く評価されるべきアメリカ人がギャンブル(甘博)である。著名な社会学者として、ギャンブルは生涯中国の城鎮と郷村社会の経済問題の調査と研究に力尽くした。かれは四度の中国旅行を経て、北京地域で西洋の社会学教育を導入し、燕京大学に社会学系を創設した。ギャンブルはこれと前後して北京YMCAと華北平民教育運動で研究の統率を担任し、北京と北方の郷村の社会経済の調査を主導し、さらに北京地域の社会奉仕活動を支援・展開した。
(2)社会学の導入と発展のプロセスで、社会活動の展開を重視し、社会福祉事業の発展を主要な目標の一つする西洋の社会学が極めて重視する社会調査に力を尽し、中国の社会現象の研究に広範に応用しはじめるようにもなったが、その中には中国慈善事業の発展状況およびそれと密接にかかわる多くの社会問題が含まれていた。
調査方法は西洋社会学の基本的な研究手段であり、民国の初期は国内外の一群の社会学の知識人が、実際に調査に用いはじめて当時の中国の社会状況を認識・分析した。彼らの社会調査に対する手段を非常に重視かつ尊重し、調査の内容は比較的広範にわたり、初期の多くは例えば教会、学校、病院などの機構に対して調査を行うなど、キリスト教の普及と直接的な関係があった。後に、社会学者は貧困、犯罪、慈善救済などの社会現象と社会生活に対して、非常に大きな関心を示すようになった。
例えば、1921年にギャンブルがニューヨークで出版した『北京の社会調査』は、民国初期の北京地区の人口、教育、貧困、慈善事業、社会病理、社会犯罪、地域奉仕団体(社区服務団)などの各社会の次元にわたっており、当時において最初の東洋の都市に対する社会調査として高い評価を得た。ギャンブルは慈善事業と貧困状況に対する調査を通じて、中国の貧困の原因とそのほかの国家を比べて、より社会性をもったものであることを指摘した。これによって、辛亥革命の後、慈善事業と救済活動の目的および機能とには急速な変化が発生し、政府も既に、それと市民(公民)とが新しいタイプの関係であることを意識しはじめ、民間の慈善事業も日ごとに、施すものと施される者とが一種の平等な、人を助けることを喜びとする(助人為楽)奉仕の関係にあることをはっきりさせるべきことを理解するようになった。似たような結論と観点は、疑いなく当時の慈善活動と慈善事業の発展趨勢に対して、重要な啓発の意義を有していた。
1926年、社会学術研究機構北京社会調査書が成立し、陶孟和が所長を担任した。彼らは科学的な方法を用いて社会的な事実を調査し、特に貧困、犯罪、救済、人口、教育などの国民の経済と生活(国計民生)に関係する社会問題に関心を注ぎ、調査結果を政府に提供し、これは現実に参考されるべき価値もつ重要なものであった(前掲『一門学科与一个時代』)。
社会学の調査委研究の手段を用いて得られた調査結果は、中国における社会学の知識人の研究の情熱を非常に大きく駆り立てただけではなく、世の人は国の状況の現実に対する関心を強く呼び覚され、国家の活路である民族自尊心を追求し、社会学はこれによって急速な発展の時期に突入することになった。・・・・・
社会学の力強い発展という歴史的な時期において、それに相応して多くの社会学研究組織と調査組織が出現しただけではなく、北京、南京、上海、成都など大都市で社会学の俊樹を背景あるいは基礎として、慈善救済機関を考察の対象とする一群の調査報告が大量に出現し、さらに社会問題と慈善救済事業に深い関心をもって調査した学士卒業論文と学術文章が、中国慈善事業の研究にも、それに相当する一つの小さなブームを出現させることになり(王娟『近代北京慈善事業研究』人民出版社、2010年、11頁)、これは当時の学術界に慈善事業の発展趨勢を思考させ、政府部門の慈善事業にかかわる法令・法規の制定に欠かせない現実的な根拠を提供するものであった。
(3)社会学者を代表とする、中国本土の新しいタイプの知識人が、社会学の中国化を推進し、中国における社会学の専門学科化のプロセスで、積極的に慈善事業と社会奉仕活動にも身を投じたが、彼らは特に社会学にかかわる理論によって、中国社会の改良を唱導し、中国伝統の慈善救助活動の近代的な転換を推進した。
