梁漱溟『中国文化要義』(1949)「第十二章 人类文化之早熟」
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梁任公(啓超)先生は、「中国には族民はいるが市民はいない」「郷自治はあるが市自治はない」(第四章参照)と指摘しているが、にわかには理解できないかもしれないが、実に的を得た見解である。任公先生が述べている郷自治の状況は、『中国文化史』の郷治章で先生の家の郷の自治の概況が述べられている。原文は以下の通りである。
わが故郷の茶坑は、崖門を十余里を隔てた一つの島である。島のなかに一つの山があり、山麓に沿って村落があった。住民は約五千人である。わが梁氏は約三千で、山の東側に住んで自ら一保としていた。馀、袁、聂などの姓の氏族もそれぞれ山を囲んで三面に住み、それで保が二つとなっていた。ゆえに、わが郷の名前は三保と称されていた。郷治はそれぞれの保で決せられ、三保に関係する共同の利害は、三保の連治機関法によって決した。この連治機関は「三保廟」と言い、自分の保の自治機関はわが梁氏の宗祠から「畳縄堂」と言った。
自治機関の最高権は、畳縄堂の子孫で年51歳以上の耆老会議による協議であった。未成年でも「功名」(秀才監生以上)はまたこれに参与することができた。会議の名は「上祠堂」(連治会議は名を「上廟」と言った)と言い、本保の大事・小事はみな「上祠堂」でこれを決めた。畳縄堂には値理(理事)が4人から6人置かれ、毎年の耆老会議で指名される壮年の者が専任で会計を管理したが、続けて10年余り担当している者もいた。値理は年齢に達していなくても、耆老会議に列席することができた。保長一人が専門の役人だったが、身分が卑しくて年齢に達していない者は耆老会議に列席することができなかった。
耆老および値理は名誉職であり、その特別な権利は祭祀の時に「双胙」を仕切り(胙とは旧暦4月5日の清明節の時に宗族のなかで交換・分配する供物用の豚肉のこと。祭祀の主宰者の家に集まって、焼いた豚肉を先祖が埋葬されている山に捧げて祀り、また降りたらその豚肉で大宴会を行った)、及び祀堂で宴会の時に席に着くことができた。保長には俸給があり、毎年毎戸「保長米」と呼ばれる三千の米を支給し、保長が自ら家の門に出向いて徴収した。耆老会議は毎年二回、春・秋の二つの祭りの前の日に行った。春祭会の主要な事項は、来年の値理を指定することであり、秋祭会の主要な事項は決算を報告して新旧の値理を交代させることである。ゆえに秋祭会はしばしば三・四日まで延長されることもあった。外にも重要な事件が時たま発生すると、臨時に会合が開かれた。だいたい毎年会合が開かれるのは二十回以上で、農繁期は比較的少なく、冬と春の境目に最も多かった。
耆老の総数は常に6、70人であるが、出席者は毎回半数にも満たず、わずか数人で会議が開かれることもあり、50歳に満たない者はただ立って傍で聞いているだけで、大事があると数百人がひしめき合い、祀堂の前の階段の下まで人が一杯になった。常に発言するものがいても、その発言が不当であると、そのたびに耆老によって叱責された。臨時会議の議題は、紛争の調停あるいは裁判に関するものが最も多い。各紛争では、最初に親友と耆老が和解し、不服がある場合は各房の分祠に訴え、それでも不服なら畳縄堂に訴え、畳縄堂は一郷の最高法廷となり、それでも不服なら官に訴え出ることになる。しかし畳縄の判決に不服で訴訟を起こすと、郷人は不道徳と見なされるので、これを行う者はごく稀であった。
集団賭博や喧嘩の類など、子弟が法を犯した場合は、小さい罪であれば祠堂に叱責され、大きいと神棚の前で跪いて鞭を打たれ、さらに大きいものになると一季あるいは一年「停胙」にされ、さらにそれよりも大きいと「革胙」にされた。停胙者は期日が過ぎると復帰したが、革胙者は次の会議を経てもその罪が免除されることはなく、復帰することはできなかった。ゆえに革胙は非常に重い刑罰であった。祠堂の田を耕して租税が遅れている者は停胙になったが、完納後には复胙できた。窃盗罪を犯した者はその人を縛り上げて全郷を練り歩き、群衆がさかんにこれを辱めたが、これを「游刑」と呼んだ。游刑を受けたことのある者はすべて、最少でも一年の停胙となった。奸淫の事件が発生すると、全ての郷人で飼われている豚を悉く刺殺し、その豚肉を全ての郷人に分配し、罪を犯した家に豚の弁償をさせたが、これを「倒猪」と呼んだ。倒猪の罪を犯した者は全て、永久に革胙を受けた。
祠堂の主な収入は嘗田であり、どの分祠も所有し、畳縄堂が最も豊かで、およそ7、8ヘクタールあった。新しく砂が堆積してできた田はすべて畳縄堂に帰属して、私有することはできなかった。嘗田は本祠の子孫からこれを受け継いで耕し、租税は十分の四を祠堂に納めたが、それを「兌田」と呼び、全ての兌田はみな年末の競争入札で行われたが、この兌田を納めてなかったり不足している者は、次の年に大体は兌耕権を継続し、別に入札はしなかった。洪水や台風があった時は租税は減らされた。減租の率は、耆老会の議決によるものであり、そこで決められた率は私人で持っている田の減租の基準にもなった。
