史報

中国史・現代中国関係のブログ

社会建設と中国経験(続)

2011-01-28 18:29:16 | Weblog


3  「看病難」と失業単位改革

 全国調査の中では、人民群衆によって第一の難しい問題と考えられているのは「看病難、看病貴」であり、これは過去と歴代の調査の中は見られなかったものである。どうして「看病」の問題が老百姓がもっとも深刻に考えている社会問題なのであろうか。

 まず家庭の消費構造を見ると、医療は現在のところ食品や教育の家庭教育支出よりも僅かに低いだけである。医療支出がわが国ほど高い国家は存在しない。そして医療は均等に消費されているのではなく、ゆえに平均11%の消費支出が意味しているのは、病人がいる家庭の実際支出がこれよりもずっと多いことである。医療制度は、私の見るところでは最大限の成績を出しており、都市の労働者と都市住民に設立された制度は、現在は公費負担(报销)の比率は一様ではなく、公費医療は最高で、都市住民の公費負担は50%、農村合作医療の公費負担は30%以下であるが、ともかくこうした全体をカバーする制度ができたわけである。2006年から2008年の調査データのなかで、完全な自己負担は急速に低下している。医療制度は迅速に人々の生活を変化させるが、医療で自己負担すべき部分ともっと公費負担できる部分の人の比率は、なお「看病」人口の絶対多数を占めている。

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 現在の医療問題は体制メカニズムの問題であるために、老百姓にも業界内の人士にも不満をもたらしている。全人代と全政協の二つの会議の期間に多くの医者からの意見の反響は大きく、「私たちは医者であり、相対的にいい階層や収入に恵まれていないような、あなた方よりも長く大学に通ってないような医者は、どの国にいるというのでしょうか。今の新聞は私たちを『黒衣魔鬼』と書き、春節に届いた短信には『白衣の天使の心は黒い』と書かれありましたが、これは何という社会なのでしょうか。」実のところ、これは個人の仕事のやり方と道徳レベルの問題ではなく、体制メカニズムの問題であり、もしメカニズムに変化が生まれなければ、この問題を解決することはできない。ゆえに全体の事業単位や非営利組織の改革は、国有企業改革よりもさらに大きな社会任務である。・・・・・

 

4 社会管理と社区建設

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 過去の我々の単位は一種の職能団体であり、問題がある場合は基層で解決しなければならず、この問題を社会に持っていくことはできなかった。現在の調査データによると、全国の都市の従業人員の60%あまりは単位に所属しておらず、管理することは非常に難しくなっている。以前の政府は党の行政文書(紅頭文件)を発して政策を伝達していたが、現在は「単位」がカバーする人が次第に減っているので、この方法は活発ではなくなっている。さらに何らかの基層の問題があり、政府・企業の分離、政府・社会の分離など、単位で発生する争いを解決するひとはおらず、役人に反抗するコストも高すぎるために陳情に行くことになり、こうした北京への圧力は非常に大きなものになっている。この問題はよい解決を見出すことができておらず、老百姓の眼中には、陳情が問題を解決する能力も、宗教組織がもたらす混乱もほとんど違いがない。こうした状況の下では、個


 過去の我々の単位は一種の職能団体であり、問題がある場合は基層で解決しなければならず、この問題を社会に持っていくことはできなかった。現在の調査データによると、全国の都市の従業人員の60%あまりは単位に所属しておらず、管理することは非常に難しくなっている。以前の政府は党の行政文書(紅頭文件)を発して政策を伝達していたが、現在は「単位」がカバーする人が次第に減っているので、この方法は活発ではなくなっている。さらに何らかの基層の問題があり、政府・企業の分離、政府・社会の分離など、単位で発生する争いを解決する人はおらず、役人に反抗するコストも高すぎるために陳情に行くことになり、こうした北京への圧力は非常に大きなものになっている。この問題はよい解決を見出すことができておらず、老百姓の眼中には、陳情が問題を解決する能力も、宗教組織がもたらす混乱もほとんど違いがない。こうした状況の下では、個人が支持する力は社会へと転換しているのであり、多くの人が抱えている困難といえば個人の関係のネットーワークを思い浮かべるようになっている。現在誰もが当たり前に直面している問題は、子供の保育、進学、就職などが難しいという問題であり、まず最初に思い当たるのは一人の友人を探して、個人的な関係によってより迅速で成功裏に問題を解決することであるが、そのことは社会的な交流のコストを非常に高くしているのである。