中国の伝統的な慈善救助活動に対して社会学的な性格をもった思考と分析を行い、初歩的に学術的な意義をもった慈善事業研究を行ったのは、20世紀の初期にはじまるものである。清末民国初期の中国で最初にアメリカに留学して社会学の学位を取得した、朱友漁の卒業論文『中国の慈善事業』(あるいは『中国慈善事業の精神』と訳す)が、この分野を切り開いた(開山)作品と言うことができる。朱友漁は中国の留学生の中で最も早く社会学を修めた重要人物であり、彼は1911年にコロンビア大学で社会学の博士の学位を取得し、帰国後に上海の聖ヨハン大学で社会学系の教員に任ぜられ、生涯にわたって宗教的な慈善教育活動に従事した(楊雅彬『近代中国社会学』中国社会科学出版社、2001年、67頁)。この本は古代の先哲の「慈善」の思想、鰥寡孤独者に対する各種の救済方法に言及しているだけではなく、特に宗族、村落、行会、公衆などの慈善救済の方面において発揮した役割を分析したものである。この本は実証的な歴史記述の豊富さには欠けるものの、最初に「中国独自の慈善博愛精神が近代民主主義の基礎になることができ、中国の土着から成長した(土生土長)善会・善堂が近代都市行政と近代地方行政の基礎となることができる」ことを前提とした(前瞻性)観点を提示し、現在も中国慈善事業を研究する日本の著名な学者である夫馬進の高い評価を得ている(夫馬進『中国善会善堂史研究』伍躍,楊文信等訳、商務印書館、2005年)。
民国以来、いくつかの大学あるいは研究機関で社会学の過程が講義され、社会学の知識の導入と普及に力を尽し、 西洋の社会学を本土化させようとする中国の知識人が、情熱をもった学生と一緒になって、「社会改良」のスローガンの下で、まさに社会学が実践を重視し、社会活動を重視するという伝統的にみられた実践を、積極的に多様な形式の社会奉仕活動に展開させようとしたが(前掲『一門学科与一个時代』267-278頁)、近代の事慈善救済事業の進化・変容のプロセスのなかで、その固有の立場を深い知識(濃墨?)で描き出していった。ここでは学会への言及は比較的少ないが、無視できない貢献を行った、北京の社会活動家である劉錫廉を例として簡単に説明してみたい(同前、276-277頁、吴廷燮等『北京市志稿』燕山出版社、1989年、173-175頁)。
民国時期の北京のYMCAの幹事として、かつて劉錫廉は北京全市の慈善機関を4年にわたる調査を行ったが、その目的は「貧困の原因を研究し、既存の各慈善団体を連合させ、様々な慈善事業機関の創設を激励し、慈善事業のなかの一切の複合的な病弊を取り除き、慈善事業の方法の基準を定め、北京にさらに有効な救済ができるようにする」ことであった。彼はこれに前後して、北京老若臨時救済会、北京地方服務団体聯合会、および教養保護囚犯的団体など、比較的社会的な影響力をもった若干の慈善団体の発起・成立を主宰かつ参加した。
そのなかで、北京地方服務団は1919年に成立し、事務所が灯市口に設けられ、「この地の人のための奉仕を宗旨とする」とされていた。中には貧民生計所、婦女習工厰、平民学校、自動遊戯場、貧民借本処、貧民委員などの機関があり、救済に大きな成果があったことで各地もこれに倣って設立し、後に北京地方服務団体聯合会が組織・成立し、全市の慈善事業が力を出して協力し、事業を全市に拡充させていくことが期待されていた。
1922年には、外交部街に京師公益連合会が設立されている。この会は由汪大燮、宝惠、劉錫廉、バージェスなどの人が中国赤十字総会、北京YMCA、北京地方服務団、同善社、悟善社、貧民救済会などの57の団体と連合することによって発起された。その宗旨は「北京の慈善事業を専門的に運営する」ことであった。電報で奉直戦争の終結を陳情し、婦孺救済会を46か所設置し、埋葬、食糧、資金徴収、救済などの事業を手掛けるだけではなく、首都(京兆)の11件で農民の借金を救済し、同時に老弱臨時救済などその他の慈善団体が扶養・救助することを協力して助けた。
