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中国史・現代中国関係のブログ

中国における「国民」の語義と国家の構築

2011-11-16 07:34:11 | Weblog
郭台輝「中国における『国民』の語義と国家の構築――明治維新から辛亥革命へ」『社会学研究』2011年第4期
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3 近代の中国と日本における「国民」の語義の比較

 「国民」の日本明治前期における言葉の意味は、国家・政権に帰属し、かつ一定の政治的権利を有するメンバーの意識であり、中期以降は「人民」「公民」などの用語の語義と一緒になっただけではなく、「臣民」を含むものとなり、西洋のcitizen、nation、people、subjectなどの概念と融合して、これを本土化して支配的な用語にして、そこから一つの新しい言葉の意味の図式を生み出して、日本の明治政府の建設の道に役割を果たした。清末の中国の知識エリートが全面的に明治日本を学んだときに、「国民」が伝えるpeople、 citizenとnationの意味とは、日本の後発国家および東洋の(東方)国家としての特有の意味を保持しており、それと同時にさらに中国の多民族融合の伝統文化観念と結合して、自らの国家建設を成就させるというものであった。このように、19世紀末から20世紀初頭の中国と日本の「国民」の意味の移動を比較する必要があるわけである。

 近代西洋のCitizenは中世都市と近代社会の市民観念に源を持ち、18世紀後半に国家の次元にまで引き上げられて形成されたものであり、それは国家が必ず公民集団つまり「人民」の意志を基礎としなければならない、というものであった。そこに含まれる価値観について言えば、西洋文化の中の公民概念は英語のCitizen、フランスのCitoyen、さらにはドイツのBürgerのいずれも、「私」と無関係な純粋な「公」は存在せず、関連する自治、義務、奉仕などは、公共性の存在通じて判断されるが、個人主義という私人関係を基礎としている。このように、私的な存在なしには、公共関係も存在せず、公民もないのである。西洋の現代国家の建設が19世紀に完成し、法律的には実現された西洋の公民概念は、三重の意味を獲得したことが確認されている。つまり、かけがえのない個人として、他人の有する自由・平等の尊重を期待すること、一つのエスニシティ(族裔)あるいは文化集団の成員は、一つのネーション(民族)のなかに帰属とアイデンティティを見出すことができること、ある政治共同体の成員として、法律的にはその完成された人格に対する同等の保護と同等の尊重されうることである(哈貝馬斯 2003: 660)。19世紀後半の西学東漸はを通じて、こうした言葉の意味が既に部分的漢字文化圏のなかの「国民」に流入し、個体の自己の次元の自由・平等の観念、権利・義務と公共参加や意識を含むものとなった。しかし、個体の自我意識はしかし、しばしば文化的なエスニック共同体のメンバーの身分意識よって圧迫されていた。

 Nationのヨーロッパ文化のなかに含まれている意味も非常に複雑なものであり、一般には二つの大きな類型に分けられる。西欧とくに近代のフランスでは、主権国家と絶対主義統治の勃興が、政治国家の意義における「ネーション(民族)」の出現を促進した。この時の「ネーション」と「国家」が相互依存的なものであり、境界上で互いにくっつき、二重構造として同時に進行し、あるいは「ネーション」とは国家主権の強化と構築を満たし、「政治的ナショナリズム」を発展させるためのものであり、その成員としての「国民」はある国家-ネーション(state-nation)あるいはネーション-国家(nation-state)に帰属しているというだけではなく、平等に権利と義務を担ってもいるのである。・・・・

