史報

中国史・現代中国関係のブログ

民国疫史

2020-05-19 06:47:00 | Weblog
政研院「民国疫史: 死者の多数発生に抵抗する道」
http://dy.163.com/v2/article/detail/F3PM6QFI051988DC.html

 予防注射:近代医学の緩慢な漸進

 ペストは、中国近代史上において当たり前に見られた伝染病である。明清の時代から民国初年に至るまで、中国医の医師たちはペストを防止するために方法を考え抜いたが、治療の効果はいずれも満足できるものではなかった。大多数の民衆は、ペストは「不治の病」であり、天災であると考えていた。感染力が強い疫病として、臨床医は予防がわからなかったので、感染例は枚挙に遑がなかった。1943年に、福建省の邵武でペストが発生し、古い中国医は予防を注意せず、家を訪ねて看病し、結果として次々と感染し身を滅ぼした。感染が拡大した後期は、大多数の中国医は診察に出ることを拒み、ひどいものだと他の村に逃げてしまった。この県の古い中国医はペストの経験を「逃げることのできる者は逃げてしまい、逃げない者は自らを守った」と総括している。これは、逃げることのできない場合は、病人との接触を避けることを意味しており、これは中国医がペストなどの伝染病に対して無力であったことを示している。
当時の雲南の民衆は、ペストは「痒大老爹」が引き起こすと信じていた。それゆえ、女性の裸体をペストの死者の棺桶の中に運んで、「夫人が棺桶に運び出されると、痒大老爹は彼女を道連れにするのは申し訳ないという気持ちになり、死者を少なくすることができる」と考えた。疫病神の悪鬼を押さえ込むために、人々は次々と神霊の庇護を祈り求め、そのため感染地域では神賽会が頻繁に開かれた。雲南一帯の民衆は一度、「都天太子」を疫病の主として、ゆえに、大多数の県はすべて都天太子廟を設立し、疫病が流行するほど、都天太子廟も香火が盛んとなった。

 伝統的な中国医は、ペストなどの疫病への対応の点では明らかに立ち遅れていた。近代医学が治療するペストは、注射あるいは抗菌剤、ペストの血清を注射することであるが、こうしたペストを治療する特効薬は1920年代になってようやく発明されたものである。
 民国時期には感染症が頻繁に爆発し、近代医学の感染防止措置(応急予防接種)に次第に規則を形成させることになった。1919年、国民政府の中央防疫処が成立した後に、天然痘ワクチン、コレラワクチン、ジフテリア抗毒素など、次々と信頼できる産品を生み出し、いくつの省では応急の予防接種の需要を満たした。
 しかし、民国時期には、わが国は多くの辺境の省区では各自ばらばらで、加えて交通が不便で、防疫システムは統一を貫徹することが非常に難しい。1942年に、ペストが閩南で猛威を振るっていた時に、西洋医が治療するペストの常用薬品には既に「大健風」という錠剤や「百浪多息」という名の注射剤が存在していた。当時、非常に多くの人が既にこの二種類の薬が救世主と見られていた。しかしこれらの薬は驚くほど高く、一般の人は買うことができず、ペストの血清の価値は二両の黄金で、塩水一瓶は数十元、当時のフカヒレ宴席は30元だけであった。
1931年に、長江流域で大規模な水害が発生し、コレラ、天然痘、腸チフスなどが同時に流行し、南京国民政府は緊急の予防注射を展開した。最初、多くの民衆の第一の反応は逃避あるいは祈祷であり、多くの地方政府は強制的な注射の方法を採用せざるを得なかった。例えば、1932年に南昌でコレラが流行した時に、当地の政府は、公安局が憲兵に注射隊を引き連れさせて、道路の要衝で通行人を阻止して強制的に注射を行った。
 予防注射は、次第に国民政府が疫病を予防する主要な手段となった。毎年ほとんど戦争があった民国時期は、政府はまず政府の工作人員の確保が伝染病によって麻痺し、予防接種を非常に重視していた。
 
・・・・・・・・・・・

  民衆動員:生命を代価とした歴史的経験
 
  「中華民国19年、秋の歌が7月になってしまい、お金のためでも天気のためでもなく、ただ疫病のために天を(中华民国十九年,秋歌闹到七月天,不为银子不为天,只为瘟疫带上天)」。これはかつて流行した陝北の民謡である。1930年に、陝北のペストは、この場所の民衆に心に深く突き刺さる記憶を残した。
 正確な疫病の認識さえあれば、それが荒れ狂って襲来していた時に、はじめて科学な方法を選択して感染拡大を阻止することができる。このように、宣伝と動員は、非常に大きな重要性を持っている。1918年、山西省のペスト対策で、山西省の防疫総局は防疫の宣伝を非常に重視し、宣伝の方法はわかりやさに努めた。
 閻錫山は山西省の防疫総局に「督軍の村長・副村長への貿易の告諭」「督軍の人民への防疫の警告」の二つの告知文を布告させた、それぞれ20万部余りで、農村に送り、疫病の蔓延を抑制する効果は非常に大きかった。「督軍の村長・副村長への防疫の告諭」では、閻錫山は副村長にビラを村人に配布し、説明して理解させること、さらに民衆が簡単に見ることのできる場所に張り出し、村人にしばらくの間は外出で出歩かないこと、そして村中に石灰を備蓄して、いつでも消毒に使えるようにすることを告知するように求めた。
 
 今回の感染拡大において宣伝は明らかに強力な役割を生み出し、民衆動員の最初のモデルとなり、感染防止のための参考となるサンプルを提供した。
 1932年に、江西省の南昌でコレラ が流行したが、「住民の大多数はいきさつが分からず、いつも通りのこととみなした」と。住民の自覚を促すために、「文字の分かるものと分からない者にコレラの危険を……感染の速さおよび予防の方法、診療の方法を知らせ」た。江西臨時防疫委員会は当時のあらゆる可能な宣伝と動員の方法を動員した。例えば、スローガンの広告(絵画と文字)、ビラの配布(わかりやすく、明確で、詳しく、現実的)、新聞の助けを借りて感染拡大防止の特集欄を設ける、注射の職員による随時の宣伝と忠告、銅鑼や呼びかけなど。
 当時の宣伝のスローガンには、既に現代の感染拡大防止の意識が現れていた。例えば、コレラ、腸チフス、赤痢などは、夏に容易に発生する病気であること、生水を飲まず、喉が乾いたら必ずお湯を沸かすこと、冷たい生ものを食べず、すべての食べ物は必ず加熱し、熱いうちに食べること、早く予防注射を打つこと。分かり易い文章で、民衆にコレラ などの感染症の感染源と、感染拡大の経路および簡単な予防の方法を理解させた。1932年に、南京のコレラ感染防止の宣伝の中で、新聞、映画、ラジオなどの手段の他に、衛生署はさらに航空書に頼んで飛行機を数機派遣し、南京城内外をめぐって防疫のビラを配布した。

 疫病が次々と起こり、中国全土に広がった民国において、国民政府はさらに次第に手続き化された宣伝と動員の仕組みを形成した。広大な民衆はこうして疫病に対して理解を得るようになり、主体的に感染予防を受けるという積極性が大きく高まった。1940年つまり民国29年に、一回の平民である河南人の周魯厳が蒋介石に上書し、国民中央政府の重視を引き起こしたが、原因の大抵は周魯厳の提案が指摘した重要な仕事である。周魯厳によると、「大乱の後は、必ず凶年があります。いわゆる凶年は、もとより原因は一つではありませんが、疫はその第一のものであります。こんどの戦争により、来るべき大疫は必ず熱血病であると思われます」。このため、彼は国民政府が河南省政府に「收取鲜地黄榨汁装瓶以备将来热血瘟疫之用」を命じることを提案した。
 民国初期は、社会処が伝統から近代へと変遷する転換の時期において、感染拡大防止の制度は未成熟であり、政治の不確定要素は政府の統合能力の低さや社会的動員の不徹底や、感染拡大防止のプロセスにおける「民情が防疫を敵視する」こと、さらには至る所で流血の衝突をもたらし、感染拡大防止の実績・効果を大きく引き下げることになった。
 しかし、感染災害の頻繁な発生は、民国政府に死亡の陰影の下に、多くの感染防止の貴重な経験を蓄積し、交通を遮断して厳格な隔離を実行し、民衆を動員して感染拡大防止を行い、今日に至るまで踏襲されている。これらの通常のものと考えられるように見える感染拡大防止の手段は、確実に無数の人の生命によるものと総括することできる。

分餐制は決して「舶来品」ではない

2020-04-24 14:28:06 | Weblog
「分餐制は決して『舶来品』ではない」
新华网 http://www.xinhuanet.com/politics/2020-04/04/c_1125814471.htm

 新型コロナ肺炎の感染拡大の期間、分餐制が再び公衆の視野に入り込み、人々の間で議論の的となっている。分餐制は西洋由来の「舶来品」であると言う人もいるが、資料によれば、分餐制はわが国の昔から存在してきたものである。歴史の大きな流れを経て、わが国はいかにして分餐から合餐へと向かったのだろうか?
 その実、われわれが常に使用している「筵席」(宴会の席)という言葉は、もともと分餐の意味を含んでいた。史料の記載によれば、「筵」と「席」は全て古代の宴会の時の地上の座具であり、昔の人の食事で「席」を用いて座る習慣があり、目の前に低い食卓を置いて、筵と席は一人ずつ設けられ、みんながそれぞれ分かれて食事をして。
 中国古代の飲食方法の変化は、高いテーブルと大きな椅子の出現と密接不可分である。記載によると、唐宋時期に、高いテーブルと大きな椅子は一般的に民衆の生活の中に適用されはじめ、絶対多数の中国人は席に座る方法を放棄し、座り方の変化が完成した。これも、中国の飲食方法の分餐から合餐への転換に直接影響与えた。

 アジア食学論壇主席の趙栄光は次のように語る。「中国には昔から分餐制が存在していて、これまで絶えたことはありません。例えば今のカクテルパーティ(鳩尾酒会)や、バイキング形式など、「一人食」などは、全て分餐の形式の体現です。ただ、合餐が主流になるにしたがって、分餐が古代のように一般的ではなくなっているに過ぎません」。
 趙栄光は、分餐制と似たものとして、中国史上で「双筷制」による食事が流行していたことを紹介している。まず、一つの箸や匙を用いて、食べたい料理を自分の碗や皿に取り分け、さらにもう一つの箸と匙を用いて食事をする。「早くも宋の高宗時期には、二つの箸で食べる形式が出現していました。100年ほど前、中国現代医学の先駆者である伍連徳がペストと闘っている時にも、双筷制で食事をとる方法を真剣に検討していたことがあります。」趙栄光によると、その他の様々な食事の方法と比べて、双筷制は中国料理という芸術品の鑑賞と中華の食卓マナーの感受性により適っており、箸を使用することでより文化的に優雅なると考えていたという。
 
  趙栄光によると、「中国料理のメニューの中には、魚の煮付け(清蒸鱼)など分餐の形式に合わないものもあります。分餐は魚全体の皿の美観を損ねてしまうので、双筷による食事方法により適しています」という。
 2003年のSARSの期間は、分餐制と双筷制が再び提起された。合餐が様々な疾病の拡大をもたらした可能性があるということで、関連する業界や公益組織などは分餐制と双筷制の提唱に力を入れた。しかし社会認知度の不足と、住民の長い間形成されてきた合餐の習慣で改革することが難しいなどの原因のために、分餐制と双筷制を効果的に広めることが全くできなかった。

 食卓は中国人にとって、食事する場所というだけではなく、様々な社会関係と人情の礼儀と密接に関係している。中国人は食事には非常にこだわりが強く、圧倒的多数の家庭にとって、合餐は団欒、幸福を象徴しており、お互いの間の感情の交流に有利である。このように、多くの人は分餐制が隔たりの感覚をもたらし食事の雰囲気を壊してしまうと考えている。
 中国飯店協会会長韓明は次のように語っている。「実際は、『分』と『合』の間は絶対的に矛盾するものでは全くありません。私たちも共用の箸と匙を置くことや、双筷などの形式で食事ができます。和気藹々の雰囲気にも影響しないだけではなく、食事用具を通じて病気の拡大を避けることもできますし、より健康な文明の食卓の習慣をもたらします。」

1917ー1918年のペストと北洋政府の対応——『大公報』を中心とした検討

2020-04-13 06:59:16 | Weblog
「1917—1918年鼠疫与北洋政府的応対 ——以《大公報》為中心探讨」
鳳凰網https://history.ifeng.com/c/7u3pfZhYfEi

 1917年から1918年のペストは、民国で最初の大規模なペストであった。ペストは綏遠、山西で爆発し、華北および長江流域に波及し、中国全土の半分に広がった。被災地域には甚大な人員の死傷と経済損失をもたらした。北洋政府が防疫機関を設立し、防疫法規を公布し、社会力量を動員し、様々な積極的な対応を採った。感染症との闘いに勝利を獲得したと同時に、様々な問題も明るみにした。
 現在について言えば、国内の清末、民国時期の防疫史の研究は、依然として相対的に薄弱である。とくに、最初の感染症の事例に対する考察はあまり多く見られない。大多数の学者は、清末民国期のペストの研究は、主に1910年から1911年の東北地方の大ペストに集中している。しかし、6年を隔てた後の1917年から1918年のペストは、関心を持つものは比較的少なく、研究成果も限られている。現在の学界はこのペストに対して考察しているものの、その重点はほとんど北洋政府の対応に置かれていた。しかしこれまで、此の問題を当時の主要な新聞を中心に利用して行った研究は見られない。本稿は、先人の研究成果の基礎の上に、民国時期で最も影響力のあった新聞の一つである『大公報』の大量の報道を利用して、1917−1918年のペストの流行状況および政府の対応に対する簡単な検討を行いたい。

 ・・・・・・・・・・

3 不足と欠陥

 民国政府は今回の突然の大規模感染を攻撃する積極的な対応において、多くの有効な措置を採用したが、依然として多くの不足と結果を露わにした。まとめて言えば、主に以下の二つの点がある。

(1)転換期における民国政府の社会統制能力の不足
 民国初期の社会転換は政治的統治が相対的に脆弱な時期にあり、国家の地方に対する統制は調整とすり合わせの段階にあった。中央政府の地方政府に対する統制力の低下は、防疫のプロセスで、次々と現れた民衆と防疫医師の衝突に集中的に表れている。
 例えば、主に防疫を担っていた医官である伍連徳がペスト患者の死体を解剖する時に、思いがけず、その土地の住民による殴打に遭遇した。「聞くところによると、豊鎮で二人がペストに感染して命を落とし、伍連徳医官は死者の死骸を解剖して、感染した原因およびその情況が今後どうなるかを見るために、死者の家族の同意を得ようとした。部屋を閉め切って解剖するという話に、地方の人民は非常に震撼して、大勢の人が集まって騒動を起こし、伍医官は殴打されて北京に帰る準備をはじめた。しかし政府は防疫の事業が重大であり、一帯を調査して防疫事業に赴かせた。回想録の中で、伍医官は自らが防疫のプロセスの中で遭遇したもう一つの攻撃に触れている。「この感染症の調査で内モンゴルから伯斯波つまり綏遠、山西省大同などを経てこの場所に来て、私はアメリカの教会の医師二人と山西省豊鎮に防疫総処を計画したが、不幸にも地方長官と住民が反対し、私らが乗っていた専用車両が彼らに囲まれ燃やされて、非常に危険であった」(伍连德自述回忆《得之于人用之于人》,收录于《成功之路——现代名人自述》,良友出版社,1931年)。
 中国の医師だけではなく、外国籍の防疫人員もその土地の住民の攻撃に遭遇し、流血事件をもたらすこともあった。「天鎮県は僻居边外、風気閉塞、最近防疫の事が起こって以来、この場所の人民が不満を募らせることを防ぐことができなかった。数日前、大同の教会のアメリカ医師がこの県で感染症の情勢の検査を行った。この県の人民は大勢集まって抵抗し、入城を許さなかった。アメリカの医師は銃を手にして反撃し、2人が死亡して1人が負傷した。人民の激昂は非常にすさまじいものだった(《本埠纪闻·防疫事宜之汇志》,《大公报》1918年3月2日)。
 一般の平民との衝突だけではなく、防疫活動の中でそうした防疫の措置が直接的に商人の利益の脅威となり、医師と商人の間にも衝突が発生した。「張家口旅店内で梅毒にかかって病死し、西洋の医師がこれはペストだと指摘し、店の建物を焼き払おうとした。この土地の商人はそれを許さず、そして都統はその言葉を聞かないという態度を示し、市全体をボイコットしようとした」。
 こうした衝突の過程の中で、中国の地方官は往々にして対処することができなかった。こうした衝突に直面して、地方の役人はしばしば拱手傍観し、役人の中には、民衆が防疫の医師に反抗することを容認する者もいた。これに対して、西洋の新聞は非常に多くの報道を行い、「外国および外国留学経験のある医師が山西省に赴いたが……山西省内に入った者は歓迎されないだけではなく、この地の人民から憎まれて生命の危機にさらされた。軍隊や警察は長官の意志を承けて、実際には医師を支援せず、また意図的に人民の行動を容認していた。先週5日、豊鎮に駐在していた医師4人が、彼らの滞在が徒らに人民を激怒させていること、軍隊は役に立っていないだけではなく危険であること、それゆえ彼らは現在監獄の中に身を置いているだけではなく、何の役に立たないまま北京にも帰れないことを電報で伝えた」。
 地方の役人のなかには公然と中央政府の命令を無視し、衝突事件の対処についても我関せずであった。「医師たちが豊鎮で受けた敵対的な待遇は、既にイギリス、アメリカ、フランス各国の公使が厳しい言葉で抗議しており、しかるに私がまだ疑問のところは、総統が直隷北部や山西の各軍官の権力を支配できているかどうかである。今日まで、これらの軍官は総統の疫病予防の命令に対して放置するだけだった。頼りなる軍隊を綏遠の沿路一帯に派遣しなければ、これらの野蛮で残忍な官吏に強引に分からせることができない。」
 見識のある地方の役人の中にも中央政府に電報を打って、中央政府が地方の役人と防疫の医師を協力させ、民衆にはっきり理解させるように厳しく命じることを要求する者もいた。・・・・・・・・
 こうした対抗は、たとえ文化的な落差や感情の隔たりがもたらす、現代の防疫と中国の郷土の間の衝突によるものが混じっているとは言え、他方では、社会の転換期における、中央政府の地方に対する統制力の低下を説明するものである。命令を効果的に行って、地方官吏が防疫医師の活動と密接に協力するように指導できなかっただけではなく、立ち後れた中国民衆に対して、正確かつ迅速に防疫の医者の科学的な行為を説明することや、地方の民衆と積極的に協力することができず、かえって次から次へと民衆と防疫人員の対抗と衝突事件を招いて、防疫対策の成功を深刻に阻害し、感染状況の過程を長期化させた。

(2)対応の水準の限界のために「治療」ではなく「隔離」となった
 国民政府はペストに対応する方法は主に隔離の実行をめぐるものであり、ペストの拡散を防止することが主要な目標であった。感染の発生点が確認されるとただちにに封鎖された。民衆について言えば、財産の損失に遭遇しただけではなく、死亡する可能性が高いことを意味していた。例えば感染が通州に到達し、官荘薬王病内の……感染した労働者二人の検査がペストであった。医官は二人に白い布を用いて口を隠し、それが仲間に伝染しないようにした。仕事をしていた80人余りとこの廟の僧侶はすべて廟の中に閉じ込めて外出を許さなかった。さらに建物の壁に一つの小さな門を開けて、警察隊4人が体に弾薬を巻き付けて、逃げないようにした。患者の生死は自然に任せた。
 事実上、こうした政府の隔離して治療しない「残酷」な方法は、医学の有限性で決定されたものであった。当時、ペストのワクチン注射の反応は強烈で結果は不確実なものであった。ペストを治療する抗生物質……は1930年代にようやく発明された。技術的な角度から言えば、医学はまだ明確かつ迅速および有効な治療がまだできなかった。このように、政府も小さな部分の人を犠牲にして疫病流行の拡大を防止することしかできなかった。こうした単純で乱暴かつ冷酷無情な方法は、伝統社会における優しさがあふれた救済・治療の原則と比べると、民衆の理解の難しさの点で落差をもたらした。民衆と政府との良性互動の欠如を引き起したことは、防疫の効果を制限してしまった。


税収、レントと統治――理論と検証

2012-07-15 20:55:33 | Weblog

馬駿・温明月「税収、レントと統治――理論と検証」
马骏 温明月、《税收、租金与治理:理论与检验》、《社会学研究》2012年第2期
http://www.sociology2010.cass.cn/news/504087.htm

