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中国史・現代中国関係のブログ

地方の人材養成と社会再建

2012-06-29 07:22:10 | Weblog

宣朝慶「地方の人材養成と社会再建――民国郷村建設運動の中で長く軽視されてきた問題」

宣朝庆「地方人才培养与社会重建———民国乡村建设研究中长期轻忽的一个问题」『天津社会科学』2011年第4期 http://www.sociology2010.cass.cn/upload/2012/05/d20120509222537131.pdf

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1 地方の人材――農村再建の基礎と希望1

 中国農村社会の基本モデルは、まさに費孝通が『郷土中国与郷土重建』で描き出しているように、郷村は長老(紳士)と伝統によって秩序が維持されている、閉鎖的で独立した、地域的な社会であり、横暴な権力は儒家の思想と土地利用の境界の制限を受けており、上から下への政治のルートは県の役所までしか敷設されず、政府の統治は「無為にして治める」に任せて、郷村は自立と「自治」を得ることができていた。こうした状況の下では、主に郷村の土地と人口の組み合わせや構造が、その地域社会が繁栄するかどうかを制約している。近代以来、中国は中央の王国から世界システムのメンバーへと転換するに伴って、農村社会の地域制、閉鎖性の生存の構造は次第に解体され、世界の生産分業のシステムに強制的に引き込まれただけではなく、近代国家の高度な集権的制度および規則を受け入れなければならず、内外の二重の作用で農村社会は「天は皇帝よりはるかに高い」という優越性を失い、生存の環境は極端に悪化し、これに伴う郷村の手工業も崩壊、労働力は流出、金融の欠如は、農村経済の落ち込みと社会の解体をもたらした。農村を救うために、かつて学者は、農業社会が工業社会に転換すると、自ずと「都市が農村を救う」という連帯の効果が生み出されると希望を寄せていたが、半封建・半植民地社会である古い城鎮や執行の都市は、むしろその天性として農村から離れる傾向を有している。古い城鎮は政治的な堡塁であると同時に非工業の産業の中心であり、それは郷村と経済上の相互扶助の紐帯を持たなかった。開港都市ではじまった新しい工商業都市は、生産と生活の点で海外市場に重く依存しており、本国の農産品を市場に提供するだけではなく、さらに農村の手工業を圧迫した(费孝通:《乡土中国与乡土重建》,台北,风云时代出版公司,1993年,第61~72、105~127页)。農村社会の生存環境の危機に対して、国人はマクロな観点からいくつかの考え方を提出した。ひとつは革命の手段を通じて、政権をてこに農村が西洋の資本主義の環境から受けている状態を変えることで、独立と生存の機会を獲得するというものである。二つには技術を追求し、新しい社会組織と先進の科学技術を導入し、農村の社会組織と生産力を改進することである。三つには土地制度改革を行い、生産関係の変革によって生産力の上昇を図るものである。1920~30年代において、国人はこれらの考え方の実行可能性について様々な実験と探索を展開し、晏陽初、梁漱溟を代表とする中国郷村建設派は、技術追求派の代表である。彼らの郷村建設は、農民が伝統の閉鎖的で、村落を基礎として生計を立てる生活から、積極的に外部の現代政治、経済、文化、社会生活への参加へと転換することを支援して、生活の質の改善という目標を達成しようとするものであった。工業化、資本主義市場の経済グロバール化の発展という大きな背景の下、これは止む得ない選択であったというだけではなく、重要な変化のチャンスでもあった。
 外部の圧力の下で、一つのシステムが組織形態の改変を通じて新しい発展の方向を確定したことは、きわめて自然なことである。しかしある社会システムについて言うと、こうした要求の実現には条件があり、その中で最も重要なのはさまざまな人材をを生み出すことで、様々な発展のルートのなかから選択を行って、外からの挑戦に対応できるようになることである。伝統的な農村の現代的な農村への転換で、必要とされるのは現代の経済、政治、社会制度と付き合っていく外向型の人材なのである。これに比較して言えば、伝統農村社会の領袖となっている人物および人材は、その多くが紳士や地主階級から来ており、彼らは中間人として村落以外の世界と交流していたが、この生産組織の外に遊離していた階級は近代以来農村社会を指導する活力をすでに失っていた。例えば陶希聖が観察していたように、「帝国主義勢力が中国に侵入して以降この身分階級は既に破壊と紊乱の時期に陥っており」「一部は帝国主義や軍閥にくっついて生存を図り、一部は苦しむ民衆の中に落ち込んで、生業も学問も失い、次第に士大夫階級の特徴を消失している」(陶希圣:《中国社会之史的分析》,岳麓书社2009年版,第26、42頁)。構造的な社会の流動性のなかで、少数の優秀な層が西洋式の教育体制によって都市に行き、教育、文化、法政、行政、実業などのそれぞれの世界に移った者を除けば、大部分は兵士になったり、会党に入ったり、あるいは「孔乙己」のような失業者に転落した。農村のなかの「失業失学」の「孔乙己」たちが苦力として笑われる対象となった以上、それではどこで農村を指導する責任を担うのであろうか。この後、保甲制度が遂行されるに従って、農村のエリート階層は次第に流民化し、土豪劣紳が村長、保長を担うようになり、農村社区の転換を指導することは根本的に不可能であった。
 人材の欠乏は、農村社会建設の最大の障害となっていた。このため、李景漢は定県の社会調査を行った後に、こう呼びかけている。「郷村の間の人民の知識は単純で、才能と道徳を兼ね備えた人が村民の領主となっていなければ、何も規模の大きな事業を起こすことが不可能である。しかし明らかな理由は、才能のある人の大半は郷村の中で奉仕することを嫌がり、農村のなかの優秀な人たちもみな都市に行ってしまっている。これと農村を改革する事業は大きな関係がある。いかに郷村のリーダーを養成し、そして郷村の元々の人材を引き留め、そして有用な人にすすんで郷村のなかで働いてもらうことは、目下非常に注意・研究すべき問題である」(李景汉:《住在农村从事社会调查所得的印象》,《社会学界》
1930年第4卷第4期)。郷土中国について言えば、社会の転換が大規模な地方の人材の流出を招き、近代化に必要な時期には地方の更生・再建の準備のために相応しい人の力という基礎を失っていた。この深刻な問題と土地制度、外部環境などの構造的な条件は、1920~40年代の農村に幾重にも重なった危機をもたらしている。この時、郷村建設の運動家で社会学者である楊開道は、前向きに(前瞻性地)こう指摘している。「中国の農村はもし一群の平民のリーダーを得て、『田畑の中で』実際に仕事をさせることができなければ、おそらく20年、40年以降も苦境から脱することはないだろう。農村のリーダーの地位は実に重要なものであり、農村リーダの必要性はまさに切迫している」(杨开道:《农村领袖》自序,世界书局1930年版)。激しく変化する外部環境に対応するために、郷村社会は地方の人材を養成する道を歩まなければならない。ここから、教育体制を改革し、農村建設の人材を養成するための掛け声が日に高まっていく。晏陽初などの人々は、郷村の建設と実践を組み合わせ、この方面で20年にも長きにわたる探求を行い、一定の成果を上げてきたのである。


2 郷紳を超えて――地方のために現地で平民の人材を養成する

 晏陽初の人材養成計画は、「中華平民教育促進会」(以下「平教会」と略する)で郷村の平民教育から郷村建設実験への転換したことに始まる。当時、各種の社団組織が大きな勢いで出現していたが、経済の協同組合組織を除けば、息訟会、戒賭会、互助会、婦女会など、民衆的な団体が、廟会、鼓会、香会などの旧式の農村組織に取って代わり、農民が社区の管理に参加して、外部世界と接触する重要な媒介となった。新型の社団の発展は、組織を立ち上げ、指導し、協調していく責任を負う、大規模な人材を必要とするものであるが、伝統的な郷紳は身分と格調を保持するために、直接的に新しい社団の運営に参加するよりも、旧式の組織の中でリーダーを担い、場所や経費などの支援を提供することで既に高い風格と節義を示せることを好み、より多く新型の社団活動にけちをつけて阻害することになった。こうした状況の下では、すべての協働の事業が、平民学校の卒業同窓会を中心的な力(骨干力量)としていた。平民教育の簡単な訓練を受けただけであったため、同窓会のメンバーは実際の活動のなかでの処理能力が一般的に高くなく、活動のやり方も粗雑であるという問題が存在し、そのことが郷村建設事件に対して意見を持つ何人かの人士による批判を招くことになった。「同学会は質の良し悪しがばらばらで、大部分は無業のならず者であり(有業者は平協会に取り合っている暇などないから)、受けている教育は非現実的で大げさなものであり、その性質を結局のところ傲慢でわがままな気性に作り変えるものである・・・そこで同学会は村の政治に干渉して権力と利益を争って奪い、劣悪な分子が着に乗じて暴虐をほしいままにし、郷里を食い物にしている」(李明镜:《平教会与定县》,《独立评论》1933年第79号)。ここで明らかなのは、幹部の素質が低いことが定県民衆の郷村建設運動に対する不満を既に生み出していることである。こうした状況の下で、郷村建設に賛成する人士は、これらの青年が比較的強い組織性と活動の能力を持ち、奉仕と犠牲の精神を有し、教育、政治、経済において彼らに活路を与えることを重視しなければならない、と提案されていた(衡哲:《定县农村中见到的平教事业》,《独立评论》1932年第51号)。人材の質の問題が郷村建設事件に影響を与える重大な問題になっていることを考慮して、晏陽初や傅葆琛などは人材養成のシステムを探求し、新しい農村社区の人材を養成し、幹部の質の問題を解決していくことを決断していく。郷村建設の運動家たちは、歴史上の農村における人材の隊列は主に郷紳・地主の階層から出ているが、郷村建設の人材の隊列の養成は、必ず平民の青年を中軸にすべきであると考えていた。晏陽初が指摘するように、「農村の中の青年の農民は、郷村活動を推進する中心的な力」なのであり(宋恩荣编:《晏阳初文集》,教育科学出版社1989年版,第77页)、農村建設が成功するためには、必ず農村青年の養成に希望を寄せるべきであって、「今日の農村運動の主要な目標は、農村の青年男女を特に重視しなければならない」(晏阳初:《农村运动的使命》,中华平民教育促进会,1935年,第5頁)。郷村建設の新しい要求に適応するために、こうした青年に対する新式の教育を実行しなければならなかった。こうした養成を通じて、これらの青年の俊才は三つの点における素質を備えるべきものとされていた。「一つには、専門的な学識であり、二つには創造力であり、三つには世の中に適応する能力(应世手腕)である」(宋恩荣编:《晏阳初全集》第1卷,湖南教育出版社1989年版,第306页)。「应世」は事実、開放された時代における農村が必要とする人材の基本的な要求であり、それは人間関係の交流を通じて身に付ける社交のルールや社会の規範において表現されるだけではなく、知識体系と観察問題、分析問題という観点においても表現されるものであった。
 こうした指導理念の下で、定県は高級平民学校を設立するだけではなく、その他の短期的な訓練で郷村建設の人材を養成し、さらに視線ははるか遠く、現代の高等教育体制の農村の人材育成の面における改革を探求した。大学を利用した農村人材の養成という主張は、提示されるとすぐに広い範囲から異論を受けることになった、これは主に、当時の中国の大学生がエリートの人材として、その総数は三万人あまりに過ぎず、大多数の学生は修文学、法学、理学、医学、工学を学び、農業科の人数はきわめて少なかく、彼らの卒業後の大多数の希望は都市に留まって仕事をすることであったからである。たとえ少ない農業科の学生が農村に帰ったところで、実践に取り掛かる能力は欠けており、農村に深く分け入って農業科学を普及させる素養と精神にも欠けていた。しかし、晏陽初は「農村運動は偉大なものであり、必ず大学を基礎とすることで、安定で堅固なものにしなければならない。・・・・大学に次々と絶えず農村建設の人材を養成することができれば、この運動の発揚は広大なものになるだろう」(宋恩荣编:《晏阳初文集》,第168页)。
 この時に「平教総会」の郷村教育部主任を任されていた傅葆琛も、こうした心配は完全に必要ないものであり、大学教育のシステムを利用して農村の人材を養成することは、一定の社会心理的な基礎があると、楽観的に考えていた。そうした郷村出身の学生は、家族や郷里観念の関係のために、郷村に帰って仕事をし、家と郷里のために力を尽くすという夢を持っている。大学はこうした求めに適応し、適切な訓練を与えて、彼らに郷村社会の改革事業の任に堪えさせるべきである、という。傅葆琛はさらに、農村の人材が緊急に必要されているなかで、その一部は必ず大学の文化的な水準を身に着けているべきであると教育界に注意を呼びかけ、その中には教育人材、社会奉仕の人材、体育および衛生の人材、農業技術の人材などが含まれているとしていた。このため、大学教育は近代以来の、都市に設けられて学生が農村を認識し、農村に献身するのに不利であった状況を改変し、農村の近くに資源を配置して、農村の専門的な人材を養成する学校を農村に設置すべきであり、さらに要求に応じて、それに加えた各種の郷村の科目を設けて、郷村建設に適合した大学の教育課程のシステムを打ち立てなければならなかった。
 傅葆琛は12種類の主要な科目を詳細に計画している。