 西洋列強の侵略と掠奪によって生存の危機に直面した時に、東アジア地域はようやく意識的に近代に向けて転換し、中国の日本の両国は国家統一、独立と富強の国家主義意識を表現し、それによって「国民」はそれによく似た意味を有するようになった。主に表現されているのは二つである。だ一つには、国家アイデンティティの権利義務観念である。中国伝統儒家文化およびその展開である日本文化の中には、政治的な公民と経済的な市民は分離しており、公民に相当する市民といった現象は存在していない(堅田 2003: 104)。とりわけ全体としての東方文化には、西洋のような独立個体としての意味での公民観念がまったく存在しない。ただ19世紀後半に西洋文化の衝撃を受けた後に、文化と政治のエリートとくに自由民権運動の利権によって導入された一種の権利義務関係だけが、国家の独立と建設を満たす過程における集団アイデンティティの需要を意味するものであった。このように、近代日本と清末の中国における言語的な環境における「国民」およびそれに関わる権利、平等、自由、地位(身份)の観念と制度は、それが始まるや否や、国家主義と一緒に結合していったのである。これによって、中村正直や厳復のような中国と日本の啓蒙思想家、イギリスのJ・S・ミルの『自由論』とスマイルズの『自助論』を訳した時に、西洋社会の中の個体形式存在の公民概念を、集団存在的な国民に転換し、個体の権利・義務・主張を国家の次元で認識および解決し、そこからルソーが描き出したような積極参加と政治的自由の公民観念と互いに調和していくことになる(狭間直樹編 2001:120-155)。その次は社会進化論や強権・競争と国家有機体説が含まれている。ドイツのブルンチェリの国家有機体論は国権が民権より高いことを要求し、極めて強い国家至上の傾向があった。日本の啓蒙思想家に翻訳・紹介された後、その近代国家の形成と国民意識の高揚と生産に対する深い影響により、明治政府の運営と憲法制定の指導原則となった。日清戦争と三国干渉・遼東半島返還事件に従って、日本国内は西洋の列強と競争を要求する欲望や、国家主義を帝国主義へと進ませる声が次第に高まっていった。浮田和民の国民教育思想は優勝劣敗淘汰を強調する倫理帝国主義であり、国民が人格をそなえ、人権を享受する世界公民になることを要求した(鄭匡民,2009:199)。明らかに、この時の「国民」はもはや基本的な権利を保障するという国家のカテゴリーを突破し、西欧文化の意味における公民に含まれていた意味から離脱して、次第に文化民族的な意味を注入し、自我の主体性を欠いた、民衆の民族に対する高度なアイデンティティが国家の法律を単なる一種の幻想的な意識を満たすものとして用いられたものであり、自由・平等の権利の真の要求ではなかった。この意味において、近代日本は「国民不在」「国民のない」時代なのである。

 もし国家有機体説が明治日本の「国民主義」意識の論証であるとすれば、清末の中国は国家主義のアピールを強めていくものであった。梁啓超は20世紀初めの多くの文章の中で、浮田和民の国民観を紹介し、同時に「加藤弘之の紹介する社会ダーウィニズムが、国と国との競争とは国民の競争であり、この考えは梁啓超の厳復から受け継いだ観念を強化した」のである(黄克武,2006:51)。この種の理論は梁啓超が追及する二つの政治目標を満たすものであった。つまり、対内的には自由と民権を要求し、専制主義の政治体制に反対すること、対外的には富強で進歩的な国家を建設すること、帝国主義列強と競争することであり、こうして彼における1903年の後の主要な思想源泉が出来上がったのである。
 
 この種の「国家」は神聖化と人格化という特徴をそなえたものであり、一切のものを主宰し、社会と個人の利益からは独立し、意志と人格を有している。ゆえに「国民」とは結果的にはつまり「国家の子民」である。言い換えれば、抽象的な全体としての「国民」は、統治権威の主体であるものの、政治的な主体性を欠乏させた、あるいは道具的な「国の民」であることから、依然として抜け出ているとは言い難いのである(沈松侨,2002:725)。ゆえに、明治日本の国権と民権、清末中国の立憲と革命はみな同時に展開しているのであり、いったん始まると、集団的な「国民」あるいは「民族」を凝集させて「国権を強固にする」という目的に到達させることを目的として、近代主権国家の確立と拡張に手を出し、「民」はまさに「国」の理性的な目的に達するための手段にされたしまった。この意味において、国と民、立憲と立国は、国権至上の追及において高度に一致している。そして、1868年から1911年という時期に、東アジア地域では激しく西洋列強が争い合う場となるが、日中両国が直面する国内外の圧力、歴史の重荷、体制の仕組みが異なり、知識エリートが追求する価値理念と制度目標も異なっており、「国民」という用語は、いったんもともとの言語的な環境を抜け出して意味の違いを生み出すことに。それは主に、以下のように表現することができる。

