政研院「民国疫史: 死者の多数発生に抵抗する道」
http://dy.163.com/v2/article/detail/F3PM6QFI051988DC.html
予防注射:近代医学の緩慢な漸進
ペストは、中国近代史上において当たり前に見られた伝染病である。明清の時代から民国初年に至るまで、中国医の医師たちはペストを防止するために方法を考え抜いたが、治療の効果はいずれも満足できるものではなかった。大多数の民衆は、ペストは「不治の病」であり、天災であると考えていた。感染力が強い疫病として、臨床医は予防がわからなかったので、感染例は枚挙に遑がなかった。1943年に、福建省の邵武でペストが発生し、古い中国医は予防を注意せず、家を訪ねて看病し、結果として次々と感染し身を滅ぼした。感染が拡大した後期は、大多数の中国医は診察に出ることを拒み、ひどいものだと他の村に逃げてしまった。この県の古い中国医はペストの経験を「逃げることのできる者は逃げてしまい、逃げない者は自らを守った」と総括している。これは、逃げることのできない場合は、病人との接触を避けることを意味しており、これは中国医がペストなどの伝染病に対して無力であったことを示している。
当時の雲南の民衆は、ペストは「痒大老爹」が引き起こすと信じていた。それゆえ、女性の裸体をペストの死者の棺桶の中に運んで、「夫人が棺桶に運び出されると、痒大老爹は彼女を道連れにするのは申し訳ないという気持ちになり、死者を少なくすることができる」と考えた。疫病神の悪鬼を押さえ込むために、人々は次々と神霊の庇護を祈り求め、そのため感染地域では神賽会が頻繁に開かれた。雲南一帯の民衆は一度、「都天太子」を疫病の主として、ゆえに、大多数の県はすべて都天太子廟を設立し、疫病が流行するほど、都天太子廟も香火が盛んとなった。
伝統的な中国医は、ペストなどの疫病への対応の点では明らかに立ち遅れていた。近代医学が治療するペストは、注射あるいは抗菌剤、ペストの血清を注射することであるが、こうしたペストを治療する特効薬は1920年代になってようやく発明されたものである。
民国時期には感染症が頻繁に爆発し、近代医学の感染防止措置(応急予防接種)に次第に規則を形成させることになった。1919年、国民政府の中央防疫処が成立した後に、天然痘ワクチン、コレラワクチン、ジフテリア抗毒素など、次々と信頼できる産品を生み出し、いくつの省では応急の予防接種の需要を満たした。
しかし、民国時期には、わが国は多くの辺境の省区では各自ばらばらで、加えて交通が不便で、防疫システムは統一を貫徹することが非常に難しい。1942年に、ペストが閩南で猛威を振るっていた時に、西洋医が治療するペストの常用薬品には既に「大健風」という錠剤や「百浪多息」という名の注射剤が存在していた。当時、非常に多くの人が既にこの二種類の薬が救世主と見られていた。しかしこれらの薬は驚くほど高く、一般の人は買うことができず、ペストの血清の価値は二両の黄金で、塩水一瓶は数十元、当時のフカヒレ宴席は30元だけであった。
1931年に、長江流域で大規模な水害が発生し、コレラ、天然痘、腸チフスなどが同時に流行し、南京国民政府は緊急の予防注射を展開した。最初、多くの民衆の第一の反応は逃避あるいは祈祷であり、多くの地方政府は強制的な注射の方法を採用せざるを得なかった。例えば、1932年に南昌でコレラが流行した時に、当地の政府は、公安局が憲兵に注射隊を引き連れさせて、道路の要衝で通行人を阻止して強制的に注射を行った。
予防注射は、次第に国民政府が疫病を予防する主要な手段となった。毎年ほとんど戦争があった民国時期は、政府はまず政府の工作人員の確保が伝染病によって麻痺し、予防接種を非常に重視していた。
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民衆動員:生命を代価とした歴史的経験