積極的に具体的な慈善救助活動に参加する以外に、数多くの社会の病弊と社会の病態の現象に対して、社会学の知識人はさらに深い理論的な思考を行った。社会改良と社会改造の宗旨を実現するために、彼らが提示した解決方法の一つが、西洋の社会救済と社会福祉制度を参考にすることであった。たとえば陶孟和によると、「国民生産の不足」に対する方法の一つは「強力な政府による計画的な経済制度の実施」であったが(陶孟和『中国労働工生活程度』中国太平洋国際学会、1932年、4頁)、これは政府が全国民の社会保障を担うことに対する大雑把な理解をおおまかに見ることができる。他にも、教育と交通、組合互助制度などを含む詳細な解決方法を提示する研究者もいた。社会学者の中には、社会学と社会行政あるいは社会事業との関係を考えた時に、社会学が一種の科学であり、そして社会行政は一種の技術であり、両者ともそれぞれ別の理論的な基礎と応用領域があると指摘する者もいた。彼らは社会行政は個人と社会の需要を根拠として、経済、教育、文化、衛星などの行政施策を連携・調整させ、「人の全体の生活と社会福祉の完全な実現を図る」べきであると主張した。中国は主にまだ農業社会であるので、このために社会行政の活動を推進・実行するときに、政府が責任を持って担い手になるだけではなく、「中国における互助の伝統を十分に利用すべきである」という。1940年代になると、社会学者は各国の経験を参考にしつつ、中国の国情と民族もあわせて考慮し、予防と救済をともに重視すること、社会救済から社会保険へと発展させること、さらに進んで完成された社会保障体制と、経済の発展、社会的な富の蓄積を実現すること、政府の投資で社会投資を促進すること、社会、家庭および個人の協力によるべきこと、などなどを明確提示している(前掲『一門学科与一个時代』19頁)。
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三
社会学の知識人が社会と関わる力の努力を通じて、社会学という学科のシステムが基本的に中国に確立した。社会学という重要な「理論的な道具」のおかげで、近代慈善事業の発展に多様化という段階をもたらす結果となり、以下に主に事前概念の変化と現代的な意義をもつ慈善事業の初歩的な確率という二つの側面から、大雑把に述べておきたい。
(1)慈善概念の内容に変化が生まれ、慈善救済の社会的な機能に明らかな転換が生じた
民国時期は、社会学の領域内においては、中国の伝統的な「慈善」の概念を引き継いで広範な社会救済事業を指す以外は、より頻繁に西洋世界の「社会救済」あるいは「社会福祉」のなどの概念を引用して、同様あるいは類似した実質の内容を表示した。名詞の使用の頻度という角度から見ると、「慈善」は次第により多く「社会救済」によって取って代われるようになった。しかし、「社会救済」と「慈善」概念が並行していた初期の段階は、実際の機能は二者とも基本的に一致しており、「救済事業とはつまり救貧事業であり、それはつまり慈善事業であり、いわゆる温情主義の政策」であった(周震鱗『北平市社会局救済事業小史』北平特別市社会局第一習芸工厰、1929年、1- 2頁)。異なる点は、「慈善」が思想の内容と精神的な価値を重視する一つの概念であり、慈善が救済事業の道義性になっていたのに対して、「社会救済」が実質的な内容と手段を重視し、理性化と実用化をより明らかにしていたことであり、これは民国時期の西洋的な法律の思想と制度、特に社会学領域内の社会保障の知識と救済法規の広範な普及によるものであった(周成『地方慈善行政講義』泰東図書局、1923年、43頁)
民国中後期には、「社会救済」と「慈善」の実質的な内容が次第に重視されるようになり、そして政府を主導的な力として、以前よりも自覚的に機能と性質の適応と調整が始まるようになった。結果として、「慈善」はその強い道徳的な価値の趣向のために、より自発性と社会性を強調して相対的に自主的な発展の道を歩んでいくのに対して、「社会救済はその政府の行為の性質を強調し、範囲を次第に民間の慈善事業へと拡大かつ包括していくようになった。このように、行政的な意味での「社会救済」(あるいは「社会福利」)と道義的な民間の「慈善」という、二つの相互に独立しているだけではなく密接に関係している体系が形成されたのである。この時期に出現している大量の社会救済の法令・法規と各地の慈善機関の調査報告などには、二者の内容が定まっていく過程が基本的に完成していることをはっきりと見ることができる。1928年の南京政府が中央に設立した社会部や、地方に設けた社会局(処)、社会部が管轄している各救済院および古い慈善機関など、この種の組織と制度の確立は、明らかに社会救済と民間慈善の間のこの種の機能が大きな趨勢になっていることを反映するものである。