 現在行われている新しい社会管理の転換は、社会が結局のところどう変化しているのかを理解しなければならない。私たちの調査によると、単位の弱体化の代替となり、それを補う力を持つのは社区(コミュニティ)だけである。社区は群衆によって、社会的に支持された最大の力であると考えられており、ゆえに我々は全体社会の管理体制に発生した変化は、過去は単位を基礎としていたのが、現在は単位と社区が共同で基礎となっていると言うのである。このように、社区の仕事は専業化される必要があり、どの単位も社区の建設を自らの仕事の基盤であると考えているので、これは全社会をカバーする唯一のネットワークであると言える。専業化とは、高学歴の人材を吸収してこの仕事に従事させることであるが、どのようにして吸収するのかというと、それはその人に見合った水準の賃金を保障することであり、現在の大都市のコミュニティの工作人員の賃金はおよそ毎月2000から3000元であり、このようにして大学生を吸収することができるようになる。しかし、社区の仕事はやはり公務員ではなく、住民自治組織であり、身分も明確ではないので、これでもまだ不十分である。そこで彼らの身分を明確にしようと、現在新しく「社会工作師」と呼ばれる職種を設立し、同時に幹部を、ひとつは単位の推薦、もう一つは基層組織からの選抜という二つのルートから選抜し、社区の工作員に将来の発展の見通しを与えようとしている。そして現在の規定の後は、公務員は必ず基層における仕事の経験を義務付けるなど、彼らを基層の工作へと奨励している。現在行っている社会建設は社会がいかに運営されるべきかを理解し、社会管理の進行に長けている多くの人材と集団を育成していかなければならない。社会建設は空虚なスローガンではなく、非常に多くの問題について我々が新しい思考様式を用いて解決する必要があるのであり、小平同志が言っているように現在は段単に思い切って突き進ん探っていくべきであり、我々はどんな型にもはまることなく、新しい道を模索しなければならないのであり、それでこそ我々が将来2,30年にわたって発展に向かう迅速な道を持続することを支えることが可能になるのである。

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  ここで頻繁に取り上げている李培林氏の現代中国社会の総論的文章。 

 産業化よりも先に大学が発展しすぎていることによる就職のミスマッチ、産業統計の不備、生活コストが高すぎて実態以上に「下層」感が高い、医療費の過重負担と医療保険改革、コミュニティによる社会管理の再建など、よく知られたテーマについて、李培林氏の経験を交えながら手際よくまとめられている。これは大げさではなく、現代中国について関心のある人は、一部の極端な話題に飛びつく前に、こうしたバランスのとれた学問的に根拠のある総論を必ず一読すべきだと思う。

 ただ李培林氏の言っていることは、基本的に中国共産党の「公式見解」にほぼ重なる。つまり逆に言うと、『中国農村調査』や阿古智子氏が扱っているような生々しい問題を様々な研究やルポで知っているわれわれからすると、もちろん一つ一つは小さな問題ではないのだろうが、言い方は悪いが「生ぬるい」という印象も否めない。もちろん、李培林氏の方向性そのものは、こうした問題の緩和に貢献するであろうというくらいのことは言えると思うが。


社会建設と中国経験

2011-01-19 12:32:50 | Weblog

「社会建設と中国経験」 李培林 2011-01-07 
社会学網http://www.sociology2010.cass.cn/news/142066.htm


1 中国社会建設の概念の変化と段階性の特徴

 過去の党の政府の文献の中では、社会は往々にして一つの「大社会」と理解されており、例えば新民主主義社会、小康社会、中国の特色ある社会主義社会といったように、経済、政治、文化などの各方面を包括するものになっている。こうした理解は伝統から来るものであり、 毛沢東主席が抗日戦争の末期に新民主主義論を書いた時、新民主主義の政治、経済と文化の三者の相互の結合こそが、我々が建設すべき民主主義社会であると提示したことに原因がある。ゆえに我々が語る物質文明、政治文明、経済文明の三者は、すべてこの伝統から来るものである。

