史報

中国史・現代中国関係のブログ

多民族国家中国

2008-03-28 15:51:13 | Weblog

多民族国家 中国 (岩波新書)

この王柯『多民族国家中国』(岩波新書)と言う本は、中国の民族問題を理解する格好の基本テキストである。しかしアマゾンのレビューにもあるように、ちょっと中国の民族政策に対する評価が甘いのではないか、という批判がある。もともと私はチベットに強い関心をもってなかったために昔は流し読みしてしまったが、確かにあらためて丁寧に読んでみると、中国の少数民族政策には基本的に問題がなかったかのように書かれてあることは否定できない。ダライラマが亡命した、しばしば「侵略」と語られる1959年の大事件も数行の説明で終わっている。チベット問題を理解しようと本書を手に取ったひとは、やや肩透かしをくらってしまうだろう。パンチャラマ10世が、死の直前に中国共産党のチベット政策への批判を行なっていた(著者が知らぬはずのない!)事実を無視して、終始親中国的な態度を貫いたかのような書き方はかなり一方的である。

ただ全体の枠組は、むしろ他の文献よりもずっと優れていると考える。伝統的にダライラマとパンチェンラマの権限の配分が不明確であったことが、近代化における両者の一致団結を妨げ、チベットを逐われたパンチェンラマが中国に接近していったという筋書きは、私の理解とほぼ同じである。チベット関係の文献は、大きな中国の小さなチベッへの抑圧や支配として描き出すものがほとんどだが、中国社会がそうであるように、チベット社会も必ずしも一枚岩ではないのである。チベットが独立国家となり、独自の近代化政策を推し進めようとしても、やはり共産党政権支配下と類似の「世俗化」の問題に突き当たらざるを得なかっただろう。同じく「政教一致」の性格の強い中東や中央アジアの国々を見れば分かるとおり、独立後に内戦を避けることのできた国家のほうが珍しい。

その点から言っても、中国国家の中での自治を追求するしかない、という王柯の主張も基本的には正しい。他の中国民族問題の研究文献は中国共産党に民族政策を批判するが、ではどうすればよいのかというと、これがさっぱり分からない。実際のところ、「独立すべきだ」とまで言い切る人は研究者の中にもそれほどおらず、せいぜい非民主的で暴力的な手段の抑制を呼びかける程度である。だとすると、中国をだらだらと批判し続けるのではなく、むしろ中国の統治の論理の中からよりよい「チベット自治」の可能性を考えていくほうが誠実な議論というものだろう。

力強く「独立」を掲げる人に対しては、心情的に賛成してよいという気持ちはかなりある。しかしそこまでいかず、政治家や官僚でもないのに「話し合いで」「平和裏に」「チベット人の意志を尊重して」などという、「私は民主的で平和的な人間です」という自己弁明以上の意味が感じられない愚にもつかぬ主張を繰り返す人には、全くもって反対である。


独創性続き

2008-03-27 19:18:39 | Weblog
特に人文系にレアケース研究と視点ずらしの手法が横行していると前回書いたが、ちょっと補足。

レアケース研究と言うのは、「誰も扱ってこなかった資料を紹介しました」的な研究であり、視点ずらしというのは「今までの議論は偏見や思い込みに満ちてます」的な研究である。1990年代に、両者が国民国家批判と言う形で共同戦線を張っていた。例えば、内モンゴルやチベット、ウィグルなどに関する、従来の革命史的な研究では手薄であった「少数民族」関連の(せいぜい中国語の)文献を調査することで、従来自明視されてきた「中国」としての「国民国家」の一体性は政治イデオロギー的な虚構であるというものである。とりわけ、最も批判されてきたのが「民族主義」者の孫文である。

とくに視点ずらしが横行しているのは、研究方法の問題もある。前にも書いたが、昔であれば歴史を研究する際にヘーゲル、マルクス、ウェーバーの理論をきっちりと読み込んでいなければならなかった。「実証」というのは、こうした理論図式を手がかりにして「実証」することであった。いまはこうした理論図式がない(というか信憑性が弱まった)ので、とにかく「現地」に行って「使われいない資料の発掘とか時にはインタビューを試みたり、あるいは図書館から雑誌や著作全集を引っ張りだしては、そこに書かれてある言葉や概念の意味を研究するというものが多くなっている。言葉や概念の研究が増えるようになると、自ずと「今普通に使われている言葉はせいぜい100年の歴史ぐらいしかない」的な結論が多くなり、ひいては「こういう言葉の自明性を疑うべきだ」という(はっきり言って凡庸きわまりない)主張が出てくるのである。特に「人種」とか「民族」とかいう言葉がそうである。

