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中国史・現代中国関係のブログ

「社区研究」と「社区」研究――近年のわが国の都市社区研究

2012-01-08 10:25:54 | Weblog
肖林「『社区』研究」と「社区研究」――近年のわが国の都市社区研究」『社会学研究』第4期(2011年)
http://www.sociology2010.cass.cn/news/430632.htm


1 社区研究の本体論と方法論

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 研究法等と研究モデルとして、「社区研究」の最も目立った特徴は、「一を聞いて十を知る(见微知著)」という「透視」の機能である。つまり、「社区」によって「社会」を透視するというのが、中国における初期の本土の社会学者の農村社区研究で最も明確に現れたものであった。マリノフスキーとパークの両方の影響を受けて、呉文藻先生はイギリスの機能主義人類学とアメリカのシカゴ学派の社会学理論を結合して、「社区」は社会を了解する方法論と認識論の単位であり、社区方法論を主体とする「中国社会学派」の創設を試みようとしていた(王銘銘『社会人類学与中国研究』三聯書店、1997年、30-31頁)。呉文藻先生と費孝通先生はいずれも、まさに「社区」を全体の抽象的な「社会」のミクロで具体的なものと見ようとしており、前者は「物質的な基礎を持つ」ことや「観察可能である」こと(呉文藻「現代社区実地研究的意義和功用」『社会研究』66、1935年)、あるいは「人民の生活の時間と空間の所在」であった(費孝通『郷土中国生育制度』北京大学出版社、1998年、92頁)。このような「ミクロ社会学」あるいは「ミクロ社会人類学」としての社区分析の目的は、「社区に着目することで社会を観察し、社会を理解する」ことと(前掲呉文藻「現代社区実地研究的意義和功用」)、「さらに広大で複雑な『中国社会』を理解することを目指す」ものであった(費孝通「社会調査自白」『費孝通全集』第10卷,群言出版社、1999年)。方法上で「代表制」に対する疑問が投げかけられたので、費孝通はさらに進んで異なる社区に対して分類・比較を行うという研究戦略を採用し、「雲南三村」研究を代表として、次第に全体社会を認識するという目的に到達した。

 二つのレベルの社区研究の間では区別だけではなく密接な関係もあった。中国の初期の社会学者は本体論と方法論の二つのレベルを一つにしていた。まさに項飈が指摘しているように(項飈「社区何為――対北京流動人口聚居区的研究」『社会学研究』第6期、1998年)、費孝通はまず「社区」を実体と見ていた。まさに実体であるからこそ、社会を「代表」することができ、社区の「分類・比較」という言い方ができるのであって、そして「一つの理論研究の方法論の単位」から「応用性をもった研究の実体単位」への転換であった。王銘銘は、20世紀の国内外の中国語圏の人類学の中国農村社区に対する研究を、「数十年来の社区研究の発展が表現してきた発展の路線は、『社区』が方法論の単位であり、『社区』を社会現象と社会透視の単位の結合体として転換するプロセスであった」と総括している。こうした転換は、機能主義の共時的な分析から伝統と歴史の分析を重視することや、「国家なき社会論」から国家と社会の関係およびその地域の変異の転換などを重視するものへの転換などを含んでいる。

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2 社区の場における国家、社会と行為者

 国家と社会の関係は一貫して中国社会学の関心の核心的な問題であり、同時に社区研究における最も影響力のある研究モデルである。まさに社区というミクロなレベルで、国家と社会が相互に遭遇し、相互に浸透し繊細に相互作用している。さらに言うまでもなく、社区建設と社区研究は、それが始まってから実践において存在しているのは、民主的な自自治なのか、それとも行政管理の牽引力を強化するものなのかということであった。つまり、理論において存在しているのは結局のところ、市民(公民)社会が頭角を現しているのか、それとも国家の権威を持続・再建するものであるのかの論争であった。「国家/社会関係」の視角の下の社区研究は、王銘銘の言う「『モデル』による社区の実証分析」に比較的似ている。こうした研究は社区生活特に社区の政治から着手して、まさに社区を社会の代表もしくは国家と社会の仲介と見て、その関心はだいだいにおいて社区そのものにあるのではなく、社区を通じて国家と社会の関係におけるなんらかの重要な論点を検証していくことにあった。