 しかし、社会学の理論の中では「中社会」という中間的な概念も存在している、例えば、我々の言う国家と社会は、マルクス主義の言う市民社会や、我々が現在語る公民社会、公民や市場と国家の概念などなどを含むものである。現在の我々が言う社会建設は相対的に「小社会」について言うものであり、この「小社会」は政治、経済、文化的な社会とは異なるものである。この概念が形成されたのは、我々が十六大(共産党第十六回全国代表大会)で報告した時であったが、その時は全面的な小康社会の建設が推進され、我々はわが国の経済がずっと早く発展しているので、社会のあらゆる方面で進歩を勝ち取るべきでだと考えて、ゆえに六つの領域にわたって目標を出したのであるが、この目標を出した後に、多くの人が、ここでいう社会とはどんな社会なのだろうか、もし社会から政治経済、科学・教育・文化をべて排除してしまったら、この社会はさらにいかなる内容を持つのだろうか、と考えるようになったのである。

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 現段階は改革開放の初期と比べて、わが国の発展段階の特徴は結局のところ、いかなる重要な点が発生しているのだろうか。
 
 第一には、経済の遅れから公共産品の供給の不足への目標の変化である。・・・・・・・

 第二には、平均主義から所得格差の拡大への変化である。・・・・・・・・

 第三には、温飽(衣食住の満足)と耐久消費財の時代から、大量消費の時代への変化である。・・・・・・・

 第四には、安価な労働力による生産から産業構造の高度化への変化である。改革開放以来、我々の主要なプライオリティは供給であった。先進国と比べたわが国の技術と資本はまったく遅れをとっていたが、わが国には充分な労働力の供給があり、こうした労働力によって作られた中国の生産物は全世界で売られ、「中国製」は世界のどんな片隅にでも広まっていった。しかし現在の我々は産業構造のが高度化する時期に突入しており、いままで安価な労働力に依存して生産された生産品は労働力の価格が上昇するに従い、利潤の空間はますます小さなものになっている。・・・・・・・

 第五に、投資と輸出に依存した成長からより多く国内消費への依存への転換。・・・・・・・


2、社会建設の主要な領域

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1、就業と社会保障

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 現在の大学生の就職で出現している一つの問題は、過去に人気がある思われていた学科が、現在の就職にはかえって困難なものに変わっていることであり、調査データの分析によると、上位10位の失業人数にある学科は、第1位に法学、その次にコンピューター、英語、国際経済と貿易、臨床医学などなど、すべて人気の職業である。現在の家族は子供の教育のために莫大な投資を行っており、子供が将来できるだけ高い収入の仕事に就くことを願っている。大学はこうした家族の心理に迎合するために、商工業、国際貿易、コンピューターの専門課程を設立し、こうした専門課程に大量の学生を招聘したが、金融危機に遭って、労働者の募集をやめて人員を削減するという状況の下で、こうした専門課程の卒業生は仕事を探すことが非常に難しくなってしまったのである。

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2、所得分配と内需拡大


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 しかし問題も一つあり、表面の統計のデータからみると、収入の増大の即題は決して遅くはないが、昨年のネット上の議論では、民衆が感じている自らの実際の収入は決して多くなく、これはどういう問題なのだろうか。このことと統計方法には関係があり、改革開放が長年にわたり、そのほかの方面でも非常に大きな進歩を獲得したものの、統計は往々にして市場の変化に追いついていたのである。現在、全国の都市の従業員は3億人あまりであるが、「職工」という概念に含まれるのは1.3億人にすぎず、私営企業と個人経営の従業員も既に従業員の主要な集団であるが、こうした人はまだおもな統計のなかに含まれておらず、ゆえに平均賃金は決して都市の従業員の平均賃金ではないのである。非常に多くの人が平均所得を民衆の平均所得と見ているが、現在の所得格差は非常に大きく、高所得集団の所得も統計の中に加えなければならないとすると、これによって60%の人は平均レベル以下になる可能性があり、実際の所得が増えていないと感じるのも奇妙なことではないことになる。