 
・・・・・・・・・

1 収入の吸収、統治モデルと統治の質量

 財政社会学は1910年代末の、ゴルトシャイトとシュンペーターとの間の租税国家に関する論争に起源がある。「一次大戦」後期のオーストリアの財政崩壊を目の当たりにした後の1917年、オーストリア社会主義の学者ゴルトシャイトは(Goldscheid 1917)、ヨーロッパが18世紀以来築き上げてきた租税国家が深刻な財政危機に直面していると考え、そして「財産を国家に返還」して公共企業によって財政収入を提供するという財政システムの構築を主張した。1918年にシュンペーターは『租税国家の危機』という一文を発表し、ゴルトシャイトの観点に対して応答を行っている。シュンペーターも、租税国家が直面する挑戦に注意を向けていたが、彼は租税国家が瓦解しつつあるとは決して考えず、同時に公有企業の効率性に対して疑問を提示している。しかしこの論争の中で、二人の学者とも財政社会学という分野をし、公共部門の財政状況およびその社会と政治に与える影響を研究することを呼びかけることになった。しかし、財政社会学が真に重視されるになったのはようやく1970年代になってからで、そして最近はいわゆる新財政社会学というものが発展している(Martin, Mehrotra & Prasad 2009)。財政社会学に関しては、異なる二種類の理解が存在している。その一つは(たとえばCampbell 1993)、財政社会学は「税収と公共財政に関する社会学分析」と見るものであるが、もう一つは(たとえばゴルトシャイトおよびシュンペーターなど)、財政社会学は一種の新しい「マクロな歴史モデル」という、単に一つの理論をというだけではない、社会を観察・理解するための方法の発展に尽力するものである。本文が採用するのは、後者の意味における財政社会学である。
 財政社会学の観察の角度から見ると、国家財政の国家と社会に対する進化には、決定的な影響があり、財政システムは社会と政治の変動を理解する重要な鍵であり、それは社会変動の重要な指標と源泉である(Schumpeter 1918)。財政社会学の分析枠組みのなかで、「財政国家」は一つの非常に基本的な概念である。財政国家は、国家財政の収入の最も主要な源泉に基づいて、国家に対する分類を行っている(Tarschys 1988, Moore 2004)。財政国家が異なれば、国家の吸収する財政収入の方法も異なり、国家と社会の関係も異なっていき、国家の統治モデルも異なる特徴を備えるようになり、そこから異なる統治水準が現出するようになる。財政国家の転換が意味している国家と社会の関係の再編は、最終的に政治と社会の変化を導くものである。20世紀以来の財政国家には主に、租税国家、自給自足国家およびレンティア国家(租金国家rentier state)という三つの類型がある(Schumpeter 1918, Tarschys 1988)。自給自足国家は主に計画経済体制を実行しているような国家を指すものであり、こうした国家においては、広範な国家所有制が国家の財政収入が国有企業が上納する利益を主要な財源とすることを可能にしている(Campbell 1996)。レンティア国家は、主に国家の独占する自然資源の輸出に依拠してレントの収入を得ているような国家である(Moore 2004)。財政社会学には一貫して、「真の租税国家がこそが高い質をもった国家の統治を形成することができる」という理論的な仮説が背後に存在している。最近、ムーア教授は最初にこの仮説を明確に総括し、そして簡単な形でその間の因果関係を述べている(Moore 2004,2008)。
 財政の変化の政治的な影響に関しては、財政社会学は事実、三つのバージョンの「物語」や理論的モデルを有している。初期の財政社会学は、西洋国家の国家建設の経験に基づく「徴税-代議制モデル」の理論と称することができるもので総括される。そして、1970年代以来の発展途上国の国家建設の経験および、社会主義から転換した国家の90年代以来の国家建設の経験に基づいて、財政社会学は「レンティア国家自律性モデル」と「税収の駆け引き-政治民主モデル」とそれぞれ称することのできる、二つの新しい理論に総括されている(马骏 2011)。この三つの理論は、直接あるいは間接的にこの理論的な仮説を述べている。この三つの理論に基づいて、異なる財政国家において、その国家と社会の関係が異なり、国家の社会的に対する依存の程度や国家の自律性も異なる。租税国家においては、国家の社会に対する依存の程度は比較的高く、国家の自律性は比較的低いが、レンティア国家と自給自足国家はその逆である。これは異なる国家と社会との相互作用の関係をもたらし、さらに統治モデルと統治の質量に対して異なる影響を生み出している(Moore,2004,2008;马骏,2011)。
 「徴税-代議制モデル」は、財政社会学の最も早い理論であり、最も流行した理論でもある。それはヨーロッパの国家の国家建設の経験の中から出てきたものである。ヨーロッパの領域国家の時期において、統治者は自らの領地収入に依存して生存していたため、一方では国家財政の社会に対する依存は比較的小さく、他方では国家財政の社会的に影響も限られていた。ヨーロッパ国家が近現代の時期(1400-1800)に租税国家に転換するにしたがって、国家と社会の相互作用はますます密で深いものになり始め、租税が国家と社会の相互作用の最も重要な結び目となった。最も重要な鍵は、租税国家では国家が変わってますます民間部門に依存するようになったことである。こうした状況の下で、民間部門が納付する税収を獲得するために、国家は民間部門と駆け引きの交渉し、そして政治的には社会に対して譲歩せざるを得なくなった。同時に租税国家においては、国民(公民)も比較的解体政治参加の動機を有している。これはヨーロッパの国家にその財政制度と政治制度の再建を迫るものであり、最終的に立憲民主主義的な制度を構築することになった。(Schumpeter 1918;Musgrave,1980;Moore,2004,2008)著名な財政学者であるマスグレイヴが総括しているように、「税収は近代の民主主義制度が登場する前提条件」なのである。そのほかに、国家の統治の正当性と納税者の「自発性による服従」(Levi, 1988)を促成するために、国家は「税収をサービスに換える」ことを選択せざるを得ず、納税者に公共サービスを提供することを通じて、国家の租税政策に対する服従を引き換えにし、立憲民主主義と行政統治によって、こうした同意の信頼性を確保していくわけである。このように、徴税は国家の国民の要求に対する応答可能性を高め、国家に国民に対して責任を負わせるように変えていくものである。
最後に、レントと利潤の吸収と比較して言えば、徴税はコストの高い行政活動である。税を吸収していくために、国家はさらに理性的な徴税官僚組織を構築して納税者に対して監督を行わなければならないし、同時に徴税官僚に努力して仕事をするように激励して、彼らに対して効果的な監督を行ってエージェンシーコスト(代理成本)を低下させる必要がある。事実、各国の行政の合理化の展開が最も早いのは徴税の領域においてであり、その後に次第に他の領域に拡張していったのである。以上のように、徴税は一方では国家の統治の民主化を十分に促進し、政治の説明責任(问责)を高ることを十分に可能にし、他方では合理化の水準を引き上げ、最終的に国家の統治の質量を高めていくを可能にしているのである(Moore 2004,2008)。
 もし租税国家の国家建設の経験が、徴税がいかにして統治の質量を高間えるのかを真正面から直接的に分析するものであるとすると、レンティア国家の国家建設の経験は、一つの反対例を提供するものであり、さらには間接的に「租税国家こそがよい統治を実現することができる」という仮説を支持するものである。「レンティア-国家の自律性モデル」は1970年代以来の発展途上国における国家建設の経験の総括に基づいて登場したものである。この時期には、もともと貧しかった発展途上国が租税国家からレンティア国家へと転換しはじめていた。そのなかで最も重要なのは、資源によるレントである。国際市場において特別な価値を有する自然資源をコントロールしていることによって、これらの国家はこうした資源を売ることでレント収入を得ているのである。時期が異なると、歴史上においてかつて鉱物資源、ダイヤモンド、木材などであったように、レントの資源が異なることもある。しかし、20世紀で最も主要な自然資源は石油であり、各石油輸出国の財政収入はすべて国家の独占する石油の貿易が形成するレント収入である(Moore 2004)。レントは「不労所得」(unearned income)であるために、レンティア国家は領土国家や租税国家のように政治的あるいは組織的に非常に大きな努力をはらって財政収入を獲得・充足させる必要がない。このことは、こうした国家の国家建設に対して大きな影響を生み出している。その中のいくつかの国家は、20世紀初頭に代議制と選挙制度の設立などの近代国家の建設を始めているが、レンティア国家へ転換するに従って、国家建設の道には根本的な逆転が発生した。レンティア国家においては、裕福な資源によるレントが国家の国民(公民)あるいは社会に対する依存を大きく低下させ、国家の自律性も非常に高い。財政収入は主に個人の富に直接影響を与える直接税(つまり個人所得税)ではないため、レンティア国家の人民もこれによって政治参加の動機を形成することが不可能になるわけである。レント収入の源は比較的集中して完全に国家の手中にコントロールされているため、その収支は税収に比べて言うと比較的容易に隠蔽され、さらに議会の監督の目を逃れやすい。最後に、レント収入は租税収入に比べて比較的聴衆が容易であると言えるので、レンティア国家は効率的な公共の官僚機構を構築する動機も比較的弱い。その結果、レンティア国家の統治の質量は一般的にあまり高くなく、その中でいくつかの国家はさらに腐敗した統治と一緒になって連携してしまっている(Moore,2004,2008)。

 「税収の駆け引き-政治民主モデル」は、転換期の国家の経験を総括して登場したものである。それは一方では、租税国家が統治の質量を高めるという仮説を支持するものであるが、他方では我々がさらに深く租税国家建設の複雑さを理解させるものである。1990年代から、旧ソ連や東欧国家は計画経済から市場経済へと転換し始めた。経済転換のはじめは、これらの国家ではすべて巨大な財政赤字や程度の違いはあれ財政危機が出現していた。財政社会学の角度から見ると、赤字が出現する根本的な原因は、こうした国家が極めて深いレベルの財政国家の転換――元々の権威主義的な自給自足国家から民主的な租税国家への転換――を経験している最中にあるからであって、経済学者が言うように短期のマクロ経済のパフォーマンスが低下していた結果であって、経済が好転すれば危機はたちまち解決するというものではない(Campbell 1996)。しかし、転換期の国家がすべて租税国家への転換にむかっているとしても、収入と基礎と政治の状況が異なるために、転換のプロセスのなかで、異なる国家が異なる税収の駆け引きのモデルを形成し、その上でさらに異なる国家建設のルートを歩んでいくことになる。たとえばポーランドでは、国家の収入の基礎は主に民間の小企業と個人の収入である。これが意味する国家の社会に対する依存度の相対的な高さは、政治的には衝突が存在しているとしても、経済と政治の改革の上で社会の各階層のエリートたちが、共通認識を形成することを充分に可能するものである。ロシアでは、一方では民間の小企業が発達せず、国家は主に自らのコントロールする輸出などの高額な利潤部門から財政収入を吸収しているが、これが意味しているのは国家の社会に対する依存度が相対的に低いことである。そして他方では、国家建設はずっと持続的に両極化したエリート内部の衝突が展開されている。収入の基礎と政治状況の違いは、この二つの国家の税収政策の制定の面でことなる収入の駆け引きのモデルを形成した。ポーランドは税収の衝突のプロセスの中で、次第に「納税者に同意を求める」方法を形成し、それらの利益が影響を受ける社会集団に自分たちの意見を表現させていった。この種の抗議の政治を「吸収していく制度」へのスムーズに進ませるやり方が、ポーランドの民主主義の基礎を固めた。同時に、相対的に分散している納税者集団の国家の租税政策に対する服従を獲得し、ポーランド政府が積極的に国家の社会的に利益の応答可能性を強化し、国民に対する政府の説明責任の程度を高めていった。ロシアでは、新しい税制は主に利潤が非常に高い輸出部門と経済的に最も効率的な地域に対するものであったことが、こうした領域内でのエリートの抵抗を引き起こし、後者は自らこうした価値の小さくない資産に対して権利があるべきだと考えた。そこでロシアで、最終的に発展した税収の衝突を解決する方法は、「エリートの駆け引き」戦略――租税政策が国家とエリートたちとの個別の駆け引き――が形成され、そのなかでは特別な優遇策で満たされることになった。国家がこれらの利潤が高度に集中する部門をコントロールしているために、それによって労働組合やその他の政党との駆け引きを行う必要がなく、国民の要求への応答を通じて税収を獲得する必要もなかった。国家と各経済エリートの間の短期的な協力が瓦解した時は、たとえばプーチン政権後半の寡頭経済に対する宣戦布告のように、国家は「強制」の手段を用いて税制収入を徴収することがある(Easter 2008)。
 以上のように、両国はいずれも租税国家へ転換しつつあるが、租税の領域では異なる収入の駆け引きのモデルが形成されているため、ロシアとポーランドの国家建設は特に政治民主化のプロセスの中で出現している異なる特徴である。比較して言うと、ポーランドの租税国家への転換はより徹底したものであり、一層真の租税国家に相応しくなっているが、ロシアは一定程度においてレンティア国家の色彩をいくつか帯びている。このことは、両国の国家と社会の相互作用の形式に違いをもたらし、最終的に民主政治の発展の軌道にも違いをもたらし、統治の質量にも差異を出現させているのである。

2 モデルの構築と研究方法
 
 租税国家と統治の質量に対するこうした仮説は、財政社会学と比較政治学のなかに既にある、いくつかの歴史研究と事例研究が直接的・間接的に経験的な支持を提供している。人々によく知られている、ヨーロッパ国家の近現代の時期の国家建設に関する歴史研究のほかは、近年、比較政治学はレンティア国家に対する「資源に呪われた(resource curse)」現象の研究が、この仮説を間接的に支持している。たとえば、チャウドリーは(Chaudhry,1997)サウジアラビアとイエメンの国家建設の経験を研究した結果として、両国は1918年後に租税国家への転換し、近代国家建設の道を歩み始めたものの、両国が1970年代にレンティア国家に転換していくに伴って、その国家建設は帰って停滞を見せ始めたことを明らかにしている。第一に、両国の徴税官僚機構が衰退し始め、さらに政府全体の管理の官僚化プロセスおよびそれと連繋した合理化の水準が停滞を見せ始めた。その次に、国家の社会に対する浸透能力が下降しはじめた。カールは、石油輸出国に対する研究で、これらの資源の豊富な国家は、財政収入が非常に容易に獲得できるため、これによって国家の統治の重心がすべて分配政治へと転移してしまい、財政の説明責任のメカニズムが構築されたち、国家が社会に対して浸透して社会関係を調節する能力を高めるということがなかった。その結果として、一見したところの非常に強大な国家が常に資源利潤保有者(寻租者rent seeker)によって包囲され、国家は有効な政策を実施することが非常に難しくなる。イースターは、ポーランドとロシアに関する事例研究も、直接的(ポーランドの例)あるいは間接的(ロシアの例)にこの仮説を支持している(Easter,2008)。疑問の余地がないのは、こうした歴史と事例の研究は全て我々のすべて我々のよりよい国家の収入の吸収のモデルの統治の質量に対する影響を理解する助けになることである。事実、まさにこうした研究の基礎の上に、ムーアははじめてこの仮説を明確に製錬することが出来たのである(Moore,2004,2008)。
 しかし、こうした比較的広大かつ非常に重要な理論的に仮説について言えば、歴史と事例による研究は依然としたその有効性を信頼させるに十分ではない。これが意味しているのは、この仮説が成立するかどうかは、さらに系統的な経験的研究を必要とすることであり、各国にまたがる大型のパネル調査データを構築して統計的な検証を行うことが必要である。統治の質量に関しては、1996年以来、世界銀行は各国の統治水準に関して計測を行っている。同時に、国際通貨基金(IMF)が毎年出版している『政府財政統計』は各国の政府の収支の情報を公開している。しかし、統計的な検証について言えば、この二つのデータによってだけでは系統的で一貫性のある良好なデータを構築することはできない。統治の変数でも、財政収入の変数でも大量の欠損データが存在している。同時に、国際通貨基金の財政収入データは租税とレント収入とを分けて理解することができない。これが意味しているのは、我々はこれによって一つの絶大部分を包括する国家の各国データを構築することができないことである。しかし、「アフリカ経済の展望」の項目は、アフリカの国家に関する非常に系統的かつレントと租税の収入との分解を行って財政収入の情報を提供している。世界銀行の統治データと「アフリカ経済の展望」の財政収入データを総合的に運用することで、本稿はアフリカ国家に関するデータを構築し、そしてこれをもといって税制収入の調達のモデルをの統治の質量に対する影響を検証するものである。本項の研究目的について言えば、このデータは明確に優れている点がある。まず、異なる類型の財政国家の統治の質量を比較を通じてこそ、我々ははじめて税制収入の調達モデルの統治の質量に対する影響を認識することができる、ということである。この点で、アフリカの国家はまさにこの標準にぴったりなのである。その次に、多くの人が通常理解しているのとは異なり、既存のアフリカ国家の統治水準は決して滅茶苦茶なわけではない。これが意味しているのは、変数自身に存在している十分な変化である。
 本校が検証しようとしている理論的な仮説は、ある国家の租税国家の特徴が強まるほど、その統治の質量も高まるということである。逆に、租税国家の特徴が弱まるほど、あるいはレンティア国家の特徴が強まるほど、その統治の質量は低くなることである。当然、一つの国家の統治の質量に影響する要因は非常に多く、財政収入の調達方法はその中の一つに過ぎない。言い換えれば、そのほかの要因、たとえば公共部門の人的資本の質量と公務員制度(Haque & Azziz,1998)、政治の説明責任のメカニズム、政治的民主化の程度ないしは信頼、公民精神あるいは美徳を基礎とする社会文化の雰囲気などなども(Adserà et al.,
2000を参照)、国家の統治の質量に影響している。しかし本稿の研究目的は、租税国家と当地の質量とこうした仮説を検証することであって、系統的に統治の質量の様々な要素を検証することではない。
 このように、統計検証のプロセスでは、我々は二つの制御変数――経済発展の水準と政治民主化の程度――を選択しているに過ぎない。経済発展の水準と当地の質量の間の関係は、現在の研究でも論争がある。大部分の研究者は、良い統治は経済と社会の発展の水準に対して正の貢献があると考えている(Kaufman & Kraay,2002;Bloom et al,2004;Olsonet al.,2000)。非常に大きな程度において、世界銀行などの国際機関が統治の研究およびその測定に力を尽くしている理由は、こうした信念の推進と密接な関係がある。しかし、政治学者のカーツと社会学者のシュランクは、世界銀行の統治指標の体系的な合理性に疑問を呈し、カウフマンとクレイの統治の経済発展に関する結論、特にその中に含まれる政策上の含意に疑問を呈している(Kurtz & Schrank,2007a,2007b;同时参见Kaufman et al.,2007)。そのほかの研究者は、経済成長が国家により多くの資源によって制度の建設を行わせ、制度の効率性を高めさせ、さらには統治の質量を高めることになったと考えている(たとえばChong & Calderon,2000)。我々は、ある国家の経済発展の段階と結合してこそ、はじめて経済発展の水準と当地の質量に対する影響を理解することができると考えている。経済発展の比較的低い段階では、経済発展の水準の統治質量に対して正の影響が存在している。これは主に、経済成長が公共部門が管理体制を改善し、そして公共サービスを提供するための不可欠な資源を提供するためである。我々の研究するアフリカの国家は一般的に経済水準が比較的低い段階にあり、このため我々の仮説は経済発展の水準が統治の質量に対して正の影響が存在するというものである。別の制御変数は、民主化の程度である。この方面では、学術界は基本的に一致を見ており、つまり政治の民主化の程度が高いほど、政治家は公民の要求の圧力を満たす動機も強くなる。本稿はこのように、政治的な民主化の程度の統治の質量に対する影響が正であるという仮説に立っている。・・・・・