(2)中国における初期の社会保障システムと現代的な意義をもった慈善事業を初歩的に構築することができた
社会学者を主な代表とする新しいタイプの知識人は、清末で既に始まっていた慈善事業の変革の基礎の上にあり、大規模に西洋の社会救済、社会福祉、社会保険、社会保障などの知識、思想、法規と制度などを導入、吸収し、大いに近代慈善事業の転換を加速し、一方では民間慈善事業の自主性が強化され、相対的に独立した慈善救済の事務が展開したが、他方では政府は次第に権力と義務の関係に基づいた全国民的な社会保障事業の責任を担うようになり、近代社会保障事業の制度化と法制化の建設を行い始めていった。同時に、政府はさらに民間慈善事業に一定の自主的な発展の権利を与え、例えば経費の支援を提供すると同時に、さらに法律的な側面で監督、規律化と保護などを行っていく。ここから、この二つが並行的な発展の関係というだけではなく、実際に存在している行政的な指導と隷属の関係でもあるという、救済システムが中国に出現しはじめたのである。以上のように、西洋の社会学の知識が中国で普及かつ発展していくという大きな流れを借りる形で、中国の伝統的な慈善の思想と実践は自己革新(自我更新)の歴史的な任務を完成したのである。このように歴史的な角度から言えば、近代中国の慈善事業発展史において、西洋的な学問の影響と役割を承認かつ十分に肯定されるべきなのであり、それを衝撃と呼ぶにせよ挑戦と言うにせよ、中国の伝統的な慈善救済事業の転換は確実に、西洋の影響が東洋に及ぶ(西风东渐)潮流のなかで完成することができたのである。
二
現代の社会学理論は、社会学は社会の健全な運営と、協調的な発展の条件やメカニズムに関する、総合的で具体性をもった社会科学である(姚純安『社会学在近代中的進程: 1895- 1919 年』三聯書店、2006年、4頁)。西洋的な学問の重要な学科として、社会学は19世紀末に中国に伝わりはじめた。当時、近代中国の社会の運営状況は日に日に悪化し、数多くの志士仁人が救亡図存、社会問題の解決のために西洋を学ぶブームが盛り上がったが、これが社会学が中国に伝わる大きな歴史的な背景である。19世紀の20世紀の境目には、中国は簡単な紹介からより集中的に西洋の社会学の著作を翻訳し、最初の普及のブームを形成した。20世紀初頭は、社会学と様々な社会思想の潮流が錯綜して入り混じり、国民は次第に社会学の知識で政治理論の根拠や概念の道具にしていた。1920、30年年代以降は、社会学は制度的な建設の時期に突入し、社会学の運用を重視して中国問題を分析、研究しはじめたが、これは移植と普及の段階から成長と力強い発展の時期への突入である。
西洋の社会学の知識の近代中国における普及と社会学という学問の発展は、学術的な方面から近代の社会学の知識を把握する新しいタイプの知識人を生み出し、ひとつの全く新しい社会科学の学問体系を初歩的に創設した。慈善救済事業の角度から言えば、民国時期の社会学の設立と発展は、中国における早期の近代社会福祉事業と社会保障事業の進展を導き、近代中国慈善事業の全方位的な転換と自主的な発展を推進している。社会学が発揮しているこの種の積極的な役割と歴史的な影響は、主にいかの三つの点に表れている。
(1)教会の学校を主要な活動の場とする一群の外国の近代的知識人は、積極的に西洋の社会学の知識を移植すると同時に、キリスト教の宣教師と密接に協力して、広範に慈善的な性格をもった文化教育、医療・衛生および近代的な社会奉仕事業などの活動を展開している。西洋社会学の知識は主に、清末民国初期の西洋の宗教勢力が中国に陸続と教会学校を設立して伝授と普及を行う拠点となったが、これらの教会学校が早期に社会学を中国に移植する重要な場所であった。民国の時期には、北京と上海が西洋の社会学の知識を重要かつ推進する二つの重要な都市であった。最も早く社会学の課程を開設し、社会学の知識を伝授した教会学校は上海の聖ヨハン大学であり(1908年)、国立大学が社会学の課程および社会学系を開設してしたのは、清華学校が1917年に社会学課程を開設したように、教会学校に比べて遅い(閻明『一門学科与一个時代――社会学在中国』清華大学出版社、 2004年)。