 「国民」と「臣民」という言葉の意味の関係において、明治初期の日本の「国民」は、使われ始めは「人民」「民人」などの用語と競合し、中期以降に次第に支配的な地位となるが、これは憲法、天皇の詔書と小学校の教材では「臣民」と互いに調和できるものである。これと、近代の「虚構による」天皇およびその制度的な構築物とが次第に強固に関連づけられるようになり、「大部分の民権派と天皇崇拝が互いに結合した」だけではなく、民権を国権に服従させ、かつ学校教育と各種の社会団体・組織を通じて、「天皇崇拝と国体観念を次第に国民の意識の中に浸透させていった」のである(安丸 2010:9、198、201)。これが表わしているのは、ある新興政権の最重要任務は大衆の忠誠を維持および獲得することであり、そしてこの政権が再建する社会秩序および価値規範が西洋から模倣して移植したものであると、これによってもたらされる矛盾が、新しい政権に全ての局面で過敏な反応を生み出す可能性がある。明治天皇はまさに、内外で交互に迫る危機に対抗するために創り出されたものであり、西洋の立憲観念と日本伝統の天皇観念を近代的な権威主義的君主制に調和させたものであった。これはよく19世紀前半に出現したドイツモデルと比較されるが、やはり非常に異なるものである(曼 2007:199)。明治後期の日本の「国民」の語義は、政治と文化という意味を同時に束ねたものであり、地方にもともと存在していた政治アイデンティティが残ることを許容せず、公共責任と忠誠、象徴の記号、政治的な共通理解はすべて天皇体制のアイデンティティと帝国憲法の解釈に帰属させるものであった(Ikegami 1996: 219)。

 梁啓超を代表とする清末の知識エリートは戊戌変法に失敗した後に、清朝政府の逮捕から逃れるために日本に亡命したが、彼が取り入れた「国民」は「救国主義」の切迫した要求に応じるものであり、単に明治日本の「国家主義」ではなかった(狭間 2001:154)。ゆえに、「国民」を中国語の圏内に取り入れた後にいち早く受けいれられたことは、国民(国人)が清朝政府に失望して見放したことと大きく関係しており、使われ始めた時点で「国あって君なし」の民であること理解されていた。知識界は「国民」を、中国人が新時代を切り開く唯一の身分の呼称であると見て、「臣民」は「国民」の対立面となって放棄され、そこから伝統的な倫理秩序と一致する言語秩序が動揺していくことになる。

 同様に、亡命した知識人エリートが移植した「国民」の言語的な環境は、清末政府の脆弱・無能、西洋国家の弱肉強食および明治日本の帝国主義的傾向をこの目で見たことによるものであり、その意味は基本的に伝統政治秩序と対立した、文化的に理想の国民を作り出すことを図り、いち早く理想的な政治共同体を構築して「想像」の新しい国家と国民を「事実」である旧帝制と臣民と取り換えることであり、想像された「公民」によって新しい国家形式である選挙と自治を実現していくことであった。簡単に言えば、清末の「国民」のなかにある「国」と「民」は理念的に構築されたもの(构想出来)であり、これは完全に「虚構」の天皇を通じて「真実」の国家を構築した日本とは異なるものである。

