朱虹「『親しいから信用する』から『利益になるから関わる』への人間関係における信頼の転換――人間関係信頼状況の実証研究」『学海』2011年第4期
http://www.sociology2010.cass.cn/upload/2011/12/d20111211194359250.pdf
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中国における人間関係の信頼モデルの変化に関する研究。朱虹は南京大学副教授の社会学者で、リースマンの『孤独な群衆』を翻訳したりしているが、専門領域はあまりはっきりしない。
社会学における「信頼(trust)」というのは、具体的に知っている人を信用するということではなく、抽象化された専門家システムに対する漠然とした依拠や、公園や電車などの公共の場における「儀礼的無関心」を意味するものである。「信頼する」という行為は、自分がその対象についてよく知らないからこそ生じるものであり、ゆえにそれは常に潜在的な「リスク」を抱えているものである。
この論文は社会学の信頼研究を踏まえてないこともあり、個々の事例は先般の女児轢き逃げ事件を思わせるものもあって興味深いのだが、「熟人」社会から匿名性の高い社会への転換に伴い、信頼が「親」から「利」に基づくものへと変容しているという、いささか凡庸なまとめになっている。しかし、伝統的な社会学の文脈からすれば、匿名性が高い社会において「利」に還元できない信頼のメカニズムが生まれているはどうしてなのか、という視点こそが重要になる。
それにしても、中国の社会学論文は「現代化」のなかで「熟人」社会から「陌生人」の社会に変わったという図式を用いてまとめるものが多いが、事例の豊かさを単調・平板にしている印象は否めない。中国社会が依然として「脱農業化」の途上という背景にはあるにしても、中国における社会学理論研究(特に歴史社会学系)の手薄さが象徴されていると言えるだろう。
http://www.sociology2010.cass.cn/upload/2011/12/d20111211194359250.pdf
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結論と議論――人間関係の信頼の転換
私たちの研究が明らかにした親疎とはつまり、中国人の人間関係の信頼が生み出す重要な要素であるが、決して唯一の重要な要素というわけではなく、西洋社会が唱える人格、能力、交流のプロセスなどの理性的な要素は信頼を生みだす過程で重要な役割を果たし始めている。私たちが家人と熟人という二種類の典型的な親近関係を選んで、「親しい人を信用する(親而信)」という人間関係の信頼モデルが依然として有効かどうかを検討した。
「子供が老後を養う(養児防老)」は、血縁関係の伝統的な役割規範に基づくもので、疑いことのできない信頼関係であるが、今日の両親はもはや完全に子供に老後を養ってもらうことは期待できず、そこで新しい養老モデルである「家を老後の保障とする(養房防老)」が出現することになった。インタビューのなかでは、非常に多くの人が「家を持ったからと言って老後は安心できない」という観点を表明しているものの、「養児防老」に比べると、より多くの都市民がやはり「養房防老」のほうが良いと考えている。
夫婦関係の親密さと相互扶助の役割規範は、依然として人々の共通理解であり、ゆえに伝統農村の農民であろうと現代都市の市民であろうと、「夫婦も所詮は赤の他人(夫妻本是同林鳥,大難臨頭各自飛)」という言い方には賛同しないのである。「婚前財産公証」(結婚する前にお互いの資産や債務を公開する)を支持するかどうかは、婚姻関係の未来の予測に対する風向計である。結婚家庭は長期にわたってずっと中国人が最も頼るべき生活共同体であり、家人が最も信用されるのはある種の社会的な態度というだけではなく、まさに信仰そのものである。アンケート調査とインタビュー調査の結果が示しているのは、婚姻関係に脆弱さに直面すると、農村の人は拒否の態度をとり、都市の中年は苦しみ悶えてどうしたらいいのか分らなくなり、新世代の若者は結婚リスクを避けるための制度的な信頼――財産公証を自ら選択している。牢固として破りがたい家人の間の原始的な役割の信頼のなかに、利害関係の計算が出現しはじめているのである。