問題は、この視点ずらしの手法が独創性を生み出すよりも、その逆の方向に作用することが多いことである。視点ずらしの手法は、視点をずらす基準をあまり明確にしていないことがほとんどだが、それは「研究者の間で分かりきっている」ことだからである。要するに視点ずらしの手法は、もともと研究者の間で共感できるテーマを確認しあっているだけに過ぎないところがある。たとえば「孫文には現在につながる同化主義の主張があった」という批判的な研究が、同化主義の定義がいかなるもので、100年前の中国における政治的文脈ではどういう意味があったのか精査されることもなく、「そうだけしからん」という共感が成立してしまうのである。そのように私から見ると、国民国家批判とかポストコロニアリズムとか社会構築主義といった視点ずらしの手法は、学者の世界の間で共有されている価値観の自明視を強化する。

だから前回言ったように、独創性と言うのは、学問的な文脈を意識していないときに、あるときに「ぱっとひらめく」ところからしか生まれない。既に古い話だが、学会の中心でなされていた国民国家批判が一般国民に全く浸透せず、むしろ歴史学の素人が書いた『国民の歴史』のほうが広く受けてしまったのは、一つにはやはり私を含めて(内容的な異議は少なくないが)多くの人が後者に「独創性」を感じたからだと思う。

だから、新しい資料の発掘による視点ずらしというのではなく、「秦はなぜ中国大陸を統一できたのか」という、中学生でも共有できる問題関心から資料にアクセスしていくという方向にこそ独創性の可能性があると考えるが・・・。まとまらなくなったので、また今度。

独創性

2008-03-26 19:06:49 | Weblog
NHKの爆笑問題の番組で、「独創性」が話題になっていた。なかなか面白かった。

研究をする時の格言の一つとしてで、「自分の研究が独創的などと思い上がってはいけない」というものがある。ある時に「これは面白い」と思いついたとしても、だいたい自分の考えている程度のことは、他の誰かも考えているからである。だから研究者にとっての「独創性(オリジナリティ)」というのは、膨大な既存研究をしっかり勉強した上で、まだ開拓されていない分野を研究したり、既存研究が暗黙の前提にしてきたことを批判したりということに求められる。

これは正論である。しかし問題は、これがつまらない方向に行くことが多いことである。前者について言うと、それは「使われていない資料や対象」を研究するということになり、結果的に独創性も何にも感じられないような研究が生み出されてしまう。例えば、「在日ムスリムの研究」というのは確かに未開拓かもしれないが、主張されている基本的なことはそれまでの移民研究と特に何も変わりがなく、独創的でもなんでもなく単にレアケースを扱っているだけに過ぎない。そのような、レアケースと独創性が混同されていることが、実のところ少なくない。

後者について言うと、例えば「従来の歴史家は近代の国民国家をモデルとして過去にも『中国』の一体性を実体視してきた」などという主張である。このような、「一般に当然視されているものが実は必ずしも当然のものではない」ことを指摘するのが独創的だと勘違いしている人が実のところ少なくないが、これは単に視点を少しずらしているだけに過ぎない。視点のずらしというのは、せいぜい「馬鹿と思われない」ことを賭金にしている大学院生までにしか通用しないし、ずらしそのものが自明になってくれば飽きられてくる。実際、ポストコロニアリズムとか、国民国家批判とか、10年前に流行した視点ずらしの作法は今は急速に飽きられている。

以上のように学者の正論では、レアケースの研究や視点ずらしが「オリジナリティ」と混同されるというか、そのように認知している傾向がある。「お前の考えつく程度の独創性など所詮大したことはない」というのは全くその通りだとしても、その行き着く先がレアケース研究や視点ずらしと言うのはあまりに退屈である。

この点で爆笑問題の太田の面白いのは、個人の持っている関係性それ自体が代替不可能なほど独創的なのであり、その中で考えていることは必然的に独創的であると主張していたことである。学問をしている人は、既存研究を十分に勉強した上で、その中から「新しい」点を見出そうとする知的な作業こそに独創性の存在すると考える。ところが太田は逆で、ぱっとひらめいてしまう瞬間こそに独創性があるのだと、一見素朴すぎるように思われることを主張する。

私は少し考えて太田のほうが正しい、と思うようになった。というのは、既存研究に対して「それは違うんじゃないか」と感じる瞬間と言うのは、確かに理屈抜きなのである。この直感を膨大な研究の蓄積の末に得たものであったとしても、その瞬間自体は学問的な文脈に回収できるものではない。ある本を読んだ際の感動や違和感や憤りというものは、やはりその人にしか感じられない個性である。それを言葉にして説明することはある程度可能であるが、全く同じ体験をすることはできない。それは本を読んだ時のその人の境遇や文脈が、必然的に千差万別だからである。

学者の「独創性」に関する通説的見解は基本的に正論だとは思うが、「レアケース」の研究や「視点ずらし」を「独創性」の範囲から除外することが出来ない。何よりそれは、実際には学者の世界の中で当たり障りのないこと、つまり実証的で確実なことを言うという態度を強めやすい。しかし、マルクスやウェーバー、丸山真男など歴史に名を残し、時代を超えて読みつがれている学者というのは、実証的にはかなり怪しいものばかりである。先年物故した白川静の漢字研究は現在はその「独創性」が認められているが、長い間学会の主流からは「実証的ではない」「異端」であるとされてきた。