 前の段階の多くの研究者と類似した観点から、王穎は社区は中国の公民社会が勃興する重要な組織の方法であると考えた(王穎「社区与公民社会」李培林主編『社会学与中国社会』社会科学文献出版、2008年)。上と下の結合という両種の力が社区の自治と都市の共同統治を推進したのである。つまり、一方では一身の政府における集権的な力、情報と資源を社区に権限を委譲、返還、付与することが社区自治の「第一の推進力」になったこと、他方では、草の根の社区から沸き起こる自治追及の公民の行動と政治参加と、それが既存の政治と管理体制に対してもたらした強い衝撃である。
 
 耿曙と陳奕伶は、中国における都市の基層の統治に存在している高度な国家の主導性とコントロールが、主な制度の新しい改革が均しく「国家部門によって発動あるいは承認されたもの」であり、「国家利益」の様々な考量に基づいて、自ずと基層自治の推進を制約し、結局は既存の権威体制を強化して民主主義に転換する可能性を抑制することは免れないと考えている(耿曙・陳奕伶「中国大陸的社区治理与政治転型――発展促変或政権力維穏?」『遠景基金会季刊』第8卷1期、2007年)。楊敏も社会の転換と社区建設運動を背景とした中国の都市社区は、単位制の解体後の都市社会統合と社会コントロールの問題を解決するために、上から下への構築された国家統治のユニットであり、市民社会が育成される地域社会の生活共同体を促進し得るものではないと考えている(楊敏「作為国家治理単元的社区――対城市社区建設運動過程中居民社区参与和社区認知的个案研究」『社会学研究』第4期、2007年)。

 近年来、「社区自治、議行分設(社区の機能を議事決定機関である居民委員会と実行機関の社区工作站に分離すること――訳者註)」の制度設計が高く重視されて一般的に推進されているが、これは朱健剛の言う「基層社会における政社分離の趨勢」に当てはまるものである(朱健剛『国与家之間――上海隣里的市民団体与社区運動的民族志』社会科学文献出版社、2010年)。その趣旨は、まさに社区の居民委員会から行政の職能を撤退させ、そこから基層の民衆的な自治組織の社会属性を回復し、社区自治の主体的な役割を発揮させることにある。しかし、姚華が社会市のある居民委員会の「議行分設」の実践課程を分析して、「執行層」(社区工作站)が事実上は街道(中国都市行政の基層区画――訳者註)の雇用と指導によるものであり、これは社区に対する強力な行政権力の延伸を反映するものであることを明らかにしている。このように、強化された「執行層」と弱体化・周辺化された「議事層」(民選の社区居民委員会)の関係は、「実質的には国家と社会の関係にある」という(姚華「社区自治:自主性空間的缺失与居民参与的困境――以上海市J居委会“議行分設”的実践過程為个案」『社会科学戦線』第8期、2010年)。このメカニズムは社区自治のために自主性の空間を提供するものでは決してなく、かえってその積極性を抑制するものである。社区工作站の設立と活動人員の素質の高さに対する要求は、耿曙らの見るところでは国家の「能力建設」のプロセスであり(前掲「中国大陸的社区治理与政治転型」)、それは「エリートの吸収」の方法と同時に、金耀基の言う「行政による政治の吸収」を構成するものである(金耀基「行政吸納政治――香港的政治模式」金耀基主編『中国政治与文化』牛津大学出版社、1997年)。李駿も、社区工作站の活動人員は既に「準公務員」となっており、行政システムは意図的かどうかはともかく、基層社区の名の下に足場をしっかり固めているが(站稳了脚跟)、これは国家行政の力が社会に深く浸透していることを表現するものであることを指摘している(李駿「真実社区生活中的国家社会関係特徴――実践社会学的一項个案考察」『上海行政学院学報』第5期、2006年)。王穎は、まさに居民委員会の改革の方向性を、「強政府型」と「強社区型」に分けている(前掲「社区与公民社会」)彼女は、強社区型への志向の下で「議行分設」の改革が行われ、居民委員会が工作站に対して直接指導するよう政府の権限の移譲、付与、協力に力点を置いてこそ、はじめて居民委員会を真に「政府の足」から「住民の頭」に転換させることができることを強調している。上に述べてきた研究は、基本的には依然として「国家/社会」の枠組みの下で両者の優越や力の消長を議論するものである。他のいくつかの研究は、新しい概念を借りて国家と基層社会の相互作用の関係の新しい動向(相互に協力して対立せず、相互に絡み合って分離せず、相互に形成し合って独立せず)を理解する助けにしようと試みており、そこから以上のモデルに対する部分的な改造を行っている。