これと同時に、熟人の間の信頼関係の確立は、よりおおく人間関係の交流プロセスのなかで生まれた認知によるものであって、それはアイデンティティ(認同)に依拠するもので、もはや役割関係からもたらされる感情的な結合によるものではない。信頼は一種の社会的な態度として、それは認知と感情の両面から構成されるものであるが、伝統的な「親しい人を信用する」というモデルは、人々の重視しているのが関係であり、近親者の役割規範に対する深い信頼が疑われることはなく、そこから情感的な信頼が生み出されるようになるものであった。今日、熟人の間の信頼は、より多く理性的な認知であって情感的な信頼ではない傾向がある。見知らぬ人が伝統的な熟人社会では警戒して疑うべき者であったが、都市は見知らぬ人によって構成された社会であり、大量の社会的な相互作用が見知らぬ人の間に発生している。
私たちは見知らぬ人に対して、人々が「老人に手を差し伸べる(搀扶老人)」かどうかという、人々が簡単な(举手之劳)義務と倫理を履行できるかどうかを調査した。半分以上の調査者が示したのは、責任を恐れて、証言する人がいなければ敢えて助けたりはしない、というものであった。今日、老人に手を差し伸べること、こんなにも大きな信頼リスクになってしまっているのであり、頭のよい老人の中には、通行人の利害均衡の複雑な心理をよく洞察した後に、まず野次馬に向かって「私は自分で転んだんだ」と大声で明らかにし、助ける人の信頼リスクを解消して速やかに救助を得ようとする者もいるかもしれない。
金銭の貸し借りの問題は、利益や信頼の程度に連関している。調査が明らかにしたのは、基本的に金銭の貸し借りは家人と熟人の間でのみ発生しうるものであり、近親関係は依然として重要な信頼の基礎であるが、それは金銭の貸し借りの前提条件に過ぎず、貸す貸さないのカギとなる要素は信望と償還の能力ということである。多くの人が語ったのは、借用証や証人の存在も自分が相手にお金を貸すことを促したりはしないが、貸すことに同意した後は、ルールを決め(靠谱)、道理をわきまえている人は一般的にみな、主体的かつ明確に借用書をつくり、人にいくらかの安心感を与えることである。日常生活の世界における信頼の事件に対する分析で、私たちは関係への志向と利益への志向が、いかに複雑に絡み合って信頼の発生プロセスのなかに存在しているのかを見た。人間関係の信頼モデルは、まさに「親しい人を信用する」から、「利益になれば関わる」ものへと転換しつつある。
では、こうした信頼モデルの転換はいかにして発生しているのだろうか。ここでは、近代性(現代性)とリスク社会という、西洋の社会学における二つの重要な概念に言及しておきたい。近代性は17世紀の資本主義の萌芽時期にはじまり、ゆっくりとした発展と完成を経て、今に至るまで世界の範囲で重要な影響力を有する行為の制度とモデルである。近代性は人類社会発展の必然的な趨勢と言うことができ、科学技術の発展、生産効率の向上、情報ネットワークの膨張と文化の変遷、社会関係の変化などはみな近代性の産物である。近代性の発展は一方では人類にわかりやすい福音と便利さをもらたしたが、他方では社会と人類そのものに分裂と衝突をもたらしている。近代性への邁進は過去との決別を意味せざるを得ず、現代生活を追及するために、人々はもともと慣れ親しんだ生活方法から離れなければならないが、近代性と伝統型は一種の対立概念となっている。この種の対立は、道を歩いている時に突然階段に出くわしたようなものであり、階段の高さはそれほどではないが、一時的には適応が困難であり、不安と心配は避けられない。工業化を主要な標識とする社会変動は人類の社会生活の「不安」を引き起こし、近代性とは「不安に対するいある種の回答を追及していく」ものになっているのである(达尼洛・马尔图切利『现代性社会学』译林出版社, 2007 年)。