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4 比較と討論――郷村建設経験の普遍性およびその意義

 短期間の訓練である、郷村師範教育や郷村建設専科学院から大学の郷村建設系の設立に至るまで、晏陽初などの人は十数年の独力を経て、孜孜として農村の人材養成のシステムの完成を模索し、当時における「知識人は郷村の目線に立てない(知识分子下乡难)」ことと、農村の人材が欠乏している問題を有効に解決しようとした。戦乱や政局などの外からの干渉や騒乱を受けたけれども、彼らはなお部分的に実績を獲得し、現代農業の科学技術の知識を養成し、農民と農村の基本問題を了解し、現代民主主義の議事のプロセスを理解する人材の隊列が、現在の新しい農村建設のために残した最初の貴重な経験である。特に注意しなければならないのは、この個人の養成システムは閉鎖的なものではなく、現代教育システムの外で自主的に作り出されたものであり(自创一套?)、開放的なもので、とくに現代教育事業の発展と、現代教育方法の創造的な運用に依拠し、農業の人材養成と現代教育システムとをうまく組み合わせたことである。これは現在の農村の人材養成に志を持つ者が軽視することができないものである。こうした歴史的経験は、1950年代後に国際的に承認あるいは模倣されるようなった。国民党が敗れて台湾に行った後、晏陽初は政治的見解が合わなかったため、アフリカの発展途上国に行って彼の農村社会改造の経験を推し広め、国際平民教育運動委員会を創設し(その後晏氏郷村改造促進会に改称)、そしてフィリピンで国際郷村改造学院を成立させ、現地の農村人材を養成し、郷村建設を展開し、晏氏に特色ある郷村建設が国際社会で大きな異彩を放つようになっている。しかし、時がたち状況が変わり、完全な農村人材養成システムは、結局のところ回復することはなかった。

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 前にも訳した宣朝慶の郷村建設運動の論文。宣朝慶は南開大学に所属する社会学者で、『泰州学派的精神世界与郷村建設』という著作がある。http://www.bookschina.com/4751725.htm

 民国期の郷村建設運動において、在地リーダーの育成が喫緊の課題となっており、そこで共通して直面していた問題は「土豪劣紳」の克服であった。晏陽初などはここで描かれている通り、平民教育促進会や大学などの外部の機関で人材を養成することを目指したのに対して、梁漱溟は農村のなかで人望のある人を発掘していく方法を選択した。前に訳した論文は晏陽初のエリート的な方法論の矛盾を問題にしたものだったが、今回先見の明があったという少々凡庸な結論になっている。

官製慈善組織の資源動員

2012-06-19 06:05:35 | Weblog
竜永紅「官製慈善組織の資源動員――体制依存及びそこからの転換」

龙永红「官办慈善组织的资源动员:体制依赖及其转型」『学习与实践』2011 年第10 期
http://www.sociology2010.cass.cn/upload/2012/04/d20120418174146174.pdf

(南京大学社会学院南京21 0097)


1 基本概念および文献回顧

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2 研究方法および個別事例

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3 政治機会構造の中の正統性(合法性)の資源

 わが国の現代の慈善公益組織の最初の起源は、改革・開放の初期において最初に外国で考察した政府の官僚が西洋の国家に見出したものであり、そこで見出した国家とは基金会などの慈善公益組織の形式を通じて集めた社会的な資源を公共サービスに提供し、社会問題を解決するというものである(王名:《中国民间组织30 年: 走向公民社会(1978- 2008)》,北京,社会科学文献出版社,2008年,第234 页)。そして当時の「二つの全て(两个凡是?)」と、「資」と「社」の二つの姓の思想を突破する思想解放の運動も、慈善が「他の種類(另类)」から「社会主義精神文明の構成部分」に転換して、政治機会を提供するようになった。政治機械構造とは、「社会構造の変動によってもたらされる政治権力関係の変化の総和」を指すものである(Doug McAdam, Political Process and the Development of Black Insurgency 1930- 1970. Chicago: Chicago University Press. 1982:41)。「それは集団的な行動者に対して一定の制限あるいは可能性を形成するものであり、そして運動が動員されるときに必要な費用のコスト高めたり低めたりするものである」(何明修:《政治机会结构与社会运动研究》,台湾2003 年社会学年会论文)。まさに、「この発見」と「思想解放」がわが国の最初の慈善組織を生み出した。その推進力は政府に由来するものであったが、政府は慈善組織のために設立資金を提供し、体制内でそれに応じた資源を融資、国家と市場の間の「第三領域」である慈善公益組織を、政体内の成員の一つに定位させたることになった。これは確実に、わが国の慈善組織の最初の発展のコストを引き下げるものだった。
 「私は元々救助管理センターにいたが、ここに異動で来て、その他の二人の副秘書長はみな退職者の職場復帰であり、我々の常務副秘書長はもともと民政局の局長で、我々三人は総会の編制に加わっていなかった。開始した時すぐに政府は初動資金として×××万を提供した。
「C慈善総会で創設した基金×××万元は政府が出したものである。」
 「この二つの会計はみな民政庁から来たものであり、彼らの人事関係や賃金もみなそれに従うもので、私たち周辺は最も低いのは科員であり、その後に副科、正科となる。ここでも最も上の指導者みな退職者であり、その後に民生庁から来た人たちで、彼らはここで給料をもらって再び一般のスタッフになっているのではなく、彼らの収入はみな公務員の待遇を参考に与えられている。」

 以上の資料が明らかにしているのでは、人事関係の上で、慈善総会組織は均しく民生局の事業単位に属しており、政府の人員編制と行政に似た等級の区別があり、これは官製の慈善組織における一種の天然の行政的な正統性を構成するものである。この種の正統性は主に行政管理を体現し、合法的な授権を通じて一種の「下」の「上」に対する承認あるいは信仰を実現するという、一種の道具的な正統性である(马克斯•韦伯:《经济与社会》(上卷),北京,商务印书馆,1997 年,第290- 295 页)。行政上の権威は、何らかの宣告した意志で社会の様々な主体の行為に影響を与えることができ、そして行政それ自体の意志・命令の内容を彼らの行為の準則とすることである。こうした行政の正統性が慈善資源の動因に中国的な特徴をもたらしている。一方では、政府は慈善組織に資金を提供し、地位に応じた行政組織に依頼して動員の要求を出すと、行政の慈善組織の指導・担当する職務によって、行政は企業の寄付金などの資源を吸引していくというものである。そしてもう一方では、慈善公益資源動員の結果それ自体が、政府の統治実績(绩效)とその行為の正統性の一種の指標となっている、というものである。
 これと同時に、改革・開放以来、社会の転換期と政府の機能の普段の変化のなかで、単位に基づく「単位人」の階層意識は既に打破されて、個人の発展の機会のルートが多様化し、社会の評価のメカニズムも日に多様化し、非常に多くの単位組織と政府はもはや隷属関係や財務関係にはなく、多くの人は既に「単位人」の意識を持たなくなっているが、こうした体制改革がより多くの自由に流動する資源を放出していることは、慈善資源動員のいための基礎を提供している。他方では、貧富の格差が広がり、新しい下層集団が形成されて、環境悪化の問題が目立つようになり、社会的なリスクや災難が日増しに多くなるななど、慈善組織が効果的に社会的な資源を収集し、社会問題を統治し、愛心・公益の価値を広める社会的な機能が求められるようになっている。この社会構造関係の変動も、慈善組織の動員機会の構造的な要因を構成している。
 
「汶川地震の時など、私たちはみな列をつくって義捐金を寄付し、私たちが寄付金の受け取りに間に合わなくても、夜の10時を過ぎてもまだ列に並んで、外国の同胞だったり、貯金箱を抱えた子供だったり、お年寄りだったり、さらには看守(?)のところの人もきて数百元を寄付した。」
 「2008年の時期は、寄付の人の列がですね、そのときはまだ銀行の人が来てなかったんだですけど、まあ多くの人がいて、もう待たせることはできないので、私たちは自分で寄付金を受け取り始めてしまいました。偽札検査機(验钞机)などもなかったんですが、彼らはみんな『さっき銀行から引き出したっばかりなのに、まだ何を調べるんだ』と言ってましたね。あるお年寄りは、2万元を寄付してそのまま去っていき、領収証も要らないと、後で匿名で処理しました。その日の正午、たった2時間で私のオフィスでは300万あまりも寄付を受け取りましたが、これは私たちが宣伝したのではなく、彼らが自発的に来たのです。」