 仮説2:ある国家が財政国家の類型において租税国家に向かうほど、租税国家の特徴はより強まり、その統治の質量もより高まる。

 ・・・・・・・・・・・・

3 アフリカ国家の統治の質量と財政収入

 ・・・・・・・

4 統計の検証

 ・・・・・・・・

5 結論と討論

 本稿の研究で明らかにしたのは、財政社会学租税国家のみがより統治を実現することができるという仮説が成立することであった。少なくとも、アフリカの国家のデータの仮説は、この理論的な仮説を支持している。ムーア教授が指摘しているように、もしこの理論が正確であるとすると、そのように財政収入のシステムの改革を通じて、統治の質量が非常に劣ったあるいは依然として非常に大きく空間を広げる国家が、良好な統治を実現することができるのである。発展途上の国家の統治の質量を改善するためには、こうした国家が主に租税に依拠して財政収入を調達し、真の租税国家へと向かうことを奨励すべきであり、たとえばレント収入のように容易に獲得できるような、あるいは政治的および行政的に大した努力を必要とせず獲得できるように財政収入に、大きく依存しないことである。
 租税国家では、国家は主に民間部門(民間の企業と家庭)に対する徴税を通じて財政収入を調達する。これは国家の社会に対する依存を深めることになるが、それは国家を建設すると同時に近代国家に不可欠の公民意識を形作ることを可能にするものである。事実、まさに徴税をめぐって展開している国家と社会の密接かつダイナミックな相互作用のなかで、公民の地位ははじめて形成かつ発展していくものである。まさにアダム・スミスが指摘するように、徴税は一種の道具を提供するものであるが、この道具を通じて人民は「ある種の共同的な公民的地位の感情へと包摂されていく」のである。同様に、このように国家の自律性が低下することがあったとしても、こうした国家建設の道は国家に対して更に社会に対する説明責任を加え、さらには国家の統治の正当性を高めることも有りうるのである。最後に、このような税制収入の調達は比較的高い行政コストを支払うことを必要とするものであるが、これもそれに応じた国家の能力の強さを高めることが有り得る。まさにF・フクヤマが指摘するように、経済と社会に対する発展について言えば、国家の能力の強さは国家の職能の範囲よりもさらに重要である。そして、社会の中から租税を調達する国家の能力は、資源の輸出あるいは独占を通じて獲得した収入よりも、よりよく国家の能力の強さを説明し得るものである(福山 2007:20-21)。
 中国の将来の国家の建設について言えば、この研究は重要な啓示があることを明らかにしている。1978年の経済改革以来、中国は自給自足国家――おもに国有企業を中心に財政収入を調達する――から租税国家へと転換しはじめた。しかし、たとえ予算内の収入を考慮に入れたとしても、中国以前として「半租税国家」でしかない。租税国家の転換と同時に、中国はさらに自給自足国家の遺産を依然としてとどめており、同時に一定のレンティア国家の特徴も兼ね備えている。将来においては、税制改革が推進され、さらに土地出譲金(国有地を払い下げて得た譲渡費用――引用者註)が次第に先細りになるに従って、まさに中国はもはやレンティア国家の特徴を持たなくなり、中国はさらに租税国家へと転換しようとしている。しかし、歴史の慣性およびイデオロギーの影響のために、国有企業は国家財政システムの中で演じている非常に重要な役割を継続させており、中国は依然として一つの混合型の財政国家、つまり租税国家と自給自足国家の混合である(马骏,《中国财政国家转型研究:走向税收国家?》,《吉林大学社会科学学报》第1 期、2011年)。最近、中央の国有企業の利潤が上昇し続けているだけではなく、多くの地方で「大きく強い」国有企業の戦略を推し進めている。不確定性に満ちた現代市場経済及び日々分化していく社会に直面して、国家は社会に対する依存の程度が比較的小さな資源を掌握し、国家に一定の自主性を持つよう確保させるべきであり、そこから有効に社会、経済の領域で出現する差様々な不確定性とリスクに対抗することができるようになる。このように、国有企業を完全に民営化するという種類の主張の観点は、検討する価値がある。しかし、現在気がかりなのは、ますます多くの人がさらなる「大きくて強い」国有企業を支持しているように見えることである。こうしたやり方が中国経済に対していかなる影響生み出すのか、たとえば経済改革に対する後退を出現させるのか否かは、ほとんど議論されていない(暂不讨论)。本稿で示そうとしたのは、こうしたやり方が中国の国家建設及び統治の質量に対する不利な影響を生み出すというものである。まさに財政社会学が我々に伝えているように、非常に大きな程度において、国有企業の利潤の国家と社会の関係及び国家建設に対する影響と、レンティア国家が作り出す影響とは同じものであり、それらは国家の自律性を過度に高め、国家の社会に対する依存を減らすものであり、その結果として国家の社会に対する要求等の応答可能性も低下していくことになる(Campbell,1996;马骏,2011)。そして、まさに1980年代とくにそれ以前の自給自足国家の歴史的経験が我々に伝えているのは、もし国有企業のカバーする範囲があまりに広大すぎると、国有企業の利潤は国家の財政に対して正の貢献を行うことは不可能であるということである。つまり、我々は国家の経済と人民の生活(国计民生)に関わる領域で国家は国有企業を掌握できるし、またすべきであるとしても、国有企業は過度に大きるべきではないと考えている。同様に、土地出譲金のようなレント収入がもし規模が大きくなりすぎても、国家の建設と統治の質量に対して負の影響を生み出すことになるだろう。
 ・・・・・・・・


―――――――――――――――――――――――

 「財政社会学」に関する論文。馬駿は中山大学中国公共管理研究センターの行政学者。温明月はどういう人が不明だが、おそらくは馬駿の指導する大学院生であろう。

 財政社会学というのは、一言で言うと徴税や歳出といった国家の財政活動が、人々の社会意識や政治の正統性に対していかなる影響を与えるのかを明らかにしていく学問である(財政社会学の学説史と概要については、井手英策「財政社会学とは何か?」『エコノミア』第59巻2号、2008年を参照)。財政社会学は戦費の増大とインフレで財政危機が深刻化した一次大戦末期のドイツ語圏で登場し、戦間期の一時期に盛り上がりをみせたが、二次大戦後の冷戦体制において、西側諸国では経済成長が自動的に税収の問題を解決してしまったこと、そして社会主義国が理念的に反「租税国家」の体制であったことで、財政社会学は全く顧みられなくなってしまった。

 しかし、1970年代後半以降にT・スコチポルなどの英語圏の歴史社会学派が近代化論を批判する形で国家形成の比較研究に取り組むようになり、そこでかつての財政社会学の研究が参照されたこと(特に戦時財政コストと革命の関係など)、さらに世界的に経済成長が停滞して「福祉国家の危機」が叫ばれるようになったことで、1980年代以降に「財政社会学」を掲げる研究が次第に復活していくことになる。もっとも、「財政社会学」という領域で研究者がまとまりはじめたのは、この数年のことに過ぎない。2009年に、この論文でも言及されているThe New Fiscal Sociology: Taxation in Comparative and Historical Perspectiveという論集が出ているが(未見)、「財政社会学」を主題とした雑誌や論集はこれが最初と思われる。

 中国はGDP成長率を超えるペースで毎年2割ずつ税収が増えている状態なので(エコノミストたちは富裕層減税を主張している)、本来は財政社会学が必要とされるような状況ではなく、この論文もアフリカの国家を実証的に統計分析しているものの、全般的には海外の研究を紹介するという意味合いが強い。ただ、少なくとも形式的には皆保険・皆年金体制を構築し、将来的に財政圧力が強まることは確実なので、来るべき脱工業化と低成長期に突入するにつれて中国でも重要な研究になっていくものと思われる。

 この論文では、財政国家を「租税国家」(議会と法の手続きに基づく徴税)「自給自足国家」(社会主義体制)「レンティア国家」(中東の産油国など)の三つに類型化し、さらに財源調達のアプローチとして①議会制民主主義(租税国家)、②独占的な資源利潤(レンティア国家)、③企業や団体・集団に対する個別の交渉(自給自足国家・レンティア国家から租税国家への過渡的体制)の三つに分けている。「レンティア国家」というのは、中東研究で既に用いられているのでここでも使ったが、自分であれば「資産所得国家」と訳したい。このように徴税の仕組みが政治体制のあり方に大きく影響している(つまり徴税システムがレンティア国家であると制度的に議会制民主主義を敷いても機能する可能性が低い)、というのが財政社会学の視点である。

 もともと中国の税制は、社会主義体制から1990年代初頭までは地方で徴収した税金を中央に上納するという体制がとられていて、所得税も消費税も存在しなかったのであるが、1994年に税制の抜本的な改革が行われ、地方政府と中央政府の財政が分離され、所得税や日本の消費税に相当する増値税などが導入された。中国の税収は、一般の商品にかかる増値税(17%)が税収の3割近くを占めており、あと法人税である企業所得税が2割弱となっていて、かなりの程度「租税国家」になっているようにも見える。しかし馬駿によると、中国の税収はその比率は下がっているとは言え3割強が国有企業部門なので、中国は自給自足国家から租税国家への転換の過渡期にある「半租税国家」に過ぎないという。しかもこれは国税レベルの話で、地方政府のレベルになると土地譲渡金(中国は建前上は土地は国有なので文字通りの譲渡ではなく貸与)の収入が重要な財源となっていて、「レンティア国家」の性格が強い。そもそも、経済成長による税収増に依存した財政や社会保障政策のあり方自体が「レンティア国家」的であり、この点では増税抜きの財政再建や社会保障制度構築を行ってきて今に至っている日本が反面教師となるのかもしれない。

地方の人材養成と社会再建

2012-06-29 07:22:10 | Weblog

宣朝慶「地方の人材養成と社会再建――民国郷村建設運動の中で長く軽視されてきた問題」

宣朝庆「地方人才培养与社会重建———民国乡村建设研究中长期轻忽的一个问题」『天津社会科学』2011年第4期 http://www.sociology2010.cass.cn/upload/2012/05/d20120509222537131.pdf

-----------------------------------------------

1 地方の人材――農村再建の基礎と希望1

 中国農村社会の基本モデルは、まさに費孝通が『郷土中国与郷土重建』で描き出しているように、郷村は長老(紳士)と伝統によって秩序が維持されている、閉鎖的で独立した、地域的な社会であり、横暴な権力は儒家の思想と土地利用の境界の制限を受けており、上から下への政治のルートは県の役所までしか敷設されず、政府の統治は「無為にして治める」に任せて、郷村は自立と「自治」を得ることができていた。こうした状況の下では、主に郷村の土地と人口の組み合わせや構造が、その地域社会が繁栄するかどうかを制約している。近代以来、中国は中央の王国から世界システムのメンバーへと転換するに伴って、農村社会の地域制、閉鎖性の生存の構造は次第に解体され、世界の生産分業のシステムに強制的に引き込まれただけではなく、近代国家の高度な集権的制度および規則を受け入れなければならず、内外の二重の作用で農村社会は「天は皇帝よりはるかに高い」という優越性を失い、生存の環境は極端に悪化し、これに伴う郷村の手工業も崩壊、労働力は流出、金融の欠如は、農村経済の落ち込みと社会の解体をもたらした。農村を救うために、かつて学者は、農業社会が工業社会に転換すると、自ずと「都市が農村を救う」という連帯の効果が生み出されると希望を寄せていたが、半封建・半植民地社会である古い城鎮や執行の都市は、むしろその天性として農村から離れる傾向を有している。古い城鎮は政治的な堡塁であると同時に非工業の産業の中心であり、それは郷村と経済上の相互扶助の紐帯を持たなかった。開港都市ではじまった新しい工商業都市は、生産と生活の点で海外市場に重く依存しており、本国の農産品を市場に提供するだけではなく、さらに農村の手工業を圧迫した(费孝通:《乡土中国与乡土重建》,台北,风云时代出版公司,1993年,第61~72、105~127页)。農村社会の生存環境の危機に対して、国人はマクロな観点からいくつかの考え方を提出した。ひとつは革命の手段を通じて、政権をてこに農村が西洋の資本主義の環境から受けている状態を変えることで、独立と生存の機会を獲得するというものである。二つには技術を追求し、新しい社会組織と先進の科学技術を導入し、農村の社会組織と生産力を改進することである。三つには土地制度改革を行い、生産関係の変革によって生産力の上昇を図るものである。1920~30年代において、国人はこれらの考え方の実行可能性について様々な実験と探索を展開し、晏陽初、梁漱溟を代表とする中国郷村建設派は、技術追求派の代表である。彼らの郷村建設は、農民が伝統の閉鎖的で、村落を基礎として生計を立てる生活から、積極的に外部の現代政治、経済、文化、社会生活への参加へと転換することを支援して、生活の質の改善という目標を達成しようとするものであった。工業化、資本主義市場の経済グロバール化の発展という大きな背景の下、これは止む得ない選択であったというだけではなく、重要な変化のチャンスでもあった。
 外部の圧力の下で、一つのシステムが組織形態の改変を通じて新しい発展の方向を確定したことは、きわめて自然なことである。しかしある社会システムについて言うと、こうした要求の実現には条件があり、その中で最も重要なのはさまざまな人材をを生み出すことで、様々な発展のルートのなかから選択を行って、外からの挑戦に対応できるようになることである。伝統的な農村の現代的な農村への転換で、必要とされるのは現代の経済、政治、社会制度と付き合っていく外向型の人材なのである。これに比較して言えば、伝統農村社会の領袖となっている人物および人材は、その多くが紳士や地主階級から来ており、彼らは中間人として村落以外の世界と交流していたが、この生産組織の外に遊離していた階級は近代以来農村社会を指導する活力をすでに失っていた。例えば陶希聖が観察していたように、「帝国主義勢力が中国に侵入して以降この身分階級は既に破壊と紊乱の時期に陥っており」「一部は帝国主義や軍閥にくっついて生存を図り、一部は苦しむ民衆の中に落ち込んで、生業も学問も失い、次第に士大夫階級の特徴を消失している」(陶希圣:《中国社会之史的分析》,岳麓书社2009年版,第26、42頁)。構造的な社会の流動性のなかで、少数の優秀な層が西洋式の教育体制によって都市に行き、教育、文化、法政、行政、実業などのそれぞれの世界に移った者を除けば、大部分は兵士になったり、会党に入ったり、あるいは「孔乙己」のような失業者に転落した。農村のなかの「失業失学」の「孔乙己」たちが苦力として笑われる対象となった以上、それではどこで農村を指導する責任を担うのであろうか。この後、保甲制度が遂行されるに従って、農村のエリート階層は次第に流民化し、土豪劣紳が村長、保長を担うようになり、農村社区の転換を指導することは根本的に不可能であった。
 人材の欠乏は、農村社会建設の最大の障害となっていた。このため、李景漢は定県の社会調査を行った後に、こう呼びかけている。「郷村の間の人民の知識は単純で、才能と道徳を兼ね備えた人が村民の領主となっていなければ、何も規模の大きな事業を起こすことが不可能である。しかし明らかな理由は、才能のある人の大半は郷村の中で奉仕することを嫌がり、農村のなかの優秀な人たちもみな都市に行ってしまっている。これと農村を改革する事業は大きな関係がある。いかに郷村のリーダーを養成し、そして郷村の元々の人材を引き留め、そして有用な人にすすんで郷村のなかで働いてもらうことは、目下非常に注意・研究すべき問題である」(李景汉:《住在农村从事社会调查所得的印象》,《社会学界》
1930年第4卷第4期)。郷土中国について言えば、社会の転換が大規模な地方の人材の流出を招き、近代化に必要な時期には地方の更生・再建の準備のために相応しい人の力という基礎を失っていた。この深刻な問題と土地制度、外部環境などの構造的な条件は、1920~40年代の農村に幾重にも重なった危機をもたらしている。この時、郷村建設の運動家で社会学者である楊開道は、前向きに(前瞻性地)こう指摘している。「中国の農村はもし一群の平民のリーダーを得て、『田畑の中で』実際に仕事をさせることができなければ、おそらく20年、40年以降も苦境から脱することはないだろう。農村のリーダーの地位は実に重要なものであり、農村リーダの必要性はまさに切迫している」(杨开道:《农村领袖》自序,世界书局1930年版)。激しく変化する外部環境に対応するために、郷村社会は地方の人材を養成する道を歩まなければならない。ここから、教育体制を改革し、農村建設の人材を養成するための掛け声が日に高まっていく。晏陽初などの人々は、郷村の建設と実践を組み合わせ、この方面で20年にも長きにわたる探求を行い、一定の成果を上げてきたのである。


2 郷紳を超えて――地方のために現地で平民の人材を養成する

 晏陽初の人材養成計画は、「中華平民教育促進会」(以下「平教会」と略する)で郷村の平民教育から郷村建設実験への転換したことに始まる。当時、各種の社団組織が大きな勢いで出現していたが、経済の協同組合組織を除けば、息訟会、戒賭会、互助会、婦女会など、民衆的な団体が、廟会、鼓会、香会などの旧式の農村組織に取って代わり、農民が社区の管理に参加して、外部世界と接触する重要な媒介となった。新型の社団の発展は、組織を立ち上げ、指導し、協調していく責任を負う、大規模な人材を必要とするものであるが、伝統的な郷紳は身分と格調を保持するために、直接的に新しい社団の運営に参加するよりも、旧式の組織の中でリーダーを担い、場所や経費などの支援を提供することで既に高い風格と節義を示せることを好み、より多く新型の社団活動にけちをつけて阻害することになった。こうした状況の下では、すべての協働の事業が、平民学校の卒業同窓会を中心的な力(骨干力量)としていた。平民教育の簡単な訓練を受けただけであったため、同窓会のメンバーは実際の活動のなかでの処理能力が一般的に高くなく、活動のやり方も粗雑であるという問題が存在し、そのことが郷村建設事件に対して意見を持つ何人かの人士による批判を招くことになった。「同学会は質の良し悪しがばらばらで、大部分は無業のならず者であり(有業者は平協会に取り合っている暇などないから)、受けている教育は非現実的で大げさなものであり、その性質を結局のところ傲慢でわがままな気性に作り変えるものである・・・そこで同学会は村の政治に干渉して権力と利益を争って奪い、劣悪な分子が着に乗じて暴虐をほしいままにし、郷里を食い物にしている」(李明镜:《平教会与定县》,《独立评论》1933年第79号)。ここで明らかなのは、幹部の素質が低いことが定県民衆の郷村建設運動に対する不満を既に生み出していることである。こうした状況の下で、郷村建設に賛成する人士は、これらの青年が比較的強い組織性と活動の能力を持ち、奉仕と犠牲の精神を有し、教育、政治、経済において彼らに活路を与えることを重視しなければならない、と提案されていた(衡哲:《定县农村中见到的平教事业》,《独立评论》1932年第51号)。人材の質の問題が郷村建設事件に影響を与える重大な問題になっていることを考慮して、晏陽初や傅葆琛などは人材養成のシステムを探求し、新しい農村社区の人材を養成し、幹部の質の問題を解決していくことを決断していく。郷村建設の運動家たちは、歴史上の農村における人材の隊列は主に郷紳・地主の階層から出ているが、郷村建設の人材の隊列の養成は、必ず平民の青年を中軸にすべきであると考えていた。晏陽初が指摘するように、「農村の中の青年の農民は、郷村活動を推進する中心的な力」なのであり(宋恩荣编:《晏阳初文集》,教育科学出版社1989年版,第77页)、農村建設が成功するためには、必ず農村青年の養成に希望を寄せるべきであって、「今日の農村運動の主要な目標は、農村の青年男女を特に重視しなければならない」(晏阳初:《农村运动的使命》,中华平民教育促进会,1935年,第5頁)。郷村建設の新しい要求に適応するために、こうした青年に対する新式の教育を実行しなければならなかった。こうした養成を通じて、これらの青年の俊才は三つの点における素質を備えるべきものとされていた。「一つには、専門的な学識であり、二つには創造力であり、三つには世の中に適応する能力(应世手腕)である」(宋恩荣编:《晏阳初全集》第1卷,湖南教育出版社1989年版,第306页)。「应世」は事実、開放された時代における農村が必要とする人材の基本的な要求であり、それは人間関係の交流を通じて身に付ける社交のルールや社会の規範において表現されるだけではなく、知識体系と観察問題、分析問題という観点においても表現されるものであった。
 こうした指導理念の下で、定県は高級平民学校を設立するだけではなく、その他の短期的な訓練で郷村建設の人材を養成し、さらに視線ははるか遠く、現代の高等教育体制の農村の人材育成の面における改革を探求した。大学を利用した農村人材の養成という主張は、提示されるとすぐに広い範囲から異論を受けることになった、これは主に、当時の中国の大学生がエリートの人材として、その総数は三万人あまりに過ぎず、大多数の学生は修文学、法学、理学、医学、工学を学び、農業科の人数はきわめて少なかく、彼らの卒業後の大多数の希望は都市に留まって仕事をすることであったからである。たとえ少ない農業科の学生が農村に帰ったところで、実践に取り掛かる能力は欠けており、農村に深く分け入って農業科学を普及させる素養と精神にも欠けていた。しかし、晏陽初は「農村運動は偉大なものであり、必ず大学を基礎とすることで、安定で堅固なものにしなければならない。・・・・大学に次々と絶えず農村建設の人材を養成することができれば、この運動の発揚は広大なものになるだろう」(宋恩荣编:《晏阳初文集》,第168页)。
 この時に「平教総会」の郷村教育部主任を任されていた傅葆琛も、こうした心配は完全に必要ないものであり、大学教育のシステムを利用して農村の人材を養成することは、一定の社会心理的な基礎があると、楽観的に考えていた。そうした郷村出身の学生は、家族や郷里観念の関係のために、郷村に帰って仕事をし、家と郷里のために力を尽くすという夢を持っている。大学はこうした求めに適応し、適切な訓練を与えて、彼らに郷村社会の改革事業の任に堪えさせるべきである、という。傅葆琛はさらに、農村の人材が緊急に必要されているなかで、その一部は必ず大学の文化的な水準を身に着けているべきであると教育界に注意を呼びかけ、その中には教育人材、社会奉仕の人材、体育および衛生の人材、農業技術の人材などが含まれているとしていた。このため、大学教育は近代以来の、都市に設けられて学生が農村を認識し、農村に献身するのに不利であった状況を改変し、農村の近くに資源を配置して、農村の専門的な人材を養成する学校を農村に設置すべきであり、さらに要求に応じて、それに加えた各種の郷村の科目を設けて、郷村建設に適合した大学の教育課程のシステムを打ち立てなければならなかった。
 傅葆琛は12種類の主要な科目を詳細に計画している。

 ・・・・・・・・・・・・・


4 比較と討論――郷村建設経験の普遍性およびその意義

 短期間の訓練である、郷村師範教育や郷村建設専科学院から大学の郷村建設系の設立に至るまで、晏陽初などの人は十数年の独力を経て、孜孜として農村の人材養成のシステムの完成を模索し、当時における「知識人は郷村の目線に立てない(知识分子下乡难)」ことと、農村の人材が欠乏している問題を有効に解決しようとした。戦乱や政局などの外からの干渉や騒乱を受けたけれども、彼らはなお部分的に実績を獲得し、現代農業の科学技術の知識を養成し、農民と農村の基本問題を了解し、現代民主主義の議事のプロセスを理解する人材の隊列が、現在の新しい農村建設のために残した最初の貴重な経験である。特に注意しなければならないのは、この個人の養成システムは閉鎖的なものではなく、現代教育システムの外で自主的に作り出されたものであり(自创一套?)、開放的なもので、とくに現代教育事業の発展と、現代教育方法の創造的な運用に依拠し、農業の人材養成と現代教育システムとをうまく組み合わせたことである。これは現在の農村の人材養成に志を持つ者が軽視することができないものである。こうした歴史的経験は、1950年代後に国際的に承認あるいは模倣されるようなった。国民党が敗れて台湾に行った後、晏陽初は政治的見解が合わなかったため、アフリカの発展途上国に行って彼の農村社会改造の経験を推し広め、国際平民教育運動委員会を創設し(その後晏氏郷村改造促進会に改称)、そしてフィリピンで国際郷村改造学院を成立させ、現地の農村人材を養成し、郷村建設を展開し、晏氏に特色ある郷村建設が国際社会で大きな異彩を放つようになっている。しかし、時がたち状況が変わり、完全な農村人材養成システムは、結局のところ回復することはなかった。

