史報

中国史・現代中国関係のブログ

喪服制度から見る差序格局

2011-11-11 07:11:35 | Weblog
呉飛「喪服制度から見る差序格局――ある経典の概念に対する再考察」『開放時代』2011年第1期
http://www.sociology2010.cass.cn/upload/2011/11/d20111103100010968.pdf


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3 差序格局の解釈の限界

 差序格局の提示している、現代社会科学角度からの中国の文化と社会に対する理解は、一里塚(里程碑)の意義を有している。しかし、われわれはここに留まることはできない。というのは、そうでなければさらに深いレベルの研究に入ることができず、古今の中国の非常に多くの社会文化現象に対して分析・解釈することはできなくなってしまうからである。だが、筆者は孫立平、閻雲翔、翟学偉などの先生たちとは異なり、「定義が厳密ではない」ことが差序格局の大きな問題であるとは考えていない。費孝通が用いている散文的な筆致は、決して後の学者が差序格局を理解するのを妨げていない。人々がこの概念を用いるときは、大部分は自らが何を言っているのかをはっきりさせている。差序格局の主要な問題は、むしろ実質的なものである。それは、喪服制度のいつくかの要点をつかまえてはいるものの、いまだなお喪服制度豊かさを把握できておらず、その強調するところが喪服制度の中の一つの点に過ぎないことにある。

(1)親を親とし、尊を尊とする

 まず強調しなければならないのは、費孝通が「差序格局」という文章を書いた本来の目的は、中国人がどうしてこうも「自分勝手(自私)」であるのかを探究することにあったことである。この点は、後のこの概念に対する使用と分析のなかで、常に意識的・無意識的に軽視されてきたことである。いくつかの非学術的な文化批評の文章を別にすると、後の学者はほとんど価値中立的な立場に基づいて、「差序格局」の概念を使用して中国人の行動様式を分析している。文化的な批判の時代が既に過去のものとなり、学者たちは差序格局に対して新しい理解をもつようになったのであるが、われわれは費孝通がこの概念を提示した時に元々持っていた言葉の意味を軽視することはできない。というのも、この出発点は差序格局の全ての分析および『郷土中国』のなかの非常に多くの関連する篇章を貫いており、潜在的にそれ以降の学者のこの概念に対する理解に影響しているからである。
 
 1930、40年代は、「愚」「病」「私」に、しばしば「弱」が加わって、一般的に中国人の大きな病理として数えられていた。多くの学者はこのことを語り、費孝通もこうした観点を受け入れて、そして「私という欠点(毛病)は中国では実に愚と病よりもさらに普遍的に多く、上から下まで、ほとんどこの欠点に侵されていないものはない」(費孝通『郷土中国・生育制度』北京大学出版社、1998年、26頁)という。「私」という病に侵されているとして、これが結局のところ文化的な原因であるのかどうかというのが、彼の「差序格局」という文章の出発点であった。彼の理解では、「私」の実質とはつまり、集団と自己の境界をどのように線引きするかという問題である。まさにこの点において、中国文化と西洋文化は大きな違いが存在していた。西洋文化は「団体格局」であり、団体と個人とが非常に明確に分かれている。中国文化は「差序格局」であり、集団と自己との境界が等差的に異なることに従って異なるものである。しかし、どの段階においても、中国人はみな自らの圏内の利益を考え、圏外の利益を犠牲にするのであり、つまりは永遠に自己を中心として、親疎・遠近を根拠に問題を考慮し、それによって永遠に「自私」であるということになる。

 喪服制度が確立している倫理体系の中にこうした側面が含まれないと言うことはできないが、これは喪服制度のなかの唯一の側面では決してない。近年の研究の中では、多くの学者は決して費孝通のようにこの概念を使って「私」の概念を批判することはないが、彼の深い影響は大きく受けている(杜瑛「国内“差序格局”研究的文献綜述」『河海大学学报(哲学社会科学版)』第8 卷第1 期、2006 年3月)。彼らは差序格局が倫理道徳モデルであり、社会県関係であるというだけではなく、希少資源の分配でもあると言うのであり、そこで強調されるのは親疎・遠近という次元(維度)であり、この次元は費孝通が「私」を解釈する主要な論拠であったものである。閻雲翔の提示する等級制度だけが、この次元を超えたものである。この点は深い洞察を持っているものの、私はこれは費孝通の本意ではないと考えている。閻雲翔は、費孝通の論じている差序格局は、実際のところは一つの同心円の構造ではなく、尊卑・上下の構造であると述べている。この点は費孝通の原文のなかでは読み取ることのできないものであり、閻雲翔が差序格局の啓発された後に、発展して出てきた思想に違いない。費孝通の差序格局の核心は同心円の構造であり、こうした構造は閻雲翔の等級構造と解釈することではできない。閻雲翔は、差序格局は一つの立体的な構造であって、平面的な構造ではないと語っているが、これは一つの有益な説明方法である。しかし、費孝通自身はもちろんのこと、後の学者も誰も、未だかつて差序格局を立体的な構造として理解したことはない。ただし、喪服制度は一つの典型的な立体的構造であり、この二つ方面を同時に見ることができる。本服図によると、父子兄弟はみな一体となって親となり、ゆえに父親、兄弟だけではなく子どももみな斉服の期間喪に服さなければならないのであり、これはまさに同心円の構造である。しかし、五服図が典型的な同心円の構造ではない理由は、それが親疎の原則に照らして構築された本服図の上に、さらに等級原則を用いて調整を加えていることである。『儀礼・喪服』からはじまる、父親に対する喪服の制度は、斬衰3年に加隆(不明――訳者註)され、祖父、曾祖父、高祖父はすべて斉衰に加隆されるが、これが現しているのは、父兄先輩の後輩に対する等級制度である。例えばさらに、本服に照らして、兄弟姉妹も一体となって親となっている。姉妹が嫁入りするまでは、兄弟と一緒に斉衰の期間喪に服さなければならない。しかしもし嫁入りした後は、喪服が1等「大功」に格下げとなる。これなども男女の間の等級的な差別を体現するものである。費孝通の言うところの同心円的な差序格局は、「至亲以期断(親しさで境界線を引く)」という本服の構造であり、「親を親とする」という原則を根拠としている。しかし、現実の礼制の実際の構造では、「尊を尊とする」を根拠として、出入、長幼、服従、名服の関係が、加、降などの調整の後、われわれが見ている五服図になるのである。歴代の五服図は多くの調整があり、その大部分は親疎関係と東急関係を一層強調するものである。

