史報

中国史・現代中国関係のブログ

農民工の仮想的コミュニティの構成とその作用に関する簡単な分析

2009-10-28 21:49:26 | Weblog
農民工の仮想的コミュニティの構成とその作用に関する簡単な分析
李雪(中南大学法学院社会学系)
中国社会学網
http://www.sociology.cass.cn/shxw/zxwz/P020091027251271405086.PDF
 
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身辺が「見知らぬ人(陌生人)」で充満している都市の環境の中では、文化的な衝突が引き起こす様々な不適応に直面し、農民工は失望感をおぼえ、どうしらいいのかわからなくなってしまう。とくに都市の居住空間内では、農民工と都市住民は離れて住み、都市空間のなかで異なる場所にあって、二者の間の誤解と都市住民の農民工に対する差別的視線が深く加わっているのだが、これというのも都市空間において、居住している場所とそのコミュニティ(社区)の環境が都市住民と農民工の社会的交流に非常に大きな影響を与えているからである。このような、離れて住んでいる構造は、両者の間の交流を不活発な綱状態にしている。文化衝突の視覚から分析すれば、都市と農村という二種類の異なる文化の衝突は客観的に存在するものであるが、それらの各自の領域の境界内で平穏無事であれば、矛を交えてぶつかるようなことは起こらないし、社会の正常な運行に脅威になるようなこともあり得ない。しかし現実は、流動的な農民工は無意識のうちに身につけている郷土文化を帯びて都市空間に進入し、さらに彼ら文化は深く根を張っているので、都市文化と摩擦が起こり、さらには衝突に至ることもある。離れて住んでいるという構造が都市住民にもたらしているのは、ただ自らの限られた観察と接触の中で農民工に対する客観的な反応と評価ができなくなっているにすぎない。そして農民工の「村民意識」は、彼らの中に都市に対する帰属感と「主人公」意識を生み出すことを非常に困難にしている。
 こうした状況の下では、似たような経歴と感受性をもった農民工の間には何らかの心理的なアイデンティティを容易に生み出すが、これは精神上において都市に移り住む農民工の都市環境への速やかな適応を支えているのであり、そこでは仮想的コミュニティ(虚拟社区)がおのずと生まれるようになっている。ここで私が仮想的コミュニティと呼ぶものは、主にひとつの都市空間のなかで、農民工が差序格局と道具的理性の構造に照らして形成かつ構成した、一つの社会的な関係のネットワークを指している。相互の間のインフォーマルな信頼が、このような仮想的コミュニティを構成するメディアであり、関係の強さはこうしたコミュニティが組織かつ構成する重要な方法によるものである。

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農民工の集団は都市の生活に溶け込んでいく過程の中で、同質的な集団は、社会的な交流が強い関係を構成し、その関係は血縁から地縁関係へと、だんだんと外に推し広がっていく。それに対して異質的な集団は、社会的な交流が弱い関係を構成し、道具的理性を基準として「差序格局」的なものを形成する。農民工は社会的交流と相互作用のプロセスの中で、つまり仮想的コミュニティが作動するプロセスの中で、自主的にこうした選択を行っているのではなく、ある種の弱い関係と強い関係という、こうした「差序格局」の選択なのであって、こうした同質的な集団と異質的な集団の関係の距離の選択は、言い換えれば、自らの感覚で「身内(自己人)」であるかどうかの判断と選択なのである。だから私に言わせれば、都市空間内では「差序格局」が依然として仮想的コミュニティの作用の重要なロジックなのである。
 そこで、農民工の社会関係のネットワークの内部では、同質的集団と異質的集団の相互作用が、共同でそうした仮想的コミュニティの組織構造を構築し、こうした組織構造がどのように仕組みであるべきなのかは、「差序格局」の力を運用することが必要になる。農民工の仮想的コミュニティの内部では、どの個人も社会的ネットワークを推し広げたところの圏域の中心である、自己を中心として、水の波紋のように、圏域が外に向かって推し広がり、広がることによって自らとの関係がますます疎遠なものとなり、さらに自らとの交情も薄まっていくことになる。こうしたロジックの仕組みに照らし合わせてみれば、農民工の仮想的コミュニティは運営されるようになるのである。・・・・

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 費孝通の「差序格局」論を、農民工の都市社会への包摂・統合のプロセスに応用した、ややユニークな論文。一応学術論文だが、文体的にはエッセイに近く、具体的なデータに乏しい。

今に至るまで、「差序格局」論以上に中国社会の構造的特性を的確に言い当てた概念はほかに見当たらない。広い意味での「関係主義」は日本にも存在するし、親疎によって人間の価値を序列化することにも変わりがないが、日本の関係主義が職場や学校の教室といった場の共有を前提にしているのに対して、「差序格局」は純粋に「自己」を基点としたネットワークである点に根本的な違いがある。だから日本人は、場を共有している限りで強い連帯感(および同調圧力)がある一方で、場が壊れると極度に孤独化してしまう傾向があるが、中国人においては場の共有と人間関係の強さとは基本的に関係がない。同じ「コネ」といっても、中国のほうがよく悪くもダイナミックである。