まとまらなくなってきたが、一時期はやった「マイノリティや海洋貿易を研究することで単一民族的な国民国家のイメージを覆す」という主張は、独創的なことでも何でもないのである。こうした主張があまりに速やかに、既存のアカデミズムの中に抵抗感もなく浸透してしまったことが何よりの証拠である。本当に独創的な研究は、まさに白川がそうであったように、学者の世界から忌避されるようなもののはずなのである。

国民国家とチベット問題

2008-03-21 15:45:51 | Weblog
チベット問題を理解する際に、「国民国家」の概念を持ち出すとわかりやすい。

近代以前の中国王朝とチベットの関係は、軍事的な保護者と宗教者との関係であった。皇帝がチベット仏教を信じていた元や清の時代は特に、チベットは信仰の「聖地」として尊重された。チベット関係の文献を読むと、中国とチベットが対等だったかのような書き方をしているものが多いが、これははっきり言って不正確である。軍事的には庇護関係にあり、宗教的には師弟関係にあったと理解するほうが正しい。

国民国家では、軍事的には服属しているが宗教的には上位であるという、こういう関係はなかなか通用しない。例えば国民国家に不可欠である普通教育制度を思い起こしてもらえればいい。そこでは、国家に属する「国民」が平等に同じテキストを使って同じ言葉で学ばされ、その内容も実用的である。小学校に通ってしまえば、幼少の頃から仏教の経典を一心不乱に勉強する、ということは当然ながら難しくなり、そうして仏教者の教育的な価値は減ってしまうことになる。

軍隊もそうである。国民国家の軍隊は、徴兵制にせよ志願制にせよ、国家に属する平等な「国民」によって構成される軍隊であることが大前提である。別の国家に守ってもらうなどということは、別の国家の「国民」に同化してしまうことを意味し、国家の独立性も損なわれることになる。

なにより国民国家の国際社会のシステムが、宗教文化的には独立して軍事的には中国の庇護を受けるという、従来のチベットのようなあり方を許さない。19世紀末のイギリスは、中国を飛び越えて直接にチベットの外交交渉が出来たが、中国王朝が「反抗しない限り干渉しない」という原則をとっていたからで、チベットが「独立国」であったからではない。

その後イギリスが干渉の度合いを強めると、軍事的な庇護者としての地位を失うという危機感を強めた中国が反発しはじめ、イギリスに対抗するためには国民国家の国際社会に参画し、チベットを全面的に統合しなければならくなくなった。これが今、「侵略」と非難されている事態だと解釈したほうがよい。本当は19世紀以前の、「反抗しなければ何やっても自由」というあり方が中国にとっても理想なのだが国民国家の国際社会はそれ許さないのである。国際社会から見れば、「反抗しなければ」というのは独立性を許さないと同義であって、そのような国際社会の認識を受け入れたチベット人も「独立していない」という不満を強めていく。「チベット独立」を最も強く掲げたのは、1920年代の親イギリスのダライラマ13世の政権においてであり、国民国家の国際社会に無関心な昔ながらの寺院勢力は独立にほとんど無関心であった。後者の勢力がパンチェンラマに結集し、イギリス=インドに親しいダライラマに対して中国と接近したことが、現在に至るまでのチベット問題に尾をひいている。

チベット問題などを見ると、20世紀末に流行した多文化主義という思想の無力さを痛感する。西側社会は民族文化の自治や多様性を認めろと軽く言ってしまうが、アメリカ社会などにおける文化的な多様性というのは、領土や血のつながりに根ざしたものではなく、あくまでアイデンティティの問題が中心である。多文化主義は、アイデンティティの問題以外は、他の「国民」とそれほど違いのない生活水準や教育水準を送っており、またマイノリティもそう望んでいること、そして政教分離なども大前提である。経済的な後進地域で「政教一致」の社会であるチベットに、多文化主義がおよそ当てはまらないことは言うまでもない。多文化主義というのは、あくまで成熟した国民国家社会の思想である。

「チベット独立」というのも、全面的に反対はしないが、四川省や青海省などの「外チベット」のチベット人を分断し、彼らをさらなるマイノリティへと転落させてしまう。独立した民族国家のなかで少数民族が抑圧されるという問題は、ユーゴスラビアでも経験していることである。また現在の国際社会は(特に日本は!)、もちろん中国への遠慮であろうが、チベット問題への関与にそれほど積極的ではないし、ダライラマ自身も独立を否定している。「独立」は現実的な選択肢として有り得ないと考えたほうがいい。

中国政府の関心は、「とにかく反抗しなければいい」のであり、政治的な安定を確保できればチベットの宗教文化などは別にどうでもいいことなのだ。チベット社会も、半ばそういう「無関心」の扱いを望んでいるところもある。しかし、「とにかく反抗しなければいい」という態度による統治は、国民国家という社会制度では有り得ないのである。伝統社会の「反抗」は単純に「刃を向ける」ということを意味したのだが、国民国家における「反抗」は普通教育制度のカリキュラムや、国家の定めた法律、税制度や経済制度などに対する異論も含まれてしまう。チベット社会の宗教的慣習に合わない教育や法律への意義申し立ては、中国政府から見れば「反抗」そのものである。