 郭偉和はある大型の社区(街道レベル)の体制改革に対するケース・スタディのなかで、中国の都市における社区建設は民主化のプロセスと多面的な協議という色彩を有しているものの、民主主義の形式の背後には依然として、社区の公共事務の「柔軟なコントロール」に対する中国特有の国家意思があり、いわゆる市民社会の文化や発展を意味するものではないことを指摘している(郭偉和「身份政治――回帰社区後的北京市下崗失業職工的生計策略」『開放時代』第5期、2010年 www.politics.fudan.edu.cn/picture/1835.pdf)。現在の社区の公共ガヴァナンスにおいては、国家意志の現れに秘密や柔軟性が加わったにすぎないというわけである。もともとの街道のレベルでは、「ある種それまでの行政的な枠組みでなければ、完全な地方自治社会でもない、ハイブリッド(混合的)な性質をもった公共領域」であり、これは黄宗智の提示する「国家と社会の間の第三領域」という本土化された概念に比較的符合するものである(黄宗智「中国的“公共領域”与“市民社会”?――国家与社会間的第三領域」黄宗智主編『中国研究的範式問題試論』社会科学文献出版社、2003年)。似たようなものとして、趙秀梅は移動人口の集住社区において官と民間が共同で提供している公共サービスに対するケース・スタディのなかで、基層の国家(街道と居民委員会)と社会的な自治の力(NGO)の間には、一種の資源交換に基づく互恵関係が形成されていたことを明らかにしている(趙秀梅「基層治理中的国家—社会関係――対一个参与社区公共服的NGO的考察」『開放時代』第4期、2008年)。結合を通じて、国家の基層統治能力を高め、同時にNGOは権限を委譲されて国家のコントロールする領域に入りこむことができ、そこから自らの組織目標を実現していった。彼女もまさに、こうした結合を国家と社会が共同で参加する「第三領域」であると見ており、それは国家と社会の間の境界を曖昧にするもで、両者の分離を促進するものではない。何艶玲も「柔軟な運営」で国家権力の基層における具体的な運営を形容し、そしてポスト「単位」時代の街区における国家と社会の関係を「臨機応変な協働主義(权变的合作主义)」と概括しているが、それが意味するのは基層政権、社区自治組織、市民団体、市民個人の間に形成される、「具体的な状況の違いに基づいて結ばれる、程度の異なる非制度的な協力関係」である(何艶玲「西方話語与本土関懐――基層社会変遷中“国家与社会”研究綜述」『江西行政学院学報』第1期、2007年)。

 桂勇は、社会転換期の都市基層における国家と社会の関係は、国家がコントロール能力を失った「断裂」ではないだけではなく、国家が近隣に浸透する「嵌入」でもなく、ある種の両者の間の「癒着(粘连)」の状態であると考えている(桂勇「隣里政治――城市基層的権力操作策略与国家—社会的粘连模式」『社会』第7期、2007年、同『隣里空間――城市基層的行動――組織与互動』,上海:上海世紀出版社、2008年)。つまり、国家は都市の近隣にたいして一定のコントロール能力を有しているが、それは様々な社会政治の要素によって相当に大きな制限を受けているのである。この種の癒着状態は、近隣のなかの非制度的な特徴をそなえた権力操作モデルおよびその背後の社会構造、動力のメカニズムなどの要因によって決定されている。朱健剛は、まさに「近隣(邻里)」を国と家の間の流動的な公共空間であると見ており、それは現代社会の中の、国家、家庭主義と市場主義などの様々な力の共同作用の産物であり、決して独立していないが相対的自治的である一つの空間であるという(朱健刚『国与家之間――上海隣里的市民団体体与社区運動的民族志』社会科学文献出版社)。近隣においては、国家権力の影響がどれだけあろうと、市民は依然として豊富な非公式的あるいは公式的な組織生活をしている。地方性の団体は国家のコントロールを受け、近隣の中に限定されているが、国家は決してそれらを消滅させることはできず、かえって地方権力のコントロールは、それらの団体に依拠せざるを得ず、この種の相互依存は市民代替と社区運動に、近隣における自己生成の空間を持つことを可能にしているのである。