 このように、明治日本はそのはじめから、二つの相互に協力しあう論理的な路線を展開していた。つまり、現実的な政治エリートは上から下へと天皇制を中心とした主権国家を構築し、理想的な知識エリートは、下から上への「国民共同体」の近代国家を建設した。後の自由民権運動では後者のロジックが極端化したが、その結果は理想が現実に負けて絶対主義政体が確立であり、これは「国民主義」の勃興が政治と文化の二つの力の成功裏の「共謀」であることを意味するものであった。清末中国は、ほとんどのこのロジックを顛倒させたものである。つまり、知識エリートはまず、清朝政府の正統性と「臣民」の合法性を捨て去り、国民性の批判と改造を通じて理想的な近代国家を構築しようとしたのであるが、そのコストの高さは推して知るべきであろう。梁啓超は1903年の後に転向し、康有為、楊度らの人物と一緒に皇権を再建して立憲を唱導し、立憲君主を追求し、啓蒙教育、文化改造と地方自治を宣伝したが、西洋列強の中国における激しい競争、瓜分と略奪のために、こうした漸進的な改良は受け入れられず、革命派の国民共和の主張と革命実践が要因に社会的に正当性をもったアイデンティティと支持を獲得することができなかった。
 
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 (日本と)異なるのは、儒家文化の発祥地として、中国が長期に形成してきた中心意識が外来の新しい文化と観念の吸収を困難にしていることである。たとえアヘン戦争で西洋の軍事と文化から深い痛手を蒙っても、『万国公法』などの西洋で通用している文献の中のcitizenは依然として「籍民」「草民」あるいは「臣民」などの用語で訳されることで(刘禾 2009:324)、はじめて知識階層や官僚階層に受けいれられたのである。明らかに、「救亡図存在」の20世紀はじめに、清末中国の「国民」の語義がさらに混乱し、伝統と反伝統、西洋と反西洋、漢族と中華民族などが互いに衝突する言葉が一緒に絡み合ったものである。一方では、梁啓超の「新民」には儒家の経世の核心である、道徳の修養と人に対する革新が含まれている。集団主義の強調とギリシアの市民(公民)に少し類似しているところはあったが、先秦古典の伝統や(张灏,1995:124)、王陽明の新儒家の伝統および同時代の厳復の影響も受けており、古今東西の交錯、張力と適応などを体現するものである(黄克武,2006:導論)。他方では、まさに溝口雄三の所見のように、清末の「国民」の論述において、「国」は文明空間としての「天下」、人民の生存空間としての「国家」、体制としての「王朝」などのいくつかの種類の認識と混同されていた。「民」も一つの複雑に錯綜した概念であり、中華文明の漢民族を指す場合もあれば、「天下」としての民、あるいは「国家」の民である満、蒙、藏、ウィグルの五族であることもあり、中華民族は天下自然に存在している生民というだけではなく、中国の国民でもあり、「ヨーロッパや日本の同一概念とは相当に大きく異なる」ものである(溝口雄三 1996:46、85,1999:53)。

 明らかに、これと「民族」の意味の成立およびナショナリズムの自覚化は、すべて一緒のものである。「民族」の意味の複雑さは「国民」に引けをとらないものであり(方維規 2002)、そして「国民」は必然的に立件はと革命派の、「中華民族」という「大民族」なのか、それとも漢族という「小民族」なのかに関するアイデンティティの問題に巻き込まれていった。しかし影響が深いのは、立憲派が「中華民族」という大民族のアイデンティティを主張し、民族の歴史的融合と共生を強調したが、その目的は西洋列強による植民地分割がもたらす民族分裂の危機に連合して抵抗することであったことにある。たとえば、「中華民族」という言葉を創造した梁啓超は、早くも1902年に「中華の建国、実に夏の後に始まる・・・しかしてその名を用いて国民を代表するものである」と指摘し(梁啓超『中国学術思想変遷之大勢』1999e:563) 、楊度は「満漢平等」という「国民統一の策」の実行を主張した(劉晴波主編)。もし清末の立憲運動の拡大・展開が「大民族」の「国民」を立憲派の中で広範に広めたと言えるのであれば、そのように、辛亥革命の成功は革命派を「排満」から大民族の「同化」と融合へと転換させることを促し、ある種の比較的完成された現代の「中華民族」の観念と意識を基本的に確立し、「国民」はある種の歴史に合致して未来の発展を構築するネーション(民族)の地位となり、これはほとんど「国民」という国家における地位の意識と互いに重なるものである。