特に2000年代の「西部大開発」というプロジェクトが、かえって「反抗」の文脈をますます拡大しているところがある。「国際競争」の中で経済成長を維持するための資源確保が喫緊の課題である中国は、チベットやウィグルの資源に目を付けると同時に、鉄道などの大規模なインフラ整備によって民族問題を一挙に解決しようとした。少数民族が同じ経済活動のインフラに入るようなれば、自ずと「中国人」意識も強まることを政府は期待したのである。ところが結果は期待したものとは逆になった。確かに、これはチベットにも「お金が落ちる」ようになったのだが、当然ながらそれを専ら享受するのは資本力を有する中国人である。増えたとは言え、チベット自治区における中国人の比率は1割以下であり、チベット人は中国人を「少数派のくせに経済を圧倒的に支配している」として、反感をますます強めていくことになった。

その意味でこの問題は、現在の世界を席巻する新自由主義的な経済システムとの関連で考えたほうがいいかもしれない。普通の「中国人」でも生活に困窮している人は膨大であり、それはチベット人の状況と大して変わりないはずだが、「民族」の旗を掲げることができないので強い声を挙げることができないのである。中国政府が最も恐れているのは、少数民族と貧困層が政権および市場経済批判で「共闘」してしまうことであり、私は中国政府があそこまで強硬な態度に出ている理由はむしろここにあると推測している。もっとも、もともと共産党というのはこの「抑圧された民族と労働者の連帯」を目指していたはずのだが・・・・。

なぜチベットは独立できなかったのか?

2008-03-19 21:55:19 | Weblog
 さて重要なのは近代である。近代のチベットを考える際に重要なのは、国際的に承認された独立国家を建設できなかったことである。チベットの民族問題は中国共産党政権成立以降の問題が語られることが多いが、むしろ重要なのは中華民国期である。中華民国の時期は、国家体制がかなり不安定で、モンゴルがそうしたように、その気になれば独立くらいわけもなかったのではなかいと思われるが、結局はそうならなかった。その理由を簡単に述べていくことにしたい。

 チベットの近代を語るに当たって欠かせないのはダライラマ13世である。彼が三歳で即位した19世紀末、軍事的な庇護者である清朝は無残なほど弱体化し、それにかわってイギリスとロシアがチベットの支配権を虎視眈々と狙っていた。

 イギリスはロシアとの対抗措置として1903年に軍事侵攻に踏み切り、イギリスのヤングハズバンド軍はラサを占領し、ダライラマ13世はモンゴルに逃れる。翌年のラサ条約で交易所の開設、50万ポンドの賠償、イギリスの許可なく他の外国に鉄道、鉱山等の利権を提供しないことなどが取り決められ、チベットは実質的にイギリスの保護下に置かれ。しかしこれにロシアとフランスが介入し、またチベットもイギリスとの対抗上中国に接近して、1906年の北京条約で中国のチベットに対する宗主権が認められた。

 フランスの支援の下、1906年からチベットの統治を担った趙爾豊は、外国からの干渉を許しているチベットを清朝国家に完全統合するための強権的な同化政策を推進し、弁髪を義務付けるなどチベット人の伝統的習俗までを強制的に変えさせた。1910年にラサで反乱暴動が起こったが、清朝は鎮圧の過程でラサを占領して、前年に帰還したばかりのダライラマは再びインドに亡命する。ダライラマはインドのイギリス政府から厚遇され、かわりにチベットにおける中国との関係はパンチェンラマが担った。

 1911年の辛亥革命で趙爾豊は処刑され、ダライラマも1913年1月にラサに帰還して「独立宣言」を行っている。しかし列強の承認を得ることはできなかった。1914年のシムラ条約でイギリスとロシア、チベットはメコン川を国境に設定したが、袁世凱政権の中国はこれに不承認だった。しかし、同年のダルツェンドの合意で中国がメコン川国境承認。中国の内政干渉を認める。

 袁世凱死去後の中国国内は軍閥構想で混乱を極め、チベットでは独立の動きが高まっていくことになる。1917年に中華民国は再びチベットの政治統合を行おうとして外チベットに進行する。しかしチベット軍はこれを跳ね返し、休戦協定によって長江が国境と定められる。

 1920年代になると、政治的安定を得たダライラマ13世は中央集権的な近代化政策を推進する。ダライラマ13世の友人であるイギリスの外交官チャールズ・ベルが1920年11月から1年近くラサに滞在し、軍事的な援助、鉱山開発、英語学校の開設などの協力を進めた。電報線、水力発電所や兵器工場が作られ、洋風の家や洋装が徐々に広まり、街路では近代化された兵士や警察が巡回するようになる。