 ・・・・・・・・・


-------------------------------------------------

 前にも訳した宣朝慶の郷村建設運動の論文。宣朝慶は南開大学に所属する社会学者で、『泰州学派的精神世界与郷村建設』という著作がある。http://www.bookschina.com/4751725.htm

 民国期の郷村建設運動において、在地リーダーの育成が喫緊の課題となっており、そこで共通して直面していた問題は「土豪劣紳」の克服であった。晏陽初などはここで描かれている通り、平民教育促進会や大学などの外部の機関で人材を養成することを目指したのに対して、梁漱溟は農村のなかで人望のある人を発掘していく方法を選択した。前に訳した論文は晏陽初のエリート的な方法論の矛盾を問題にしたものだったが、今回先見の明があったという少々凡庸な結論になっている。

官製慈善組織の資源動員

2012-06-19 06:05:35 | Weblog
竜永紅「官製慈善組織の資源動員――体制依存及びそこからの転換」

龙永红「官办慈善组织的资源动员:体制依赖及其转型」『学习与实践』2011 年第10 期
http://www.sociology2010.cass.cn/upload/2012/04/d20120418174146174.pdf

(南京大学社会学院南京21 0097)


1 基本概念および文献回顧

 ・・・・・・・・・

2 研究方法および個別事例

 ・・・・・・・・・

3 政治機会構造の中の正統性(合法性)の資源

 わが国の現代の慈善公益組織の最初の起源は、改革・開放の初期において最初に外国で考察した政府の官僚が西洋の国家に見出したものであり、そこで見出した国家とは基金会などの慈善公益組織の形式を通じて集めた社会的な資源を公共サービスに提供し、社会問題を解決するというものである(王名:《中国民间组织30 年: 走向公民社会(1978- 2008)》,北京,社会科学文献出版社,2008年,第234 页)。そして当時の「二つの全て(两个凡是?)」と、「資」と「社」の二つの姓の思想を突破する思想解放の運動も、慈善が「他の種類(另类)」から「社会主義精神文明の構成部分」に転換して、政治機会を提供するようになった。政治機械構造とは、「社会構造の変動によってもたらされる政治権力関係の変化の総和」を指すものである(Doug McAdam, Political Process and the Development of Black Insurgency 1930- 1970. Chicago: Chicago University Press. 1982:41)。「それは集団的な行動者に対して一定の制限あるいは可能性を形成するものであり、そして運動が動員されるときに必要な費用のコスト高めたり低めたりするものである」(何明修:《政治机会结构与社会运动研究》,台湾2003 年社会学年会论文)。まさに、「この発見」と「思想解放」がわが国の最初の慈善組織を生み出した。その推進力は政府に由来するものであったが、政府は慈善組織のために設立資金を提供し、体制内でそれに応じた資源を融資、国家と市場の間の「第三領域」である慈善公益組織を、政体内の成員の一つに定位させたることになった。これは確実に、わが国の慈善組織の最初の発展のコストを引き下げるものだった。
 「私は元々救助管理センターにいたが、ここに異動で来て、その他の二人の副秘書長はみな退職者の職場復帰であり、我々の常務副秘書長はもともと民政局の局長で、我々三人は総会の編制に加わっていなかった。開始した時すぐに政府は初動資金として×××万を提供した。
「C慈善総会で創設した基金×××万元は政府が出したものである。」
 「この二つの会計はみな民政庁から来たものであり、彼らの人事関係や賃金もみなそれに従うもので、私たち周辺は最も低いのは科員であり、その後に副科、正科となる。ここでも最も上の指導者みな退職者であり、その後に民生庁から来た人たちで、彼らはここで給料をもらって再び一般のスタッフになっているのではなく、彼らの収入はみな公務員の待遇を参考に与えられている。」

 以上の資料が明らかにしているのでは、人事関係の上で、慈善総会組織は均しく民生局の事業単位に属しており、政府の人員編制と行政に似た等級の区別があり、これは官製の慈善組織における一種の天然の行政的な正統性を構成するものである。この種の正統性は主に行政管理を体現し、合法的な授権を通じて一種の「下」の「上」に対する承認あるいは信仰を実現するという、一種の道具的な正統性である(马克斯•韦伯:《经济与社会》(上卷),北京,商务印书馆,1997 年,第290- 295 页)。行政上の権威は、何らかの宣告した意志で社会の様々な主体の行為に影響を与えることができ、そして行政それ自体の意志・命令の内容を彼らの行為の準則とすることである。こうした行政の正統性が慈善資源の動因に中国的な特徴をもたらしている。一方では、政府は慈善組織に資金を提供し、地位に応じた行政組織に依頼して動員の要求を出すと、行政の慈善組織の指導・担当する職務によって、行政は企業の寄付金などの資源を吸引していくというものである。そしてもう一方では、慈善公益資源動員の結果それ自体が、政府の統治実績(绩效)とその行為の正統性の一種の指標となっている、というものである。
 これと同時に、改革・開放以来、社会の転換期と政府の機能の普段の変化のなかで、単位に基づく「単位人」の階層意識は既に打破されて、個人の発展の機会のルートが多様化し、社会の評価のメカニズムも日に多様化し、非常に多くの単位組織と政府はもはや隷属関係や財務関係にはなく、多くの人は既に「単位人」の意識を持たなくなっているが、こうした体制改革がより多くの自由に流動する資源を放出していることは、慈善資源動員のいための基礎を提供している。他方では、貧富の格差が広がり、新しい下層集団が形成されて、環境悪化の問題が目立つようになり、社会的なリスクや災難が日増しに多くなるななど、慈善組織が効果的に社会的な資源を収集し、社会問題を統治し、愛心・公益の価値を広める社会的な機能が求められるようになっている。この社会構造関係の変動も、慈善組織の動員機会の構造的な要因を構成している。
 
「汶川地震の時など、私たちはみな列をつくって義捐金を寄付し、私たちが寄付金の受け取りに間に合わなくても、夜の10時を過ぎてもまだ列に並んで、外国の同胞だったり、貯金箱を抱えた子供だったり、お年寄りだったり、さらには看守(?)のところの人もきて数百元を寄付した。」
 「2008年の時期は、寄付の人の列がですね、そのときはまだ銀行の人が来てなかったんだですけど、まあ多くの人がいて、もう待たせることはできないので、私たちは自分で寄付金を受け取り始めてしまいました。偽札検査機(验钞机)などもなかったんですが、彼らはみんな『さっき銀行から引き出したっばかりなのに、まだ何を調べるんだ』と言ってましたね。あるお年寄りは、2万元を寄付してそのまま去っていき、領収証も要らないと、後で匿名で処理しました。その日の正午、たった2時間で私のオフィスでは300万あまりも寄付を受け取りましたが、これは私たちが宣伝したのではなく、彼らが自発的に来たのです。」

四川大地震の期間の、公衆が慈善総会に寄付をするために列を作るという現象は、人間が大きな思いやりの心(大爱)を持っていることを説明するが、その根源を追究してみると、メディアの報道の効果以外では、より重要なのは政府が行政の意志として特定の慈善機関を指定して災害救済の寄付募集を行い、その他の資格を持たないもの、各級の民生部門およびその下に設けられている寄付を受付ける機関、たとえば各級の紅十字会、各地の慈善会は、民生部中央財政の専門部局が寄付を集めなければならなかった。

「汶川地震の時は、私たちは受け取った災害義捐金は、×××工程建設部に渡しましたが、私たちの集めたお金は、2億元あまりにもなり、さらにそれ以外の区・県の慈善総会にもいくらか寄付金を渡しました。
 「玉樹地震は寄付金を上に持っていき、統一的に建設を行い、地方単位で別れて行わせることはしませんでした。私たちの集めた2000万元あまりは、さらにその他の总共六(不明)を加えて、7000万元を上に渡して、慈善総会が省に預けて、その後に中華慈善総会に渡し、民生系統のものは省に渡し、その後に中華慈善総会に預けて、段々と受け渡しが行われ、最後に玉樹で統一した」。
 (以上に引用した文字資料はすべてC、Dの二つの慈善総会の観察記録とインタビュー資料によるものである。)

 四川大地震のなかで各省の慈善総会の系統が災害救済と復興のなかで、資源を集中して輸送する仕組みを形成したことや、後に青海地震で政府は行政権力を利用して義捐金を集めたことは、これは等しく官製の慈善組織が慈善資源動員における顕著さや独断性を強化するものであった。歴史的な経緯からこのように見ると、わが国の現代的な慈善事業は当初から社会保障システムの一部分として、政府の一つの機能として発展したものであり、大多数の公衆と企業と事業単位について言えば、それは依然として寄付金を紅十字会や慈善総会などの官製の組織を理解しているに過ぎない。
 機会それ自体は決して資源ではなく、重要な鍵となるのは慈善組織が機会を利用して資源動員の最善の結果を得られるか否かにある。官製の慈善組織について言えば、この機会と行政の指令との結合が強大な資源動員の効率性を生み出したのである。しかしこの結果の弊害も明らかである。まず。官製の慈善組織の資源が、国家や地方政府に渡されて統一的に使用されることは、これは政府の統治実績と相互に関係しているものであるが、寄付金の使用の結果と寄付した人とはかかわりがなく、通常の状況では、お金がどこで用いられているのかも知ることなく、寄付した人の主体性と寄付行為の積極性が削がれてしまい、資源動員の価値が連鎖して循環することができなくなる。次に、慈善組織が一旦間違いを犯したり危機に直面したりした場合、政府は大体において第一の責任主体になっているのは、官製の慈善組織が代表しているのが国家の意志だからである。「郭美美事件」が非常にいい例であるが、まさに人道主義を代表する紅十字会と商業化がリンクした時に、人々はその中に権力による金銭のやり取りがないかどうか疑い始めることになる。金銭のやり取りがないかどうかというだけではなく、紅十字会はその金色の字の看板を、10年も登録されていない「非法」な組織に渡しており、これがそれ自体が不当なものである。これは必然的に、官製の機構・組織に正統性アイデンティティの危機に直面させるものであり、行政の正統性に穴があけば組織文化の正統性に危機がもたらされ、最終的な結果として慈善資源動員は心理に内在する文化的なモチベーションを失うことになる。

4 関係ネットワークの構造の中の資源移動

 社会関係ネットワークの理論は、最初は個々の行為者の機械や反応を理解する一つの視点であり、個人があるネットワークの結び目であって、孤立した点ではないと理解しており、それは個人がその他の集団の関係を持って他者と関係を生み出しているからである。例えば、多くの政府の役人は政府が為すべき職務を丸投げして慈善組織に任せており、このように政界の関係ネットワークの資源は公益界に流れており、その逆もまた然りである。これが意味しているのは、慈善組織の関係ネットワークは主に組織のメンバーが組織の目標を得るために用いることのできるネットワークの連繋の総和であるということである。しかし、官製の慈善組織の中で、この繋がりは決してパットナムの言う「水平的なつながり(horizontal collection)」――それが含意する最も主要な内容は社会的な信頼であり、互酬や公民参加のネットワーク――なのではなく、一種の「垂直的なつながり」――それが含意する主要な内容は行政に隷属した関係と組織の指導層が持ち込む資源――なのである。
 まず組織の人員の構造と配置からみると、C慈善総会の会長、副会長、常務理事はすべて省級の指導者によって担われており、D慈善総会の会長は市長によって担われており、22人の副会長のうち6人が市の指導層で、その他の16人は当地の有名な大企業の理事長や共産党委員会の書記である。秘書長や副秘書長は、通例民政部の系統、全人代の系統などのリタイアした指導層によって担われている。つまり、官製の慈善組織の指導層の大多数は行政上の権威を有しているのであり、資源動員を組織する中で、この権威を借りて資源を募集することができるのである。

「省政府の活動報告のなかで、明確に慈善事業の発展を要求した。各市の慈善総会はみな市長あるいは副市長によって会長が担われている。政府の主要な指導層は交流の機会を得ることができ、政府の支援を必要としている成長中の企業について言うと、その吸引力は疑いえない。民衆の言い方を借りれば、「老大难,老大出面就不难」なのだ。」 (資料は2007 年08 月23 日《××日报》より)
 「私たちのトップはもともと×××(某省級の官製メディア)の大リーダーであり、彼は定年になってここに来て活動を宣伝していた時は、メディアに電話しさえすれば何でもうまくいった。」(資料はC慈善総会のインタビュー記録より)
 
 その次、慈善総会の物質的な資源の源から見ると、D慈善総会は主に「一日限りの寄付による慈善」「企業の名を冠した基金」で、慈善救助の項目は寄付金と災害義捐金などであった。その中で、「一日限りの寄付による慈善」が寄付金総額に占める割合は26.3%であり、企業の名を冠した基金36.5%になり、慈善救助の項目における寄付は5.9%である。もし災害義捐金の総額を取り除くと、この三つの項目がそれぞれ寄付金に占める割合は、36.8%、50.9%、8.3%になる。比較的大きな比率を占める「一日限りの寄付による慈善」「企業の名を冠した基金」は、どのような関係のネットワークの構造に由来しているのだろうか。「一日限りの寄付による慈善」のなかに、286の寄付の単位のなかで、187が政府の機関と事業単位である。その組織動員の基本的なモデルは、区・県の慈善総会の座談会形式で部署の配置を行い、公務員と事業単位の編制人員(、工業系の企業、不動産開発の企業が寄付の勧誘と募集を行うことが標準であると規定されている。つまり、明らかにそれぞれの音頭をとっている単位が分散して寄付の勧誘・募集の任務の実行を請け負い、そして国税部門や経済・貿易部門による音頭など、明確に関係する関係する行政部門が責任を負いは、招待した企業単位が参加し、省・市の主要なリーダーが出席して「一日の寄付」を指導するための儀式と講和を行うのである。企業は通例は「名を冠した基金」の方法で「一日の寄付」に参加し、寄付金の総額(一般には最低でも1万元)に承諾すると、自らの企業を慈善基金に命名する機会を得ることができるが、この総額は一回で全ての寄付が終わるのではなく、何年かに区切って毎年部分的な形式で寄付し、累積して総額に到達する(資料はD慈善総会が運営する刊行物と関係する座談会の記録に基づく)。
 官製の慈善組織の資源動員のこうした関係のネットワーク構造の中で、動員主体は匿名のなかに潜んでいる寄付者なのではなく、管轄区内と行政体制とが一定の隷属関係を持つ確実な対称なのであり、「単位」(社区・街道や企業を含む)はネットワークの「結節点」になっている。たとえば、動員プロセスは文書を出して通知するという形式や、あるいは政府が主要なリーダとなって提唱かつ参加する大型の儀式的な活動を開催しており、動員の結果と効率は、動員される者の自主的な選択ではなく、文書通知を受け取り単位や社区によって決まっている。通常、動員される組織も、まさにそれが統治実績を審査する一つとなっていって、動員される個人はそれを国家・政府の一種の日常行為としているのであって、慈善の公益的な価値や理想に対するアイデンティティによるものでは決してない。この種の資源動員のネットワーク構造は、「組織化されたネットワーク動員」と呼ぶことができる。こうした組織化の動員構造のなかで、政府は慈善組織という合法的な組織形式によって、税収、公債などの合法的な資源の外の社会的な資源を獲得しているのであり、こうした社会資源の総量は政府の統治実績の重要な側面であり、そして政府はこうした社会的資源に対して一定の支配権を有しているが、その支配権の由来は官製の慈善組織それ自体が政治体制内部のメンバーとして出現したものであり、それは政府のヒエラルキー組織のシステムと権威的な資源などに大きく依存しているのである。企業の寄付と高額の寄付者が獲得している社会的な価値は、政府の主要なリーダーとの交流の機会」であり、単位組織内の「一般人(平民)の寄付」は、単にもともとの単位の慈善の寄付の目標が提供した一つの力に過ぎず、慈善組織のアイデンティティや、あるいは寄付サービスの項目と対象に対する一種の自覚的な責任から出たものではない。官製の慈善組織の動員プロセスは、国家から省・市に至るまでの資源移動の圏域を形成したが、その大多数は受動的な寄付者であり、主には政府の権威が役割を果たしており、資源の移動の終点は国家のイメージと政府の統治実績である。この動員のロジックはきわめて容易に「寄付をさせられる」という強制的性格をもった寄付・贈与の行為を創り出し、慈善的な寄付・贈与の自発性に反するものであり、持続的で良好な慈善寄付の文化の構築に不利なものであり、同時に政府、企業、慈善組織の境界を曖昧にして、自主性を妨げて腐敗した慈善の行為をもたらすものである。

5 記号的な資源動員の効果

 ・・・・・・・・・・・

6 体制依存の苦境とその転換

 田凱は、わが国の慈善組織の出現は、政府の形式で制度的な環境の合法的な拘束を受てて慈善資源を利用している結果であり、このようにもともと国家と市場の外の「第三領域」としての組織が外形化した政府系の組織であると考えている。これによって形成された我が国の特殊な官製慈善組織の形式は、政府の各種の資源で実現される資源動員と組織行動の能力に依存しており、一方では、政府は官製の慈善組織の最高の政策決定のリーダーおよび最大の支持団体であり、政府はその利益の偏好に照らして慈善資源を支配して社会の統治目標を実現するものである。慈善資源は、政府ないし政府の独断性から形成されており、同時に、サービスの対象と寄付者とくに一般人(平民)の寄付者の関係は一方向的なものであり、ひどいものになると分断されていて、「無理やりの寄付(逼捐)」「強制的な寄付(扣捐)」のモデルがまかり通っていた(即是如此)。これは、全体の社会の慈善組織の発展の生態に対しては不利である。国家と各級の地方政府を起点として、官製の慈善組織から慈善資源を蓄積し、サービス対象に救済と援助を届けて、最後に国家と地方政府の正統性に対する信仰の基礎に回帰していくことになる。その中に巨額の寄付をした者が相応の栄誉の記号とそれに伴う付加的な反応を得ることはあるかもしれないが、それらは受動的なものであり、相対的に慈善組織の理念に対する自覚的なアイデンティティが欠けており、官製の慈善組織の統治実績に対してサービス対象のアクセス可能性(可及)や社会問題を語る自覚的責任は、サービス対象、あるいはは社会問題を語る自覚的な責任に対し、「公衆に喜んで資源を寄付させ、公衆に安心して組織に資源を送らせ、公衆に次回も気持ち良くより多くの資源を寄付してもらう」という、資源動員の価値の循環・連鎖を形成することはできず、これは慈善事業を改革する発展に対する一つの障害要因になっている。筆者はまさにそれを「体制依存」と概括して、その論理を以下に図式化する。・・・・

 「体制」は制度体系の中の一つの方向あるいはレベルの範囲の内容であり、それは国家あるいは社会の何らかのシステムの組織構造、権力の配置と利益分配構造の制度に関し、システムの中の各運営主体の地位、権利と責任を規定し、各主体の間の相互の関係を決定している。官製の慈善組織について言うと、体制側は慈善組織を指して一種の事業単位であるとしており、党政の機構の組織管理モデルで形成された組織構造、権力配置と利益分配構造の制度メカニズムの体系であり、それによって慈善組織は国家と地方政府の公共サービスの領域の拡大の道具となっている。こうした特徴に基づいて、官製の慈善組織は資源動員の上で体制依存のルートを形成し、それによって、通常は慈善資源の動員の中で体制内資源と体制外資源の区別を形成している。体制内の資源は、主には慈善組織が依存する道徳的記号の資源の構築と、行政的権威の資源のアピールによって動員された資源であり、それは主には体制内のネットワーク組織を動員対象とするものであり、「政府・行政のリーダープラスリタイアしたリーダー」を主導とする動員管理体制、つまり体制内動員を形成している。体制外の社会の自由な流動の資源を指すものであり、社会資源とも呼ばれている。市場化(あるいは社会化と呼ばれる)手段を通じて公衆の資源を動員することは、体制外の動員と呼ばれている。以上の議論と分析の過程から見ると、資源動員のこうした体制依存のルートは様々な弊害を存在し、一連の良くない結果をもたらしている。たとえば、慈善組織の組織文化の正統性の危機、自主的な資源開発能力の弱さ、行政が独断する民間の慈善公益組織の資源空間を圧迫しているといった問題をもたらしている。資源動員の循環の一方向的な閉塞性の特徴も、まさに慈善資金の運営の効率性の低さを導いており、さらには慈善による腐敗の行為を引き起こし、公衆の慈善資金の投球に対する積極性に影響を与えている。
 それでは、いかにしてこの体制的な苦境から抜け出せるのだろうか。事実、慈善組織の登記期間である民政部門には、既に一つの観念が形成されている。つまり、人、財、物が徹底的に切り離される(脱钩)ほど、組織はより生存の能力を有するようになる、というものである(××市の民政系統が開催した社会組織に関する調査・研究の座談会資料による)。しかし、現在のわが国の公衆が慈善に対していまだ十分な理解を持っていない状況の下で、たとえ行うべき改革の方法があったとしても、実践することは非常に難しい。現在の最も意義のある実践は、既に自覚的に次第に市場化へと向かっている官製の慈善組織の転換であり、それらは市場経済の場の中の企業管理の規則と方法、たとえば契約技術で慈善の「経営」で資源を動員することや、慈善団体のマーケティング(公益营销charity marketing)、社会的企業といった動員の動員技術などを参考にしはじめている。羅文恩と周延風は二つの典型的な事例を分析して、企業の管理モデルを導入する人事制度改革は、事業のブランドと組織のブランドを形作り、官製の慈善組織が現在の制度環境の下で市場化に向かう三つの相互に独立し、また相互に関係する重要なキーポイントであると考えている(罗文恩、周延风:《中国慈善组织市场化研究———背景、模式与路径》,《管理世界》,2010年第12 期)。筆者のインタビューの状況からみると、これらの転換の中の慈善組織は自覚的に政府と分離し始めたり、あるいはすでに切り離されたりしているが、国家の支持は依然として存在している。

