農民工の仮想的コミュニティの構成とその作用に関する簡単な分析
李雪(中南大学法学院社会学系)
中国社会学網
http://www.sociology.cass.cn/shxw/zxwz/P020091027251271405086.PDF
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身辺が「見知らぬ人(陌生人)」で充満している都市の環境の中では、文化的な衝突が引き起こす様々な不適応に直面し、農民工は失望感をおぼえ、どうしらいいのかわからなくなってしまう。とくに都市の居住空間内では、農民工と都市住民は離れて住み、都市空間のなかで異なる場所にあって、二者の間の誤解と都市住民の農民工に対する差別的視線が深く加わっているのだが、これというのも都市空間において、居住している場所とそのコミュニティ(社区)の環境が都市住民と農民工の社会的交流に非常に大きな影響を与えているからである。このような、離れて住んでいる構造は、両者の間の交流を不活発な綱状態にしている。文化衝突の視覚から分析すれば、都市と農村という二種類の異なる文化の衝突は客観的に存在するものであるが、それらの各自の領域の境界内で平穏無事であれば、矛を交えてぶつかるようなことは起こらないし、社会の正常な運行に脅威になるようなこともあり得ない。しかし現実は、流動的な農民工は無意識のうちに身につけている郷土文化を帯びて都市空間に進入し、さらに彼ら文化は深く根を張っているので、都市文化と摩擦が起こり、さらには衝突に至ることもある。離れて住んでいるという構造が都市住民にもたらしているのは、ただ自らの限られた観察と接触の中で農民工に対する客観的な反応と評価ができなくなっているにすぎない。そして農民工の「村民意識」は、彼らの中に都市に対する帰属感と「主人公」意識を生み出すことを非常に困難にしている。
こうした状況の下では、似たような経歴と感受性をもった農民工の間には何らかの心理的なアイデンティティを容易に生み出すが、これは精神上において都市に移り住む農民工の都市環境への速やかな適応を支えているのであり、そこでは仮想的コミュニティ(虚拟社区)がおのずと生まれるようになっている。ここで私が仮想的コミュニティと呼ぶものは、主にひとつの都市空間のなかで、農民工が差序格局と道具的理性の構造に照らして形成かつ構成した、一つの社会的な関係のネットワークを指している。相互の間のインフォーマルな信頼が、このような仮想的コミュニティを構成するメディアであり、関係の強さはこうしたコミュニティが組織かつ構成する重要な方法によるものである。
・・・・・・・・・
農民工の集団は都市の生活に溶け込んでいく過程の中で、同質的な集団は、社会的な交流が強い関係を構成し、その関係は血縁から地縁関係へと、だんだんと外に推し広がっていく。それに対して異質的な集団は、社会的な交流が弱い関係を構成し、道具的理性を基準として「差序格局」的なものを形成する。農民工は社会的交流と相互作用のプロセスの中で、つまり仮想的コミュニティが作動するプロセスの中で、自主的にこうした選択を行っているのではなく、ある種の弱い関係と強い関係という、こうした「差序格局」の選択なのであって、こうした同質的な集団と異質的な集団の関係の距離の選択は、言い換えれば、自らの感覚で「身内(自己人)」であるかどうかの判断と選択なのである。だから私に言わせれば、都市空間内では「差序格局」が依然として仮想的コミュニティの作用の重要なロジックなのである。
そこで、農民工の社会関係のネットワークの内部では、同質的集団と異質的集団の相互作用が、共同でそうした仮想的コミュニティの組織構造を構築し、こうした組織構造がどのように仕組みであるべきなのかは、「差序格局」の力を運用することが必要になる。農民工の仮想的コミュニティの内部では、どの個人も社会的ネットワークを推し広げたところの圏域の中心である、自己を中心として、水の波紋のように、圏域が外に向かって推し広がり、広がることによって自らとの関係がますます疎遠なものとなり、さらに自らとの交情も薄まっていくことになる。こうしたロジックの仕組みに照らし合わせてみれば、農民工の仮想的コミュニティは運営されるようになるのである。・・・・
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費孝通の「差序格局」論を、農民工の都市社会への包摂・統合のプロセスに応用した、ややユニークな論文。一応学術論文だが、文体的にはエッセイに近く、具体的なデータに乏しい。
今に至るまで、「差序格局」論以上に中国社会の構造的特性を的確に言い当てた概念はほかに見当たらない。広い意味での「関係主義」は日本にも存在するし、親疎によって人間の価値を序列化することにも変わりがないが、日本の関係主義が職場や学校の教室といった場の共有を前提にしているのに対して、「差序格局」は純粋に「自己」を基点としたネットワークである点に根本的な違いがある。だから日本人は、場を共有している限りで強い連帯感(および同調圧力)がある一方で、場が壊れると極度に孤独化してしまう傾向があるが、中国人においては場の共有と人間関係の強さとは基本的に関係がない。同じ「コネ」といっても、中国のほうがよく悪くもダイナミックである。
「仮想的コミュニティ」の内実が若干不明である。そもそも、近代以前から中国の宗族や会館などは「仮想的コミュニティ」のようなところがあり、「実体的コミュニティ」との差異をもう少し明確にすべきだろう。