 「国民」は自覚的に「中華民族」というアイデンティティを形成するものとなり、190世紀の西洋のナショナリズム思潮の影響を受けたものでもあるが、もはや日本とドイツのような反民族的な地位とは異なるものである。それが表現しているのは、一つには、「中華民族」観念は虚構の集団的記憶ではなく、歴史文化が真の継続と歴史的な長期の融合の結果であることである。二つには、現実の力に適応する役割を発揮し、その目的は対外拡張ではなく自らの凝集であり、その目指すところは外来の侵略に共同で抵抗し、内部の紛争と分裂を防止することであったことである。三つには、中華民族内部の各民族が、強弱・大小に関わらず一律に平等であることであり、革命派はかつて一度は大漢族主義的な「排満」の主張を抱いていたが、「救亡図存」の時に、さらに立憲派の各民族一体化の思想を吸収した。四つには、清末の清朝政府の没落と専制に反対する力の強化に伴って、西洋と日本などの帝国主義による分割の深刻化し、中華民族の観念は神秘主義的な色彩を帯びたいかなる権力の中心によって主導されたものでは決してなく、知識エリートが自覚的に形成した大民族の意識であり、そして新興国家の政権は単にこうした観念の制度化を実現させただけであった。

 最後は、国民の意味が構築する主体の点である。いかなる言葉の意味も、言説は特定の言葉の環境が表現する観点から構築された結果であり、異なる言説集団が同一の言葉の理解と応用は全て同じというわけではない(不尽相同)。西洋文化に接触し、研究し、伝達する集団が異なり、日中両国の国民に対する異なる導入と応用に影響していることは、政府の政治権力と知識エリートの文化権力の差異に集中的に表現されている。明治日本の維新の前期は、国家の独立と国民統一とが、二つの方向で同時に転換した。つまり、政治権力における天皇制国家への集中と、文化権力における平等な権利と参加という国民意識の絶えざる浸透である。この二者が同時に緊密に結合して、「国民国家」観念の形成を推進していったのである。天皇専制の集中が強固になるに従い、政治権力と文化権力の間には緊張が生まれたが、後者が表現する自由民権運動は政治権力との対抗軸をつくることはできなかった。その後、「国民主義」の旗を掲げる国粋派と絶対主義の政治権力が合流し、「国民」を汎民族主義と帝国主義の深い淵に落ち込ませていくことになった。明らかに、ここでは政治権力と文化的権力とが相対的に独立し、相互作用と協力の関係にあった。それに対して、日清戦争、戊戌変法の失敗およびその後の一連の危機は、清末の知識エリートを突如として伝統的な帝制の知識資源と制度体系に対する信仰を失わせ、文化的権力は政治権力に対する伝統的な従属から脱することを要求するだけではなく、その反対に向かわせて、「国民」を「民智を開く」と天賦人権論、社会進化論、国家有機体説を表現する理論的な武器と見て、封建的な専制君権を批判し民権を伸長させるために用いた。同時に、文化権力内部の「国民」の争いは、より多くエリートの次元での理念・構想であり、社会・大衆の現実における基礎から抜け出て、国家主義の根本目標から逸脱するものであった。この種の「国民」一度現実政治における権力の重心と裏付けを失っているため、必然的に言葉の濫用と意味の浮遊という問題に遭遇することになった。外からの言葉の環境の急激な変化と知識エリートの「救国図存」の差し迫った心理に伴って、「国民」も急進的に自己の演繹と構築を行った。同時に、「国民」の意味を構築かつ広める主体として、清末の啓蒙思想集団は多く啓蒙と政治の改革という二つの任務を一身に兼ねており、新聞を通じて大衆とくに青年学生に革命・啓蒙を行うだけではなく、直接的に政治権力の顚覆、再建、改造に参加した。その結果として、「国民」に政治と倫理、教育と啓蒙、責任と義務、激情と夢想などの、多くの意味を過剰にかつ矛盾した形で担わせ、辛亥革命の爆発と清末政府の瓦解に至り、「国民」の意味はようやく落ち着き、次第に「中華民族」という政治的な言語のなかに合流しはじめることになった。