 「×××基金会は五つの事業がありますが、一年で12憶元にもなり、もう完全に政府から切り離されて、政府の費用もなければ、政府が賃金を出していることもなく、完全に独立採算(自收自支)です。しかし、政府はまだ基金会を支援しているという宣伝を行っています。そして、基金会が企業化された経営を実行すると、運営実績を審査されるのですが、そこでは集めた資金と評価とがリンクしています。」

 以上のインタビュー資料が明らかにしているのは、官を出自とする慈善組織が転換した後の資源動員はの実績は際立っており、市場化は行われるべきだというものである。しかし同時に、国家と政府が既に有している非行政的な支援、例えば関係ネットワークの資源や政策法規の支援などは、依然として効用を生み出している。そして、資料が明らかにしているのは、転換後の官製慈善組織が民間の慈善組織と交流しはじめているが、これはわが国の官民協力と平等な競争、優勝劣敗の慈善資源動員の生態に対して、疑いなく積極的な価値を持つものである。以上のように、官製の慈善組織の資源動員の転換の有り得るルートをまとめれば、次第に政府と切り離され、自らの吸引力を組織化し、政府との協力関係を維持・継続し、民間慈善組織と平等な競争関係を形成していくことである。

--------------------------------------------------------

 中華慈善総会など、政府系の慈善組織に関する論文。竜永紅は南京大学社会学系の研究生ということだが、詳細は不明。

 政府系(官辦)の慈善組織というのは、清末期からの活動の歴史がある紅十字会や、1994年に設立された中華慈善総会のことを指している。この論文では四川大地震などを題材にして、中国の慈善事業の「体制依存」的性格と、それがもたらすジレンマやアポリアをあらためて浮き彫りにしている。

民国中期成都の慈善事業の発展と変化

2012-06-09 05:47:29 | Weblog
譚緑英「民国中期成都の慈善事業の発展と変化」

譚緑英「民国中期成都慈善事業発展及変化」『中華文化論壇』2009年第02期
http://hk.plm.org.cn/gnews/2009111/2009111176519.html

 清末時期、「游民、乞食は各省みな存在していたが、四川ほど多いものはなく、四川では特に省都が最も多い」。民国後、貧民、流民問題は清のときよりもひどく、四川省は、「西の僻地で、風気が閉塞し、省外の文化はいまだ簡単に輸入されず、内地の教育はますます荒廃した。それに加えて時局の変乱で無業游民は数が大変多い(触目皆是)」。1919-1935年に防区制が実行された四川省は、軍人が政治を担い、そして成都は各派・軍閥の争奪の重点となって、戦争は頻繁に起こり、政局の変転暇なく、課せられる税金は非常に重く、民生は荒廃していた。これに各種自然災害が加わって、成都の貧民は大量に増加し、外地の農村は破産し、失地農民と失業の民もますます成都に流入し、貧窮問題は成都でとくに突出し、早急に社会各界と地方政府が解決を与えることを必要としていた。こうした背景の下における成都の事前救済事業は、結局のところいかなるものであったのだろうか。本文は、20、30年代の成都の慈善団体の発展概況に対して、慈善内容などの点における様子の考察を通じて、成都慈善事業の発展状況およびその特徴の輪郭を描き出していきたい。

(1)1920~30年代の成都の慈善団体概況
 1920~30年代は、一片乱象の中に置かれた四川省政府は、財政は不足し、社会救済を省みる暇もなく、未だに貧困を救済する主要な責任を担っておらず、民間の慈善団体に依拠して貧窮問題に対して限られた解決を行っていた。
 筆者の統計によれば、1920年~40年の間の成都で相次いで出現して慈善団体は100近くで、こうした慈善団体の組織は多くは規模が大きくなく、政府によって設立されたものは少ない。1939年の『成都市慈善機関調査』の統計によると、成都は全部で66の慈善団体(19が院内救済組織で、47が院外救済組織)を有していた。院内救済組織は6ヶ所の官立の慈善団体を除けば、残りの13か所は全て私立である。そして47の院外救済組織の中で、省会の慈善救済院、成都県救済院のほかは、その残りの45は均しく私立の性質である。47の院外救済組織の中で、年毎に固定的な経費を確保しているのは42、安定した費用はなく純粋に臨時の寄付に依存している慈善団体は5つあり、年の経費が300~2000元の間のものが多数を占めている。15の院内救済機関の年の経費は1200~42000元の間にある。さらに院外救済機関の一部は基金・恒産もなく完全に臨時の寄付で慈善活動(善挙)を運営している。たとえば光緒年間に成立した体仁慈善会は、「一切の経費がみな募集によるものであり、みな頑張って普及に努めた」という。1930年に華陽県にある南華宮で設立された楽善会は、全て運営者のその時々の寄付金に依存していた。たとえ基金や恒産を持つ院内救済機関であっても、日常的に経費不足の逼迫に直面していた。
 成都の事前機関のなかには、歴史的に伝えられてきた古い善堂や善会もあれば、新しく設立されたものもあり、1920~30年代の成都の慈善団体の数は比較的大きく増えていて、特に30年代には新しく設立されたものが比較的多く、そのなかで1932年だけで18ヶ所も新しく設立されたが、これは新規設立が最も多かった年であり、その次は1936年で、9ヶ所設立されている。これらの新興者の多くは規模が小さな民間善会・善堂であり、官立はほとんどない。
 民間善堂・善会の発展と相反して、1919-1935年に成都防区制政府は、慈善組織を設立して貧窮問題に熱心に対応しなかっただけではなく、普済堂、育嬰堂、育嬰堂、全節堂および如幼孩厰、済貧厰、民生工厰等「堂厰」といった、数が多くない官立の慈善工場を郷紳の運営に任せていた。例えば、尹昌齢が運営している慈恵堂は、後に手を広げてこの堂が引き継いだ善堂と慈善工場は、その前身はすべて官立の性格を持つものであった。こうした局面の出現は、時局の混乱で政府は社会救済に関与する余裕がなく、官立の慈善組織の弊害が非常に深かったことのほかに、おそらくは成都の郷紳集団の社会的影響力も関係している。民国初期の上海の「遺老」の政治的影響力が日に日に周辺化していくのとは異なって、成都の郷紳はほとんど清の時代に功名を得ており、民国後は十分に新しい地方政権として認められなかったが、政府と対立することもなく、彼らは四川社会において非常に高い地位にあり、同時に一定の政治影響力を備えており、社会的な物事の点でも非常に高い発言力があったが、こうした状況は民国初期の中国では非常に珍しいことであった。これらの郷紳は、一部の「余生を酒と詩で過ごす」ことにしか関心のない人以外は、教育事業や社会事業に尽力した。そのなかで慈善事業は、成都の郷紳が政治から引退した後の一つの選択であった。尹昌齢はこうした一人であり、彼は1916年に四川政務庁の庁長に任命された後、「蜀の中は面倒事が多く(蜀中多故)、人に従うことを欲せず、ついに地位を譲って去り、専ら慈善事業につとめた」のである。こうした背景があったことで、政府もこれ幸いと官立の善堂を郷紳の運営に委ねたのである。

(2)成都の慈善団体の慈善活動
 1920~30年代の成都の慈善活動は、民間の性格のものが多く、地方政府は既にこれ以上の「現代」的な社会救済事業を組織する力はなく、慈善事業を整理する余裕もなくなっており、民間慈善団体の慈善活動に対しては、基本的に干渉は加えられておらず、30年代末期になってようやく改革・変化が始まるようになった。1939年の成都市政府工作報告が述べているところでは、成都市は「慈善事業は多く私人の集資で設立されたものであり、名目は繁多で、まだ整理が加えられていない。以前かつて市政府は調査員を派遣し、再三再四訓令を発し、各慈善団体に法に従って登記し、毎月の収入と支出を報告して参考に供することを命じた・・・運営している事業の種類は、施米、義学、義地、恤婺(寡婦の救済――訳者註)、育嬰、保産、養老、施衣などの項目である。どの慈善団体も、その経済能力は全てを取り上げても、数種を選んでも、その状況には偏りがある。このため、各商業団体が運営している事業は皆大同小異であり、緊急に合併・改組して、救済の広い国家を期待する」。当時の人の多くは、施米、義学、義地、恤婺、育嬰、保産、養老、施衣などの慈善活動は「伝統」的で「消極」的な慈善救済であると位置づけていた。
 清の時代を受け継いでいる成都の地方善堂、善会の多くは古い慈善の内容を踏襲している。たとえば嘉慶時期に成立した楽善公所は、民国後に、その慈善の内容が「恤婺、養老、施棺、施米、墓地、医薬、及放生、惜字、保産、利孤、諸業」を含み「省門の善挙で最も久しいものである」。また正心堂は、咸豊20年に成立し、施薬、済貧、恤婺、惜字、孤児などの慈善活動を行っていた。たとえ新興の善堂、善会であっても、絶対的な大部分は伝統的な慈善活動を主とするものである。梁其姿が『施善与教化——明清時期的慈善組織』で述べているように、こうした伝統的な慈善の内容を主とする民間の善会・善堂は、その設立者が懸命に儒家の倫理・道徳の維持し、仁政の実現あるいは仏教の普遍的な救済理念、「陰功を積む」の理想を実践しようとしてきたことを体現するものである。
 当時の人である柯象峰は、1920~30年代の成都の慈善団体の慈善活動に対して分析を行い、成都の院内救済機関のなかで、孤児養育事業や老人救済は「規模が大きくて効果もある」、浮浪者や婦女救済事業は「成績は比較的よく」、そして医薬・衛生、教養は科学化が欠けており、経費は不足しているという。そして院外救済の方面は、多くが旧式の善堂の性質に関係しているものであり、その多くが宗教的な趣があり、業務も多く重複し、科学管理の方法や専門的な人材を欠き、経費が確定できない、といった特徴があるとしている。柯象峰の評価は当時の社会学会の中できわめて代表的なものである。しかし当時の政治、経済の条件のもとでは、柯象峰の指摘する欠陥は解決が難しかった。1920~30年代は、天災・人災が頻繁に発生し、情報が閉ざされた内陸都市の成都では、積極的な社会救済観念は未だに完全に形成されていなかった。
 時局が困難な状況の下で、成都地方政府はいまだに救済の主要な責任を担うことなく、民間慈善団体は伝統的な倫理道徳および各種の宗教信仰を借りて人に善行を奨励しなければならかった。そのため、多数の民間慈善団体の経費は寄付によるものであり、寄付を募る重要な手段の一つが「善を行い徳を積む」や因果応報といった仏教思想および民間の信仰を借りて、奨励するというものである。とくに善堂、善会のなかには、宗教観念を借りて汚職・舞弊の発生を減少させるものもあった。黄稚荃が『尹昌齢伝』に記載しているところでは、慈恵堂は当初は古廟であり、廟内の霊官・神像は捨てられることなく保存されており、「先生(尹昌齢――原著註)は霊官は非常に役に立つと考えて、朔望(月の1日と15日――訳者註)になると必ず厳粛な態度で衣冠・焚香して敬礼し、堂内で財物を窃盗する事件が起こると、怪しい者に対して、役人を派遣して脅しても全く恐れないが、彼に霊官の前で大きな声で宣誓を読み聞かせれば、彼はたちまち恐れて、闇に窃盗した財物を放り出し、あるいは頭を打ち付けて過ちを認めて、今後の神の加護を求めると(求観後効)、先生は必ず密室に呼び入れて、慰教して盗んだことを隠し、これ以上明らかにはしなかった。これによって、罪を犯すものは日に少なくなっていった」という。

(3)1920~30年代の成都の慈善事業の新しい変化
 1920、30年代の成都の慈善事業の多くは伝統的な「消極」の慈善活動が主であるが、明・清の善堂とは異なる変化も出現していた。とくに救済観念の面で、民間の慈善団体の運営者だけではなく政府もが、次第に当時唱えられていた「積極」の救済観念を認識するようになり、そして「消極」の慈善活動は改革・除去され、伝統的な善堂、善会の教化の機能も次第に薄まっていくようになった。これと同時に、新たな社会情勢に対応するために、既存の慈善活動の内容も、変化が生まれたり強化されたりして、さらに専門に新しい貧困集団に対して設立された慈善組織が出現した。
 成都の郷紳である尹昌齢は慈恵堂の『特刊』のなかで、この善堂は消極の慈善活動に「偏重せず」ことを言及しており、一時的な「救済」から「生存の扶助」に転換し、重点を鰥寡孤独、障害者、浮浪者、難民の根本的な救済に置こうとするものであった。尹昌齢は盲童教養所を運営している時に、フランスのカトリック教会を模倣した孤児院の考え方を披露し、伝統的な慈善の人士は外国の慈善活動の理念と「現代的」な救済事業を認めるべきだと述べている。1934年に成立した意誠助善社は、「迷信を尊ばず、純粋に実際上の救済に給仕し、経典の朗読や呪文を唱えるなどの古い習慣は、すべて取り除かれる」ことを言明している。
 この時期、政府も「積極」的な救済の主張を推進し、何らかの「消極」的な慈善活動を改革・除去しはじめている。1929年に国民政府が公布した『監督慈善団体法』第二条の規定によれば、慈善団体はその事業を宗教上の宣伝に用いてはいけないとされていた。1936年に政府の意思を強く代表した四川善連会が派遣したメンバーが各地区を視察し、善堂、善会を整頓し、法に反して怪力乱心を語っている現象を取り締まっている。放生会は1930年代も次第に取り締まりに遭うようになっている。1937年の『警務月刊』に記載されている長年にわたる成都の放生会の状況を記して、はっきりと「省では毎年旧暦4月8日(つまり新暦の5月17日)、放生会が挙行され人民の習俗となって既に久しく、会の時期には東門から九眼橋まで沿道および川の両岸は見物客が山のような人だかりで(堆積如山)、肩と足がぶつかり合い(肩摩踵接,)、万頭攢印(?)、交通と治安を妨げている。この迷信を打破して節約の時代であることを提唱するだけでは特に適切ではなく、外東五分局に厳しくやめるように命令し、そしてこの地を出入り禁止にして違反したら逮捕する」と、会の挙行の禁止を命じている。
 部分的に伝統的な活動が有していたところが改革・除外されたほか、もともと伝統的な慈善活動に属する部分の内容それ自体も変化が生じている。例えば、明清時期に盛んであった義学の授業内容は、主に科挙受験に対応したものであった。民国以降、科挙制度は廃止されたとは言え、義学は依然として大量に存在していたが、義学の授業内容には既に変化が生じており、これは成都慈恵堂と中西組合慈善会所が運営している義学課程表のなかに等しく体現されており、識字、珠算、筆算など、少数の資質の特に優れた孤独・貧困の子弟は、慈善組織から彼の能力を高める所へと送られ、特に多かったのは基本的な教育を受けた後に工科で技芸を学んだり、あるいは商店で徒弟になったりしたものである。義学は孤独・貧困の子弟の将来ために一定の条件の提供しようというものであり、これは根本救済の思想が慈善活動の実践に反映されたものである。
 この時期、成都ではさらに社会人士と中国・西洋の教会人士が合同で善会を運営するという状況が出現し、1921年に成立した中西組合善会はその事例の一つである。地方の善会・善堂と比べて言えば、中西組合慈善会の組織・制度はより健全なものであり、その慈善活動の内容(つまり孤老や孤児の収容、工科の設立は行うが、施棺や施義地などの活動は一切しない)は、当時の人の言う「積極的」な救済の基準により適合するものである。その会を中心的に運営している者――つまり地方社会人士の多くの教育的な背景は伝統的なものであり、それに対して中国・西洋の教会人士の教育的な背景は一般に比較的高い西洋式のものであるが、ここからわかるのは、社会問題が次第に激しくなっていくに従って、慈善活動における教化の目的はもはや重要ではなくなっていき、救済それ自体が次第に主要な地位に上昇するようになっていくことである。
 このほかにも、1920、30年代の成都の民間慈善団体は次第に厳しさを増してくる貧困問題に対応するために、何らかの慈善活動に対する実行力を強化していった。比較的目立った活動が、無利子の融資によって貧困者が小さな商売で生計をたてられるように援助することである。1930年代までに、非常に多くの慈善団体がこうした融資を行い、あるいは融資の範囲を拡大していった。1932年鼓楼南街の玉参善堂は「最近生活が日増しに赤貧となり、小民の多くは生計をたてるすべがない」ことによって、「資金を集めて無利子の融資を実行」し、「小さな経営で資本の不足に苦しんでいる場合、借りたければ該当する店舗は受けることができる」。1934年成都市の東益慈善会は「年来の農村経済の破産によって、郷村の農民は失業して都市に行って生計を立てようとする者が日増しに増えており、ましてや社会経済が農業の影響で破産した、都市の失業人民などは皆どこでもこうであった」ので、「元から存在した無利子の借貸所を拡大して運営し、以前は一株銅元5千だったのを大洋銀5元に改めたことで、資本に比較的余裕が得られ、様々な小さな商売を企画・経営できるようなった」という。1939年までに、成都で無利子の融資を行っている善堂・善会は15にのぼった。
 民国時期には、さらに新しい特殊な救済の現象も出現している。辛亥革命後、旗人(清朝時代の満州人貴族――訳者註)は政治・経済の特権を喪失したが、多くの旗人は生存のための技能を持たず、衣食に事欠き、新しい貧民階層に転落していた。旗籍の貧民は救済を必要する特殊な集団となっていたのである。1914年に四川巡按使は「少城の旗民は老弱・廃疾(病気・身体障害)により生活困難な者が非常に多い」ことにより、財政庁長に命じて銀千元を施米局に与えて旗籍貧民を救済している。さらに同時に、旗籍貧民を救済する専門機関が成立し、少城祠堂街に旗籍貧民生計委員会が成立し、その救済対象は鳏寡・孤独で困窮した無告の旗民であり、その慈善活動は義捐金や施医、施薬などであった。1933年にはさらに「旗籍貧民慈善会」が成立し、その中身は育嬰、借貸(ローン)、施棺、恤嫠(寡婦の救済)の四つであった。少城西城根街の同仁工場は、民国初年に旗民の生計の困難(艱窘)のために設けられたものであり、省政府が直接に管轄し、財政庁から経費が分割して支払われ、年間で72034元にもなり、その南と北の二つの工場の規模は大きくて効果も著しいものがあり、収容人数は700~800人であった。1934年には、同仁工場は成都の公安局によって接収され、そして游民教養工場に改造されることになった。30年代中・後期に至るまで、貧しい旗人を救済する専門組織は次第に消失し、あるいは二度とその役割を復活させることはなく、特殊な集団として極めて重視されていた旗籍の貧民は、その地位を失っていくことになった。

--------------------------------------------------------------------------

 民国期の四川省における慈善事業の概説的な論文。残念なことに註と文献が抜けている。

 譚緑英は上海托普信息技術職業学院に所属する歴史学者で、民国期の社会事業史が専門である。四川では慈善事業における政府の役割がきわめて弱く、多くが郷紳に委ねられていたことが指摘されているが、これが中国全体の特徴なのか、今まで地方ごとの政府と郷紳の役割の大きさや関係性の違いについてきちんと考えてなかったので、今後は注意して見ていきたい。

突発事件の中の国家-社会関係

2012-06-05 22:30:37 | Weblog

耿曙・胡玉松「突発事件の中の国家-社会関係――上海基層社区「抗非」の考察」


耿曙・胡玉松「突发事件中的国家—社会关系:上海基层社区“抗非”考察」『社会』31巻(2011年6月)
http://www.sociology2010.cass.cn/upload/2012/04/d20120412164432131.pdf