四川大地震の期間の、公衆が慈善総会に寄付をするために列を作るという現象は、人間が大きな思いやりの心(大爱)を持っていることを説明するが、その根源を追究してみると、メディアの報道の効果以外では、より重要なのは政府が行政の意志として特定の慈善機関を指定して災害救済の寄付募集を行い、その他の資格を持たないもの、各級の民生部門およびその下に設けられている寄付を受付ける機関、たとえば各級の紅十字会、各地の慈善会は、民生部中央財政の専門部局が寄付を集めなければならなかった。

「汶川地震の時は、私たちは受け取った災害義捐金は、×××工程建設部に渡しましたが、私たちの集めたお金は、2億元あまりにもなり、さらにそれ以外の区・県の慈善総会にもいくらか寄付金を渡しました。
 「玉樹地震は寄付金を上に持っていき、統一的に建設を行い、地方単位で別れて行わせることはしませんでした。私たちの集めた2000万元あまりは、さらにその他の总共六(不明)を加えて、7000万元を上に渡して、慈善総会が省に預けて、その後に中華慈善総会に渡し、民生系統のものは省に渡し、その後に中華慈善総会に預けて、段々と受け渡しが行われ、最後に玉樹で統一した」。
 (以上に引用した文字資料はすべてC、Dの二つの慈善総会の観察記録とインタビュー資料によるものである。)

 四川大地震のなかで各省の慈善総会の系統が災害救済と復興のなかで、資源を集中して輸送する仕組みを形成したことや、後に青海地震で政府は行政権力を利用して義捐金を集めたことは、これは等しく官製の慈善組織が慈善資源動員における顕著さや独断性を強化するものであった。歴史的な経緯からこのように見ると、わが国の現代的な慈善事業は当初から社会保障システムの一部分として、政府の一つの機能として発展したものであり、大多数の公衆と企業と事業単位について言えば、それは依然として寄付金を紅十字会や慈善総会などの官製の組織を理解しているに過ぎない。
 機会それ自体は決して資源ではなく、重要な鍵となるのは慈善組織が機会を利用して資源動員の最善の結果を得られるか否かにある。官製の慈善組織について言えば、この機会と行政の指令との結合が強大な資源動員の効率性を生み出したのである。しかしこの結果の弊害も明らかである。まず。官製の慈善組織の資源が、国家や地方政府に渡されて統一的に使用されることは、これは政府の統治実績と相互に関係しているものであるが、寄付金の使用の結果と寄付した人とはかかわりがなく、通常の状況では、お金がどこで用いられているのかも知ることなく、寄付した人の主体性と寄付行為の積極性が削がれてしまい、資源動員の価値が連鎖して循環することができなくなる。次に、慈善組織が一旦間違いを犯したり危機に直面したりした場合、政府は大体において第一の責任主体になっているのは、官製の慈善組織が代表しているのが国家の意志だからである。「郭美美事件」が非常にいい例であるが、まさに人道主義を代表する紅十字会と商業化がリンクした時に、人々はその中に権力による金銭のやり取りがないかどうか疑い始めることになる。金銭のやり取りがないかどうかというだけではなく、紅十字会はその金色の字の看板を、10年も登録されていない「非法」な組織に渡しており、これがそれ自体が不当なものである。これは必然的に、官製の機構・組織に正統性アイデンティティの危機に直面させるものであり、行政の正統性に穴があけば組織文化の正統性に危機がもたらされ、最終的な結果として慈善資源動員は心理に内在する文化的なモチベーションを失うことになる。

4 関係ネットワークの構造の中の資源移動

 社会関係ネットワークの理論は、最初は個々の行為者の機械や反応を理解する一つの視点であり、個人があるネットワークの結び目であって、孤立した点ではないと理解しており、それは個人がその他の集団の関係を持って他者と関係を生み出しているからである。例えば、多くの政府の役人は政府が為すべき職務を丸投げして慈善組織に任せており、このように政界の関係ネットワークの資源は公益界に流れており、その逆もまた然りである。これが意味しているのは、慈善組織の関係ネットワークは主に組織のメンバーが組織の目標を得るために用いることのできるネットワークの連繋の総和であるということである。しかし、官製の慈善組織の中で、この繋がりは決してパットナムの言う「水平的なつながり(horizontal collection)」――それが含意する最も主要な内容は社会的な信頼であり、互酬や公民参加のネットワーク――なのではなく、一種の「垂直的なつながり」――それが含意する主要な内容は行政に隷属した関係と組織の指導層が持ち込む資源――なのである。
 まず組織の人員の構造と配置からみると、C慈善総会の会長、副会長、常務理事はすべて省級の指導者によって担われており、D慈善総会の会長は市長によって担われており、22人の副会長のうち6人が市の指導層で、その他の16人は当地の有名な大企業の理事長や共産党委員会の書記である。秘書長や副秘書長は、通例民政部の系統、全人代の系統などのリタイアした指導層によって担われている。つまり、官製の慈善組織の指導層の大多数は行政上の権威を有しているのであり、資源動員を組織する中で、この権威を借りて資源を募集することができるのである。

「省政府の活動報告のなかで、明確に慈善事業の発展を要求した。各市の慈善総会はみな市長あるいは副市長によって会長が担われている。政府の主要な指導層は交流の機会を得ることができ、政府の支援を必要としている成長中の企業について言うと、その吸引力は疑いえない。民衆の言い方を借りれば、「老大难,老大出面就不难」なのだ。」 (資料は2007 年08 月23 日《××日报》より)
 「私たちのトップはもともと×××(某省級の官製メディア)の大リーダーであり、彼は定年になってここに来て活動を宣伝していた時は、メディアに電話しさえすれば何でもうまくいった。」(資料はC慈善総会のインタビュー記録より)
 
 その次、慈善総会の物質的な資源の源から見ると、D慈善総会は主に「一日限りの寄付による慈善」「企業の名を冠した基金」で、慈善救助の項目は寄付金と災害義捐金などであった。その中で、「一日限りの寄付による慈善」が寄付金総額に占める割合は26.3%であり、企業の名を冠した基金36.5%になり、慈善救助の項目における寄付は5.9%である。もし災害義捐金の総額を取り除くと、この三つの項目がそれぞれ寄付金に占める割合は、36.8%、50.9%、8.3%になる。比較的大きな比率を占める「一日限りの寄付による慈善」「企業の名を冠した基金」は、どのような関係のネットワークの構造に由来しているのだろうか。「一日限りの寄付による慈善」のなかに、286の寄付の単位のなかで、187が政府の機関と事業単位である。その組織動員の基本的なモデルは、区・県の慈善総会の座談会形式で部署の配置を行い、公務員と事業単位の編制人員(、工業系の企業、不動産開発の企業が寄付の勧誘と募集を行うことが標準であると規定されている。つまり、明らかにそれぞれの音頭をとっている単位が分散して寄付の勧誘・募集の任務の実行を請け負い、そして国税部門や経済・貿易部門による音頭など、明確に関係する関係する行政部門が責任を負いは、招待した企業単位が参加し、省・市の主要なリーダーが出席して「一日の寄付」を指導するための儀式と講和を行うのである。企業は通例は「名を冠した基金」の方法で「一日の寄付」に参加し、寄付金の総額(一般には最低でも1万元)に承諾すると、自らの企業を慈善基金に命名する機会を得ることができるが、この総額は一回で全ての寄付が終わるのではなく、何年かに区切って毎年部分的な形式で寄付し、累積して総額に到達する(資料はD慈善総会が運営する刊行物と関係する座談会の記録に基づく)。
 官製の慈善組織の資源動員のこうした関係のネットワーク構造の中で、動員主体は匿名のなかに潜んでいる寄付者なのではなく、管轄区内と行政体制とが一定の隷属関係を持つ確実な対称なのであり、「単位」(社区・街道や企業を含む)はネットワークの「結節点」になっている。たとえば、動員プロセスは文書を出して通知するという形式や、あるいは政府が主要なリーダとなって提唱かつ参加する大型の儀式的な活動を開催しており、動員の結果と効率は、動員される者の自主的な選択ではなく、文書通知を受け取り単位や社区によって決まっている。通常、動員される組織も、まさにそれが統治実績を審査する一つとなっていって、動員される個人はそれを国家・政府の一種の日常行為としているのであって、慈善の公益的な価値や理想に対するアイデンティティによるものでは決してない。この種の資源動員のネットワーク構造は、「組織化されたネットワーク動員」と呼ぶことができる。こうした組織化の動員構造のなかで、政府は慈善組織という合法的な組織形式によって、税収、公債などの合法的な資源の外の社会的な資源を獲得しているのであり、こうした社会資源の総量は政府の統治実績の重要な側面であり、そして政府はこうした社会的資源に対して一定の支配権を有しているが、その支配権の由来は官製の慈善組織それ自体が政治体制内部のメンバーとして出現したものであり、それは政府のヒエラルキー組織のシステムと権威的な資源などに大きく依存しているのである。企業の寄付と高額の寄付者が獲得している社会的な価値は、政府の主要なリーダーとの交流の機会」であり、単位組織内の「一般人(平民)の寄付」は、単にもともとの単位の慈善の寄付の目標が提供した一つの力に過ぎず、慈善組織のアイデンティティや、あるいは寄付サービスの項目と対象に対する一種の自覚的な責任から出たものではない。官製の慈善組織の動員プロセスは、国家から省・市に至るまでの資源移動の圏域を形成したが、その大多数は受動的な寄付者であり、主には政府の権威が役割を果たしており、資源の移動の終点は国家のイメージと政府の統治実績である。この動員のロジックはきわめて容易に「寄付をさせられる」という強制的性格をもった寄付・贈与の行為を創り出し、慈善的な寄付・贈与の自発性に反するものであり、持続的で良好な慈善寄付の文化の構築に不利なものであり、同時に政府、企業、慈善組織の境界を曖昧にして、自主性を妨げて腐敗した慈善の行為をもたらすものである。