「仮想的コミュニティ」の内実が若干不明である。そもそも、近代以前から中国の宗族や会館などは「仮想的コミュニティ」のようなところがあり、「実体的コミュニティ」との差異をもう少し明確にすべきだろう。

毛新宇「開国領袖の誕生日を法律で休日に定めるべき」と語る

2009-10-06 19:18:34 | Weblog
毛新宇「開国領袖の誕生日を法律で休日に定めるべき」と語る
2009-09-26 01:22:55 来源: 广州日报(广州) 

http://blog.sina.com.cn/s/blog_53a7ac510100f16r.html#comment1

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「祖父の威光にあずかった」

いかにして自ら得た栄誉と地位を評価しているのかという問いにおよんだ際、毛新宇は決して逃げることなく言った、「私はこれは全国人民の領袖(祖父の毛沢東―訳者註)に対する尊敬と敬愛によるものであり、党中央の開国元勲の子孫に対する養成や気遣いでもあり、私の祖父の威光にあずかったものとはっきり言うことができる。もちろん、私自身の努力もあるが。」

彼は、自らは読書や研究、党委員会の開催以外は、かならず平均毎日2時間前後の、一定のスポーツのための時間をつくっているとも漏らしてくれた。「普通は散歩、山登り、水泳をやっている。水泳は一回でだいたい二千メートルは泳ぐことができる。」毛沢東はかつて何度か長江を横断したが、記者は毛新宇に試みてみるつもりはあるかと質問してみた。彼は「まさか!」と大きく笑った。

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「提案――毛沢東の誕生日、命日を正式に休日に定める」

「(毛沢東)紀念堂の従業員が我々に述べたところでは、毎日平均4、5万人が毛主席を仰ぎ見に来ているそうだ。」毛新宇が言うには、毛沢東の誕生日(12月26日)と命日(9月9日)は、あらゆる人が毛沢東の旧家を観に行くことができるという。「全国の人民が、私の祖父である毛沢東のような、新中国の建設者で偉大な領袖を永遠に記憶にとどめることができる。私は様々な形式を用いて、例えば毛沢東の誕生日や命日を祝日あるいは記念日として法律に定めるなど、広く領袖の事跡や思想を宣伝すべきだと考えている。」毛新宇の解釈では、例えば国家が伝統文化を提唱・重視するために、清明節や端午節を法律で祝日に定めているように、認知度と宣伝効果は非常によいのだという。彼はさらに現在の中学校・小学校の教科書に、革命烈士の事跡の内容をもっと紹介するように希望している。毛新宇は、自分はこの二つの考えを提案として書き込み、来年の全国政治協商会議上で、大会の討論に提出するだろうと態度を表明している。

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毛沢東の孫である毛新宇に対する広州日報のインタビュー記事。王小東氏のブログからの重引。

「軍事科学院戦争理論と戦略研究所」という部署の副部長を努める。軍事組織のことはあまりよくわからないが、実質的な権限はあまりなさそうである。「祖父の威光にあずかった」とはなかなか正直だが、そんなものなのだろうか。

毛沢東の晩年も相当肥えていたが、それに劣らぬ肥満体で、本当にスポーツをしているのか疑問なほどである。しかし、最初の奥さんは「獄死」しているそうで、真相は謎だが、なかなか物騒な人物(本人か周囲かはともかく)であることは確かなようだ。

毛沢東の誕生記念日を創設すべきだという、いささか時代錯誤的な提案をしている。小平以降、個人崇拝は現役の幹部や軍人はもちろんのこと、毛沢東に対するものでもかなり抑制されている。毛沢東の肖像画などは、日本のサッカー応援における国旗に近い感覚で、緩やかな中国のシンボルとして消費社会に溶け込んでいるようなところもある。しかし、これは完全に非政治的なものであり、誕生記念日という提案に対して世論が同調する可能性はかなり低いと予想される。紀念堂などの参観者が多いといっても、それはあくまで観光資源として消費されているのであって、崇拝の感情自体は弱まっていると考えるべきだろう。不肖の孫の提案は、祖父の権威をますます傷つけるだけになるに違いない。

王小東は記事を貼り付けるだけで何のコメントもしていないのだが、コメント欄ではやはりというか、「この孫は爺さんの遺産を食い潰すこと以外、実際は何の功績もない」など、総じて批判的なものが多い。