アメリカ宣教師のバージェス(歩済時)は北京で社会学の知識を普及し、社会奉仕事業を推進する重要な人物の一人である。1909年に彼が中国に来た後に、北京のキリスト教青年会(YMCA)で働き、この会は後に北京地域で事前公益事業を展開する最も重要な社会組織の一つとなった。バージェス本人は京師公益連合会や北京地方奉仕団など、発起・設立された慈善団体に参加している(劉錫廉価『北京慈善彙編』京師第一監獄、1923年、69- 72頁)。ほかに、同様に高く評価されるべきアメリカ人がギャンブル(甘博)である。著名な社会学者として、ギャンブルは生涯中国の城鎮と郷村社会の経済問題の調査と研究に力尽くした。かれは四度の中国旅行を経て、北京地域で西洋の社会学教育を導入し、燕京大学に社会学系を創設した。ギャンブルはこれと前後して北京YMCAと華北平民教育運動で研究の統率を担任し、北京と北方の郷村の社会経済の調査を主導し、さらに北京地域の社会奉仕活動を支援・展開した。
(2)社会学の導入と発展のプロセスで、社会活動の展開を重視し、社会福祉事業の発展を主要な目標の一つする西洋の社会学が極めて重視する社会調査に力を尽し、中国の社会現象の研究に広範に応用しはじめるようにもなったが、その中には中国慈善事業の発展状況およびそれと密接にかかわる多くの社会問題が含まれていた。
調査方法は西洋社会学の基本的な研究手段であり、民国の初期は国内外の一群の社会学の知識人が、実際に調査に用いはじめて当時の中国の社会状況を認識・分析した。彼らの社会調査に対する手段を非常に重視かつ尊重し、調査の内容は比較的広範にわたり、初期の多くは例えば教会、学校、病院などの機構に対して調査を行うなど、キリスト教の普及と直接的な関係があった。後に、社会学者は貧困、犯罪、慈善救済などの社会現象と社会生活に対して、非常に大きな関心を示すようになった。
例えば、1921年にギャンブルがニューヨークで出版した『北京の社会調査』は、民国初期の北京地区の人口、教育、貧困、慈善事業、社会病理、社会犯罪、地域奉仕団体(社区服務団)などの各社会の次元にわたっており、当時において最初の東洋の都市に対する社会調査として高い評価を得た。ギャンブルは慈善事業と貧困状況に対する調査を通じて、中国の貧困の原因とそのほかの国家を比べて、より社会性をもったものであることを指摘した。これによって、辛亥革命の後、慈善事業と救済活動の目的および機能とには急速な変化が発生し、政府も既に、それと市民(公民)とが新しいタイプの関係であることを意識しはじめ、民間の慈善事業も日ごとに、施すものと施される者とが一種の平等な、人を助けることを喜びとする(助人為楽)奉仕の関係にあることをはっきりさせるべきことを理解するようになった。似たような結論と観点は、疑いなく当時の慈善活動と慈善事業の発展趨勢に対して、重要な啓発の意義を有していた。
1926年、社会学術研究機構北京社会調査書が成立し、陶孟和が所長を担任した。彼らは科学的な方法を用いて社会的な事実を調査し、特に貧困、犯罪、救済、人口、教育などの国民の経済と生活(国計民生)に関係する社会問題に関心を注ぎ、調査結果を政府に提供し、これは現実に参考されるべき価値もつ重要なものであった(前掲『一門学科与一个時代』)。
社会学の調査委研究の手段を用いて得られた調査結果は、中国における社会学の知識人の研究の情熱を非常に大きく駆り立てただけではなく、世の人は国の状況の現実に対する関心を強く呼び覚され、国家の活路である民族自尊心を追求し、社会学はこれによって急速な発展の時期に突入することになった。・・・・・
社会学の力強い発展という歴史的な時期において、それに相応して多くの社会学研究組織と調査組織が出現しただけではなく、北京、南京、上海、成都など大都市で社会学の俊樹を背景あるいは基礎として、慈善救済機関を考察の対象とする一群の調査報告が大量に出現し、さらに社会問題と慈善救済事業に深い関心をもって調査した学士卒業論文と学術文章が、中国慈善事業の研究にも、それに相当する一つの小さなブームを出現させることになり(王娟『近代北京慈善事業研究』人民出版社、2010年、11頁)、これは当時の学術界に慈善事業の発展趨勢を思考させ、政府部門の慈善事業にかかわる法令・法規の制定に欠かせない現実的な根拠を提供するものであった。