5 記号的な資源動員の効果

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6 体制依存の苦境とその転換

 田凱は、わが国の慈善組織の出現は、政府の形式で制度的な環境の合法的な拘束を受てて慈善資源を利用している結果であり、このようにもともと国家と市場の外の「第三領域」としての組織が外形化した政府系の組織であると考えている。これによって形成された我が国の特殊な官製慈善組織の形式は、政府の各種の資源で実現される資源動員と組織行動の能力に依存しており、一方では、政府は官製の慈善組織の最高の政策決定のリーダーおよび最大の支持団体であり、政府はその利益の偏好に照らして慈善資源を支配して社会の統治目標を実現するものである。慈善資源は、政府ないし政府の独断性から形成されており、同時に、サービスの対象と寄付者とくに一般人(平民)の寄付者の関係は一方向的なものであり、ひどいものになると分断されていて、「無理やりの寄付(逼捐)」「強制的な寄付(扣捐)」のモデルがまかり通っていた(即是如此)。これは、全体の社会の慈善組織の発展の生態に対しては不利である。国家と各級の地方政府を起点として、官製の慈善組織から慈善資源を蓄積し、サービス対象に救済と援助を届けて、最後に国家と地方政府の正統性に対する信仰の基礎に回帰していくことになる。その中に巨額の寄付をした者が相応の栄誉の記号とそれに伴う付加的な反応を得ることはあるかもしれないが、それらは受動的なものであり、相対的に慈善組織の理念に対する自覚的なアイデンティティが欠けており、官製の慈善組織の統治実績に対してサービス対象のアクセス可能性(可及)や社会問題を語る自覚的責任は、サービス対象、あるいはは社会問題を語る自覚的な責任に対し、「公衆に喜んで資源を寄付させ、公衆に安心して組織に資源を送らせ、公衆に次回も気持ち良くより多くの資源を寄付してもらう」という、資源動員の価値の循環・連鎖を形成することはできず、これは慈善事業を改革する発展に対する一つの障害要因になっている。筆者はまさにそれを「体制依存」と概括して、その論理を以下に図式化する。・・・・

 「体制」は制度体系の中の一つの方向あるいはレベルの範囲の内容であり、それは国家あるいは社会の何らかのシステムの組織構造、権力の配置と利益分配構造の制度に関し、システムの中の各運営主体の地位、権利と責任を規定し、各主体の間の相互の関係を決定している。官製の慈善組織について言うと、体制側は慈善組織を指して一種の事業単位であるとしており、党政の機構の組織管理モデルで形成された組織構造、権力配置と利益分配構造の制度メカニズムの体系であり、それによって慈善組織は国家と地方政府の公共サービスの領域の拡大の道具となっている。こうした特徴に基づいて、官製の慈善組織は資源動員の上で体制依存のルートを形成し、それによって、通常は慈善資源の動員の中で体制内資源と体制外資源の区別を形成している。体制内の資源は、主には慈善組織が依存する道徳的記号の資源の構築と、行政的権威の資源のアピールによって動員された資源であり、それは主には体制内のネットワーク組織を動員対象とするものであり、「政府・行政のリーダープラスリタイアしたリーダー」を主導とする動員管理体制、つまり体制内動員を形成している。体制外の社会の自由な流動の資源を指すものであり、社会資源とも呼ばれている。市場化(あるいは社会化と呼ばれる)手段を通じて公衆の資源を動員することは、体制外の動員と呼ばれている。以上の議論と分析の過程から見ると、資源動員のこうした体制依存のルートは様々な弊害を存在し、一連の良くない結果をもたらしている。たとえば、慈善組織の組織文化の正統性の危機、自主的な資源開発能力の弱さ、行政が独断する民間の慈善公益組織の資源空間を圧迫しているといった問題をもたらしている。資源動員の循環の一方向的な閉塞性の特徴も、まさに慈善資金の運営の効率性の低さを導いており、さらには慈善による腐敗の行為を引き起こし、公衆の慈善資金の投球に対する積極性に影響を与えている。
 それでは、いかにしてこの体制的な苦境から抜け出せるのだろうか。事実、慈善組織の登記期間である民政部門には、既に一つの観念が形成されている。つまり、人、財、物が徹底的に切り離される(脱钩)ほど、組織はより生存の能力を有するようになる、というものである(××市の民政系統が開催した社会組織に関する調査・研究の座談会資料による)。しかし、現在のわが国の公衆が慈善に対していまだ十分な理解を持っていない状況の下で、たとえ行うべき改革の方法があったとしても、実践することは非常に難しい。現在の最も意義のある実践は、既に自覚的に次第に市場化へと向かっている官製の慈善組織の転換であり、それらは市場経済の場の中の企業管理の規則と方法、たとえば契約技術で慈善の「経営」で資源を動員することや、慈善団体のマーケティング(公益营销charity marketing)、社会的企業といった動員の動員技術などを参考にしはじめている。羅文恩と周延風は二つの典型的な事例を分析して、企業の管理モデルを導入する人事制度改革は、事業のブランドと組織のブランドを形作り、官製の慈善組織が現在の制度環境の下で市場化に向かう三つの相互に独立し、また相互に関係する重要なキーポイントであると考えている(罗文恩、周延风:《中国慈善组织市场化研究———背景、模式与路径》,《管理世界》,2010年第12 期)。筆者のインタビューの状況からみると、これらの転換の中の慈善組織は自覚的に政府と分離し始めたり、あるいはすでに切り離されたりしているが、国家の支持は依然として存在している。

 「×××基金会は五つの事業がありますが、一年で12憶元にもなり、もう完全に政府から切り離されて、政府の費用もなければ、政府が賃金を出していることもなく、完全に独立採算(自收自支)です。しかし、政府はまだ基金会を支援しているという宣伝を行っています。そして、基金会が企業化された経営を実行すると、運営実績を審査されるのですが、そこでは集めた資金と評価とがリンクしています。」

 以上のインタビュー資料が明らかにしているのは、官を出自とする慈善組織が転換した後の資源動員はの実績は際立っており、市場化は行われるべきだというものである。しかし同時に、国家と政府が既に有している非行政的な支援、例えば関係ネットワークの資源や政策法規の支援などは、依然として効用を生み出している。そして、資料が明らかにしているのは、転換後の官製慈善組織が民間の慈善組織と交流しはじめているが、これはわが国の官民協力と平等な競争、優勝劣敗の慈善資源動員の生態に対して、疑いなく積極的な価値を持つものである。以上のように、官製の慈善組織の資源動員の転換の有り得るルートをまとめれば、次第に政府と切り離され、自らの吸引力を組織化し、政府との協力関係を維持・継続し、民間慈善組織と平等な競争関係を形成していくことである。

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 中華慈善総会など、政府系の慈善組織に関する論文。竜永紅は南京大学社会学系の研究生ということだが、詳細は不明。

 政府系(官辦)の慈善組織というのは、清末期からの活動の歴史がある紅十字会や、1994年に設立された中華慈善総会のことを指している。この論文では四川大地震などを題材にして、中国の慈善事業の「体制依存」的性格と、それがもたらすジレンマやアポリアをあらためて浮き彫りにしている。

民国中期成都の慈善事業の発展と変化

2012-06-09 05:47:29 | Weblog
譚緑英「民国中期成都の慈善事業の発展と変化」

譚緑英「民国中期成都慈善事業発展及変化」『中華文化論壇』2009年第02期
http://hk.plm.org.cn/gnews/2009111/2009111176519.html

 清末時期、「游民、乞食は各省みな存在していたが、四川ほど多いものはなく、四川では特に省都が最も多い」。民国後、貧民、流民問題は清のときよりもひどく、四川省は、「西の僻地で、風気が閉塞し、省外の文化はいまだ簡単に輸入されず、内地の教育はますます荒廃した。それに加えて時局の変乱で無業游民は数が大変多い(触目皆是)」。1919-1935年に防区制が実行された四川省は、軍人が政治を担い、そして成都は各派・軍閥の争奪の重点となって、戦争は頻繁に起こり、政局の変転暇なく、課せられる税金は非常に重く、民生は荒廃していた。これに各種自然災害が加わって、成都の貧民は大量に増加し、外地の農村は破産し、失地農民と失業の民もますます成都に流入し、貧窮問題は成都でとくに突出し、早急に社会各界と地方政府が解決を与えることを必要としていた。こうした背景の下における成都の事前救済事業は、結局のところいかなるものであったのだろうか。本文は、20、30年代の成都の慈善団体の発展概況に対して、慈善内容などの点における様子の考察を通じて、成都慈善事業の発展状況およびその特徴の輪郭を描き出していきたい。

(1)1920~30年代の成都の慈善団体概況
 1920~30年代は、一片乱象の中に置かれた四川省政府は、財政は不足し、社会救済を省みる暇もなく、未だに貧困を救済する主要な責任を担っておらず、民間の慈善団体に依拠して貧窮問題に対して限られた解決を行っていた。
 筆者の統計によれば、1920年~40年の間の成都で相次いで出現して慈善団体は100近くで、こうした慈善団体の組織は多くは規模が大きくなく、政府によって設立されたものは少ない。1939年の『成都市慈善機関調査』の統計によると、成都は全部で66の慈善団体(19が院内救済組織で、47が院外救済組織)を有していた。院内救済組織は6ヶ所の官立の慈善団体を除けば、残りの13か所は全て私立である。そして47の院外救済組織の中で、省会の慈善救済院、成都県救済院のほかは、その残りの45は均しく私立の性質である。47の院外救済組織の中で、年毎に固定的な経費を確保しているのは42、安定した費用はなく純粋に臨時の寄付に依存している慈善団体は5つあり、年の経費が300~2000元の間のものが多数を占めている。15の院内救済機関の年の経費は1200~42000元の間にある。さらに院外救済機関の一部は基金・恒産もなく完全に臨時の寄付で慈善活動(善挙)を運営している。たとえば光緒年間に成立した体仁慈善会は、「一切の経費がみな募集によるものであり、みな頑張って普及に努めた」という。1930年に華陽県にある南華宮で設立された楽善会は、全て運営者のその時々の寄付金に依存していた。たとえ基金や恒産を持つ院内救済機関であっても、日常的に経費不足の逼迫に直面していた。
 成都の事前機関のなかには、歴史的に伝えられてきた古い善堂や善会もあれば、新しく設立されたものもあり、1920~30年代の成都の慈善団体の数は比較的大きく増えていて、特に30年代には新しく設立されたものが比較的多く、そのなかで1932年だけで18ヶ所も新しく設立されたが、これは新規設立が最も多かった年であり、その次は1936年で、9ヶ所設立されている。これらの新興者の多くは規模が小さな民間善会・善堂であり、官立はほとんどない。
 民間善堂・善会の発展と相反して、1919-1935年に成都防区制政府は、慈善組織を設立して貧窮問題に熱心に対応しなかっただけではなく、普済堂、育嬰堂、育嬰堂、全節堂および如幼孩厰、済貧厰、民生工厰等「堂厰」といった、数が多くない官立の慈善工場を郷紳の運営に任せていた。例えば、尹昌齢が運営している慈恵堂は、後に手を広げてこの堂が引き継いだ善堂と慈善工場は、その前身はすべて官立の性格を持つものであった。こうした局面の出現は、時局の混乱で政府は社会救済に関与する余裕がなく、官立の慈善組織の弊害が非常に深かったことのほかに、おそらくは成都の郷紳集団の社会的影響力も関係している。民国初期の上海の「遺老」の政治的影響力が日に日に周辺化していくのとは異なって、成都の郷紳はほとんど清の時代に功名を得ており、民国後は十分に新しい地方政権として認められなかったが、政府と対立することもなく、彼らは四川社会において非常に高い地位にあり、同時に一定の政治影響力を備えており、社会的な物事の点でも非常に高い発言力があったが、こうした状況は民国初期の中国では非常に珍しいことであった。これらの郷紳は、一部の「余生を酒と詩で過ごす」ことにしか関心のない人以外は、教育事業や社会事業に尽力した。そのなかで慈善事業は、成都の郷紳が政治から引退した後の一つの選択であった。尹昌齢はこうした一人であり、彼は1916年に四川政務庁の庁長に任命された後、「蜀の中は面倒事が多く(蜀中多故)、人に従うことを欲せず、ついに地位を譲って去り、専ら慈善事業につとめた」のである。こうした背景があったことで、政府もこれ幸いと官立の善堂を郷紳の運営に委ねたのである。