 喪服制度は非常に複雑で、その中の大小様々な原則があるが、それによって非常に多くの細部の問題が数千年来論争が止むことがなかった。しかし大体において言えば、その最も核心の原則は「親親」と「尊尊」の二つに他ならない。「親を親とする」とは、費孝通が言うところの同心円の構造であり、「尊を尊とする」とは閻雲翔が言うところの等級制度である。もし、喪服制度のなかの差序格局が中国人の「私」という欠点を生み出していると言うのであれば、それは「親親」原則の一つの結果には違いない。まさに、孔子が「父は子このために隠し、子は父のために隠す」という親親の原則のために、「親しければ匿ってもよい(親親容隐)」は、とりわけ伝統中国の法律の一つの基本原則となった。これもまさに、親を親とする原則のためなのであり、費孝通の言っているような、家のために国を犠牲にするという状況なのである。こうした点は確かに存在する。しかし、これは喪服制度の全体からは程遠いものであり、さらには喪服制度に伴う唯一の文化的な結果でもないのである。



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 費孝通の「差序格局」概念の限界を、喪服制度を手がかりに明らかにしようとする、意欲的な論文である。呉飛は北京大学哲学系の副教授で、自殺の研究などに業績がある(http://www.douban.com/event/11377518/)。

 「差序格局」の重要な点は、費孝通が中国的な「私」の克服を目指すことを動機としていたというだけではなく、江南地方の農村社会の調査を通じて編み出したモデルであるという点にある。「差序格局」は、本来的には社会制度や政治体制といった中国社会のハードの部分を説明するようなものではないので、喪服制度などには必ずしも当てはまらないという直感そのものは間違っていない。

 その上で、呉飛の議論には異論がある。呉飛は「親親」の原則だけでは見知らぬ人との関係や国家への服従は不可能であり、喪服制度を根拠に「尊尊」の原則も考慮されるべきだと主張しているが、これは「差序格局」の同心円の範囲が伸縮自在であるという点を、適切に評価していない。要するに「親」の範囲が、その個人の勢力や人格的な力に応じて伸縮するとすれば、それは広い範囲において「親」を獲得した何らかの有力な個人を通じて、見知らぬ人同士がつながることができていることを意味しているのである。

 これは、どうして中国王朝が科挙受験で行政組織の知識ではなく、一見統治に有益とはあまり思えないような、儒教という人間のあるべき道徳・倫理を書き込んだテキストを課したのかを考えてみればいい。それは、伝統中国の政治文化においては、統治者が統治者たりえているのは、より広範かつ多くの人々に慕われるような道徳的な人格を備えているから、と理解されていたからである。「尊尊」原則の存在は否定しないが、それはあくまで「親親」の下位概念で、「親親」の原則を固定化・体制化したものとして理解されるべきだろう。たとえば、「天子」が世界で最も「尊」を受けている存在であるとしたら、それは「天子」が世界のなかで、もっとも人々から「親」を獲得する人格的能力を備えているからに他ならない。「親」を獲得するための原理と方法こそが、まさに儒教であると言うことができる。

 「親親」に「尊尊」を加えることで「差序格局」概念の汎用性を高めようとする意図はよくわかるが、中国社会の秩序や関係性の原理を理解するに当たって、お互いに異なる二つの原則を並列させてもかえって混乱するだけだろう。「差序格局」に関する論文は数多く、ここでも何度か紹介してきたが、その多くがこの論文と似て、「差序格局」概念を発展させようとしてかえって混乱を招いていることが多い。

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