(3)社会学者を代表とする、中国本土の新しいタイプの知識人が、社会学の中国化を推進し、中国における社会学の専門学科化のプロセスで、積極的に慈善事業と社会奉仕活動にも身を投じたが、彼らは特に社会学にかかわる理論によって、中国社会の改良を唱導し、中国伝統の慈善救助活動の近代的な転換を推進した。
中国の伝統的な慈善救助活動に対して社会学的な性格をもった思考と分析を行い、初歩的に学術的な意義をもった慈善事業研究を行ったのは、20世紀の初期にはじまるものである。清末民国初期の中国で最初にアメリカに留学して社会学の学位を取得した、朱友漁の卒業論文『中国の慈善事業』(あるいは『中国慈善事業の精神』と訳す)が、この分野を切り開いた(開山)作品と言うことができる。朱友漁は中国の留学生の中で最も早く社会学を修めた重要人物であり、彼は1911年にコロンビア大学で社会学の博士の学位を取得し、帰国後に上海の聖ヨハン大学で社会学系の教員に任ぜられ、生涯にわたって宗教的な慈善教育活動に従事した(楊雅彬『近代中国社会学』中国社会科学出版社、2001年、67頁)。この本は古代の先哲の「慈善」の思想、鰥寡孤独者に対する各種の救済方法に言及しているだけではなく、特に宗族、村落、行会、公衆などの慈善救済の方面において発揮した役割を分析したものである。この本は実証的な歴史記述の豊富さには欠けるものの、最初に「中国独自の慈善博愛精神が近代民主主義の基礎になることができ、中国の土着から成長した(土生土長)善会・善堂が近代都市行政と近代地方行政の基礎となることができる」ことを前提とした(前瞻性)観点を提示し、現在も中国慈善事業を研究する日本の著名な学者である夫馬進の高い評価を得ている(夫馬進『中国善会善堂史研究』伍躍,楊文信等訳、商務印書館、2005年)。
民国以来、いくつかの大学あるいは研究機関で社会学の過程が講義され、社会学の知識の導入と普及に力を尽し、 西洋の社会学を本土化させようとする中国の知識人が、情熱をもった学生と一緒になって、「社会改良」のスローガンの下で、まさに社会学が実践を重視し、社会活動を重視するという伝統的にみられた実践を、積極的に多様な形式の社会奉仕活動に展開させようとしたが(前掲『一門学科与一个時代』267-278頁)、近代の事慈善救済事業の進化・変容のプロセスのなかで、その固有の立場を深い知識(濃墨?)で描き出していった。ここでは学会への言及は比較的少ないが、無視できない貢献を行った、北京の社会活動家である劉錫廉を例として簡単に説明してみたい(同前、276-277頁、吴廷燮等『北京市志稿』燕山出版社、1989年、173-175頁)。
民国時期の北京のYMCAの幹事として、かつて劉錫廉は北京全市の慈善機関を4年にわたる調査を行ったが、その目的は「貧困の原因を研究し、既存の各慈善団体を連合させ、様々な慈善事業機関の創設を激励し、慈善事業のなかの一切の複合的な病弊を取り除き、慈善事業の方法の基準を定め、北京にさらに有効な救済ができるようにする」ことであった。彼はこれに前後して、北京老若臨時救済会、北京地方服務団体聯合会、および教養保護囚犯的団体など、比較的社会的な影響力をもった若干の慈善団体の発起・成立を主宰かつ参加した。
そのなかで、北京地方服務団は1919年に成立し、事務所が灯市口に設けられ、「この地の人のための奉仕を宗旨とする」とされていた。中には貧民生計所、婦女習工厰、平民学校、自動遊戯場、貧民借本処、貧民委員などの機関があり、救済に大きな成果があったことで各地もこれに倣って設立し、後に北京地方服務団体聯合会が組織・成立し、全市の慈善事業が力を出して協力し、事業を全市に拡充させていくことが期待されていた。
1922年には、外交部街に京師公益連合会が設立されている。この会は由汪大燮、宝惠、劉錫廉、バージェスなどの人が中国赤十字総会、北京YMCA、北京地方服務団、同善社、悟善社、貧民救済会などの57の団体と連合することによって発起された。その宗旨は「北京の慈善事業を専門的に運営する」ことであった。電報で奉直戦争の終結を陳情し、婦孺救済会を46か所設置し、埋葬、食糧、資金徴収、救済などの事業を手掛けるだけではなく、首都(京兆)の11件で農民の借金を救済し、同時に老弱臨時救済などその他の慈善団体が扶養・救助することを協力して助けた。