(2)成都の慈善団体の慈善活動
 1920~30年代の成都の慈善活動は、民間の性格のものが多く、地方政府は既にこれ以上の「現代」的な社会救済事業を組織する力はなく、慈善事業を整理する余裕もなくなっており、民間慈善団体の慈善活動に対しては、基本的に干渉は加えられておらず、30年代末期になってようやく改革・変化が始まるようになった。1939年の成都市政府工作報告が述べているところでは、成都市は「慈善事業は多く私人の集資で設立されたものであり、名目は繁多で、まだ整理が加えられていない。以前かつて市政府は調査員を派遣し、再三再四訓令を発し、各慈善団体に法に従って登記し、毎月の収入と支出を報告して参考に供することを命じた・・・運営している事業の種類は、施米、義学、義地、恤婺(寡婦の救済――訳者註)、育嬰、保産、養老、施衣などの項目である。どの慈善団体も、その経済能力は全てを取り上げても、数種を選んでも、その状況には偏りがある。このため、各商業団体が運営している事業は皆大同小異であり、緊急に合併・改組して、救済の広い国家を期待する」。当時の人の多くは、施米、義学、義地、恤婺、育嬰、保産、養老、施衣などの慈善活動は「伝統」的で「消極」的な慈善救済であると位置づけていた。
 清の時代を受け継いでいる成都の地方善堂、善会の多くは古い慈善の内容を踏襲している。たとえば嘉慶時期に成立した楽善公所は、民国後に、その慈善の内容が「恤婺、養老、施棺、施米、墓地、医薬、及放生、惜字、保産、利孤、諸業」を含み「省門の善挙で最も久しいものである」。また正心堂は、咸豊20年に成立し、施薬、済貧、恤婺、惜字、孤児などの慈善活動を行っていた。たとえ新興の善堂、善会であっても、絶対的な大部分は伝統的な慈善活動を主とするものである。梁其姿が『施善与教化——明清時期的慈善組織』で述べているように、こうした伝統的な慈善の内容を主とする民間の善会・善堂は、その設立者が懸命に儒家の倫理・道徳の維持し、仁政の実現あるいは仏教の普遍的な救済理念、「陰功を積む」の理想を実践しようとしてきたことを体現するものである。
 当時の人である柯象峰は、1920~30年代の成都の慈善団体の慈善活動に対して分析を行い、成都の院内救済機関のなかで、孤児養育事業や老人救済は「規模が大きくて効果もある」、浮浪者や婦女救済事業は「成績は比較的よく」、そして医薬・衛生、教養は科学化が欠けており、経費は不足しているという。そして院外救済の方面は、多くが旧式の善堂の性質に関係しているものであり、その多くが宗教的な趣があり、業務も多く重複し、科学管理の方法や専門的な人材を欠き、経費が確定できない、といった特徴があるとしている。柯象峰の評価は当時の社会学会の中できわめて代表的なものである。しかし当時の政治、経済の条件のもとでは、柯象峰の指摘する欠陥は解決が難しかった。1920~30年代は、天災・人災が頻繁に発生し、情報が閉ざされた内陸都市の成都では、積極的な社会救済観念は未だに完全に形成されていなかった。
 時局が困難な状況の下で、成都地方政府はいまだに救済の主要な責任を担うことなく、民間慈善団体は伝統的な倫理道徳および各種の宗教信仰を借りて人に善行を奨励しなければならかった。そのため、多数の民間慈善団体の経費は寄付によるものであり、寄付を募る重要な手段の一つが「善を行い徳を積む」や因果応報といった仏教思想および民間の信仰を借りて、奨励するというものである。とくに善堂、善会のなかには、宗教観念を借りて汚職・舞弊の発生を減少させるものもあった。黄稚荃が『尹昌齢伝』に記載しているところでは、慈恵堂は当初は古廟であり、廟内の霊官・神像は捨てられることなく保存されており、「先生(尹昌齢――原著註)は霊官は非常に役に立つと考えて、朔望(月の1日と15日――訳者註)になると必ず厳粛な態度で衣冠・焚香して敬礼し、堂内で財物を窃盗する事件が起こると、怪しい者に対して、役人を派遣して脅しても全く恐れないが、彼に霊官の前で大きな声で宣誓を読み聞かせれば、彼はたちまち恐れて、闇に窃盗した財物を放り出し、あるいは頭を打ち付けて過ちを認めて、今後の神の加護を求めると(求観後効)、先生は必ず密室に呼び入れて、慰教して盗んだことを隠し、これ以上明らかにはしなかった。これによって、罪を犯すものは日に少なくなっていった」という。

(3)1920~30年代の成都の慈善事業の新しい変化
 1920、30年代の成都の慈善事業の多くは伝統的な「消極」の慈善活動が主であるが、明・清の善堂とは異なる変化も出現していた。とくに救済観念の面で、民間の慈善団体の運営者だけではなく政府もが、次第に当時唱えられていた「積極」の救済観念を認識するようになり、そして「消極」の慈善活動は改革・除去され、伝統的な善堂、善会の教化の機能も次第に薄まっていくようになった。これと同時に、新たな社会情勢に対応するために、既存の慈善活動の内容も、変化が生まれたり強化されたりして、さらに専門に新しい貧困集団に対して設立された慈善組織が出現した。
 成都の郷紳である尹昌齢は慈恵堂の『特刊』のなかで、この善堂は消極の慈善活動に「偏重せず」ことを言及しており、一時的な「救済」から「生存の扶助」に転換し、重点を鰥寡孤独、障害者、浮浪者、難民の根本的な救済に置こうとするものであった。尹昌齢は盲童教養所を運営している時に、フランスのカトリック教会を模倣した孤児院の考え方を披露し、伝統的な慈善の人士は外国の慈善活動の理念と「現代的」な救済事業を認めるべきだと述べている。1934年に成立した意誠助善社は、「迷信を尊ばず、純粋に実際上の救済に給仕し、経典の朗読や呪文を唱えるなどの古い習慣は、すべて取り除かれる」ことを言明している。
 この時期、政府も「積極」的な救済の主張を推進し、何らかの「消極」的な慈善活動を改革・除去しはじめている。1929年に国民政府が公布した『監督慈善団体法』第二条の規定によれば、慈善団体はその事業を宗教上の宣伝に用いてはいけないとされていた。1936年に政府の意思を強く代表した四川善連会が派遣したメンバーが各地区を視察し、善堂、善会を整頓し、法に反して怪力乱心を語っている現象を取り締まっている。放生会は1930年代も次第に取り締まりに遭うようになっている。1937年の『警務月刊』に記載されている長年にわたる成都の放生会の状況を記して、はっきりと「省では毎年旧暦4月8日(つまり新暦の5月17日)、放生会が挙行され人民の習俗となって既に久しく、会の時期には東門から九眼橋まで沿道および川の両岸は見物客が山のような人だかりで(堆積如山)、肩と足がぶつかり合い(肩摩踵接,)、万頭攢印(?)、交通と治安を妨げている。この迷信を打破して節約の時代であることを提唱するだけでは特に適切ではなく、外東五分局に厳しくやめるように命令し、そしてこの地を出入り禁止にして違反したら逮捕する」と、会の挙行の禁止を命じている。
 部分的に伝統的な活動が有していたところが改革・除外されたほか、もともと伝統的な慈善活動に属する部分の内容それ自体も変化が生じている。例えば、明清時期に盛んであった義学の授業内容は、主に科挙受験に対応したものであった。民国以降、科挙制度は廃止されたとは言え、義学は依然として大量に存在していたが、義学の授業内容には既に変化が生じており、これは成都慈恵堂と中西組合慈善会所が運営している義学課程表のなかに等しく体現されており、識字、珠算、筆算など、少数の資質の特に優れた孤独・貧困の子弟は、慈善組織から彼の能力を高める所へと送られ、特に多かったのは基本的な教育を受けた後に工科で技芸を学んだり、あるいは商店で徒弟になったりしたものである。義学は孤独・貧困の子弟の将来ために一定の条件の提供しようというものであり、これは根本救済の思想が慈善活動の実践に反映されたものである。
 この時期、成都ではさらに社会人士と中国・西洋の教会人士が合同で善会を運営するという状況が出現し、1921年に成立した中西組合善会はその事例の一つである。地方の善会・善堂と比べて言えば、中西組合慈善会の組織・制度はより健全なものであり、その慈善活動の内容(つまり孤老や孤児の収容、工科の設立は行うが、施棺や施義地などの活動は一切しない)は、当時の人の言う「積極的」な救済の基準により適合するものである。その会を中心的に運営している者――つまり地方社会人士の多くの教育的な背景は伝統的なものであり、それに対して中国・西洋の教会人士の教育的な背景は一般に比較的高い西洋式のものであるが、ここからわかるのは、社会問題が次第に激しくなっていくに従って、慈善活動における教化の目的はもはや重要ではなくなっていき、救済それ自体が次第に主要な地位に上昇するようになっていくことである。
 このほかにも、1920、30年代の成都の民間慈善団体は次第に厳しさを増してくる貧困問題に対応するために、何らかの慈善活動に対する実行力を強化していった。比較的目立った活動が、無利子の融資によって貧困者が小さな商売で生計をたてられるように援助することである。1930年代までに、非常に多くの慈善団体がこうした融資を行い、あるいは融資の範囲を拡大していった。1932年鼓楼南街の玉参善堂は「最近生活が日増しに赤貧となり、小民の多くは生計をたてるすべがない」ことによって、「資金を集めて無利子の融資を実行」し、「小さな経営で資本の不足に苦しんでいる場合、借りたければ該当する店舗は受けることができる」。1934年成都市の東益慈善会は「年来の農村経済の破産によって、郷村の農民は失業して都市に行って生計を立てようとする者が日増しに増えており、ましてや社会経済が農業の影響で破産した、都市の失業人民などは皆どこでもこうであった」ので、「元から存在した無利子の借貸所を拡大して運営し、以前は一株銅元5千だったのを大洋銀5元に改めたことで、資本に比較的余裕が得られ、様々な小さな商売を企画・経営できるようなった」という。1939年までに、成都で無利子の融資を行っている善堂・善会は15にのぼった。
 民国時期には、さらに新しい特殊な救済の現象も出現している。辛亥革命後、旗人(清朝時代の満州人貴族――訳者註)は政治・経済の特権を喪失したが、多くの旗人は生存のための技能を持たず、衣食に事欠き、新しい貧民階層に転落していた。旗籍の貧民は救済を必要する特殊な集団となっていたのである。1914年に四川巡按使は「少城の旗民は老弱・廃疾(病気・身体障害)により生活困難な者が非常に多い」ことにより、財政庁長に命じて銀千元を施米局に与えて旗籍貧民を救済している。さらに同時に、旗籍貧民を救済する専門機関が成立し、少城祠堂街に旗籍貧民生計委員会が成立し、その救済対象は鳏寡・孤独で困窮した無告の旗民であり、その慈善活動は義捐金や施医、施薬などであった。1933年にはさらに「旗籍貧民慈善会」が成立し、その中身は育嬰、借貸(ローン)、施棺、恤嫠(寡婦の救済)の四つであった。少城西城根街の同仁工場は、民国初年に旗民の生計の困難(艱窘)のために設けられたものであり、省政府が直接に管轄し、財政庁から経費が分割して支払われ、年間で72034元にもなり、その南と北の二つの工場の規模は大きくて効果も著しいものがあり、収容人数は700~800人であった。1934年には、同仁工場は成都の公安局によって接収され、そして游民教養工場に改造されることになった。30年代中・後期に至るまで、貧しい旗人を救済する専門組織は次第に消失し、あるいは二度とその役割を復活させることはなく、特殊な集団として極めて重視されていた旗籍の貧民は、その地位を失っていくことになった。