 こうした近代化・集権化政策は、寺院勢力との政治的な亀裂を強めるものであった。寺院勢力とパンチェンラマ9世は軍隊の維持費用の負担を求めるダライラマ13世に強く反対し、1923年にパンチェンラマ9世は北中国に亡命する。さらに警察と軍隊の対立という不祥事も重なって親イギリスの軍人ツアロンシャペが失脚し、イギリスとの協調関係も萎んで英語学校も閉鎖されてしまう。1930年代には寵臣クンペラが自動車や電化を導入し、近代主義的な政策を推進しようとしたがうまくいかなかった。

 中国と対等な国家であると考えるダライラマに対して、亡命したパンチェンラマは中国に接近し、蒋介石や張学良といった中国の国民党政権から重んじられ、1930年に中国軍の護衛の下でチベットに一時帰還した。さらにベルとデルゲという二つの寺院の地域的な抗争が、それぞれ中国とチベットを背後にしていたために、1931年に両国間の紛争への拡大していった。ダライラマはイギリスと国際連盟に訴えたが効果なく、独立国であるという主張を取り下げて国境を長江とする休戦協定が結ばれた。こうしてダライラマ13世は、チベットの近代化にも、国際社会での独立の承認を得ることにも失敗し、1933年の11月に死去することになる。

 以上のように、中華民国期というのが思いのほか重要であることがわかる。つまり、集権的な近代化を進めようとするダライラマと、伝統的な寺院勢力の自律性を重視するパンチェンラマとの齟齬よって、親イギリス・インド派と親中国派の対立につながる構図が成立したのがこの時代であった。この構図は1900年代にもある程度出来上がっていたが、やはり決定的だったのはパンチェンラマが中国に亡命した1920年代以降である。

 その意味で、ダライラマ13世が目指したチベットの「独立」とはチベット仏教の宗教的伝統を中国や諸外国の「侵略」から守ることを意味するのでは必ずしもなく、近代的な国家を建設するために、多様な宗派が並存していた旧来のチベット仏教社会の変革を目指すものであった。本当の意味での宗教的伝統を護持しようとした寺院勢力は、皮肉にも独立よりも中国との関係強化という伝統的な手法に傾いていくことになったのである。

 チベットがモンゴルのように独立できなかった理由は様々だが、モンゴルにとってのソビエト・ロシアのような、国際社会で強力な独立の後援者が不在であったことが挙げられる。最大の候補者は言うまでもなくイギリス=インドであったが、チベット国内におけるダライラマと寺院勢力との対立が、全面的にチベット社会の将来をイギリスに預けることを妨げたのである。

 ここからうかがわれるのは、チベットをヨーロッパの民族のように、何らかの宗教文化にとってがっちりと統一された民族共同体のようにイメージすると誤ってしまうことである。チベットの社会構造についての理解が必要になってきたので、現代史に入る前にもうちょっと勉強していきたい。

日本近代の分水嶺:昭和40年代

2008-03-17 19:15:51 | Weblog

チベットの話はまたおいおいと。やはり、ダライラマとパンチェンラマの微妙な関係が重要なことは間違いないと思う。中華民国の時代になぜ国際社会に承認された独立国家になれなかったのかが多分重要なところなので、また考えてみます。

 たまには日本のことについて。

 私が思うに、日本の「近代」の画期と言うと、「昭和40年代」である。西暦だと微妙にずれるのでこの言い方を用いる。

 明治以来の日本の「近代化」のとらえ方というのは一方向的であった。要するに「豊かになる」「発展する」である。そういうこと自体の懐疑が出始めたのが、まさに「昭和40年代」であった。

 物質的な豊かさがある程度普遍化し、戦後間もなくのベビーブーム世代が社会でサラリーマンとなって第三次産業者が多数となり、「知識人」であった大学生は「大衆」となった。1973年(昭和48年)は「福祉元年」と呼ばれているように、社会保険制度が国民全体を包摂するようになったのもこの時代である。日本で最も経済格差の低かった時代、そして現在のように治安が急速によくなった時代も、この昭和40年代であると言われている。昭和40年代というのは、明治の初期以来の日本が懸命に追求してきた「近代化」の、ある種の到達点であったことは間違いない。

 昭和40年代以前の日本の「近代化」の理論は、とにかく現在が「遅れて」いて、ヨーロッパやアメリカを目指して「進歩」しなければいけないというものであった。学問のレベルでは何が「先端理論」であるのかをめぐって意見の相違があったとしても、「先端理論」がどこかに存在するということ自体は、一部の冷笑的保守派(結局彼らがもっとも「先進的」だったわけだが・・・)以外は誰も疑っていなかった。その中で圧倒的に影響力があったのが、マルクス主義における「共産主義社会」の思想であった。