「中華民国19年、秋の歌が7月になってしまい、お金のためでも天気のためでもなく、ただ疫病のために天を(中华民国十九年,秋歌闹到七月天,不为银子不为天,只为瘟疫带上天)」。これはかつて流行した陝北の民謡である。1930年に、陝北のペストは、この場所の民衆に心に深く突き刺さる記憶を残した。
正確な疫病の認識さえあれば、それが荒れ狂って襲来していた時に、はじめて科学な方法を選択して感染拡大を阻止することができる。このように、宣伝と動員は、非常に大きな重要性を持っている。1918年、山西省のペスト対策で、山西省の防疫総局は防疫の宣伝を非常に重視し、宣伝の方法はわかりやさに努めた。
閻錫山は山西省の防疫総局に「督軍の村長・副村長への貿易の告諭」「督軍の人民への防疫の警告」の二つの告知文を布告させた、それぞれ20万部余りで、農村に送り、疫病の蔓延を抑制する効果は非常に大きかった。「督軍の村長・副村長への防疫の告諭」では、閻錫山は副村長にビラを村人に配布し、説明して理解させること、さらに民衆が簡単に見ることのできる場所に張り出し、村人にしばらくの間は外出で出歩かないこと、そして村中に石灰を備蓄して、いつでも消毒に使えるようにすることを告知するように求めた。
今回の感染拡大において宣伝は明らかに強力な役割を生み出し、民衆動員の最初のモデルとなり、感染防止のための参考となるサンプルを提供した。
1932年に、江西省の南昌でコレラ が流行したが、「住民の大多数はいきさつが分からず、いつも通りのこととみなした」と。住民の自覚を促すために、「文字の分かるものと分からない者にコレラの危険を……感染の速さおよび予防の方法、診療の方法を知らせ」た。江西臨時防疫委員会は当時のあらゆる可能な宣伝と動員の方法を動員した。例えば、スローガンの広告(絵画と文字)、ビラの配布(わかりやすく、明確で、詳しく、現実的)、新聞の助けを借りて感染拡大防止の特集欄を設ける、注射の職員による随時の宣伝と忠告、銅鑼や呼びかけなど。
当時の宣伝のスローガンには、既に現代の感染拡大防止の意識が現れていた。例えば、コレラ、腸チフス、赤痢などは、夏に容易に発生する病気であること、生水を飲まず、喉が乾いたら必ずお湯を沸かすこと、冷たい生ものを食べず、すべての食べ物は必ず加熱し、熱いうちに食べること、早く予防注射を打つこと。分かり易い文章で、民衆にコレラ などの感染症の感染源と、感染拡大の経路および簡単な予防の方法を理解させた。1932年に、南京のコレラ感染防止の宣伝の中で、新聞、映画、ラジオなどの手段の他に、衛生署はさらに航空書に頼んで飛行機を数機派遣し、南京城内外をめぐって防疫のビラを配布した。
疫病が次々と起こり、中国全土に広がった民国において、国民政府はさらに次第に手続き化された宣伝と動員の仕組みを形成した。広大な民衆はこうして疫病に対して理解を得るようになり、主体的に感染予防を受けるという積極性が大きく高まった。1940年つまり民国29年に、一回の平民である河南人の周魯厳が蒋介石に上書し、国民中央政府の重視を引き起こしたが、原因の大抵は周魯厳の提案が指摘した重要な仕事である。周魯厳によると、「大乱の後は、必ず凶年があります。いわゆる凶年は、もとより原因は一つではありませんが、疫はその第一のものであります。こんどの戦争により、来るべき大疫は必ず熱血病であると思われます」。このため、彼は国民政府が河南省政府に「收取鲜地黄榨汁装瓶以备将来热血瘟疫之用」を命じることを提案した。
民国初期は、社会処が伝統から近代へと変遷する転換の時期において、感染拡大防止の制度は未成熟であり、政治の不確定要素は政府の統合能力の低さや社会的動員の不徹底や、感染拡大防止のプロセスにおける「民情が防疫を敵視する」こと、さらには至る所で流血の衝突をもたらし、感染拡大防止の実績・効果を大きく引き下げることになった。
しかし、感染災害の頻繁な発生は、民国政府に死亡の陰影の下に、多くの感染防止の貴重な経験を蓄積し、交通を遮断して厳格な隔離を実行し、民衆を動員して感染拡大防止を行い、今日に至るまで踏襲されている。これらの通常のものと考えられるように見える感染拡大防止の手段は、確実に無数の人の生命によるものと総括することできる。