 ・・・・・・・・

4 「SARS予防(抗非)」期間の「強国家-弱社会」の制度的な根源

 国家/社会関係に関する解釈を全体的にみると、Lee(1989: 191)は、国際システムの視角から、発展段階の国家は「強国家。弱社会」のモデルの形成と解釈し、「国家」の「社会」に対する主導性は、国家が資本主義の世界に巻き込まれている一つの必然的な結果であると考えている。しかし、どうして類似した背景の下にある国家が、その「国家-社会」関係ではかえって全く異なるものになっているのだろうか。Migdal(1989)は、社会構造の角度から「非国家的なアクター(non-state actor)」の有無、社会的階級の連携の形態、そして社会集団の多元的な構造などの社会構造の特徴が、国家権力が社会に対して発展するかどうかを決定しているという。このほか、「国家-社会」関係の角度から「強国家」を理解するものもある(Barkey&Parikh 1991)。つまり、国家が社会に対して高度な「自律性」と「能力」を具えている場合に、国家と社会の相互作用が「強国家」の類型になり得るのだという。上述の観点では、国家の内在的な力が軽視されていたり、社会構造の影響を強調しすぎていたり、あるいは「国家中心」が目立ちすぎて、解釈上は「循環論証」のきらいがある。このように、研究の中で明らかになっている「強国家、弱社会」の構造は、国家の動員とそれに対する応答という統治の方法を見ることができるが、しかしどうして国家は一旦行動に移すと、即座にかつ充分にその意志を貫徹することができるのだろうか。その根本的な原因はおそらく、国家権力の「制度的な基礎」にある。筆者は、突発的な危機に直面するプロセスのなかで、国家が大体においてこの危機に乗じて、合法性をはっきり示し、かつ強化しなければならず、国家の権力が進展かつ強化された結果、もともとのわずかにあった社会空間もほとんど吸収され尽くしてしまったことを明らかにした。ここから理解できるように、「強国家-弱社会」を維持する鍵となるメカニズムは、国家の「認知的な構成物(认知建构)」に対するコントロールと「参加ルート(参与渠道)」の規制にある。上述の「心理」と「構造」の二つの経路を掌握を通じて、「国家」の絶対的な権威が塑造されて、「社会」は「国家の権威」を信頼されているために譲歩していくのである。

(1)構築されたルートのコントロール

 いかなる危機と災難に直面しても、問題の解決は社会の安定を維持するもっとも重要な経路である。「非典(SARS)」の時期、国家はメディアの掌握を通じて、文章で呼びかけを行い、および自らの行動を決定し、公衆にリスクの認知を行った。具体的には、最初は官あるいはメディアの感染症の情報に対するデマの一層であり、次に、外からの圧力に直面した時に、例えば高官が検疫や隔離といった措置を取りやめるなど、政府が戦略の転換を行い、最後に、イデオロギー的な傾向をもったメディアの自由な報道、そして国家の力強い行政的な動員と厳しい監視が、公衆に対処すべき危機を感知させ、国家を信頼するようになる、というものである。

1 テーマの構築――リスクの限界
 「非典」の初期は、様々な原因のために、政府は情報を封じて、メディアの報道も比較的少なかった。当時は報道が少なくても、その立場は民衆の感情の安定にあり、社会的な動員によるものではなかった(于海 2004: 36)。戴雲光など(2004: 329)は、「非典」期間の中国の主流メディアの感染情報の報道に対する内容分析を通じて、主流メディアがSARSの報道のなかのテーマ設定は「実質的には政府が行った」ものであると説明している。例えば、感染情報の初期は、政府は虚偽、遅い、隠蔽した報道であり(燕爽 2003: 10)、政府は全く民衆にSARSに関する本当の知識を知らせず(陳升 2003: 141)、社会上にはデマが広まり、人々は不安で落ち着かず、政府は表に立ってデマを否定せざるを得なかった。こうしたデマを否定する仕事は、一定の程度において人心を安定させた。一人の住民は、「親戚や友人は広東で非常に珍しい伝染病が広まり、死者も出ていることを知り始めたが、当時は笑い話にしかならず、自分は深刻にとらえていなかった。政府やメディアが大規模に宣伝し、自分もようやく深刻にとらえはじめた」と語っている。しかしその後に「非典」が蔓延し、国際社会からの圧力がどんどん強まり、政府は対策と調整を行いはじめた。まず、衛生部長の張文康と、北京市長の孟学農は、二人とも罷免され、その後様々なメディアの「非典」に対する報道は短期間のうちに透明度が高まった(陳升 2003: 35)。政府は受動的な対応から積極的なものに変わり、政府の誠実さと政府の責任のイメージを回復した。こうした転換に従って、主流のメディアも再度世論を主導する能力を得るようになる。
 この世論の転向の影響を受ける形で、住民たちはついに危機が焦眉に迫っていることを認識、社会全体が感染症の情報に覆われていった。香港と台湾の地域のメディアが社会的な恐慌を助長した事実に比べると、上海は住民がSARSがに各個人自らの生命に影響していると感じていたものの、過度な恐慌は全くなかった。たとえば、一人の社区の住民は、「こうした厳しい監視があり、そして上海市全体では数例の患者がでただけで、心配する必要がなく、(私と家族)の日常生活は依然いつものように外出し、全く何の影響も受けなかった。(HDLG大学G教授のインタビュー)。
 このほかに、インタビューしていくプロセスの中で、依然として少なくない住民が繰り返し強調していたのは、その感染症の状況は特に深刻ではなく、住民生活への影響も限られたものである、というものであった。ここから理解できるのは、初期にデマが四方から起こったときの政府のデマの否定であろうと、後期の感染の状況を確かめた後の政府の全面的な介入であろうと、メディアの報道合戦と評価は、一定程度において人心を安定させていたことである。しかし、公衆の「非典」に対する認識は主には各種のメディアの報道によるものであった。そして客観的な「非典の感染情報」から主観的な「住民の実感」の間には、実のところ「メディアによる構築」のプロセスが存在していたのである(He 2004,Ma 2007)。香港・台湾の似たような大きな恐慌は、その究極の根源には、実のところ大げさで節度のない推測によるものであった(丁学良 2005)。

2 応答の構築――情勢の掌握
 「非典」の危機に応対するプロセスのなかで、政府はメディアが構築する「感染情報の認知」と政府の「積極的な介入、効果的な『抗非』」のイメージを利用し、民衆に政府が完全に危機をコントロールできることを信頼させ、さらには一つの合法的な「失敗」と「発見」のプロセスを経験させたのである。
 ・・・・・・・・・
 中国大陸のメディアは「党政の口舌」であり、情報の源と公開は国家全体の利益に従わなければならない。これは公衆に伝えられる感染情報の報道が、もはや単純な情報の公表ではなく、「社会秩序の維持」を経て、「政権の基礎を安定させる」といったことを全体的に考量した後に、慎重に篩にかけられ構築されるのである。こうした選別と構築は、住民の様々な認知を左右することができ、公衆のこれに応じた対応の行動を制約するものであった。このように、メディアが「事実」を構築するチャンネルとなったことは、明らかに「非典」期間の「強国家-弱社会」の重要な要因の一つである。

(2)参加のチャンネルの緩和

 国家の「事実を構築する」ことの出来るメディアに対するコントロールが、住民がリスクに対して恐慌を生み出すことなく、国家に対して信頼の心を寄せたことは、社会の自力救済を消弭(?)し、自発的に参加する第一の何重のメカニズムである。しかし住民がたとえ自主的な集団行動を発揮することができたとしても、依然として以下の「制度的な拘束」を受けている。つまり、近隣ネットワークの散漫、居民委員会と近隣とのネットワークの乖離、居民委員会のネットワークの吸収、および居民委員会のネットワークの排除など、「障害(截阻)」と「コミュニケーション不全(疏通)」の下で、「国家」のほかに参加することは容易ではなく、「国家」の中のチャンネルはスムーズであった。住民の社会参加か、あるいは国家に対する信頼による国家の配置への服従か、あるいは国家の構築したチャンネルの中に入っていくのか。こうした制度上の構築は、社区の「強国家-弱社会」の別種の重要なメカニズムである。

1. 近隣ネットワークの散漫
 社区の住民の自発的な行動は、大体において住民が既に持っている社会的なネットワークに依拠する必要があるが、経済体制の市場への転換において、政権が主導する「社区建設」のプロセスの中で、住民の近隣のネットワークは不断に弱体化しており、都市社区のなかの社会関係資本(社会资本)のストック(存量)はどうしても低い。Putnam(1993)の観点によると、社区の中の各種の協力あるいは集団行動は、メンバー間の相互の信頼によるものであり、この種の人間関係の信頼は長期のネットワークの連繋によって形成されるものである。もし住民の間に相互作用が欠けていれば、近隣の間の社会関係資本のストックは非常に低く、信頼関係を養成することができず、協力のメカニズムを形成することも難しくなる(Putnam1993, 1995; 福山 1998)。特に都市化プロセスと住宅体制改革の後は、伝統的な近隣関係が破壊されたあと、都市住民のそれぞれの要求は主に市場の満足によるものとなり、活動の場は多く社区の外で、社区はもはや所謂「公共活動の空間」ではなくなっている(HDLG大学Z教授インタビュー)。ここから理解できるのは、近隣間の往来と相互作用は日に日に少なくなっており、近隣関係の重要性は日に日に下降し、都市社区はもはや伝統的な意味での「生活共同体」ではなく、より「互いに関わらない近隣」に近付いていることである(桂勇、黄栄貴 2006)。
 「非典」の時期、既存の社会的なつながりが欠如していたために、個々の住民は既に「公共事務」に参加する情熱をなくしており、近隣の間も信頼と協力の基礎を欠如させており、いったん「非典」のような感染性の高い病気に直面しても、社区の住民は自らを救う集団行動を組織することができなかった。このように、原子化された近隣の構造と、断片化された基層社区の条件の下で(Goldman&Macfarquhar 1999: 17)、「抗非」は政府組織に頼ることしかできなかったのである。

2. 行政-近隣のネットワークの隔絶
 西洋社会では、都市コミュニティの住民会は利益志向であるため、公共的な参加、近隣の相互作用と感情などの点で差があり、コミュニィの内部では分化が出現している。中国では、国家主導の「社区建設」であるため、居民委員会は国家の小さな地区のなかの代表となっており、社区の公共事務の処理において抜きんでていて(一枝独秀)、社区空間のは次第に居民委員会を中心として、次第にその圏内と圏外とで二つの大きな陣営を形成している(闵学勤 2009a)。
 社区における「抗非」の「二元構造」、つまり居民委員会幹部とマンション組合長(楼组长)を中心とする「社区行政ネットワーク」、「抗非」の行動の外に遊離した普通住民など、各々独自の構造を形成していた。しかし、このような構造は、日常における社区ガヴァナンスのネットワークの延長線上に過ぎない。筆者の調査によると、上海社区の基層ガヴァナンスの構造においては、「行政ネットワーク」と「近隣ネットワーク」がもともと相対的に疎遠であり、特に新しい分譲住宅(新式商品房)はより顕著で、一般住民の社区居民委員会は相互行為が比較的少ない。ある住民が言っていたように、「多くの住民は居民委員会の幹部が誰なのかも、あの人たちが何をしているのかも知らないし、居民委員会と自分が大した関係はないという感覚で、居民委員会の幹部が気軽に住民の家のドアをノックすることなど出来ないし、そんなことをしたら住民の反感を買うだろう」(FD大学[おそらく復旦大学――訳者註]X教授インタビュー)。たとえ上級に割り当てられた事務(必要な任期満了による選挙(换届)の仕事など)に基づく接触が多くても、交流とコミュニケーションは非常に少ない。しかし別の方面では、「居民委員会の幹部-積極層」の間の相互行為は頻繁で、そして住民委員会幹部も意識的に積極的な層との連絡と情誼を持ち、平日にも各種の交流と参加の呼び掛けを不断に行っている。言い換えれば、近隣と行政ネットワークは、散漫なものもあれば、緊密なものもあるのだが、双方は大体において隔絶しており、出会いと交流が欠けている。「居民委員会の幹部-積極層」の間の社区ネットワークは、国家機関と近隣社会とを連結させる有力な紐帯であるが、閉鎖的になる傾向があり、出会いや住民近隣間の横のネットワークを支援することなく、縦と横の交錯する信頼と協力の関係を構築することも出来ていない(刘春荣 2007)。

3. 行政ネットワークの吸収
 街道の展開した「抗非」工作を受けた後、社区は居民委員会の幹部を中心として、社区の積極層を動員し、居民委員会の「抗非」を協力・支援していった。彼らはお互いの付き合い(人情)の関係から来たものか、あるいは社区サービスの責任の所在から来たもので、その後に「抗非」の隊列のほとんど全てに参加している。言い換えれば、危機への対応の必要に直面すれば、国家は街道と居民委員会の「命令-服従」のシステムを強化し、居民員会の動員を借りて、住民の中の積極的な層の緊密な団結を社区の「行政ネットワーク」の中にとりこんで、「行政ネットワーク」が一部の住民を吸収していくことを通じて外に拡大していく、というものである。
 インタビューによると、多数の社区の住民は普段は社区の事務に対してきわめて無関心であり、積極的な参加・活動はなかったが、「非典」のリスクに直面し、彼らの多くはすぐに疑うべき情報を行政システムに対して報告し、監督と通報の役割を忠実に演じ、国家の「全民相互の監督と通報」のシステムの一環と(陈升 2003: 43)、「抗非」システムの最も圏外の「サイレント・マジョリティ」となった。この角度から見ると、SARSという突発的な事件を借りた国家の成功は、まさに住民の「小我」を「社区-国家」という「大我」に吸収・包摂し、国家の統治における正統性の基礎を拡大・強化したのである。

4. 行政ネットワークの排除
 体制の外の様々な社区の組織は、もともと比較的曖昧な空間のなかに生存しており、いったん社会の情勢が比較的緊張すると、こうした組織は社会の安定の脅威として看做されることが有り得る(毛寿龙 2003)。
 これについて、一人の住民は婉曲に「住民自身が組織をつくる(『抗非』)ことは、余計な面倒をつくり出すかもしれないので、住民はたいていあまり望んでいない」と語っている(PY居民委員会インタビュー)。非常時の下で許容されている「余計な面倒」は、住民がいかに表現しようとも(有所表现)、大体は組織的な活動を忌避することがあり得る。似たような情況の下では、住民が利益を拡大しようとする要求であっても、かえって「組織化する」という行動戦略を好み、不要な心配を避けようとすることも有りうる。(陈晓运 2010)。
 以上のように、上海の社区は「非典」の時期に「強国家-弱社会」の構造を表しており、それは主に上述の「チャンネルの構築を統制すること」と「チャンネルへの参加を規制すること」という両者の共同の構築によるものである。まさに住民が感染のリスクや評価、対応手段を理解しはじめていた時、国家が主導する「メディア構築」は、もっとも重要な役割を演じていた。つまり、一方では危機のリスクを和らげて社会の恐慌を防ぎ、他方では危機への対応が成功したことを顕彰して民衆の国家に対する信頼を構築し、国家の強い力と地位を守ったのである。住民は近隣のネットワークが散漫であったり、行政と近隣の近隣とのネットーワークが隔絶していたりしたため、行政のネットワークによる吸収あるいは行政ネットワークによる排除を通じて、体制内のコミュニケーションをスムーズにし、体制外の様々な組織の参加を抑圧して、住民の参加を国家が配置する集団的な努力の中へと導こうとした。一度このような「締め出し/円滑化(防堵—疏导)」の作動が成立すると、国家の危機における凝集力と合法性が、また再び高まっていくことになるのである。


5 結論と討論
 
 本文の趣旨は上海の社区の「抗非」の動員を例として、中国都市基層の国家-社会関係を観察すると同時に、こうした観察を借りて、さらに国家-社会関係が拠って立つ制度的なメカニズムを探究することを期待するものであった。上海の「抗非」の事例の調査に基づいて、本文の主要な研究で明らかにしたのは、二つの点に帰することができる。

 第一に、「非典」が襲来した期間は、たとえ感染が住民の切迫した利害に関わっているとしても、上海の社区のさまざまな「抗非」の動員は、国家の全面的な主導によるものであり、住民が自発的に参加することは少なかった。もし、作者の系統的な調査であるPY社区とKS社区を例にとると、二つの小さな地区は持ち家の権利、住民の特徴、社会連帯、社区のアイデンティティや権利意識などの点において天地の開きがあるが、「抗非」の動員の組織においては、二つの社区は本質的な違いがない。

 第二に、「抗非」のプロセスにおいては、国家権力は社会への浸透や住民による認可の点で大幅に増強され、「強国家-弱社会」の関係の構造を表現しているだけではなく、この構造がさらに一層強化されている。言い換えれば、上海の社区の「抗非」の経験によって、国家、社会は「同じく場を共有(同时在场)」し、相互に切磋琢磨し合った結果、「国家・社会の相互強化」論が予測したような、双方がお互いを形成かつ強化していくようなものにはならなかったのである。「非典」期間の上海の事例が示しているのは、基層の動員は国家の強い力によって主導されており、住民は自分を守って引きこもったり、国家の動員に加わったりなど、国家-社会の能力の消長の軌跡がはっきり見ることができることである。

 さらに上述の発見の意義を分析し、我々は以下のいくつかの問題に焦点を当てなければならない。最初に、比較の視角から見ると、伝統的な視点では、非常の危機に置かれた「国家」は、大体において弱体化していき、この時に「社会」が一定の「自由組織」と「自主活動」の空間を獲得することができる、と考えられている(Skocpol 1979)。このような予測や期待は、「非典」期間の香港・台湾の地区で発生しているが、その状況は筆者の調査した上海とは大きくかけ離れている。その中で重要な鍵は、上海の危機はとくに危機の発生源である広東や全面的に爆発した北京に比べて、「後に来た(后至的)」ことにある。北京と広東の事例の中で、「国家」は確かに模索の段階でかつ受動的な対応に置かれており、この時の社会組織は、部分的に役割を発揮することもあった。しかし、一旦「国家」が明確な対応の方法を提示し、そして全面的な動員を展開すると、たちまち情勢を掌握することができ、そして次第に代替していた社会組織の役割を抑圧していった。上海の社区の危機は「後に来た」ものであり、上述の「衝撃-応答」のプロセスに置かれるなかで、上海は初期の「手を放す」段階を経ることが全くなく、はじめから国家の主導によって、様々な民間の組織が与えられた役割を最低限演じていったのである。

 次に、突発的な事件の中に置かれて、国家はどうして介入に急いだのであろうか。このことについて、学者の間では二つの異なる解釈がある。ひとつには「機会命題」であり、つまり国家と社会がお互いに主導権争いをして、前者が全ての機会を利用して、コントロールを試み、後者を圧倒していくというものである(Skocpol 1985)。つまり、社会の危機は突発事件の中の国家-社会の関係に絶好の機会を提供するのであり、国家は必ずそれをつかまえてその地位を強化しようとするのである。もう一つは、「存亡命題」というものである。つまり、これは国家が挑戦に直面する際に、まだ対応するだけの力がなく、その身に疑問、圧力を受け、さらには国家本体の存続にまで危険が及ぶというものである(Shue 1988)。このように、社会的な危機に置かれると、国家が身に四方から圧力を受け、過度な期待を背負わされ、困難に果敢に立ち向かわ(挺身而出)なければならないのである。

 この二つの異なる解釈で、結局のところいずれが正しくて間違っているのだろうか。最初の「機会命題」は検証できるものではなく、我々は実地の調査・研究の中で、先に述べた「存亡命題」を支持する大量の事例を発見した。そのため、先に述べたように、「非典」初期の上海では、社区の中では実のところ一部に「パニック」と「非難」があり、両者が相互にうねりをあげて強まっていた。つまり、住民がパニックになればなるほど政府をますます非難するようになり、そして政府が対応できなくなって、内心はさらにパニックになっていったのである。言い換えれば、「国家に依存する」という陋習の伝統の下で、民衆は「国家」の期待と圧力を加え、しばしば国家を対応に立ち上らせざるを得ない。結局のところ、「大政府」の伝統が、「無政府」のパニックをさらに強烈で切迫したものにさせ、国家機関の拱手傍観や、社会組織による役割の代替を許さないのである。このように、「非典」の期間、突発的な危機に置かれることで、国家は困難のために立ち上がり、この危機を借りてその統治能力を証明かつ強化し、民衆からその権威と正統性を勝ち取ったのである。

 もう一度、国家はどうしてその意志を貫徹することに成功したのだろうか。我々の分析によると、危機の下に置かれると、国家はメディアのコントロールを行い、「議題設定」のチャンネルを掌握し、住民の「感染リスク」と「対応の成功」に対する理解に影響を与えている。さらに、国内はこれまでの「社区建設」が「国家中心」を強化する居民委員会のネットワークを通じて、「社会自生」の近隣ネットワークを委縮させ、効果的に社区のなかの「社会参加」のルートを規制していった。この二つの力を通じて、国家は社区の「抗非」の努力を掌握しただけではなく、十分に「社区」と「単位」を結合させ、体制外の様々な社会組織を「疑似単位」化し、社会全体を「社区建設化」(単位化/ネットワーク化)しそこから一つの完全な国家による主導と、基層社会と社会組織が結合する「抗非」のネットワークを打ち立てたのである。上述の二つの制度的なメカニズムに依拠して、国家は徹底的に「社区建設」より前の目標を強化し、「国強社弱」の関係の構造が自然とできあがる結果となったのである。