 ただしこのような、今から見て無邪気にも見える「進歩」的な先端理論を大声で語れたのは、大学の教師や学生が圧倒的エリートであること、そして日々の生活が貧しい状態から一気に豊かになっているという「進歩」の現実に支えられたものであった。だから大学が大衆化し、豊かな生活が当たり前になれば、「進歩」の普遍理論自体の信憑性や魅力も一気になくなっていった。

 かわって昭和50年代以降に蔓延したのが、大文字の理想を語ることなく、むしろそれを皮肉ったり茶化したりするという作法である。フーコーやサイードが何を考えていたかはともかく、それが日本の知識界で馬鹿受けした理由は明らかである。彼らは世界の中で何が普遍的な真理なのかを語ることではなく、「真理」を語る人々の営みの中にある権力作用を問題にした。例えば、普遍性を主張する科学理論は、西洋文明が非西洋の社会を無意識のうちに「無知」「野蛮」扱いしてきたのではなかったかと。

 戦争責任の問題でも、昭和40年代以前は日本の「近代化」の「遅れ」が問題になっていたのに対して、朝鮮民族などの弱者やマイノリティを排除してきた、国民国家などの「近代化」の装置こそが反省されるべきであるという議論に転換していった。

  歴史学でも、1970年代までの歴史学で圧倒的な主流だった社会経済史が凋落した。中国史で言うと、最初はこの応答として経済の発展ではなく国家という制度的枠組を研究するという「専制国家論」の方向性が登場し、次にイデオロギーや言説を研究するという手法が流行していくが、いずれにしても「近代化」を一方向的な発展段階からではなく、「近代化」を推し進めてきた組織や知識人を批判的にみるべきだという問題意識が底流にあった。

 こうして、真面目に大文字の「近代化」の理想を語れば、「お前何言ってんだ」「あくまでお前の意見だろ」と突っ込まれるような時代になってしまった。全員が「ポストモダニズム」を受け入れていたわけではないが、「近代化」に懐疑的な姿勢をどこかで表明しておかないと「浅い」「不真面目」に見られるようなったのである。

 これは学者の話だけではない。高度成長期は「勉強が出来る」「仕事が真面目である」ということだけで評価されたのが、それ以降になると全人格をひっくるめて評価されるようになった。何らかの高度な知識や技術があるという以前に、「個性」「やる気」「創造性」が重視されるようになり、「勉強が出来る」「仕事が真面目である」だけの人間は「マニュアル人間」として否定されていった。

 こういう流れが出てきたのがまさに昭和40年代であった。今から見て不可解にも程がある全共闘運動というものは、「勉強が出来る」「仕事が真面目である」というだけで人格を評価して欲しくない、というクソ真面目に受験勉強を行なってきた学歴エリートたちの反抗であった。

 ただし、全共闘の頃は「近代化」の大文字の理念を徹底的に批判的に見るということと、「近代化」の最先端を徹底的に追求するということは矛盾するものではなく、ほとんど一体化したものであった。

 ところが「近代化」を徹底的に批判しようとした結果として、当然ながら「近代化」の「先端理論」など存在しないという結論になり、それを追及するということ自体が馬鹿馬鹿しいという気分が急速に広がっていくことになる。そして全共闘から出現した新左翼運動が内ゲバなどでひどく混迷したこともあって、80年代以降の下の世代は「真理」が何であるのかを真面目に語ること自体に批判的になっていく。

 80年代までは、「真理」を相対化するためには、やはり一定の高度な知識がなければならないという観念があったように思われる。いわゆる「ポストモダン」「脱構築」の思想は、そうした相対化の態度そのものを思想化したものであった。それまでのマルクス主義が、用語は難しくても何の方向に向かっているのかはそんなにややこしくなかったのに対して、「相対化」の思想は向かっている先そのものを読み取ること自体が困難になった。要するに相対化の思想の魅力は、そこで相対化しようとしている前提となっている知的状況に通じていることが前提となっているため、私を含めて少しでも知識世界の中心から離れると、何を言いたいのか全く理解不能なものになってしまったのである。

 だから90年代末以降になると、こうした相対化の思想自体が大学の先生や大学院生レベルでも敬遠されていくことになる。そしてインターネットの登場によって、マスメディアの建前論を、無知識のまま「直感」や「常識」で批判することが力を持つようになっていった。ネット上でナショナリズムが氾濫している理由はいろいろあるが、ナショナリズムを語るには高度な知識がほとんど要らないのである。

 ここで重要なのは、 「全てを批判する」という全共闘の態度が、結局は否定される対象自体を見えなくしてしまい、「素朴に正義を語る馬鹿」を皮肉ったり茶化したりしていくこと自体が目的化するようなコミュニケーションの作法を蔓延させていったことである。

 その象徴が1980年代に颯爽と登場し、その毒舌で「真面目ぶった優等生」を茶化す芸風で人気を博したビートたけしであることは間違いない。薄っぺらな建前を茶化しつづける彼の毒舌は、「真理」を素朴に真正面から語ることが「恥ずかしい」「うそ臭い」と思われるようなった(にも関わらずそうした「恥ずかしい」語りがそれなりに強く残っていた)時代と共振したのである。ただし周知のように、たけしは知識人と言ってよいほどの物知りであり、彼の毒舌芸もそうした豊富な知識を元手にしたものであった。漫画家のいしいひさいちも同じである。