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ある程度から言えば、リスクは近代性の産物であり、人類社会はリスク社会へと変化している最中にある。中国社会について言えば、伝統社会からリスク社会への転換は中国社会の発展のその変動プロセスのなかに巨大な断裂を生み出し、これよって人間関係の交流のなかの信頼危機が引き起こされている。伝統的な中国社会の状況の下では、農業社会の基本的な特徴は人々を一つの相対的に固定された地域で生活させ、血縁、遅延を主要な特徴とする「熟人社会」を形成していることにある。人々の間は対面的で場所に基づく熟知と了解に依拠したものとなり、熟人社会が共有するところの行為規範や風俗習慣を制約として、人々の間の交流も出るは血縁、親情および遅延を紐帯と保証とするという、こうしたモデルの下で、人間関係の間に一種の「親しいから信用する」という信頼のモデルが形成されたのである。
近代性と高いリスクは中国社会の転換の主要な特徴である。この種の社会変動の状況のもとで、人々の活動は閉鎖的な地域の中で分離されたものから、伝統的な地域の制限が打破され、伝統的、安定的、長期的で予見可能な人間関係は次第に変化し、短期的、匿名的な交流のモデルがそれに取って代わった。つまり、急激な社会流動が人々に多くの短期的な交流をもたらし、人と人の間の関係は次第に複雑多岐になり、これは人々に憂慮と不安を与えることになったのである。いかにして、この種のリスクに随伴してもたらされる否定的な感情を減らすことができるのは、最も穏当な方法はすべての力を尽くして可能な限りリスクを避けることであり、これは児童と高齢者が比較的信頼される原因でもある。児童と高齢者は実のところ社会のなかに弱い集団に属しており、こうした弱い集団はコントロールされていることから来る安心感を人々に与えている。このほか、リスク社会は非常に多くの誘惑と不確定要素を生み出しており、市場経済が中国社会にもたらしている多くの利益紛争とゲームの権力競争や関係は、もはや信頼の生産や維持の保証にはならず、人々は理性的な利害の得失を通じて、例えば他人の品格や能力を信頼し、「家を老後の保障とする」ことを準備し婚前財産公証などは、人間関係の信頼リスクを下げることを期待してものである。
「親しい人を信用する」から「利益になれば関わる」への信頼モデルの転換は、社会転換によってもたらされたものである。ただ、私たちがいますぐ必要としている思考は、人間関係の信頼がいかにして新しいメカニズムで新しく再建されてるのか、ということにある。社会の信頼の基礎がいかにして人間関係の信頼から制度の信頼への転換できるのか。「利益になれば関わる」という人間関係の信頼モデルがもたらす中国社会の歩む方向はどのようなものだろうか。
私たちの研究が明らかにした親疎とはつまり、中国人の人間関係の信頼が生み出す重要な要素であるが、決して唯一の重要な要素というわけではなく、西洋社会が唱える人格、能力、交流のプロセスなどの理性的な要素は信頼を生みだす過程で重要な役割を果たし始めている。私たちが家人と熟人という二種類の典型的な親近関係を選んで、「親しい人を信用する(親而信)」という人間関係の信頼モデルが依然として有効かどうかを検討した。
「子供が老後を養う(養児防老)」は、血縁関係の伝統的な役割規範に基づくもので、疑いことのできない信頼関係であるが、今日の両親はもはや完全に子供に老後を養ってもらうことは期待できず、そこで新しい養老モデルである「家を老後の保障とする(養房防老)」が出現することになった。インタビューのなかでは、非常に多くの人が「家を持ったからと言って老後は安心できない」という観点を表明しているものの、「養児防老」に比べると、より多くの都市民がやはり「養房防老」のほうが良いと考えている。
夫婦関係の親密さと相互扶助の役割規範は、依然として人々の共通理解であり、ゆえに伝統農村の農民であろうと現代都市の市民であろうと、「夫婦も所詮は赤の他人(夫妻本是同林鳥,大難臨頭各自飛)」という言い方には賛同しないのである。「婚前財産公証」(結婚する前にお互いの資産や債務を公開する)を支持するかどうかは、婚姻関係の未来の予測に対する風向計である。結婚家庭は長期にわたってずっと中国人が最も頼るべき生活共同体であり、家人が最も信用されるのはある種の社会的な態度というだけではなく、まさに信仰そのものである。アンケート調査とインタビュー調査の結果が示しているのは、婚姻関係に脆弱さに直面すると、農村の人は拒否の態度をとり、都市の中年は苦しみ悶えてどうしたらいいのか分らなくなり、新世代の若者は結婚リスクを避けるための制度的な信頼――財産公証を自ら選択している。牢固として破りがたい家人の間の原始的な役割の信頼のなかに、利害関係の計算が出現しはじめているのである。