李雪(中南大学法学院社会学系)
中国社会学網
http://www.sociology.cass.cn/shxw/zxwz/P020091027251271405086.PDF
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身辺が「見知らぬ人(陌生人)」で充満している都市の環境の中では、文化的な衝突が引き起こす様々な不適応に直面し、農民工は失望感をおぼえ、どうしらいいのかわからなくなってしまう。とくに都市の居住空間内では、農民工と都市住民は離れて住み、都市空間のなかで異なる場所にあって、二者の間の誤解と都市住民の農民工に対する差別的視線が深く加わっているのだが、これというのも都市空間において、居住している場所とそのコミュニティ(社区)の環境が都市住民と農民工の社会的交流に非常に大きな影響を与えているからである。このような、離れて住んでいる構造は、両者の間の交流を不活発な綱状態にしている。文化衝突の視覚から分析すれば、都市と農村という二種類の異なる文化の衝突は客観的に存在するものであるが、それらの各自の領域の境界内で平穏無事であれば、矛を交えてぶつかるようなことは起こらないし、社会の正常な運行に脅威になるようなこともあり得ない。しかし現実は、流動的な農民工は無意識のうちに身につけている郷土文化を帯びて都市空間に進入し、さらに彼ら文化は深く根を張っているので、都市文化と摩擦が起こり、さらには衝突に至ることもある。離れて住んでいるという構造が都市住民にもたらしているのは、ただ自らの限られた観察と接触の中で農民工に対する客観的な反応と評価ができなくなっているにすぎない。そして農民工の「村民意識」は、彼らの中に都市に対する帰属感と「主人公」意識を生み出すことを非常に困難にしている。
こうした状況の下では、似たような経歴と感受性をもった農民工の間には何らかの心理的なアイデンティティを容易に生み出すが、これは精神上において都市に移り住む農民工の都市環境への速やかな適応を支えているのであり、そこでは仮想的コミュニティ(虚拟社区)がおのずと生まれるようになっている。ここで私が仮想的コミュニティと呼ぶものは、主にひとつの都市空間のなかで、農民工が差序格局と道具的理性の構造に照らして形成かつ構成した、一つの社会的な関係のネットワークを指している。相互の間のインフォーマルな信頼が、このような仮想的コミュニティを構成するメディアであり、関係の強さはこうしたコミュニティが組織かつ構成する重要な方法によるものである。
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農民工の集団は都市の生活に溶け込んでいく過程の中で、同質的な集団は、社会的な交流が強い関係を構成し、その関係は血縁から地縁関係へと、だんだんと外に推し広がっていく。それに対して異質的な集団は、社会的な交流が弱い関係を構成し、道具的理性を基準として「差序格局」的なものを形成する。農民工は社会的交流と相互作用のプロセスの中で、つまり仮想的コミュニティが作動するプロセスの中で、自主的にこうした選択を行っているのではなく、ある種の弱い関係と強い関係という、こうした「差序格局」の選択なのであって、こうした同質的な集団と異質的な集団の関係の距離の選択は、言い換えれば、自らの感覚で「身内(自己人)」であるかどうかの判断と選択なのである。だから私に言わせれば、都市空間内では「差序格局」が依然として仮想的コミュニティの作用の重要なロジックなのである。
そこで、農民工の社会関係のネットワークの内部では、同質的集団と異質的集団の相互作用が、共同でそうした仮想的コミュニティの組織構造を構築し、こうした組織構造がどのように仕組みであるべきなのかは、「差序格局」の力を運用することが必要になる。農民工の仮想的コミュニティの内部では、どの個人も社会的ネットワークを推し広げたところの圏域の中心である、自己を中心として、水の波紋のように、圏域が外に向かって推し広がり、広がることによって自らとの関係がますます疎遠なものとなり、さらに自らとの交情も薄まっていくことになる。こうしたロジックの仕組みに照らし合わせてみれば、農民工の仮想的コミュニティは運営されるようになるのである。・・・・
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費孝通の「差序格局」論を、農民工の都市社会への包摂・統合のプロセスに応用した、ややユニークな論文。一応学術論文だが、文体的にはエッセイに近く、具体的なデータに乏しい。
今に至るまで、「差序格局」論以上に中国社会の構造的特性を的確に言い当てた概念はほかに見当たらない。広い意味での「関係主義」は日本にも存在するし、親疎によって人間の価値を序列化することにも変わりがないが、日本の関係主義が職場や学校の教室といった場の共有を前提にしているのに対して、「差序格局」は純粋に「自己」を基点としたネットワークである点に根本的な違いがある。だから日本人は、場を共有している限りで強い連帯感(および同調圧力)がある一方で、場が壊れると極度に孤独化してしまう傾向があるが、中国人においては場の共有と人間関係の強さとは基本的に関係がない。同じ「コネ」といっても、中国のほうがよく悪くもダイナミックである。
「仮想的コミュニティ」の内実が若干不明である。そもそも、近代以前から中国の宗族や会館などは「仮想的コミュニティ」のようなところがあり、「実体的コミュニティ」との差異をもう少し明確にすべきだろう。