http://dy.163.com/v2/article/detail/F3PM6QFI051988DC.html
予防注射:近代医学の緩慢な漸進
ペストは、中国近代史上において当たり前に見られた伝染病である。明清の時代から民国初年に至るまで、中国医の医師たちはペストを防止するために方法を考え抜いたが、治療の効果はいずれも満足できるものではなかった。大多数の民衆は、ペストは「不治の病」であり、天災であると考えていた。感染力が強い疫病として、臨床医は予防がわからなかったので、感染例は枚挙に遑がなかった。1943年に、福建省の邵武でペストが発生し、古い中国医は予防を注意せず、家を訪ねて看病し、結果として次々と感染し身を滅ぼした。感染が拡大した後期は、大多数の中国医は診察に出ることを拒み、ひどいものだと他の村に逃げてしまった。この県の古い中国医はペストの経験を「逃げることのできる者は逃げてしまい、逃げない者は自らを守った」と総括している。これは、逃げることのできない場合は、病人との接触を避けることを意味しており、これは中国医がペストなどの伝染病に対して無力であったことを示している。
当時の雲南の民衆は、ペストは「痒大老爹」が引き起こすと信じていた。それゆえ、女性の裸体をペストの死者の棺桶の中に運んで、「夫人が棺桶に運び出されると、痒大老爹は彼女を道連れにするのは申し訳ないという気持ちになり、死者を少なくすることができる」と考えた。疫病神の悪鬼を押さえ込むために、人々は次々と神霊の庇護を祈り求め、そのため感染地域では神賽会が頻繁に開かれた。雲南一帯の民衆は一度、「都天太子」を疫病の主として、ゆえに、大多数の県はすべて都天太子廟を設立し、疫病が流行するほど、都天太子廟も香火が盛んとなった。
伝統的な中国医は、ペストなどの疫病への対応の点では明らかに立ち遅れていた。近代医学が治療するペストは、注射あるいは抗菌剤、ペストの血清を注射することであるが、こうしたペストを治療する特効薬は1920年代になってようやく発明されたものである。
民国時期には感染症が頻繁に爆発し、近代医学の感染防止措置(応急予防接種)に次第に規則を形成させることになった。1919年、国民政府の中央防疫処が成立した後に、天然痘ワクチン、コレラワクチン、ジフテリア抗毒素など、次々と信頼できる産品を生み出し、いくつの省では応急の予防接種の需要を満たした。
しかし、民国時期には、わが国は多くの辺境の省区では各自ばらばらで、加えて交通が不便で、防疫システムは統一を貫徹することが非常に難しい。1942年に、ペストが閩南で猛威を振るっていた時に、西洋医が治療するペストの常用薬品には既に「大健風」という錠剤や「百浪多息」という名の注射剤が存在していた。当時、非常に多くの人が既にこの二種類の薬が救世主と見られていた。しかしこれらの薬は驚くほど高く、一般の人は買うことができず、ペストの血清の価値は二両の黄金で、塩水一瓶は数十元、当時のフカヒレ宴席は30元だけであった。
1931年に、長江流域で大規模な水害が発生し、コレラ、天然痘、腸チフスなどが同時に流行し、南京国民政府は緊急の予防注射を展開した。最初、多くの民衆の第一の反応は逃避あるいは祈祷であり、多くの地方政府は強制的な注射の方法を採用せざるを得なかった。例えば、1932年に南昌でコレラが流行した時に、当地の政府は、公安局が憲兵に注射隊を引き連れさせて、道路の要衝で通行人を阻止して強制的に注射を行った。
予防注射は、次第に国民政府が疫病を予防する主要な手段となった。毎年ほとんど戦争があった民国時期は、政府はまず政府の工作人員の確保が伝染病によって麻痺し、予防接種を非常に重視していた。
・・・・・・・・・・・
民衆動員:生命を代価とした歴史的経験
「中華民国19年、秋の歌が7月になってしまい、お金のためでも天気のためでもなく、ただ疫病のために天を(中华民国十九年,秋歌闹到七月天,不为银子不为天,只为瘟疫带上天)」。これはかつて流行した陝北の民謡である。1930年に、陝北のペストは、この場所の民衆に心に深く突き刺さる記憶を残した。