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 民国期の四川省における慈善事業の概説的な論文。残念なことに註と文献が抜けている。

 譚緑英は上海托普信息技術職業学院に所属する歴史学者で、民国期の社会事業史が専門である。四川では慈善事業における政府の役割がきわめて弱く、多くが郷紳に委ねられていたことが指摘されているが、これが中国全体の特徴なのか、今まで地方ごとの政府と郷紳の役割の大きさや関係性の違いについてきちんと考えてなかったので、今後は注意して見ていきたい。

突発事件の中の国家-社会関係

2012-06-05 22:30:37 | Weblog

耿曙・胡玉松「突発事件の中の国家-社会関係――上海基層社区「抗非」の考察」


耿曙・胡玉松「突发事件中的国家—社会关系:上海基层社区“抗非”考察」『社会』31巻(2011年6月)
http://www.sociology2010.cass.cn/upload/2012/04/d20120412164432131.pdf


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4 「SARS予防(抗非)」期間の「強国家-弱社会」の制度的な根源

 国家/社会関係に関する解釈を全体的にみると、Lee(1989: 191)は、国際システムの視角から、発展段階の国家は「強国家。弱社会」のモデルの形成と解釈し、「国家」の「社会」に対する主導性は、国家が資本主義の世界に巻き込まれている一つの必然的な結果であると考えている。しかし、どうして類似した背景の下にある国家が、その「国家-社会」関係ではかえって全く異なるものになっているのだろうか。Migdal(1989)は、社会構造の角度から「非国家的なアクター(non-state actor)」の有無、社会的階級の連携の形態、そして社会集団の多元的な構造などの社会構造の特徴が、国家権力が社会に対して発展するかどうかを決定しているという。このほか、「国家-社会」関係の角度から「強国家」を理解するものもある(Barkey&Parikh 1991)。つまり、国家が社会に対して高度な「自律性」と「能力」を具えている場合に、国家と社会の相互作用が「強国家」の類型になり得るのだという。上述の観点では、国家の内在的な力が軽視されていたり、社会構造の影響を強調しすぎていたり、あるいは「国家中心」が目立ちすぎて、解釈上は「循環論証」のきらいがある。このように、研究の中で明らかになっている「強国家、弱社会」の構造は、国家の動員とそれに対する応答という統治の方法を見ることができるが、しかしどうして国家は一旦行動に移すと、即座にかつ充分にその意志を貫徹することができるのだろうか。その根本的な原因はおそらく、国家権力の「制度的な基礎」にある。筆者は、突発的な危機に直面するプロセスのなかで、国家が大体においてこの危機に乗じて、合法性をはっきり示し、かつ強化しなければならず、国家の権力が進展かつ強化された結果、もともとのわずかにあった社会空間もほとんど吸収され尽くしてしまったことを明らかにした。ここから理解できるように、「強国家-弱社会」を維持する鍵となるメカニズムは、国家の「認知的な構成物(认知建构)」に対するコントロールと「参加ルート(参与渠道)」の規制にある。上述の「心理」と「構造」の二つの経路を掌握を通じて、「国家」の絶対的な権威が塑造されて、「社会」は「国家の権威」を信頼されているために譲歩していくのである。

(1)構築されたルートのコントロール

 いかなる危機と災難に直面しても、問題の解決は社会の安定を維持するもっとも重要な経路である。「非典(SARS)」の時期、国家はメディアの掌握を通じて、文章で呼びかけを行い、および自らの行動を決定し、公衆にリスクの認知を行った。具体的には、最初は官あるいはメディアの感染症の情報に対するデマの一層であり、次に、外からの圧力に直面した時に、例えば高官が検疫や隔離といった措置を取りやめるなど、政府が戦略の転換を行い、最後に、イデオロギー的な傾向をもったメディアの自由な報道、そして国家の力強い行政的な動員と厳しい監視が、公衆に対処すべき危機を感知させ、国家を信頼するようになる、というものである。

1 テーマの構築――リスクの限界
 「非典」の初期は、様々な原因のために、政府は情報を封じて、メディアの報道も比較的少なかった。当時は報道が少なくても、その立場は民衆の感情の安定にあり、社会的な動員によるものではなかった(于海 2004: 36)。戴雲光など(2004: 329)は、「非典」期間の中国の主流メディアの感染情報の報道に対する内容分析を通じて、主流メディアがSARSの報道のなかのテーマ設定は「実質的には政府が行った」ものであると説明している。例えば、感染情報の初期は、政府は虚偽、遅い、隠蔽した報道であり(燕爽 2003: 10)、政府は全く民衆にSARSに関する本当の知識を知らせず(陳升 2003: 141)、社会上にはデマが広まり、人々は不安で落ち着かず、政府は表に立ってデマを否定せざるを得なかった。こうしたデマを否定する仕事は、一定の程度において人心を安定させた。一人の住民は、「親戚や友人は広東で非常に珍しい伝染病が広まり、死者も出ていることを知り始めたが、当時は笑い話にしかならず、自分は深刻にとらえていなかった。政府やメディアが大規模に宣伝し、自分もようやく深刻にとらえはじめた」と語っている。しかしその後に「非典」が蔓延し、国際社会からの圧力がどんどん強まり、政府は対策と調整を行いはじめた。まず、衛生部長の張文康と、北京市長の孟学農は、二人とも罷免され、その後様々なメディアの「非典」に対する報道は短期間のうちに透明度が高まった(陳升 2003: 35)。政府は受動的な対応から積極的なものに変わり、政府の誠実さと政府の責任のイメージを回復した。こうした転換に従って、主流のメディアも再度世論を主導する能力を得るようになる。
 この世論の転向の影響を受ける形で、住民たちはついに危機が焦眉に迫っていることを認識、社会全体が感染症の情報に覆われていった。香港と台湾の地域のメディアが社会的な恐慌を助長した事実に比べると、上海は住民がSARSがに各個人自らの生命に影響していると感じていたものの、過度な恐慌は全くなかった。たとえば、一人の社区の住民は、「こうした厳しい監視があり、そして上海市全体では数例の患者がでただけで、心配する必要がなく、(私と家族)の日常生活は依然いつものように外出し、全く何の影響も受けなかった。(HDLG大学G教授のインタビュー)。
 このほかに、インタビューしていくプロセスの中で、依然として少なくない住民が繰り返し強調していたのは、その感染症の状況は特に深刻ではなく、住民生活への影響も限られたものである、というものであった。ここから理解できるのは、初期にデマが四方から起こったときの政府のデマの否定であろうと、後期の感染の状況を確かめた後の政府の全面的な介入であろうと、メディアの報道合戦と評価は、一定程度において人心を安定させていたことである。しかし、公衆の「非典」に対する認識は主には各種のメディアの報道によるものであった。そして客観的な「非典の感染情報」から主観的な「住民の実感」の間には、実のところ「メディアによる構築」のプロセスが存在していたのである(He 2004,Ma 2007)。香港・台湾の似たような大きな恐慌は、その究極の根源には、実のところ大げさで節度のない推測によるものであった(丁学良 2005)。

2 応答の構築――情勢の掌握
 「非典」の危機に応対するプロセスのなかで、政府はメディアが構築する「感染情報の認知」と政府の「積極的な介入、効果的な『抗非』」のイメージを利用し、民衆に政府が完全に危機をコントロールできることを信頼させ、さらには一つの合法的な「失敗」と「発見」のプロセスを経験させたのである。
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 中国大陸のメディアは「党政の口舌」であり、情報の源と公開は国家全体の利益に従わなければならない。これは公衆に伝えられる感染情報の報道が、もはや単純な情報の公表ではなく、「社会秩序の維持」を経て、「政権の基礎を安定させる」といったことを全体的に考量した後に、慎重に篩にかけられ構築されるのである。こうした選別と構築は、住民の様々な認知を左右することができ、公衆のこれに応じた対応の行動を制約するものであった。このように、メディアが「事実」を構築するチャンネルとなったことは、明らかに「非典」期間の「強国家-弱社会」の重要な要因の一つである。