 90年代末のインターネットの時代になると、とにかく「つまらない建前」をメディア上で振りかざす人々一般が無目的に叩かれている。というより、メディア上で素朴に「真理」を語る人の「恥ずかしさ」を語り合うことによる「共感」を求めているようにも見える。インターネットを見ても、なんでこの人物の発言がこんなに執拗なまでに叩かれているのかが、皆目わからないというものがあまりに多いが、これは現在の日本では「誰かを叩くこと」による共感が、日常的に不可欠なコミュニケーションの作法になってしまっていることを意味している。ここではたけしレベルの知性も全く必要とされず、中国や韓国を罵倒すればそれでウケてしまうのである。

 このように、全共闘的な「批判」は、今では単なる「人の悪口」の作法にまで堕落してしまったと言えるだろう。 自分に突っ込みを入れることで、人からの批判をあらかじめ封じようという(特にテレビの芸人によく見られる)態度も、全共闘の「自己批判」「総括」に起源を持っている。

 現在「空気が読めない」という言い方が話題になっているが、その理由はいろいろあるが、その一つには批判や茶化しの対象があまりにランダムになってしまい、その都度批判や茶化しの対象が何であるのか、どうして批判の対象になっているのかを「読む」必要に迫られているからであると考えている。

  まとめると、1960年代までは決して否定されることのない「真理」が何であるのかを語ること、そのための高度な知識や技能を習得することが「正しさ」の条件であったのに対して、1970年代以降は世間に流布する「真理」の限界や欠陥に対して批判的な目を向け続けることが、人から「正しい」と思われるための条件となったと言うことができる。

 やや忘れ去られた感のある堀江貴文は、いろんなことを饒舌に語ってはいたが、自分で何が「正しい」のかを一切語ることはなく、むしろ「何が悪いのか」という企業家や政治家の薄っぺらで建前的な正義を批判するという態度に終始していた。それがインターネットの世論では大きな支持を得ていたのである。

なんかつまらないことを書きすぎました。今度は中国に復帰します。


チベット史

2008-03-16 22:02:30 | Weblog
これまで不勉強だったチベットについてのノート。

【古代】
古代チベット王国はインドからの移民と伝えられる。この王国は歴史上「吐蕃」と呼ばれる。7世紀のソンツェンガムポ王は、臣下に命じてチベット文字を作らせ、インドのサンスクリット文字の仏教経典をチベット文字に翻訳すると同時に、唐とも交流をもって文成公主を妻に迎えた。唐とインドの影響でチベットは仏教国となっていく。安史の乱ではウィグルとともに長安を占領するなど、中国王朝を脅かすほどの強勢を誇る。

【中世】
チベット王国は一時期混乱して仏教は衰えた。インドとカシュミールに17年留学したリンチェンサンポ(958-1055)は仏教を再興させたが、統一政権が不在であったこともあって様々な宗派が形成されていく。1239年にモンゴル帝国がチベットに侵攻して属国としたが、フビライ=ハンはチベットの仏教に深く傾倒し、「パスパ文字」で知られる帝師パスパを輩出するなど、宗教的な師弟関係を形成する。

【近世】
チベット仏教にはモンゴルと結びついたサキャ派、密教的なカギュ派、復古主義的なニンマ派などがあったが、現在のチベット問題にとって重要なのはツォンカパ(1357-1491)が創始したゲルク派である。ゲルク派は菩薩の生まれ変わりとされる子供に英才教育を施す「活仏」の制度を確立し、16世紀にはモンゴルの庇護を得て指導者は「ダライラマ」(モンゴル語の「海=ダライ」とチベット語の「師=ラマ」)と呼ばれるようになる。チベットに再び統一政権ができるにつれて、ダライラマは王権と宗教を一身に体現する「僧王」となり、ダライラマ5世の時代の1696年には有名なポタラ宮が完成する。1720年に清朝軍がラサに侵攻してダライラマ7世を即位させると軍事的な庇護関係に入ったが、すぐに軍を撤退させるなど清朝はチベットの習俗を尊重し、乾隆帝などは深くチベット仏教に傾倒した。

【近代】
また次回。

チベット: 弱い国家中国

2008-03-16 00:18:09 | Weblog

チベット問題はあまり詳しくないが、ちょっとだけ。

一つには、チベットはもともと「独立国家」であったという説明をちょくちょく見かけるが、これは伝統国家と近代の国民国家の区別をまったく考慮していない。清朝期における自治が大幅なものであったとしても、いわゆる「華夷秩序」の中で、清朝が政治的に上位関係にあったことは否定できない。伝統国家では、そうした支配-服従関係をほとんど意識せずにすんだというだけに過ぎない。その話で言ってしまうと、中国王朝とも江戸幕府ともほどほどの付き合いをしていた沖縄のほうが、はるかに「独立国家」の体裁があった。