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 (他の国では6割が自らを「中層」と答えるのに対して)しかし中国では、2003年に偏りが現れ、46.9%の人しか自らの生活が社会のなかの中層としか考えておらず、2008年にこの偏りは更に大きくなり、40%にも満たず、下層に属するのは50-55%を占めるまでに達している。誰もが、どうしてこんなことが有りうるのか、非常に奇妙に感じることだろう。我々中国のGDPは印度の2倍も多いが、インドのように貧富の開きがかけ離れている場所では、むしろ60%の人が自らを中層と考えているのである。我々はインドの学者と検討会を開いたとき、私は彼らにどうしてこうした状況が起こるのか、結局は何が原因なのかとたずねた。実のところ、これは主観的な感覚の問題なのであり、インドには宗教制度があり、どの人もその位置にいることができることで既に満足しているが、中国人はそうではなく、誰もが自らのいる位置が現在に比べてより高くあるべきだと感じているのである、インド人学者の語るところでは、都市の貧民窟の人でも自らを中層と考えているという。

 もちろん中国では中層が比較的に少ないのではあるが、自らを中層と考えている農民工もいるし、なにより非常に多くの中・上層の人が自らを中・上層とは考えていないのである。私は調査を行っていた時に、北京の一人の友人と一緒に食事をしたことがある。友人が私に、何をしているのか聞いてきたので、私は全国調査をしていると答えたら、そう答えた後に、まず君をちょっと調査してやろうと言った。そこで私は友人に、自分がどの階層に属するのかをたずねたところ、その友人はしばらく考えて、自分のような人間は中の下層ではないか、と逆に私にたずねてきた。私はとても驚き、どうして君が中の下層に属するなんてあり得るものか、私は多くの農民工や失職者などを全国調査しているが、君が中の下層だったら彼らはどの階層になるのかと言った。すると友人は言う、君はこう考えることができないのか、君らのような学者は収入ばかりを見て消費を見ないのはよくないことだと。私は北京市の規定に照らし合わせて、北京市の公務員賃金外所得(陽光工資)はどの級でも5000元だが、私は君に言うが、最少で5000元の収入でも中の下の所得なのかと言った。友人は言う、君は私の消費を見ていない、自分たちの世代には住宅分配政策(福利分房)はなく、四環以外に部屋を借りて毎月2000元にもなる。小学校に上がる子供もいるが、義務教育ではあるが、まだ面倒を見る必要があり、最大の支出は塾で、今はどの子供も通っており、厳しいが子供の道を誤らせるわけにはいかないのだ、と。友人は農村の出身だが、毎月さらに実家の両親に仕送りをして親孝行をしようとしている。他にも妹の仕事が見つからず、現在毎月彼女に300-500元を援助しているのだという。最後に友人はこう言った、「君はともかくも博士を卒業し、懸命に長い年月をかけて今のゆとりのある地位にたどり着いたわけだが、これはどういう社会だと呼べばいいのだろうか。」

 私の考える我々の分配政策が、もしこうした処長のような階層の人にも満足させられないとしたら、どうやって全国の老百姓にを満足させるというのだろうか。だから所得分配の秩序と取得分配の調整の構造は、単に構造を調整したり、富者の稼いだお金を貧しい人に分け与えるというばかりではなく、この作業をやるにあたって、ひとつのプロセスが求められるという複雑な問題なのである。社会制度も一種の技術であり、もしこうした技術が完全ではないとしたら、市場を損なうだけではなく、公平性をも損なうものである。ゆえに我々は所得分配の調整を行うと同時に、相対的によい公平で合理的な制度を設定していかなければならない。・・・・・

 

 長いので一旦ここまでにして、残りは次回に。