積極的に具体的な慈善救助活動に参加する以外に、数多くの社会の病弊と社会の病態の現象に対して、社会学の知識人はさらに深い理論的な思考を行った。社会改良と社会改造の宗旨を実現するために、彼らが提示した解決方法の一つが、西洋の社会救済と社会福祉制度を参考にすることであった。たとえば陶孟和によると、「国民生産の不足」に対する方法の一つは「強力な政府による計画的な経済制度の実施」であったが(陶孟和『中国労働工生活程度』中国太平洋国際学会、1932年、4頁)、これは政府が全国民の社会保障を担うことに対する大雑把な理解をおおまかに見ることができる。他にも、教育と交通、組合互助制度などを含む詳細な解決方法を提示する研究者もいた。社会学者の中には、社会学と社会行政あるいは社会事業との関係を考えた時に、社会学が一種の科学であり、そして社会行政は一種の技術であり、両者ともそれぞれ別の理論的な基礎と応用領域があると指摘する者もいた。彼らは社会行政は個人と社会の需要を根拠として、経済、教育、文化、衛星などの行政施策を連携・調整させ、「人の全体の生活と社会福祉の完全な実現を図る」べきであると主張した。中国は主にまだ農業社会であるので、このために社会行政の活動を推進・実行するときに、政府が責任を持って担い手になるだけではなく、「中国における互助の伝統を十分に利用すべきである」という。1940年代になると、社会学者は各国の経験を参考にしつつ、中国の国情と民族もあわせて考慮し、予防と救済をともに重視すること、社会救済から社会保険へと発展させること、さらに進んで完成された社会保障体制と、経済の発展、社会的な富の蓄積を実現すること、政府の投資で社会投資を促進すること、社会、家庭および個人の協力によるべきこと、などなどを明確提示している(前掲『一門学科与一个時代』19頁)。
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三
社会学の知識人が社会と関わる力の努力を通じて、社会学という学科のシステムが基本的に中国に確立した。社会学という重要な「理論的な道具」のおかげで、近代慈善事業の発展に多様化という段階をもたらす結果となり、以下に主に事前概念の変化と現代的な意義をもつ慈善事業の初歩的な確率という二つの側面から、大雑把に述べておきたい。
(1)慈善概念の内容に変化が生まれ、慈善救済の社会的な機能に明らかな転換が生じた
民国時期は、社会学の領域内においては、中国の伝統的な「慈善」の概念を引き継いで広範な社会救済事業を指す以外は、より頻繁に西洋世界の「社会救済」あるいは「社会福祉」のなどの概念を引用して、同様あるいは類似した実質の内容を表示した。名詞の使用の頻度という角度から見ると、「慈善」は次第により多く「社会救済」によって取って代われるようになった。しかし、「社会救済」と「慈善」概念が並行していた初期の段階は、実際の機能は二者とも基本的に一致しており、「救済事業とはつまり救貧事業であり、それはつまり慈善事業であり、いわゆる温情主義の政策」であった(周震鱗『北平市社会局救済事業小史』北平特別市社会局第一習芸工厰、1929年、1- 2頁)。異なる点は、「慈善」が思想の内容と精神的な価値を重視する一つの概念であり、慈善が救済事業の道義性になっていたのに対して、「社会救済」が実質的な内容と手段を重視し、理性化と実用化をより明らかにしていたことであり、これは民国時期の西洋的な法律の思想と制度、特に社会学領域内の社会保障の知識と救済法規の広範な普及によるものであった(周成『地方慈善行政講義』泰東図書局、1923年、43頁)