もう一つは、中国共産党は民族文化にほとんど関心を持っていないこと。おそらく中国共産党がもっとも恐れているのは、柔軟な姿勢を見せてしまうことによって、全国地方での暴動をますます誘発してしまうことである。これを防ぐためには、「いざとなればぶっ殺す」ということを時々「実演」する必要があるのだ。チベット問題を「漢族」対「少数民族」という図式で描く人も少なくないが、それは「安定」を最優先課題と考える中国の統治者の意識と根本的なところでずれている。

中国は「独裁」で形容されることが多いが、むしろ日常生活を送る分には途方もないほど「自由放任」であるところもある。共産党の上層部を公の場で批判はできないというだけで、飲み屋でくだを巻いている分には、まったくと言ってよいほど問題はない。そもそも、これだけ海外で活躍している中国人がいるのだから、共産党への批判的な視点はもはや自明である。ただ中国人自身が、すっかり政治に興味がなくなってしまっている(少なくともそういうポーズをとる)のである

中国が「分離独立」に対してあまりに頑なに見えるのは、国家としてはものすごく脆弱であるからだと理解する必要がある。だから、少しでも弱みを見せようものなら社会が大混乱に陥ってしまう、少なくとも文化大革命の時代の生々しい記憶を持っている今の支配層はそういう恐怖と日々戦っている。小泉のようなでたらめな人物が5年も首相の座にいてなお磐石である日本のほうが、国家としてははるかに強力なのである。


小人は同して和せず

2008-03-12 15:59:50 | Weblog
『論語』に「君子は和して同せず。小人は同して和せず」という有名な言葉があるが、後半のほう「同調するが和やかに出来ない」という消化不良の訳され方をしていることが多いんだけど、もっと単純に「君子は仲良くやっていても考え方は同じでないことがある。小人は考えが同じなのに仲良く出来ない」とすっきり訳したほうよいだろう。「考えが同じであるとかえって仲が悪くなりやすい」とも解釈できる。

『論語』って最初読んだ印象は「果てしなくつまらない」のだけれど、年齢を重ねていくとけっこう重いんだよねこれが・・・・。最近中国で売れたという論語本にも、「重要なことは単純なこと」って見事に言い切っていたし。「頭のいい人」の言っていることって、聞いた瞬間は目を見開かれたようになるけど、何年か経ってしまうとだいたい軽薄に見えてしまうもので、気がついたら当人が意見を変えてしまっていることも少なくない。

中国で儒教がブームになっているというのは、「共産主義にかわる価値理念」「民族主義の再興」という政治イデオロギー的な見方が多いのだが、社会主義的な社会保障体制がボロボロになってしまい、横の人間関係による相互扶助の重要性が高まったという文脈で理解すべき問題であると考える。

歴史にイフは必要である

2008-03-06 19:45:45 | Weblog

 最近、いろいろあって読みたくない本ばっかり読んでいる。中国史に関係ないし、全然読み進まないし・・・・・・・・。

ちょっと気分転換に無駄話を。誰が最初に言ったか知らないが、「歴史にイフは禁物である」という格言(?)がある。あまり気にしてこなかったけど、私は最近になって、これは全くの間違いだと考えるようになった。

例えば、「陳勝・呉広の乱が起こらなければ秦王朝は倒壊しなかった」とか、「日本の侵略がなければ共産党は政権を取らなかった」と仮定してみることは間違いなのだろうか。むしろ、こうした仮定を置くことによって「秦は遠からず倒壊した。なぜなら・・・・」「共産党政権は有り得なかった。どうしてかと言えば・・・・・」という、歴史過程の原因と結果についての思考を深めていくことになるのではないだろうか。

このような「イフ」を排除してしまうと、歴史記述と言うのは、ある決まったストーリーを前提として、その中身を実証的に書き込んでいくというものでしかならなくなる。そうなると、実証の正確さばかりが過剰に追求されていくことになり、その実証を通じて従来の歴史の枠組そのものがいかに再構成され得るのか、ということが脇に追いやられる結果になる。

歴史を構成している枠組は、あくまで丹念な実証の結果として変わるのだという人もいるかもしれない。しかし私はこれは全くの間違いである、というか因果関係が逆だと思う。まず、従来の枠組に対して「イフ」という事実に反する仮定を置き、別のストーリーが有り得たのではないかという思考実験の一貫として実証を行なうからこそ、枠組もまた変わっていくのである。もしこの営みが全くなければ、ある新しい歴史資料を発見したとしても、従来の枠組に回収されるような形で資料の中身が解釈されていくだけである。

考えてみれば、歴史は様々な偶然の積み重ねなのだがら、「イフ」を排除することはそもそもできない。「歴史にイフは禁物である」というのを、「過ぎたことをクヨクヨ言うな」という意味で言っているとしても、それは歴史記述の魅力を殺してしまうだけだと考える。