これと同時に、熟人の間の信頼関係の確立は、よりおおく人間関係の交流プロセスのなかで生まれた認知によるものであって、それはアイデンティティ(認同)に依拠するもので、もはや役割関係からもたらされる感情的な結合によるものではない。信頼は一種の社会的な態度として、それは認知と感情の両面から構成されるものであるが、伝統的な「親しい人を信用する」というモデルは、人々の重視しているのが関係であり、近親者の役割規範に対する深い信頼が疑われることはなく、そこから情感的な信頼が生み出されるようになるものであった。今日、熟人の間の信頼は、より多く理性的な認知であって情感的な信頼ではない傾向がある。見知らぬ人が伝統的な熟人社会では警戒して疑うべき者であったが、都市は見知らぬ人によって構成された社会であり、大量の社会的な相互作用が見知らぬ人の間に発生している。
私たちは見知らぬ人に対して、人々が「老人に手を差し伸べる(搀扶老人)」かどうかという、人々が簡単な(举手之劳)義務と倫理を履行できるかどうかを調査した。半分以上の調査者が示したのは、責任を恐れて、証言する人がいなければ敢えて助けたりはしない、というものであった。今日、老人に手を差し伸べること、こんなにも大きな信頼リスクになってしまっているのであり、頭のよい老人の中には、通行人の利害均衡の複雑な心理をよく洞察した後に、まず野次馬に向かって「私は自分で転んだんだ」と大声で明らかにし、助ける人の信頼リスクを解消して速やかに救助を得ようとする者もいるかもしれない。
金銭の貸し借りの問題は、利益や信頼の程度に連関している。調査が明らかにしたのは、基本的に金銭の貸し借りは家人と熟人の間でのみ発生しうるものであり、近親関係は依然として重要な信頼の基礎であるが、それは金銭の貸し借りの前提条件に過ぎず、貸す貸さないのカギとなる要素は信望と償還の能力ということである。多くの人が語ったのは、借用証や証人の存在も自分が相手にお金を貸すことを促したりはしないが、貸すことに同意した後は、ルールを決め(靠谱)、道理をわきまえている人は一般的にみな、主体的かつ明確に借用書をつくり、人にいくらかの安心感を与えることである。日常生活の世界における信頼の事件に対する分析で、私たちは関係への志向と利益への志向が、いかに複雑に絡み合って信頼の発生プロセスのなかに存在しているのかを見た。人間関係の信頼モデルは、まさに「親しい人を信用する」から、「利益になれば関わる」ものへと転換しつつある。
では、こうした信頼モデルの転換はいかにして発生しているのだろうか。ここでは、近代性(現代性)とリスク社会という、西洋の社会学における二つの重要な概念に言及しておきたい。近代性は17世紀の資本主義の萌芽時期にはじまり、ゆっくりとした発展と完成を経て、今に至るまで世界の範囲で重要な影響力を有する行為の制度とモデルである。近代性は人類社会発展の必然的な趨勢と言うことができ、科学技術の発展、生産効率の向上、情報ネットワークの膨張と文化の変遷、社会関係の変化などはみな近代性の産物である。近代性の発展は一方では人類にわかりやすい福音と便利さをもらたしたが、他方では社会と人類そのものに分裂と衝突をもたらしている。近代性への邁進は過去との決別を意味せざるを得ず、現代生活を追及するために、人々はもともと慣れ親しんだ生活方法から離れなければならないが、近代性と伝統型は一種の対立概念となっている。この種の対立は、道を歩いている時に突然階段に出くわしたようなものであり、階段の高さはそれほどではないが、一時的には適応が困難であり、不安と心配は避けられない。工業化を主要な標識とする社会変動は人類の社会生活の「不安」を引き起こし、近代性とは「不安に対するいある種の回答を追及していく」ものになっているのである(达尼洛・马尔图切利『现代性社会学』译林出版社, 2007 年)。