 当然、これとは反対に、もしこうした「制度的な基礎」が決して堅固なものではない場合は、社会の自発的な組織が依然としてなお機会と空間を有している。たとえば、我々が明らかにしたオフィスビルの「抗非」の事例では、「非典」の初期においては、政府がまだ対応・措置をとっていなかった時に、我々は社区のなかの一棟のオフィスビルを研究し、「抗非」の自発的に組織化することに成功し、効果的に「非典」の侵入を防いでいた。そのビルは外資の経営に属していたものであったため、商業サービスを主として、街道、社区は一貫して介入は比較的少なく、それに加えて国際社会と香港・台湾などの地域との関係は非常に盛んであり、情報の流通も遮るものがなく、国家が情報を篩にかけて審査する前に、既に高度な警戒が進んでおり、主体的に組織の職員が「抗非」していた。たとえば、入室カードを自ら作製して勝手に入ってくるのを防ぎ、職員が交替で当直し、飲料水配達員や郵便配達員を応対するなどであり、もし出張に行く職員がいる場合は、強制的に自分で隔離しなければならなかった。このように、情報の流通がまだコントロールされておらず、参加のルートも規制を受けていなければ、民衆はみずから「抗非」を組織することは全く可能なのである。いったこれが可能になれば、社会はみずから組織する能力を発揮することができ、もはや国家の主導によって対応することなく、社区のなかの「国家・社会関係」は、双方が力を合わせて相互に強化される方向に向かい、単なる国家による支配に委ねることに終始することはなかったかもしれない。

 最後に、本文の最初に提示した「国強社弱」の命題に戻っておきたい。もし別の角度から観察すると、「国家」がもし「社会」と相互にかつ共同で発展するものであるとすると、住民の公共的な事務への秩序だった参加は、主体的に切迫した需要を反映したものであり、まさに政府の管理コストを低下させ、政府の施政の偏りをなくし、「善治」に向かう重要な鍵となるに違いない。しかし、こうしたガヴァナンスの方向は、上海の社区のレベルでは、現在のところ完全に開発・活用されていない。上海の「抗非」の経験によれば、力の強すぎる国家が、事実上「社会」の成長・発展を抑圧しているのである。

 先の文章で言及したオフィスビルの「抗非」の事例は、一つの典型的な例証となっている。まさに「国家」がまだ組織的な行動を展開していないとき、当のオフィスビルの職員は自発的に「抗非」を組織し、効果的に「非典」の侵入を防御していた。しかし逆にその身を社区において見てみると、同様の自発的な行動が欠けているために、国家が「行政動員」展開してから、既に絶好の感染防止のタイミングを失ってしまい、感染事例が生まれてしまうことになった。このように、社会がもし自発的に対応でき、同時に国家の計画が組み合わさることができれば、最も理想的な国家・社会の関係となることができる。もし、さらに考察を進めると、このオフィスビルが外資という背景を持っているために、SARS時期に香港と台湾の情報に接することができ、それに加えてそれ以前から社区組織の介入が少し存在して、ビルのなかの人間関係の相互行為は頻繁であったために、ずその場所の社区が自ら「抗非」の行動を組織することができたことがわかる。しかし残念なことに、この種の自発的な組織は居民委員会の動員と介入の後に、次第に弛緩して瓦解してしまった。この事例は、国家がもし社会の力が育成して秩序立てて公共事務に参加し、社会と手を携えて発展することができれば、公共の危機への対応により有利になることを、ほとんど明らかにしている。同時に、強力な国家の外に遊離して偶然に存在している「社会の自主的な空間」は、国家の強過ぎる指導と支援のために、かえってその自発的な活力を失わせてしまい、長期にわたって甘んじて弱い地位に置かれることになった。このような強弱の構造に対して、国家と社会が相互に強化され、手を携えた協力を促進することが出来るのだろうか。上述の分析によると、国家の強さの理由の重要な鍵は、社会がこれを強くさせている(あるいは少なくともその強さに任せている)ということ、つまり国家が強力であるかどうかの重要な鍵は、ほとんど社会にあるということである。このように我々は社会構造と組織を観察し、まさに国家が強力であるのかを確定できなければならない。我々はさらに、社会の構造と組織は深く国家の権力によって形作られているものであり、強すぎる支援の手が、かえって社会の自主的な空間を抑圧していることを明らかにした。同時に、国家、社会が相互に形作るプロセスの中から、我々は社区の力の育成や、住民の自主的な参加のルートが奨励されていることを見出すことができる。このように、国家の社区の自主空間に対する保護と、社区の自主的な組織の力に対する支援への依存は、まさに林尚立(2002)が示した「弁証法関係」にある。つまり、「国家が場を共有する」という背景の下で、ただ「国家/政党の推進する社区自治を通じてのみ、後者がはじめて発展の機会を実現することが出来る」のである。これは中国都市の基層の「国家-社会」関係に対する透徹した観察と言うべきであり、最もなされるべき提案でもある。中国では、社会は(もしくは社区)の育成は、やはり国家によって「馬に乗せて道案内をする(扶上马,送一程)」ことが出来なければならないのである。


----------------------------------------------

 2003年のSARS騒動を事例に、中国の国家・社会関係を分析した研究。耿曙はテキサス大学オースティン校の副教授。台湾の出身で、中台間の交流に関する研究が多い。http://www.guilainet.com/forum/thread-42908-1-1.html 胡玉松は復旦大学の社会学系の所属とあるが、大学教員なのか大学院生なのか詳細は不明。

 「社区」の概念は90年代から公式文書などでも使われていたが、それが急速に普及して日本の中国研究者にも頻繁に言及されるようなった切っ掛けは、胡錦濤体制が成立したばかりの頃に起こった2003年のSARS(非典)騒動であろう。
 
 この文章では、SARS騒動がメディアを通じた情報ルートの統制と、「社区」を通じた社会参加ルートの規制を国家が全面的に展開するようになり、中国における「強国家/弱社会」の構造が形成されている端緒となったと論じている。そして最後に、そうした国家の主導的な管理とコントロールを通じてこそ、中国における社区および社会の自主的な組織化の力が確立していくことが可能になることが主張されている。その後の胡錦濤体制の安定性を見ると、確かに説得力はある。

 しかし、この手の論文を読んでよく思うのは、国家が強いのか社会が強いのかを問題にするよりも、街道と居民委員会と社区の関係、党幹部と住民のなかの「積極分子」および「消極分子」と関係といった、権力(ここでは社会学的な意味での権力)のネットワークを立体的に描き出すことが先で、国家が強いのか社会が強いのか、というのはその後に問題にすべきではないかということにある。ただそれは、もともとの社会学の市民社会論や国家論自体の問題でもある。

王娟『近代北京慈善事業研究』

2012-05-26 20:53:54 | Weblog

王娟『近代北京慈善事業研究』(人民出版社、2010年)


第4章 近代北京地区の慈善組織  

第4節 救助効果

 ・・・・・・・・・

1 困窮者の「福音」と怠け者(懒汉)の「温床」(181)

 慈善事業の基本的な機能からみれば、貧困人員および様々な弱体集団を救助することは、慈善活動家および慈善組織がつとめて求めてきた目標であり、これは近代国家政府が進んでなすべき(当仁不让)神聖な職責である。生死の境でもがいでいる近代の貧窮人民に対して、形式的に多様な慈善活動は実際に救いの星と福音というだけではない。しかし、近代的な救助の手段は施しから教育に至る過渡的な特徴のために、これらは貧し弱い人々に生活の希望という「福音」を与えたが、同時にまた容易に社会の寄生分子を生み出す土壌となり、怠け者の「温床」となったことは、もともと救済範囲が狭く、救済の水準も低かった近代慈善事業の救助効果は、さらに小さなものとしてしまった。
 積極的な点から見れば、官制の救済機関であろうと民間の慈善組織であろうと、それらの最も直接的な目標と客観的な作用は、大規模な貧民・弱者の人口を救い出し、貧民・弱者の集団の生存能力を引き上げることであった。清末から民国に至るまで、慈善活動家集団から単独の善人・善士に至るまで、政府が全面に出て運営している救済機構から社会の力量で組織された慈善団体に至るまで、数えきれないほどの貴重かつ脆弱な生命が救われ、千万を数える家庭が維持され得たのであり、大規模な貧苦の無業人員が簡単な生計の技能が与えられ、これらは慈善事業の弱者集団を救う強力な機能を十分に明らかにするものだった。

・・・・・

 民国年間には粥の配給所(粥厰)が依然と林立し、直接にして迅速な救助の効果を発揮していた。たとえば民国18年から21年の間には、北京の数十か所の粥厰ではどの配給所も季節ごとに粥を受け取る人数は二十万人は下らず、全市は季節ごとに516.7万人、平均毎日5万人、毎年粥厰を運営・設立する費用は20万元を下らなかったことは、表4-8が示している通りである。これらの粥の施しを受けた貧苦人民は、これによってかろうじて余命を保つ(苟延残喘)ことができ、彼らは「家族ぐるみで(扶老携幼)、まさに熱々の粥を手に持って、しばしば手づかみでこれを食べた。帰る途中には、お互い笑って語らい、微笑ましい雰囲気にあふれていた。粥厰の門前には露店で漬物野菜が売られており、家が比較的遠い粥民は争って買い求め、夜明けの朝日(晨光熹微)の下でそれを食べていた」(張金陔「北平粥厰之研究」『社会学界』7巻、1933年)。
 民国時期の北平千二百貧戸の調査が明らかにしているところでは、約67.42%の家庭が様々な救済を受けたことがあり、救済の状況はだいたい表の4-9のように示されている。しかし粥を受ける以外は、その多くはそのほかの救済を得ることはできず、これは救済形式が単一化している状況を表わすものである。
 教育・訓練(教養)の手段については、貧民と流民に対して生計技能を伝授する新しいタイプの慈善機構が、教育・訓練の人員がきわめて限られていると言っても、こうした救助モデルはかえって長い目で見て意義のあるものとなっている。教育・訓練の救済方式をとる工芸局が若くて体力のある貧苦・無業の人々多く受け入れていることによって、社会の生産力と労働力を保存し、富の持続的な創造を可能にしている。たとえば京師習芸所は光緒32年の4月初1日から開設され、閏4月30日に閉鎖されているが、全部で軽犯罪者2750人、貧民646人、全部で3396人で、かつ収容・養成している貧民も次第に増えている。そのなかには、貧民の任連貴のように舅舅(母方のおじ)に身柄を引き取ってもらったのち、まだ習芸所にとどまることを望んで送還したといった例は少数ではなく、こうした小さなエピソードの戯劇性はこうした教育・訓練機構の実際の積極的な効果を反映したものである。また清末以来二十あまり創設されている龍泉寺の孤児院のように、「教養を図って18年、事業は既に成年になり、各種の技術・知識を備えさせて、自立して生を治めることができ、前後して孤児院を出て社会に奉仕する者は、既に三千余名に達している。
 しかし多くが依然として初歩的な施しであり、単に収容効果を重視するだけの事前救済機関について言えば、それらは往々にして救助を実施すると同時に、実際上は不可避的に一群の社会救済機関に依存して生計を維持するような社会的に寄生した人々を生み出すことは避けられず、それによって実際の救助の効果が大きく引き下げられた。たとえば清末の、貧民の収容と流民の犯罪人の習芸所、一つは徳勝門外の習芸所、一つは広寧門外の教養局は、「両所であわせて600余名を数えるが、技能(芸事)は極めて乏しく、事実技能を身につけた者(習芸者)は百人に満たず、そのほかは飽食に安んじており、苦労して働く者もなく、毎年経費が不足している。いたずらに金銭を浪費(靡)し、享受してばかりであるが(价其享受)、これは乱を推奨して盗を勧めることと何が異なるだろうか。こうした消極的な施しの慈善事業に対して、梁啓超はかつて激しい攻撃を行っている。「慈善事業は、人を懶惰に導き、その依存心を生み出し、その廉恥の心を滅ぼすものである。このように言うのも、こうした事業が日に盛んになっているのに、貧民窟の現状はますますひどくなっているからである」(『新大陸游記』)。


2 焼け石に水(杯水車薪)と模範の機能

 全体的に言えば、清末時期に設立された職業訓練所(工藝厰所)の救済の効果は焼け石に水であり、結局のところ北京社会の秩序悪化と貧困の深刻化の時代趨勢を阻止することは困難であった。これは一方では、慈善救済機関の資金の調達がずっと相当に逼迫(緊張)していて、投入された管理人員も不足かつ素質もより低く、屈辱を与えて虐待を行い、私服を肥やすなどの自ら克服できない現象が頻繁に見られたためであり、他方では、首都北京(京城)の数十万の旗漢貧困人口と数え切れないほど次々と流入してくる流民に比べると、これらの救済機構の教育・養成の対象は常に限られたものであり、多くて二三千、少なくて数十人であり、周辺の州・県の習芸救済機構にいたってはわずか数人で、薊州習芸所は部屋はたったの三間であり、習芸者は三人だけであった。光緒32年に拡充・修建された後も、習芸人員はやはり14名増えただけで、このように救助の力量は微々たるものであったと言うことができる。
 しかし、慈善組織の評判と救済機構の社会的な効果は、決して一時一事の具体的な効果によるものではなく、さらにその潜在的な社会的影響を見なければならない。北京の慈善救済事業の積極的な影響は、その土地およびその土地に流れ着いた弱者集団におけるのみではなく、さらに「首善」の区である北京が全国に生み出している強大な規範性と・・


3 社会進歩の体現と社会的危機の暴露

 時代の環境と制度的制約のために、伝統型でも教育型でも慈善組織と救済組織には、等しく多くの自ら克服できない古い弊害と新しい弊害が存在している。一方では、こうした弊害は慈善組織の救済機能の有効な発揮を妨げているだけではなく、事前救済組織が受ける社会制度的な制約の本質の所在を反映しており、近代社会の危機の深化および社会の弱体集団の増加によって、弊害にあふれている慈善組織は既に社会の需要を満たすことがまったくできなくなっている。他方では、人々の慈善組織と救済手段の弊害が、認識の上で次第に前面に深く入っており、不断に伝統的な慈善組織の立ち遅れと不合理を暴露・攻撃し、大きな力で慈善事業の転換を大きな力で呼びかけ、人々の主観的な意識の点から慈善組織の新陳代謝を加速させ、社会救済事業の進歩と時代の進歩を体現している。このような慈善組織の弊害に対して、弁証法的な程度で分析かつ扱わなければならない。

 清末時期、官営の救済が当時の慈善救済事業の主要な特徴であったため、事前救済機構の弊害は主に管理と経費の両面に集中していた。
「新政以来、往々にして効果は著しくないのに弊はすでに深い。旧時と比べてみると、悪習でしかも理解されていないのは、一つには無駄な費用、二つには無駄な人員である。そもそも自分勝手に遣いすぎること(浮销)を無駄な費用と言うのであるが、収入に応じて支出を決めても、その全てが見た目を立派にすることに使われて全く効果を挙げないことも、無駄な費用という。凡庸で乱れた者を無駄な人員と言い、高い才能を持った時代の俊英で、肩書をあって給料を得ているが、責任がどこにあるのかを知らない者は、やは無駄な人員である。・・・・・」「各省は新政を実行し、その土地で資金集めを行っており、・・・その地方の財政に用いて、その土地の公益を運営している。・・・ただ一省の中にも、州県の貧富には差があり、富貴もまた異なる。・・・・・つまりうまく行っていない州県は、普段から上下の隔たりがあり、行政の資金調達などの仕事にも携わることなく、地方の紳士・董事に委ねている。紳士で賢い者は、面倒なことに関わることを避けようとしている。あるいは公益に熱心で、事業に力を尽くす者もいるが、官の力に頼って輿論の実情を理解できず、さらには籍端抑勒(?)、私服を肥やす者もいる。民衆(百姓)は己のことしか考えず、恨みや屈辱が沸き起こり、流言が至る所に広まり、事変を醸成している」。こうした総括と暴露は、慈善救済組織の中に対しても適用されると言うことができる。慈善的な性質をもった閲報社にも、管理が散漫になる現象が存在していた。

 これらの弊害は深刻な消極的結果を導いている。一方では、政府が扶植かつ依拠すべき社会的な救助の力を大きく挫折させ、「紳士の賢者、あるいは身を清めて引き下がり、あえて関わろうとしない者もあれば、公益に熱心で、事業に力を出し、官の勢力に頼り、輿論を理解できなくなる者、さらには籍端抑勒(?)、私服を肥やす者もいる。民衆(百姓)は己のことしか考えず、恨みや屈辱が沸き起こり、流言が至る所に広まり、事変を醸成している」という厄介な(尴尬)局面を作り出していた(『宣統政紀』巻37、661頁)。他方では、援助を受ける者について言うと、遅れた慈善救済モデルと管理は容易に依存の心を形成するものであった。これは慈善事業の発展の歩みを維持困難にし、救済効果の発揮を非常に大きく制約するものであり、そして実際の救助の効果が、これによってさらに大きく削がれることになった。このように、「一杯の水、何ぞよく群生を普済せん」という、こうした感慨は珍しいものではなく、また非常に的を得た(所言極是)ものであった。結局のところその原因は、「(慈善行政は)名目は多くないということはなく、用意も周到でないということはないのだが、表面ばかりで内容がなく(徒有其表)、範囲は狭くて設置は広くなく、焼け石に水で効果をあげることが難しいだけではなく、弊害を生み出している」。(周成『地方慈善行政讲义』4頁)。
 民国に入って以降は、慈善救済組織内部の弊害が克服されていないだけではなく、かえってますますひどくなっている。1923年、『益世報』は慈善組織内部の弊害に対する暴露を行っている。

 慈善機関の内幕は様々である。最もはっきりしているのは、以下のものである。一つには、職員の採用は世襲制であり、父は子に伝え、子は孫に伝え、私人による運営になっている。二つには、警庁および各警区は乞食を収容し、表口から収容して、裏口から追い出しているが、これは慈善の本旨とは違うものである。この院の巡捕は乞食に対して勝手気ままに(任意)虐待して、実に残虐極まりない(惨無人道)ものである。四つには、少数の理事長が長期にわたって掌握し、誰も責任を負ったり立て直したりする人がいないことである。(「慈善機関黒幕重重」『益世報』1923年10月28日。)

 ここで言われている、公の名のもとに私服を肥やす(因公肥己)、いい加減に対応する(敷衍塞責)、勝手気ままにでたらめに振舞う(任意妄為)などの弊害は、慈善救済の領域の中で普遍的に存在している。有識の士は慈善組織の弊害に対して深い憂慮を表わし、「近年、水害と旱魃による災害と飢饉が全国に遍く広がっており、中外の慈善家で救済を施す者は決して少なくなく、特に外国人の設けている救済機関は信用が明らかに高く、成績が最もよい。中国人(華人)の方面では、もとより熱心な従事者は多数を占めているが、救済に名を借りてそこから利益を得ようとする者も、やはり免れ難い。ゆえに救済の業務の前途に、影響がなくはない」。救済活動の中の弊害は、外来の救済の力量の信頼と賛助を失わせており、たとえば駐華美国賑済会は「何があろうとも、この資金は華人が行う災害救済の用には渡さない」と決定している(「美人処分賑余之計劃」『益世報』1921年10月25日)。

具体的な救済組織について言うと、管理の不備によって、育嬰堂の子供の死亡は非常に多く、そのため「社会では取りざたされていた(人言嘖嘖)」(「育嬰堂小孩死亡何多」『益世報』1923年5月19日)。粥配給所(粥厰)は救済対象を見分ける力がないため、「小康の家が粥配給所で粥を受け取って鶏や犬を飼育する」という現象が常に見られた(張金陔「北平粥厰之研究」『社会学界』第7巻、1933年)。各慈善救済機関の援助を受ける者に対する待遇も往々にして悪く、いい加減に放置されており、きわめて冷酷な待遇であった。たとえば北京の貧民教養院は、「80歳余りの老人に対して、冬の夜は地面に寝かせていた。さらに衣服の薄さや飲食の劣悪さは、状況がますますひどくなるばかりである(每况愈下)」(周震鱗「北平市社会局救済事業小史・北平特別市社会局第一習芸工厰」)。各地に設立された学校は、「過半は前代の旧制を踏襲し、民国十年以来、名目は変わっているものの、その精神の所在は、なお多くは従前のものと変わらない」(「天津急賑会開会紀」『益世報』1922年4月4日)。

 民国時期には昆明市の救済機関に対して調査を行う人もおり、昆明市の男子感化院について、「受刑者(犯人)は豚小屋に住んでいるがごとくで、ベッドも布団もなく、集団で地面に臥し、窓や戸は開けっ放しで、暴風雨による痛みを味わっていた。疾病が流行し、医療・薬の設備はきわめて粗末なものであった。着てる服も全く洗濯されておらず、退院の時は入院の時と同じ服で、ひどいものだと数年あまりも服を着替えておらず、虱・蚤が集まって怪しげな臭いを発する人もいた」。「院長は一度も牢に入って見回ったことがなく、獄吏や巡警は日夜大声で叱り、受刑者は虎のように恐れていた」。40人余りが獄中で老いて死ぬよりも、連名で日本鬼子と前線で戦うことを要求したが、数十日たっても院長に会えなかったので、どうしようもなかった。受刑者は毎月死者が2、30人と自ら語っている。昆明市の救済事業の過半は消極の傾向があり、当然ながら経費が欠乏するところとなったが、しかし政府は真剣に運営せず、専門的な人材の訓練もなく、方法の多くは理に適ったものではなく、弊害は免れ難いものであった(許志致「昆明市救済事業調査」李文海・夏明方・黄興涛主編『民国時期社会調査叢編・社会保障巻』)。事実、これは決して昆明という一地域の救済の状況なのではなく、民国時期の全国的な範囲の救済組織に広く存在していた病弊の一つの典型的な代表例であった。北平市社会局局長が指摘していたように、北平の救済組織は、「職員が官僚化し、役人の地位を守ることが事業となっていて、救済を事業となっていない」「施設が粗末であるために、混乱して無秩序である(凌乱无章)。規約は不備で、初めは規約を具えていたが、きちんと成文化していたが、実際は依然として旧態依然であり、全体として放任されている」「要するに、形式があって精神がなく、名義があって実質がないのである」(周震鱗「北平市社会局救済事業小史・北平特別市社会局第一習芸工厰」)。さらに、「極めて苦しい生活(水深火热)に置かれた被災民たち」は、「老人も幼児も関係なく、誰もが黄色い顔色で瘠せており、表情は悲しげである」「戦争の前は400余りあった部屋が半分しかなくなってしまい、41頃あった田地は28頃に減ってしまった」が、「災害調査の人を歓迎するために、川を渡って十里あまりの隣の鎮に行って粗塩を買って焼飯を作った」というのも(善後救済総署『冀熱平津文署一年来的振務』4頁)、よくあることであった。