中国の民衆は現在の不平等をいかに見ているか

2009-10-02 12:16:45 | Weblog
「中国の民衆は現在の不平等をいかに見ているか」懐黙霆

中国社会学網
http://www.sociology.cass.cn/shxw/shwt/P020090619294848598429.pdf

文章来源:《社会学研究》2009年第1期

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3 結論

 先の分析が明らかにしているのは、中国の調査対象者は、多くの分析者や中国政府の官僚が考えているようなものとは異なり、現在の不平等の程度が公平かどうかに対して不満を抱いている。逆に、ほかの国の人々と比べると、中国の調査対象者の不平等に対する態度はより積極的なものである。ほかにも、通常の見方と異なるのは、そうした現在の不平等に対して最も不満を持っているのは、中国で最も力の弱い集団ではないことである。農村の住民、特に内陸部の省で都市から離れた場所に住んでいる農民は、どの点においても中国社会における最下層である。多くの人は、彼らが市場改革の中ではるか遠くの、世の中の向こう側に捨て去られ、彼らの利益は様々な市場化の施策によって損害を蒙っていると考えている。・・・・・

 しかし、我々の調査結果が明らかにしているのは、現在の不平等の程度やリスク、公平さがどうであるのかという点において、こうした一般的な見方が大きく誤っている、あるいは正確とは言えないということである。全体的に見ると、都市住民の不平等に対する不満のほうが大きく、それはとくに教育程度が比較的高い人と中部の省に住んでいる人、そのなかの中年世代にその傾向がある。逆に、農村住民、とくに都市から遠く離れている農民は、現在の不平等を受け入れる傾向がある。こうした点において、我々は少なくとも農民の「故郷を離れる怒り」(タイム誌の記事―訳者註)を見ることはできなかった。

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 注意する必要があるのは、ここで我々が中国の農民が不満の基礎を生み出していないと示唆したいわけではけっしてなく、彼らの不満が主には目の前の不平等がであるかどうか、あるいは公平であるかどうかに由来しているものではない、ということなのである。事実、ここ数年激発している農村の抗議運動の多くは、手続き上の不公正(procedural injustice)によるものであって、分配上の不公正(distributive injustice)によるものではない。たとえばようやく廃止された、最近までずっと存在していた農村の不公平な税負担、周辺の工場に環境汚染を停止させることに対する農民の無力、および農村の土地収用に十分な競技や保証がないこと、などなどである。

 同様に、もし我々が主観的な要因を考慮すると、都市はより多くの点で優勢であり、都市住民の生活水準も農村に比べてより速く高くなっているにも関わらず、都市住民が不平等に対してより批判的な態度であるのも、決して不思議なことではない。確かに、都市では富を得る機会は農村に比べてより多いが、都市の住民も失業、社会福利の減少、収入減少といった問題に直面している。これは都市住民に、農民とは異なり、「何も失うべきものはなく、ただ上に動くことだけが可能である」という感覚を持ち得ないようにしている。1990年代中期にはじまった国有企業改革が非常に多くの人に「鉄飯碗(食いはぐれのない職業)」を放棄させたことのほかに、都市の住民はさらに市場経済改革のリスクに直接目撃することになっており、多くの新しく出現した「暴富」階層および彼らの奢侈的な生活スタイルも見ている。前者は自己の改革の中の苦しみやもがきであるが、後者は急速に裕福になった人が都市住民の視野に入ってくる――このことすべてが、都市住民に農民と比較を通じて慰めを得るということを不可能にしているのである。この意味において、過去や身の回りの人と比較しても、農民は現在の不平等に対して用意に受け容れるのであり、このような比較は別の面においては、相当な部分かえって都市住民に不満を抱かせる可能性を持つものにもなっているのである。

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再び中国社会学網の論文。論文は読みやすい&訳しやすいから、あまり中国語の勉強にならないのだけど。

都市という平等的・競争的な空間ほど、不平等に対する不満が蓄積されやすい。農村の住民のように、最初から格差が圧倒的であったり、形式的・制度的な平等への規範が弱い社会では、そもそも不平等への不満が沸き起こりにくい。これは、トクヴィル以来指摘されてきた、「古くて新しい」問題であると言えるだろう。日本でも、中間層(特に団塊世代の旧中間層)のほうに不平等感が強く、昨今話題の「ワーキングプア」などは、「格差社会」の現実を受容する態度があると言われているが、おそらくこれと似たようなところがある。

しかしそれでも、中国はあくまで全体が上昇しているなかでの不平等感であり、有形無形のインフォーマルな「人情(レンチン)」や「関係(グワンシ)」が根強く、それが社会的な不満を全体として緩和しているところがある。不平等感も、今のところは全体として上昇志向の源泉になっていると言える。農民に不平等感が低いのも、半分以上は生活水準の上昇体験によるものであろう。

日本の場合は経済全体が縮小・停滞しているだけではなく、中国のような「人情」「関係」もなくて個人が孤立化しているため、不平等感が足の引っ張り合いになっているところがある。中国では貧困者を救うという認識が最低限共有されているが、日本では貧困運動へのバッシングが相当根強いものがある(日本の貧困者に対する冷淡さは世界の中でも際立っている)。

日本では、目立った群衆デモや犯罪もない一方で、社会の雰囲気がどこか殺伐として陰鬱である。日本にいるとなかなか気がつかないが、たまに中国に行って帰ってくると日本社会の雰囲気の特異性を強く感じる。