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ある程度から言えば、リスクは近代性の産物であり、人類社会はリスク社会へと変化している最中にある。中国社会について言えば、伝統社会からリスク社会への転換は中国社会の発展のその変動プロセスのなかに巨大な断裂を生み出し、これよって人間関係の交流のなかの信頼危機が引き起こされている。伝統的な中国社会の状況の下では、農業社会の基本的な特徴は人々を一つの相対的に固定された地域で生活させ、血縁、遅延を主要な特徴とする「熟人社会」を形成していることにある。人々の間は対面的で場所に基づく熟知と了解に依拠したものとなり、熟人社会が共有するところの行為規範や風俗習慣を制約として、人々の間の交流も出るは血縁、親情および遅延を紐帯と保証とするという、こうしたモデルの下で、人間関係の間に一種の「親しいから信用する」という信頼のモデルが形成されたのである。
近代性と高いリスクは中国社会の転換の主要な特徴である。この種の社会変動の状況のもとで、人々の活動は閉鎖的な地域の中で分離されたものから、伝統的な地域の制限が打破され、伝統的、安定的、長期的で予見可能な人間関係は次第に変化し、短期的、匿名的な交流のモデルがそれに取って代わった。つまり、急激な社会流動が人々に多くの短期的な交流をもたらし、人と人の間の関係は次第に複雑多岐になり、これは人々に憂慮と不安を与えることになったのである。いかにして、この種のリスクに随伴してもたらされる否定的な感情を減らすことができるのは、最も穏当な方法はすべての力を尽くして可能な限りリスクを避けることであり、これは児童と高齢者が比較的信頼される原因でもある。児童と高齢者は実のところ社会のなかに弱い集団に属しており、こうした弱い集団はコントロールされていることから来る安心感を人々に与えている。このほか、リスク社会は非常に多くの誘惑と不確定要素を生み出しており、市場経済が中国社会にもたらしている多くの利益紛争とゲームの権力競争や関係は、もはや信頼の生産や維持の保証にはならず、人々は理性的な利害の得失を通じて、例えば他人の品格や能力を信頼し、「家を老後の保障とする」ことを準備し婚前財産公証などは、人間関係の信頼リスクを下げることを期待してものである。
「親しい人を信用する」から「利益になれば関わる」への信頼モデルの転換は、社会転換によってもたらされたものである。ただ、私たちがいますぐ必要としている思考は、人間関係の信頼がいかにして新しいメカニズムで新しく再建されてるのか、ということにある。社会の信頼の基礎がいかにして人間関係の信頼から制度の信頼への転換できるのか。「利益になれば関わる」という人間関係の信頼モデルがもたらす中国社会の歩む方向はどのようなものだろうか。
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中国における人間関係の信頼モデルの変化に関する研究。朱虹は南京大学副教授の社会学者で、リースマンの『孤独な群衆』を翻訳したりしているが、専門領域はあまりはっきりしない。
社会学における「信頼(trust)」というのは、具体的に知っている人を信用するということではなく、抽象化された専門家システムに対する漠然とした依拠や、公園や電車などの公共の場における「儀礼的無関心」を意味するものである。「信頼する」という行為は、自分がその対象についてよく知らないからこそ生じるものであり、ゆえにそれは常に潜在的な「リスク」を抱えているものである。
この論文は社会学の信頼研究を踏まえてないこともあり、個々の事例は先般の女児轢き逃げ事件を思わせるものもあって興味深いのだが、「熟人」社会から匿名性の高い社会への転換に伴い、信頼が「親」から「利」に基づくものへと変容しているという、いささか凡庸なまとめになっている。しかし、伝統的な社会学の文脈からすれば、匿名性が高い社会において「利」に還元できない信頼のメカニズムが生まれているはどうしてなのか、という視点こそが重要になる。
それにしても、中国の社会学論文は「現代化」のなかで「熟人」社会から「陌生人」の社会に変わったという図式を用いてまとめるものが多いが、事例の豊かさを単調・平板にしている印象は否めない。中国社会が依然として「脱農業化」の途上という背景にはあるにしても、中国における社会学理論研究(特に歴史社会学系)の手薄さが象徴されていると言えるだろう。