(2)参加のチャンネルの緩和

 国家の「事実を構築する」ことの出来るメディアに対するコントロールが、住民がリスクに対して恐慌を生み出すことなく、国家に対して信頼の心を寄せたことは、社会の自力救済を消弭(?)し、自発的に参加する第一の何重のメカニズムである。しかし住民がたとえ自主的な集団行動を発揮することができたとしても、依然として以下の「制度的な拘束」を受けている。つまり、近隣ネットワークの散漫、居民委員会と近隣とのネットワークの乖離、居民委員会のネットワークの吸収、および居民委員会のネットワークの排除など、「障害(截阻)」と「コミュニケーション不全(疏通)」の下で、「国家」のほかに参加することは容易ではなく、「国家」の中のチャンネルはスムーズであった。住民の社会参加か、あるいは国家に対する信頼による国家の配置への服従か、あるいは国家の構築したチャンネルの中に入っていくのか。こうした制度上の構築は、社区の「強国家-弱社会」の別種の重要なメカニズムである。

1. 近隣ネットワークの散漫
 社区の住民の自発的な行動は、大体において住民が既に持っている社会的なネットワークに依拠する必要があるが、経済体制の市場への転換において、政権が主導する「社区建設」のプロセスの中で、住民の近隣のネットワークは不断に弱体化しており、都市社区のなかの社会関係資本(社会资本)のストック(存量)はどうしても低い。Putnam(1993)の観点によると、社区の中の各種の協力あるいは集団行動は、メンバー間の相互の信頼によるものであり、この種の人間関係の信頼は長期のネットワークの連繋によって形成されるものである。もし住民の間に相互作用が欠けていれば、近隣の間の社会関係資本のストックは非常に低く、信頼関係を養成することができず、協力のメカニズムを形成することも難しくなる(Putnam1993, 1995; 福山 1998)。特に都市化プロセスと住宅体制改革の後は、伝統的な近隣関係が破壊されたあと、都市住民のそれぞれの要求は主に市場の満足によるものとなり、活動の場は多く社区の外で、社区はもはや所謂「公共活動の空間」ではなくなっている(HDLG大学Z教授インタビュー)。ここから理解できるのは、近隣間の往来と相互作用は日に日に少なくなっており、近隣関係の重要性は日に日に下降し、都市社区はもはや伝統的な意味での「生活共同体」ではなく、より「互いに関わらない近隣」に近付いていることである(桂勇、黄栄貴 2006)。
 「非典」の時期、既存の社会的なつながりが欠如していたために、個々の住民は既に「公共事務」に参加する情熱をなくしており、近隣の間も信頼と協力の基礎を欠如させており、いったん「非典」のような感染性の高い病気に直面しても、社区の住民は自らを救う集団行動を組織することができなかった。このように、原子化された近隣の構造と、断片化された基層社区の条件の下で(Goldman&Macfarquhar 1999: 17)、「抗非」は政府組織に頼ることしかできなかったのである。

2. 行政-近隣のネットワークの隔絶
 西洋社会では、都市コミュニティの住民会は利益志向であるため、公共的な参加、近隣の相互作用と感情などの点で差があり、コミュニィの内部では分化が出現している。中国では、国家主導の「社区建設」であるため、居民委員会は国家の小さな地区のなかの代表となっており、社区の公共事務の処理において抜きんでていて(一枝独秀)、社区空間のは次第に居民委員会を中心として、次第にその圏内と圏外とで二つの大きな陣営を形成している(闵学勤 2009a)。
 社区における「抗非」の「二元構造」、つまり居民委員会幹部とマンション組合長(楼组长)を中心とする「社区行政ネットワーク」、「抗非」の行動の外に遊離した普通住民など、各々独自の構造を形成していた。しかし、このような構造は、日常における社区ガヴァナンスのネットワークの延長線上に過ぎない。筆者の調査によると、上海社区の基層ガヴァナンスの構造においては、「行政ネットワーク」と「近隣ネットワーク」がもともと相対的に疎遠であり、特に新しい分譲住宅(新式商品房)はより顕著で、一般住民の社区居民委員会は相互行為が比較的少ない。ある住民が言っていたように、「多くの住民は居民委員会の幹部が誰なのかも、あの人たちが何をしているのかも知らないし、居民委員会と自分が大した関係はないという感覚で、居民委員会の幹部が気軽に住民の家のドアをノックすることなど出来ないし、そんなことをしたら住民の反感を買うだろう」(FD大学[おそらく復旦大学――訳者註]X教授インタビュー)。たとえ上級に割り当てられた事務(必要な任期満了による選挙(换届)の仕事など)に基づく接触が多くても、交流とコミュニケーションは非常に少ない。しかし別の方面では、「居民委員会の幹部-積極層」の間の相互行為は頻繁で、そして住民委員会幹部も意識的に積極的な層との連絡と情誼を持ち、平日にも各種の交流と参加の呼び掛けを不断に行っている。言い換えれば、近隣と行政ネットワークは、散漫なものもあれば、緊密なものもあるのだが、双方は大体において隔絶しており、出会いと交流が欠けている。「居民委員会の幹部-積極層」の間の社区ネットワークは、国家機関と近隣社会とを連結させる有力な紐帯であるが、閉鎖的になる傾向があり、出会いや住民近隣間の横のネットワークを支援することなく、縦と横の交錯する信頼と協力の関係を構築することも出来ていない(刘春荣 2007)。

3. 行政ネットワークの吸収
 街道の展開した「抗非」工作を受けた後、社区は居民委員会の幹部を中心として、社区の積極層を動員し、居民委員会の「抗非」を協力・支援していった。彼らはお互いの付き合い(人情)の関係から来たものか、あるいは社区サービスの責任の所在から来たもので、その後に「抗非」の隊列のほとんど全てに参加している。言い換えれば、危機への対応の必要に直面すれば、国家は街道と居民委員会の「命令-服従」のシステムを強化し、居民員会の動員を借りて、住民の中の積極的な層の緊密な団結を社区の「行政ネットワーク」の中にとりこんで、「行政ネットワーク」が一部の住民を吸収していくことを通じて外に拡大していく、というものである。
 インタビューによると、多数の社区の住民は普段は社区の事務に対してきわめて無関心であり、積極的な参加・活動はなかったが、「非典」のリスクに直面し、彼らの多くはすぐに疑うべき情報を行政システムに対して報告し、監督と通報の役割を忠実に演じ、国家の「全民相互の監督と通報」のシステムの一環と(陈升 2003: 43)、「抗非」システムの最も圏外の「サイレント・マジョリティ」となった。この角度から見ると、SARSという突発的な事件を借りた国家の成功は、まさに住民の「小我」を「社区-国家」という「大我」に吸収・包摂し、国家の統治における正統性の基礎を拡大・強化したのである。

4. 行政ネットワークの排除
 体制の外の様々な社区の組織は、もともと比較的曖昧な空間のなかに生存しており、いったん社会の情勢が比較的緊張すると、こうした組織は社会の安定の脅威として看做されることが有り得る(毛寿龙 2003)。
 これについて、一人の住民は婉曲に「住民自身が組織をつくる(『抗非』)ことは、余計な面倒をつくり出すかもしれないので、住民はたいていあまり望んでいない」と語っている(PY居民委員会インタビュー)。非常時の下で許容されている「余計な面倒」は、住民がいかに表現しようとも(有所表现)、大体は組織的な活動を忌避することがあり得る。似たような情況の下では、住民が利益を拡大しようとする要求であっても、かえって「組織化する」という行動戦略を好み、不要な心配を避けようとすることも有りうる。(陈晓运 2010)。
 以上のように、上海の社区は「非典」の時期に「強国家-弱社会」の構造を表しており、それは主に上述の「チャンネルの構築を統制すること」と「チャンネルへの参加を規制すること」という両者の共同の構築によるものである。まさに住民が感染のリスクや評価、対応手段を理解しはじめていた時、国家が主導する「メディア構築」は、もっとも重要な役割を演じていた。つまり、一方では危機のリスクを和らげて社会の恐慌を防ぎ、他方では危機への対応が成功したことを顕彰して民衆の国家に対する信頼を構築し、国家の強い力と地位を守ったのである。住民は近隣のネットワークが散漫であったり、行政と近隣の近隣とのネットーワークが隔絶していたりしたため、行政のネットワークによる吸収あるいは行政ネットワークによる排除を通じて、体制内のコミュニケーションをスムーズにし、体制外の様々な組織の参加を抑圧して、住民の参加を国家が配置する集団的な努力の中へと導こうとした。一度このような「締め出し/円滑化(防堵—疏导)」の作動が成立すると、国家の危機における凝集力と合法性が、また再び高まっていくことになるのである。


5 結論と討論
 
 本文の趣旨は上海の社区の「抗非」の動員を例として、中国都市基層の国家-社会関係を観察すると同時に、こうした観察を借りて、さらに国家-社会関係が拠って立つ制度的なメカニズムを探究することを期待するものであった。上海の「抗非」の事例の調査に基づいて、本文の主要な研究で明らかにしたのは、二つの点に帰することができる。

 第一に、「非典」が襲来した期間は、たとえ感染が住民の切迫した利害に関わっているとしても、上海の社区のさまざまな「抗非」の動員は、国家の全面的な主導によるものであり、住民が自発的に参加することは少なかった。もし、作者の系統的な調査であるPY社区とKS社区を例にとると、二つの小さな地区は持ち家の権利、住民の特徴、社会連帯、社区のアイデンティティや権利意識などの点において天地の開きがあるが、「抗非」の動員の組織においては、二つの社区は本質的な違いがない。

 第二に、「抗非」のプロセスにおいては、国家権力は社会への浸透や住民による認可の点で大幅に増強され、「強国家-弱社会」の関係の構造を表現しているだけではなく、この構造がさらに一層強化されている。言い換えれば、上海の社区の「抗非」の経験によって、国家、社会は「同じく場を共有(同时在场)」し、相互に切磋琢磨し合った結果、「国家・社会の相互強化」論が予測したような、双方がお互いを形成かつ強化していくようなものにはならなかったのである。「非典」期間の上海の事例が示しているのは、基層の動員は国家の強い力によって主導されており、住民は自分を守って引きこもったり、国家の動員に加わったりなど、国家-社会の能力の消長の軌跡がはっきり見ることができることである。