正確な疫病の認識さえあれば、それが荒れ狂って襲来していた時に、はじめて科学な方法を選択して感染拡大を阻止することができる。このように、宣伝と動員は、非常に大きな重要性を持っている。1918年、山西省のペスト対策で、山西省の防疫総局は防疫の宣伝を非常に重視し、宣伝の方法はわかりやさに努めた。
閻錫山は山西省の防疫総局に「督軍の村長・副村長への貿易の告諭」「督軍の人民への防疫の警告」の二つの告知文を布告させた、それぞれ20万部余りで、農村に送り、疫病の蔓延を抑制する効果は非常に大きかった。「督軍の村長・副村長への防疫の告諭」では、閻錫山は副村長にビラを村人に配布し、説明して理解させること、さらに民衆が簡単に見ることのできる場所に張り出し、村人にしばらくの間は外出で出歩かないこと、そして村中に石灰を備蓄して、いつでも消毒に使えるようにすることを告知するように求めた。
今回の感染拡大において宣伝は明らかに強力な役割を生み出し、民衆動員の最初のモデルとなり、感染防止のための参考となるサンプルを提供した。
1932年に、江西省の南昌でコレラ が流行したが、「住民の大多数はいきさつが分からず、いつも通りのこととみなした」と。住民の自覚を促すために、「文字の分かるものと分からない者にコレラの危険を……感染の速さおよび予防の方法、診療の方法を知らせ」た。江西臨時防疫委員会は当時のあらゆる可能な宣伝と動員の方法を動員した。例えば、スローガンの広告(絵画と文字)、ビラの配布(わかりやすく、明確で、詳しく、現実的)、新聞の助けを借りて感染拡大防止の特集欄を設ける、注射の職員による随時の宣伝と忠告、銅鑼や呼びかけなど。
当時の宣伝のスローガンには、既に現代の感染拡大防止の意識が現れていた。例えば、コレラ、腸チフス、赤痢などは、夏に容易に発生する病気であること、生水を飲まず、喉が乾いたら必ずお湯を沸かすこと、冷たい生ものを食べず、すべての食べ物は必ず加熱し、熱いうちに食べること、早く予防注射を打つこと。分かり易い文章で、民衆にコレラ などの感染症の感染源と、感染拡大の経路および簡単な予防の方法を理解させた。1932年に、南京のコレラ感染防止の宣伝の中で、新聞、映画、ラジオなどの手段の他に、衛生署はさらに航空書に頼んで飛行機を数機派遣し、南京城内外をめぐって防疫のビラを配布した。
疫病が次々と起こり、中国全土に広がった民国において、国民政府はさらに次第に手続き化された宣伝と動員の仕組みを形成した。広大な民衆はこうして疫病に対して理解を得るようになり、主体的に感染予防を受けるという積極性が大きく高まった。1940年つまり民国29年に、一回の平民である河南人の周魯厳が蒋介石に上書し、国民中央政府の重視を引き起こしたが、原因の大抵は周魯厳の提案が指摘した重要な仕事である。周魯厳によると、「大乱の後は、必ず凶年があります。いわゆる凶年は、もとより原因は一つではありませんが、疫はその第一のものであります。こんどの戦争により、来るべき大疫は必ず熱血病であると思われます」。このため、彼は国民政府が河南省政府に「收取鲜地黄榨汁装瓶以备将来热血瘟疫之用」を命じることを提案した。
民国初期は、社会処が伝統から近代へと変遷する転換の時期において、感染拡大防止の制度は未成熟であり、政治の不確定要素は政府の統合能力の低さや社会的動員の不徹底や、感染拡大防止のプロセスにおける「民情が防疫を敵視する」こと、さらには至る所で流血の衝突をもたらし、感染拡大防止の実績・効果を大きく引き下げることになった。
しかし、感染災害の頻繁な発生は、民国政府に死亡の陰影の下に、多くの感染防止の貴重な経験を蓄積し、交通を遮断して厳格な隔離を実行し、民衆を動員して感染拡大防止を行い、今日に至るまで踏襲されている。これらの通常のものと考えられるように見える感染拡大防止の手段は、確実に無数の人の生命によるものと総括することできる。