参考文献
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方维规,2002,「近代思想史上的“民族”、“nation”与 “中国”」香港『二十一世纪』6 月号。
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黄克武,2006,『一个被放棄的選択——梁啓超調適思想之研究』北京:新星出版社。
Ikegami, Eiko 1996, “Citizenship and National Identiy in Early Meiji Japan, 1868-1889: A Comparative Assessment.” In Charles Tilly(ed.): Citizenship, Identity and Social History,London: Cambridge
堅田剛、2003、「公民」石塚正英主編『哲学•思想翻訳語事典』論創社。
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安丸良夫,2010,『近代天皇観的形成』(劉金才、徐滔等訳)北京:北京大学出版社。
張灝、1995、『梁啓超与中国思想的過渡:1890-. 1907』(崔志海・葛夫平訳)南京:江蘇人民出版社

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 日本と中国の「国民」概念を比較した論文。郭台輝は華南師範大学の副教授で、元々はヨーロッパ市民社会の政治思想が専門のようである。
 
 中国ではマルクス主義の政治イデオロギーの影響もあり、日本でいう「国民」は全て「人民」と呼ぶのが慣例になっている。「国民」は学術的にも日常的にも、ほとんど用いられていない。nationも、日本では文脈に応じて「国民」と「民族」に訳し分けられるが、中国ではエスニックな文化を含意しない場面でも、ほぼ「民族」と訳している。民国期までは「国民」も普通に用いられていた。

 中国と日本のネーション概念の比較は、意外なことであるが、1990年代の国民国家論の隆盛にも関わらず、溝口雄三『中国の公と私』ぐらいしか見当たらない。日本と中国の間の「思想連鎖」のプロセスについては、山室信一氏をはじめとした多くの研究の蓄積があるが、その意味論的な構造の比較については、安直な文明論や文化決定論に陥りやすいものとして避けられてきた印象がある。私自身は「思想連鎖」系の議論が、日本と中国の間の知識サークルを研究しているようであまり魅力的に思えなかった一方、日中間の比較も安直に思われるのを恐れて避けてきた経緯がある。そのように、今までありそうでなかった研究という意味で、この郭台輝の論文は貴重である。
 
 ただし、肝心の日中間の「国民」概念の異同が、郭台輝の議論では必ずしも明確になってはない。これは溝口氏が、日本の「民」がある領域性を前提にしているのに対して、中国の「民」は人々の間の水平的な公平性に基づくものであると、非常に明快に図式化しているのと比べると不満が残る点である。では引用されている事実そのものに目新しい点があるかというと、そういうわけでもない。あえて細かな点を捨象して郭台輝の分析する日本と中国の差異をまとめれば、日本における「国民」が天皇に対する「臣民」という「虚構」を通じて国家統合を実現するという文脈で理解できるのに対して、中国の「国民」は清朝の伝統的な体制からの脱却という、理念的な政治的・文化的運動の文脈で用いられたことにある。日本の「国民」が第一義的に「国家の人」であり、それを民族文化的な「虚構」によって統合させるものであったのに対して、中国の「国民」はあるべき理想的な国家を想像するためのものであったという。

 こうした理解は、大筋では特に異論はないが、若干の違和感もある。一つには、中国の「国民」が理念的・急進的であったというのは、郭台輝の分析があくまで清末という「革命」の時代に限定されているためではないかということと、そしてもう一つは、日本の「国民」概念に対して中国のそれを肯定的に評価する傾向である。例えば、「「中華民族」観念は虚構の集団的記憶ではない」と言い切っているが、これはおよそ承服しがたい見解である。

 特に「国民」のような政治的な概念の場合、単に意味を比較するというだけではなく、その政治的な文脈を一つ一つ丁寧に解きほぐしていくような作業が必要である。意味論を比較する場合は、溝口氏のように大胆に図式化すべきである。この論文はどっちつかずの中途半端な印象がある。