 さらに上述の発見の意義を分析し、我々は以下のいくつかの問題に焦点を当てなければならない。最初に、比較の視角から見ると、伝統的な視点では、非常の危機に置かれた「国家」は、大体において弱体化していき、この時に「社会」が一定の「自由組織」と「自主活動」の空間を獲得することができる、と考えられている(Skocpol 1979)。このような予測や期待は、「非典」期間の香港・台湾の地区で発生しているが、その状況は筆者の調査した上海とは大きくかけ離れている。その中で重要な鍵は、上海の危機はとくに危機の発生源である広東や全面的に爆発した北京に比べて、「後に来た(后至的)」ことにある。北京と広東の事例の中で、「国家」は確かに模索の段階でかつ受動的な対応に置かれており、この時の社会組織は、部分的に役割を発揮することもあった。しかし、一旦「国家」が明確な対応の方法を提示し、そして全面的な動員を展開すると、たちまち情勢を掌握することができ、そして次第に代替していた社会組織の役割を抑圧していった。上海の社区の危機は「後に来た」ものであり、上述の「衝撃-応答」のプロセスに置かれるなかで、上海は初期の「手を放す」段階を経ることが全くなく、はじめから国家の主導によって、様々な民間の組織が与えられた役割を最低限演じていったのである。

 次に、突発的な事件の中に置かれて、国家はどうして介入に急いだのであろうか。このことについて、学者の間では二つの異なる解釈がある。ひとつには「機会命題」であり、つまり国家と社会がお互いに主導権争いをして、前者が全ての機会を利用して、コントロールを試み、後者を圧倒していくというものである(Skocpol 1985)。つまり、社会の危機は突発事件の中の国家-社会の関係に絶好の機会を提供するのであり、国家は必ずそれをつかまえてその地位を強化しようとするのである。もう一つは、「存亡命題」というものである。つまり、これは国家が挑戦に直面する際に、まだ対応するだけの力がなく、その身に疑問、圧力を受け、さらには国家本体の存続にまで危険が及ぶというものである(Shue 1988)。このように、社会的な危機に置かれると、国家が身に四方から圧力を受け、過度な期待を背負わされ、困難に果敢に立ち向かわ(挺身而出)なければならないのである。

 この二つの異なる解釈で、結局のところいずれが正しくて間違っているのだろうか。最初の「機会命題」は検証できるものではなく、我々は実地の調査・研究の中で、先に述べた「存亡命題」を支持する大量の事例を発見した。そのため、先に述べたように、「非典」初期の上海では、社区の中では実のところ一部に「パニック」と「非難」があり、両者が相互にうねりをあげて強まっていた。つまり、住民がパニックになればなるほど政府をますます非難するようになり、そして政府が対応できなくなって、内心はさらにパニックになっていったのである。言い換えれば、「国家に依存する」という陋習の伝統の下で、民衆は「国家」の期待と圧力を加え、しばしば国家を対応に立ち上らせざるを得ない。結局のところ、「大政府」の伝統が、「無政府」のパニックをさらに強烈で切迫したものにさせ、国家機関の拱手傍観や、社会組織による役割の代替を許さないのである。このように、「非典」の期間、突発的な危機に置かれることで、国家は困難のために立ち上がり、この危機を借りてその統治能力を証明かつ強化し、民衆からその権威と正統性を勝ち取ったのである。

 もう一度、国家はどうしてその意志を貫徹することに成功したのだろうか。我々の分析によると、危機の下に置かれると、国家はメディアのコントロールを行い、「議題設定」のチャンネルを掌握し、住民の「感染リスク」と「対応の成功」に対する理解に影響を与えている。さらに、国内はこれまでの「社区建設」が「国家中心」を強化する居民委員会のネットワークを通じて、「社会自生」の近隣ネットワークを委縮させ、効果的に社区のなかの「社会参加」のルートを規制していった。この二つの力を通じて、国家は社区の「抗非」の努力を掌握しただけではなく、十分に「社区」と「単位」を結合させ、体制外の様々な社会組織を「疑似単位」化し、社会全体を「社区建設化」(単位化/ネットワーク化)しそこから一つの完全な国家による主導と、基層社会と社会組織が結合する「抗非」のネットワークを打ち立てたのである。上述の二つの制度的なメカニズムに依拠して、国家は徹底的に「社区建設」より前の目標を強化し、「国強社弱」の関係の構造が自然とできあがる結果となったのである。

 当然、これとは反対に、もしこうした「制度的な基礎」が決して堅固なものではない場合は、社会の自発的な組織が依然としてなお機会と空間を有している。たとえば、我々が明らかにしたオフィスビルの「抗非」の事例では、「非典」の初期においては、政府がまだ対応・措置をとっていなかった時に、我々は社区のなかの一棟のオフィスビルを研究し、「抗非」の自発的に組織化することに成功し、効果的に「非典」の侵入を防いでいた。そのビルは外資の経営に属していたものであったため、商業サービスを主として、街道、社区は一貫して介入は比較的少なく、それに加えて国際社会と香港・台湾などの地域との関係は非常に盛んであり、情報の流通も遮るものがなく、国家が情報を篩にかけて審査する前に、既に高度な警戒が進んでおり、主体的に組織の職員が「抗非」していた。たとえば、入室カードを自ら作製して勝手に入ってくるのを防ぎ、職員が交替で当直し、飲料水配達員や郵便配達員を応対するなどであり、もし出張に行く職員がいる場合は、強制的に自分で隔離しなければならなかった。このように、情報の流通がまだコントロールされておらず、参加のルートも規制を受けていなければ、民衆はみずから「抗非」を組織することは全く可能なのである。いったこれが可能になれば、社会はみずから組織する能力を発揮することができ、もはや国家の主導によって対応することなく、社区のなかの「国家・社会関係」は、双方が力を合わせて相互に強化される方向に向かい、単なる国家による支配に委ねることに終始することはなかったかもしれない。

 最後に、本文の最初に提示した「国強社弱」の命題に戻っておきたい。もし別の角度から観察すると、「国家」がもし「社会」と相互にかつ共同で発展するものであるとすると、住民の公共的な事務への秩序だった参加は、主体的に切迫した需要を反映したものであり、まさに政府の管理コストを低下させ、政府の施政の偏りをなくし、「善治」に向かう重要な鍵となるに違いない。しかし、こうしたガヴァナンスの方向は、上海の社区のレベルでは、現在のところ完全に開発・活用されていない。上海の「抗非」の経験によれば、力の強すぎる国家が、事実上「社会」の成長・発展を抑圧しているのである。

 先の文章で言及したオフィスビルの「抗非」の事例は、一つの典型的な例証となっている。まさに「国家」がまだ組織的な行動を展開していないとき、当のオフィスビルの職員は自発的に「抗非」を組織し、効果的に「非典」の侵入を防御していた。しかし逆にその身を社区において見てみると、同様の自発的な行動が欠けているために、国家が「行政動員」展開してから、既に絶好の感染防止のタイミングを失ってしまい、感染事例が生まれてしまうことになった。このように、社会がもし自発的に対応でき、同時に国家の計画が組み合わさることができれば、最も理想的な国家・社会の関係となることができる。もし、さらに考察を進めると、このオフィスビルが外資という背景を持っているために、SARS時期に香港と台湾の情報に接することができ、それに加えてそれ以前から社区組織の介入が少し存在して、ビルのなかの人間関係の相互行為は頻繁であったために、ずその場所の社区が自ら「抗非」の行動を組織することができたことがわかる。しかし残念なことに、この種の自発的な組織は居民委員会の動員と介入の後に、次第に弛緩して瓦解してしまった。この事例は、国家がもし社会の力が育成して秩序立てて公共事務に参加し、社会と手を携えて発展することができれば、公共の危機への対応により有利になることを、ほとんど明らかにしている。同時に、強力な国家の外に遊離して偶然に存在している「社会の自主的な空間」は、国家の強過ぎる指導と支援のために、かえってその自発的な活力を失わせてしまい、長期にわたって甘んじて弱い地位に置かれることになった。このような強弱の構造に対して、国家と社会が相互に強化され、手を携えた協力を促進することが出来るのだろうか。上述の分析によると、国家の強さの理由の重要な鍵は、社会がこれを強くさせている(あるいは少なくともその強さに任せている)ということ、つまり国家が強力であるかどうかの重要な鍵は、ほとんど社会にあるということである。このように我々は社会構造と組織を観察し、まさに国家が強力であるのかを確定できなければならない。我々はさらに、社会の構造と組織は深く国家の権力によって形作られているものであり、強すぎる支援の手が、かえって社会の自主的な空間を抑圧していることを明らかにした。同時に、国家、社会が相互に形作るプロセスの中から、我々は社区の力の育成や、住民の自主的な参加のルートが奨励されていることを見出すことができる。このように、国家の社区の自主空間に対する保護と、社区の自主的な組織の力に対する支援への依存は、まさに林尚立(2002)が示した「弁証法関係」にある。つまり、「国家が場を共有する」という背景の下で、ただ「国家/政党の推進する社区自治を通じてのみ、後者がはじめて発展の機会を実現することが出来る」のである。これは中国都市の基層の「国家-社会」関係に対する透徹した観察と言うべきであり、最もなされるべき提案でもある。中国では、社会は(もしくは社区)の育成は、やはり国家によって「馬に乗せて道案内をする(扶上马,送一程)」ことが出来なければならないのである。


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 2003年のSARS騒動を事例に、中国の国家・社会関係を分析した研究。耿曙はテキサス大学オースティン校の副教授。台湾の出身で、中台間の交流に関する研究が多い。http://www.guilainet.com/forum/thread-42908-1-1.html 胡玉松は復旦大学の社会学系の所属とあるが、大学教員なのか大学院生なのか詳細は不明。

 「社区」の概念は90年代から公式文書などでも使われていたが、それが急速に普及して日本の中国研究者にも頻繁に言及されるようなった切っ掛けは、胡錦濤体制が成立したばかりの頃に起こった2003年のSARS(非典)騒動であろう。
 
 この文章では、SARS騒動がメディアを通じた情報ルートの統制と、「社区」を通じた社会参加ルートの規制を国家が全面的に展開するようになり、中国における「強国家/弱社会」の構造が形成されている端緒となったと論じている。そして最後に、そうした国家の主導的な管理とコントロールを通じてこそ、中国における社区および社会の自主的な組織化の力が確立していくことが可能になることが主張されている。その後の胡錦濤体制の安定性を見ると、確かに説得力はある。

 しかし、この手の論文を読んでよく思うのは、国家が強いのか社会が強いのかを問題にするよりも、街道と居民委員会と社区の関係、党幹部と住民のなかの「積極分子」および「消極分子」と関係といった、権力(ここでは社会学的な意味での権力)のネットワークを立体的に描き出すことが先で、国家が強いのか社会が強いのか、というのはその後に問題にすべきではないかということにある。ただそれは、もともとの社会学の市民社会論や国家論自体の問題でもある。