民国中後期には、「社会救済」と「慈善」の実質的な内容が次第に重視されるようになり、そして政府を主導的な力として、以前よりも自覚的に機能と性質の適応と調整が始まるようになった。結果として、「慈善」はその強い道徳的な価値の趣向のために、より自発性と社会性を強調して相対的に自主的な発展の道を歩んでいくのに対して、「社会救済はその政府の行為の性質を強調し、範囲を次第に民間の慈善事業へと拡大かつ包括していくようになった。このように、行政的な意味での「社会救済」(あるいは「社会福利」)と道義的な民間の「慈善」という、二つの相互に独立しているだけではなく密接に関係している体系が形成されたのである。この時期に出現している大量の社会救済の法令・法規と各地の慈善機関の調査報告などには、二者の内容が定まっていく過程が基本的に完成していることをはっきりと見ることができる。1928年の南京政府が中央に設立した社会部や、地方に設けた社会局(処)、社会部が管轄している各救済院および古い慈善機関など、この種の組織と制度の確立は、明らかに社会救済と民間慈善の間のこの種の機能が大きな趨勢になっていることを反映するものである。
(2)中国における初期の社会保障システムと現代的な意義をもった慈善事業を初歩的に構築することができた
社会学者を主な代表とする新しいタイプの知識人は、清末で既に始まっていた慈善事業の変革の基礎の上にあり、大規模に西洋の社会救済、社会福祉、社会保険、社会保障などの知識、思想、法規と制度などを導入、吸収し、大いに近代慈善事業の転換を加速し、一方では民間慈善事業の自主性が強化され、相対的に独立した慈善救済の事務が展開したが、他方では政府は次第に権力と義務の関係に基づいた全国民的な社会保障事業の責任を担うようになり、近代社会保障事業の制度化と法制化の建設を行い始めていった。同時に、政府はさらに民間慈善事業に一定の自主的な発展の権利を与え、例えば経費の支援を提供すると同時に、さらに法律的な側面で監督、規律化と保護などを行っていく。ここから、この二つが並行的な発展の関係というだけではなく、実際に存在している行政的な指導と隷属の関係でもあるという、救済システムが中国に出現しはじめたのである。以上のように、西洋の社会学の知識が中国で普及かつ発展していくという大きな流れを借りる形で、中国の伝統的な慈善の思想と実践は自己革新(自我更新)の歴史的な任務を完成したのである。このように歴史的な角度から言えば、近代中国の慈善事業発展史において、西洋的な学問の影響と役割を承認かつ十分に肯定されるべきなのであり、それを衝撃と呼ぶにせよ挑戦と言うにせよ、中国の伝統的な慈善救済事業の転換は確実に、西洋の影響が東洋に及ぶ(西风东渐)潮流のなかで完成することができたのである。
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民国期の社会学における社会福祉研究の概説。勉強のために翻訳したが、実際なかなか勉強になる内容だった。王娟は北京理工大学に所属する1974年生まれの歴史学者で、『近代北京慈善事業研究』という著作がある。李曼琳は北京印刷学院の広告学の研究者である。詳細は不明だが、おそらく前者が主著者であろう。
中国における社会福祉研究は、まず1910年代末あたりに中国のYMCA周辺のアメリカの宣教師や学者からはじまり、彼らが中国の大学で社会学の講義を担当し、中国で社会調査をするようなったことによる。初期の中国人の研究者もYMCA周辺から生まれた。1920年代半ばになると、中国国内でも社会学が学問的に制度化されるようになり、慈善団体などの調査を行うだけではなく活動自体にも関わり、社会政策を積極的に提言していくようになる。1930年代の中国における社会学は、学問の受容においては先発国である日本よりも、少なくとも実証研究の面では進んでいた面があり(理論研究は現在に至るまで大きく遅れをとっている)、その代表が言うまでもなく燕京大学の費孝通である。この時期に、社会学者によって慈善事業に関する調査・研究の業績が蓄積されてきたことは、王娟らがこの文章で詳細に紹介している通りであり、こうした研究の再評価が待たれるところである。
この文章で指摘されている重要な論点は、「慈善」と「社会救済」の関係であろう。19世紀から20世紀はじめまでの中国は、国家・政府の脆弱さや分裂と反比例するように慈善団体の活動が活発化したが、この慈善団体をどう評価していくのかは、社会福祉の問題に取り組んだ社会学者がまず直面した問題であった。1930年代半ばには、近代的な「社会救済」の立場から伝統中国的な「慈善」を否定的に評価するという論調で固まったが、ここで指摘されているように、両者の関係と位置付けがもともと曖昧であったとすると、いつどのような理由で分裂していったのかは、極めて重要で興味深い問題である。