 政府が主体となって運営する救済事業と民間の慈善事業の中に含まれている近代社会保障のシステムは、既に西洋の先進的な慈善思想と救済制度を参考にし、体系的な建設の道を歩み始めたものの、社会制度の制約によって依然として多くの弊害と不合理な要素を充満させていた。このように、清末の民国時期の北京地区の慈善組織と救済機関に対する考察は、一方ではこうした機関や組織の管理の点での弊害をはっきりと暴露し、当時の社会的な危機が深刻である歴史事実を表すものであったが、他方では慈善組織の具体的な運営やその発展・変化は、社会救済事業の進歩と希望を反映するものでもあった。こうした二重の考察の経路は、我々が近代の慈善組織が歴史発展の規律の正確な標準に合致していると評価すべきものである。


 -------------------------------

 前にも紹介した王娟の著作『近代北京慈善事業研究』の一部を抄訳した。
 
 民国時期には社会主義ではなく、西欧あるいは日本に近い形での社会保障政策が展開される可能性があった。結果的にそれは抗日戦争以降の歴史的展開のなかで挫折することになったのだが、そうした大きな歴史的な要因の前に、既存の慈善団体との深刻な対立と矛盾を理解することが重要である。

 民国時期の慈善団体に否定的な側面があったことは事実であろうが、それを単に否定的なものとしてのみ描き出すことには違和感がある。慈善団体の中に存在していたはずの、連帯の規範や組織のメカニズムを、それ自体として描き出すこともできるのではないかと考える。

2011年における社会学の主要研究議題およびその進展

2012-05-20 06:24:01 | Weblog
李培林・陳光金「2011年における社会学の主要研究議題およびその進展」『中国社会科学報』2011年12月27日
http://www.sociology2010.cass.cn/news/473199.htm


1 社会建設と社会管理研究――中国経験に基づく強調

 わが国の社会建設理論の発展は、「中国経験」と発展の実践に基づき、広範に中国伝統の社会建設思想の精華と西洋現代社会建設理論の成果を吸収し、地方の経験を重視・総括し、理論の洗練と政策研究を重視しなければならない。・・・・・

 2011年2月19日、胡錦濤総書記は中共中央党校省部級の主要指導幹部の社会管理およびその改革のテーマの研究・討論の部会において、「社会管理」を主題として重要な講話を発表し、社会管理も2011年の社会学会のホットな研究議題となった。『社会学研究』に発表された一連の文章は、社会建設と社会管理の問題を議論するものであり、社会学会の広範な関心を引き起こすものであった。社会管理の強化と改革に関して、現在学会ではいくつかの異なる見方が存在している。一つは、社会管理の強化と改革は主に政府管理を強化するものであり、政府の力量が強いことは我々が優勢であるということであり、このように重要なことは政府管理の人的、物的、財政的な力を投入し、政府管理の力を社会の各領域に貫徹させることである、と考えるものである。二つには、われわれの国家は長期以来、国家が強く社会が弱く、市場経済の中でも市場が排斥する社会の問題が生まれており、このように社会管理の強化と改革が重要であるのは、こうした状況を改編し、権力を均衡させ、市場を馴致して社会を育て、より多くを社会的な協同に依存させ、公衆が社会的自治に参加し、「社会ガヴァナンス」を実現させることにある、考えるものである。三つには、わが国の社会は巨大で深刻な変化が生まれており、現在行われている効果的な社会管理体制はいくつかの点でこうした変化に適応することが難しくなっており、ゆえに新しい社会管理を強化・改革することは、実際には社会管理体制の改革に及ぶものであり、こうした改革経済体制の改革の後を引き継ぎ、現在の全体の社会体制改革の一部部であると考えるものである。


2 社会政策、社会福祉研究――「適度普惠」の福祉という観点が理解されている

 中国社会保障制度の具体的な問題の研究に関して、「基本」と「適度普惠」の概念が比較的多くの学者から認識され、わゆる「基本」と「適度」の内容と外縁の境界における差異が保たれている。
 社会政策と社会福祉の基礎理論研究の中で最も重要なものは、社会政策と社会福祉の公平性の問題と、いかなる社会福祉の水準が比較的に中国社会の問題に適合するのかというものである。景天魁らはさらに進んで、最低水準の公平理論に関する福祉社会学研究を展開かつ精緻化し、中国の実際から出発して、重要なことは普遍的な権利の意義における社会福祉システムではなく、最低水準以下に置かれた中国公民が十分に得られる基本的な福祉保障を保証されていることにあり、この方面では、われわれはヨーロッパ諸国の福祉負担が重すぎることが、経済発展の大きすぎる圧力になっていることを汲み取っていくべきである。社会政策と社会福祉に関する主要な議題は、社会福祉政策と制度の統一制度問題である。学者の中には、例えば鄭秉文などは、さらに進んで中国の社会保障システムに対する断片化問題に対して考察を行い、ヨーロッパとラテンアメリカの国家のこうした断片化された制度のもたらす社会的な病理に対する分析と総括を通じて、統一した中国社会福祉あるいは社会保障制度の政策の主張を提出している。そのほかに、中国社会福祉のモデルに関する研究も継続的に進化している。学者の中には、改革・開放以前に、中国は二元化された補填型の社会福祉モデル実行し、政府は限られた形での責任を担い、社会福祉を受ける集団は明らに限界をもつものであった。改革・開放以降、中国が社会福祉の社会科のプロセスを推し進めたことは、中国社会福祉のモデルが補完型から「適度普恵」型の発展へと転換し始めたことの標識となっている。王思斌らによると「適度普恵」型の社会福祉制度の主要な要素は、政府の責任の優先、民衆の需要の創出、企業の社会的責任、家庭の支援、非営利組織および社会福祉機構の発展などを含むものである。彭華民ら学者が提出しているように、中国の社会福祉制度の目標は社会のメンバーの多元的な需要を満たすことであり、社会のメンバーの生活の質量を引き上げ、社会のメンバーの能力を強化するものである。つまり、社会のメンバーが社会福祉を受ける公民の権利を有することは、同時に他人の援助する社会的な責任と義務を担うことでもあるというのである。
 わが国の都市と農村をカバーする社会保障システムの建設の急速な進展に伴って、社会保障問題研究も大きな発展の時期にある。『知網』で検索すると、2007年から11年の期間に、「社会保障」という言葉を含むタイトルや、社会保障をテーマとしている研究文献は、全部で4万種以上もある。この期間に、社会保障問題研究の専門著作と研究文集も大量に出版され、社会保障研究の学科の発展を促進した。社会保障の議題に関する研究の研究は、社会保障の基本理念と制度建設に集中している。景天魁らは、社会保障の目標モデルは三つの要求、つまり適当であること、適度であること、適用できることを満たさなければならないと考えている。鄭功成らは中国の現行の社会保険管理体制改革と完成の方向は、集中管理が分散管理に取って代わり、垂直的管理が在地管理に取って代わり、責任主体を管理に参加させ、次第に都市・農村が一体となる管理体制を構築するものであると考えている。李迎生らは、都市・農村の社会保障の完全な統一を成し遂げるには、必要でも不可能でもなく、逆に、都市と農村全体のモデルでなければ差別化された統一モデルを構築するべきであり、社会保障のプロジェクトの中には重要性や緊急性で異なるレベルに分けるべきであるという。その中で、社会救助の中の最低生活保障制度(低保制度)、医療保険のプロジェクトの中の大病院の統合保険、養老保険プロジェクトの中の基本養老保険は、最も基本的なレベルに属し、優先的に三つの基本的なレベルの都市と農村の完全な統一を実現すべきであり、その他のレベルあるいは内容については一定の差異を保つことができるとしている。

 中国社会保障制度の具体的な問題に関する研究は、比較的に都市と農村の最低生活保障制度と社会救助制度の研究、医療保険制度改革の研究、養老保険制度改革の研究、農民工と農村社会保障性モデル選択の研究、住宅保証制度研究などに集中している。こうした問題では、学者たちの意見の差異が比較的大きく、公平性に対する考慮を除くと、どの程度の保障水準の高さが適切かに関する研究は、比較的先鋭的な議論が存在しており、異なる学者が多くの異なる方法を提示している。全体として言えば、「保基本和適度普惠」(基本的で適度な「普恵」を保つ)という概念は比較的多くの学者に認識されており、差異はいわゆる「基本」と「適度」の内容と外縁の確定にある。そのほかにも、現在のいくつかの地方で流行している失地農民に対する「土地換保障」(農地の収用を社会保障で埋め合わせること――訳者註)制度は、少なくない学者が批判して意見を戦わせている(商榷意见)。


3 社会構造と社会階層研究――問題さらに進化し、方法がさらに精緻に

 中国改革開放30周年の経験の総括を借りれば、社会階層構造の変遷は特に社会階層メカニズムの変遷の研究は、一定程度において20世紀90年代の「市場転換」をめぐって生み出された論争の影響を脱しており、制度的な要因、政府の政策、利益ゲームなどの要因が、すべて中国社会の階層構造の形成過程の分析に用いられ始めている。社会構造、社会階層と社会流動の研究は更に多様化し、研究領域もさらに豊富なものとなり、研究方法もさらに精緻になっている。
 伝統的に重視されてきた研究議題(たとえば都市化、社会中間階層研究、農民工研究、教育と社会階層、収入不平等と労働力市場、世代間流動など)がさらに進化する一方で、新しく興った研究のブーム(たとえば不平等の主観的な認知、住宅と社会階層、医療・健康と社会階層など)が、学会の関心を集めている。
 中国社会階層構造の変遷は、ずっと階層研究領域の主要なテーマであった。・・・・李路路は中国階級・階層関係の変化を「決定性」から「交易性」への転換としてまとめている。彼は階級・階層関係の構造のこうした変化を通じて、中国社会全体の新しいモデルを提示しようと試みている。孫立平は、中国が利益ゲーム時代に突入して中国の社会構造が固定化のプロセスの中にあるという観点を提出し、階層の間の境界が形成され始め、階層内部のアイデンティティが形成され始め、階層間の流動が減少し始め、社会階層は再生産され始めていると考えている。この点に対して、多くの他の研究は、特に教育の不平等や労働力市場の不平等の問題の研究は実証的な支持を示しているものもある。しかし多くの学者は、中国社会の階層化は依然として急速に変化するプロセスにあり、現在「固定化」を語るのは依然時期尚早であると考えている。その他の何人かの学者は、国家の政策の中国社会の階層構造の変遷に対する影響に関心を向け、国家の政策および国家の政策決定モデルの転換が、政策的要因の社会階層の構造に対して大きな影響を与え、異なる社会階層の社会参加と社会的なゲームの空間が拡大したと考えている。


4 社会中間階層研究――社会安定化装置の機能として注目されている
 
 学術界と社会は一般的に社会中間階層あるいは中産階級の成長に対して興味を感じている、一つの重要な理由は社会中間階層あるいは中産階級が社会的な安定器の社会政治的な機能として具えていることにある。
 社会中間階層研究は、社会階層研究の一部分である。社会中間階層に関して、概念上は決して統一されておらず、学者の中には中産階級の階級の概念を使用し、さらに「中等収入集団」という概念を使用する学者もいる。結論的に言うと、社会中間階層と中産階級を使用する研究文献は、この概念を画定する基本的な方法は様々に異なっているが、こうした際は実質的なものではない。つまり、中等収入集団の概念を用いている研究は、概念規定上ではいくらか中産階級概念の規定とはいくらか異なるものなのである。
 既存の研究の中では、社会学会の社会中間階層あるいは中産階級の画定は、比較的多く客観的指標、たとえば収入、職業や教育水準などを用いる傾向がある。しかし近年来、関係の角度から社会中間階層あるいは中産階級を定義する研究が多くなっており、これによって社会中産階層あるいは中産階級の段階のモデルと関係のモデルが形成されている。学者たちは異なるモデルに基づいて、中国の現代階の社会中間階層あるいは中産階級の社会規模を推計しているが、それぞれが採用している基準の差異が非常に大きいために、それによって得られる推計の結果も非常に大きな差異が生まれているに過ぎない。比較的一般的な見方は、わが国の現段階の都市の社会中間階層あるいは中産階級の総人口に占める比重が、25%前後になっているというものである。
 学術界と社会一般の社会中間階層あるいは中間階級の成長に対する興味関心は、一つの重要な理由は社会中間階層あるいは中間階級の社会的な安定装置としての政治的機能を備えていることにある。たとえば陸学芸、李林培などの学者は、社会中間階層や中間階級は、全体的には依然として一種の社会的な安定装置であると考えている。たとえば周暁虹は中国の中産階級は、「消費の前衛、政治の後衛」であると考えている。しかし、学者の中には経験的な研究を通じて(たとえば張翼)、中産階級は決して必然的に社会的な安定装置の機能を備えているわけではないことを明らかにしている。李路路は、中産階級が社会的な安定装置の機能を発揮するかどうかについては、一定の社会的条件、経済発展の水準、政治体制の特徴、社会秩序の状況がすべて中産階級の社会的・政治的な機能の発揮に影響を与えうると考えている。これはいかに国家と中産階級の関係をよりよく処理するのかという問題に及ぶものである。そして現段階の中国の社会中間階層や中産階級と国家の関係は、研究文献から見ると、大体二種類の状況が形成されている。一つは、社会中間階層や中間階級の成長が国家の政策の支持の下で大きく発展し、これは欧米の中産階級の発展の経緯と著しく区別されるものである、というものである。もう一つは、中国の中産階級は比較的高い政治参加の情熱を有しているものの、参加の積極性とは決して国家の自発的な受容と統合を得ることができずに、かえって抑圧を受け、それは主に社会のエリート階層連合の「権力からの排除(権力排斥)」から来ているというのである。そして、まさに李友梅、李春玲などの学者の研究が明らかにしているように、こうした抑圧と排除のはたらきの影響によって、さらに全体の国際、国内の経済情勢の不安定と不透明さの要因によっても増加しており、中国社会の中間階層あるいは中産階級には内在的な生存と発展の懸念が存在している。
 学者たちがいかに社会中間階層あるいは中産階級の社会政治的な機能およびこうした機能を発揮する状況を扱っているのかは、彼らはやはり中国の社会中間階層や中産階級が十分かつ急速に成長することを強く期待しており、公平な競争の市場環境の条件の構築を包括すること、中産階級の利益の表出のメカニズムとルートを構築すること、中産階級の政治参加を吸収していくこと、などの一連の関連する政策的な主張を提示している。しかし、学者の中にはわが国の中産階級が全体性をもった一つの社会的な構成物であるかどうかについて疑問を提示しており、いくつかの経験的な研究を根拠に、現在のわが国の社会中間階層や中産階級はけっして一つの全体のようなものではなく、むしろ断片的な現象であると理解している。李路路などは、「再分配→市場」転換という二元的な分析枠組みに基づいて、「社会構造-階級経歴-階級アイデンティティ-階級的な性格の特性」の論理を用いて、現在の中国の中産階級集団に対して「内発-外生」の類型化の区分を作り、経験的な調査データに基づいて実証的な研究を行い、中国の現段階のこの二つの類型の中産階級が「世代的な連続性」、「政治意識」と「消費意識」の三つの点において、異なる性格・特徴と社会的な機能を有していることを明らかにしている。このほかに、近年来、学術界の国内消費の拡大に対する議論に伴って、社会中産階層あるいは中産階級の消費行為も研究の一つの焦点となっている。

5 農民工の研究――農民工の市民化の促進が関心を集めている

 農民工は中国社会の階層化構造の一つの独特の階層であり、そして農民工問題は中国に固有の社会問題である。この集団の規模が膨大であり(現在すでに2億人あまり)、そして彼らの経済、社会生活の各領域における特殊な環境のために、農民工問題に対する研究は既に中国社会学の重要領域となっている。
 大きく言って、農民工の問題に対する研究は四つの問題に集中している。つまり、農民工の収入の獲得およびその影響の要因の問題、農民工の経済的な地位と社会的な態度の問題、農民工の市民化の問題、そして農民工の権利保障の問題である。
 農民工の収入が一般的にいって比較的低いことは、これは基本的な事実である。しかし、いかにこの事実の解釈すべきかについては、大量の実証的な研究によって回答する必要のある問題である。既存の文献は全体的に、まさに農民工の戸籍身分が、彼らの所得水準が相対的に都市戸籍を有する労働者よりも一般的な低さ決定していると考えていた。近年の研究はこの見方に対して、一定程度の疑問を形成している。いくつかの研究(たとえば田豊)では、戸籍の要因は、主には農民工の労働力市場の参入に影響を与えているのであって、つまり条件が比較的よい労働市場に農民工が容易に参入できないことが、農民工の所得水準に影響を与えている第一の要素であるという。そして農民工が一定の労働市場に参入した後は、同じ仕事で異なる報酬の問題は、人々が想像するほど深刻なものではほとんどなく、こうした状況の下では、農民工の収入の獲得に影響しているものは、主には彼らの人的資本によるものであるという。その他のいくつかの研究は、農民工と都市戸籍を有する労働者の収入の差について言えば、最も重要な影響は公的福祉の収入(福利収入)であり、公的福祉の収入を考慮に入れない条件だと、底辺の労働力市場における、戸籍制度の影響は決して目立ったものではないことを明らかにしている。
 農民工の経済・社会の地位は、都市戸籍を有する労働者や非農業に従事する社会階層と集団に比べて言えば、直感的には比較的低い。こうした状況が彼らの社会的態度にどう影響するのかは、学者たちの研究の一つの論点である、いくつかの研究は、農民工の社会的な態度と彼らの経済的な地位の間の関連度は決して緊密なものではない。たとえば、李培林と李煒の研究が明らかにしているように、農民工の社会的な態度は都市社会その他の階層と比べて更に積極的なものである。彼らはこれに対して以下の理論的な解釈を提供している。つまり、農民工の社会的な態度と行為の傾向を決定しているのは経済的に決定された論理ではなく、歴史的に決定された論理であるという。その他の学者のいくつかの研究も似たような発見を行っている。
 農民工の権利保障の問題が引き起こした研究は、その他の関連する問題の研究よりもさらに豊富なものである。現在の研究の重点は農民工の権利保障の理論的な解釈を探究することにある。この点では、大きく二つの異なる解釈枠組みが形成されている。一部分の学者、たとえば潘毅などの人は、階級分析から入って農民工が権利保障をめぐって抗争する行動を理解している。他の学者は、たとえば蔡禾などは、社会運動の理論から入って、承認の理論と政治機会の構造理論などを結びつけ、農民工の権利保障をめぐる抗争の行動に対する学問的な解釈をおこなっている。この両種の解釈モデルは、基本的には西洋社会学が常に採用している主要な研究のモデルであり、これに対して疑問を提出する学者もいて、中国の官民関係モデルと人民内部矛盾モデルが、農民工の抗争行為の点における役割も重視される価値があると考えられている。
 最後に、農民工の市民化の問題は、農民工問題の一つの出口であり、不断に学者によって言及かつ探求されている。この問題の本質は、農民工の公民権利の保障問題であり、当然ながら、農民工自身の市民化の願望および都市社会の農民工の流入に対する影響にまで及んでいる。全体的に言えば、農民工の半都市化現象は現在の中国社会の農民工問題の重要な内容になっており、そして(たとえば王春光のように)研究は農民工の世代が交替するにしたがって、農民工集団の要求は市民化の実現の望みはさらに強烈なものに変わっている。もちろん農民工がすべてこうした願望を抱いているわけでは決してないが。農民工の市民化の問題は、国家レベルで対応する制度の改革を必要としている。
 以上の研究のテーマのほかに、わが国の社会学の研究の焦点は都市化問題、労働関係問題、家庭構造の変化の問題、高齢化問題、社区研究、「80後」の青年の問題、インターネット虚構社会などがある。


-------------------------------------------------------------

 少し時間が経ってしまったが、2011年の中国社会学研究の動向をレビューした文章。 政府管理の強化では対応できない社会管理の改革の問題(社会ガヴァナンス)の出現、断片化された残余的(補欠型)な福祉から、社会全体の需要を底上げするような普遍的な(適度普恵)な社会保障への転換、新中間層の中身が実のところ多様で統一的な政治アクターとなる可能性は低いこと、戸籍制度は農民工の労働市場の参入の障壁にはなっているが、いざ参入できれば所得格差はそれほど大きいものではなく、むしろ所得格差は人的資本の違いによるところが大きいこと、等々が指摘されている。