支出は墳墓の礼拝、祠堂の祭祀が最も主要なものであった。およそ祭では皆で胙肉をわけ、年末の大晦日(辞年)だけは分け前が多く、各分祠も同様であった。だから年越しの際は、貧しい家であってもみんなが十分に食べることができた。郷団、本保および三保の共同統治機関がこれを担い、銃や弾薬を常備して、その費用を分担した。団員は壮年の子弟の志願で補充したが、耆老会議の許可がなければならなかった。団員は双胙を仕切ることができ、銃器は団員によって保管されていた(あるいは数人が共同で一つの銃を保管していた)。盗んで売り払った者は賠償を追及する以外に、永久の革胙の厳罰を科した。銃弾は福堂の値理がこれを保管した。
郷の前には小さな運河があり、いつもつまっていて、3年か5年に1度は浚渫を行っていた。浚渫するたびに、祠堂から材料が供給され、全郷人は18歳以上51歳以下はみな作業に従事した。耆老・功名だけは免除され、従事したくないものや出来ない者は、免除のための金を納めなければならず、祠堂がこの金で代わりに人を雇った。堤防を築く工事があった場合も同様である。作業に従事しないのに免除金も納めない者は、停胙の罰を受けた。
郷には3、4か所の蒙館(いわゆる寺子屋:訳者註)があり、大体はそれぞれの祠堂を借りて教室としており、教師はおよそこの郷で本を読んできた人である。学費は決まった額はなく、多い者は毎年30元、少ない者は数升の米だった。教師となる者は、祠堂で二つ胙を有することができた。二つも胙を有して祠堂を借りてるために、義務も同時に負っており、つまり宗族の児童は金や米を納めることができなくても就学を拒むことが出来なかった。
毎年正月は灯篭流しが、7月には法事(打醮)があり、郷人の主要な公共の娯楽であった。その費用は各人の気持ち次第の寄付によるものであり、足りなければ畳縄堂がすべて引き受けた。三年あるいは五年ごとに一度演劇があり、その費用は大体三保の廟が4分の1、畳縄堂が4分の1、分祠堂およびその他の種類の団体が4分の1、私人の気持ちによる寄付が4分の1であった。
郷のなかには「江南会」という、すぐれて趣味的な組織があり、その性格はヨーロッパの協同組合と非常に良く似ていた。会の成り立ちは20年から30年を期間として、成立後3年から5年で元本の返済を抽選しはじめ、先に返済した者は利益が少なく、後に返済した者は利益が多かった。所得の利息は、春・秋ごとの分胙や大宴会の諸経費のほかは、ことごとく会員に分配した(郷中の娯楽費は、この種の会が常に多く寄付した)。会のなかの値理は、毎年持ち回りで担任した。値理は無俸給で、特典は双胙の権利だけだった。30年前、私の郷で盛んな時には、この種の会は三つや四つほどあった。郷の中の勤勉な子弟からもこれらの会は信用を得ており、赤貧から家を起こして中産となった者もおよそ少なくなかった。
さらに、一種の消費組合や販売組合によく似た組織も存在していた。私の郷の農民が必要している主要な肥料は「麻麸」と呼ばれ、比較的安く大量の麻麸を購入することを取り決めて、小さな利益も会員に分配するいくつかの家が常にあった。私の郷の主要な産品は「葵扇」や蜜柑で、いくつかの家が共同で比較的高い値段で売り、会の中でまた売り上げの若干を引き出した。これらの会には臨時で結合したものも多ければ、数年以上継続するものもあった。会のなかの所得は、寄付や娯楽費以外は、だいたい毎年の終わりに、全て分胙の増加のために用いた。各分祠や各种の私会の組織は、おおむね畳縄堂を模倣していた。三保廟は畳縄堂の組織を採用してこれを拡大したものであった。そして郷治の実権は、9割の操諸(?)による畳縄堂の耆老会議と値理にあった。
先君は28歳から畳縄堂の値理を任じて30余年、江南会で値理を兼任してまた2、30年、このほかまた三保廟および各分祠値理を兼任していた。啓超が幼い頃の私の郷は、まさに自治が最も美しく充実していた時代であった。
梁漱溟が1949年に著した『中国文化要義』に引用されている、梁啓超が故郷、広東省新会県茶坑村で行われた「郷治」の記憶をたどって記述した文章である。原文は1925年頃に書かれた梁啓超の「中国文化史-社会組織篇」。
農村自治の慣習がこと細かに描かれている、こういう文章は意外に珍しく、なかなか面白いので訳してみた。晩年の梁啓超は、従来の国家主義的主張を反省して伝統学術に深く傾倒していたことで知られているが、以上の「郷治」についても「宗法社会が脱ぎ捨ててしまった遺影」として、その伝統が失われてしまったことを残念がっている。後の梁漱溟の郷村建設の思想と運動は、この梁啓超の文章の影響によるところが非常に大きい。
伝統中国社会は、村落レベルではほとんど官の干渉はなかったことは良く知られているが、丁寧に読むと科挙の資格をもっている人物が指導層になったり、あるいは不満があると官に訴えることができたり、といった経路は一応用意されていたようである。中国の村落は「共同体」ではないという評価が一般的で、日本との比較でそれは間違っていないとは思う一方、上述の「郷治」の説明はまさに「共同体」そのものであり、「共同体」ではないという場合に、具体的にどういうことなのかをもっと丁寧に説明する必要があるのではないかと、最近は自省をこめて考えている。