 王漢生と呉瑩は、中国市民社会の育成、決して国家の力の外から独立した「自然にして然る」のプロセスではなく、分譲住宅団地の自治も決して「闇雲に(闭门造车)成功することができたユートピア」では決してない。彼らは「国家と社会の相互作用の実践」という視角に従い、国家がいかに社会を形作り、またいかにして干渉の方法を改変しているのかに焦点を当てている。この研究では、業主委員会の交替、社区の日常的な集団活動、反公害や権利維持の活動は民主的な自治の育成の展開であるが、このプロセスはずっと政府の「参加」と「場に居合わせる(在場)」ことで実現されたものである。こうした参加は直接的あるいは間接的でもあり、文字によりものもあれば言語と省庁形式によるものもあり、制度的に堅く(剛性)規定されているだけではなく、主体間の直接的なゲーム及び私人関係を利用する柔軟な(柔性)コミュニケーションである。このように、基層社会の自治の育成は国家の干渉と制度的な調整の産物でもあるのであり、「『社会』はけっして『国家』の対立物ではなく、国家の影と力が浸透しているのである」(王漢生・呉瑩「基層社会中“看得見”与“看不見”的国家———発生在一个商品房小区中的幾箇“故事”」『社会学研究』第1期、2011年)。

 「国家/社会」のモデルはさらに進んで疑問や脱構築にさらされている。学者の中には、国家と社会は全体性をもったものではなく断片的なものであり、両者は相互に重なり浸透し合っていていると考えている者もいる(馬衛紅・桂勇「社区建設中的城市隣里――復興抑或重構」『中共福建省委党校学報』第6期、2007年など)。改革の深化と利益の多元化に従い、「国家」は多元的な行為者によって次第に脱構築され、同様に「社会」も一つの明確な実体ではなく、逆にそれは具体的な事件の中の異なる社会的な行為者を通じて映し出されるものである。近隣のレベルでは、はっきりと見ることができるのは異なる利益と目標をもった行為者であり、それらを簡単に「国家」あるいは「社会」の当然の「代表」として見ることはできない。このように、近隣研究のなかでは行為者の分析を強調するものがさらに多くなっている。独立した利益と目標を有する多元的な行為者の間に対立・衝突や協力と妥協の複雑な関係が形成され、それらに対する分析も、理性的な計算、戦略的な選択、文化的な情感、社会的ネットワークなどの要因への考慮が一層多く必要とされてもいる。社区もこのように、さまざまな行為者相互のゲームの「アリーナ(角力場)」になっているのである。

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7 結語

(1)都市社区と社区研究の基本的な枠組み
 先に述べたように、本体論的な意味での「『社区』研究」では、最も核心となる問題は「共同体」の意味における社区が現代都市社会で可能かどうかであり、それに対して方法論的な意味での「社区研究」においては、最も関心を持たれる主題は社区を通じて国家と社会の間の複雑な相互作用関係を「透視」することにある。このように、帰納的な社区研究の基礎の上に、筆者はかつてこの両者の基本的な軸から、現代中国都市社区の変動と社区研究よりよく理解する助けとなる基本的な枠組みを構築したことがある。・・・・・
 
(2)都市社区の中の「ゲマインシャフト」と「ゲゼルシャフト」の要因の併存と相互作用 
 ヴェーバーは社会的行為の志向性が、参加者が主観的に感じられた相互の共属性で構築されるのか、あるいは合理的な利益の動機に基づくものかによって、「ゲマインシャフト(共同体)」関係と「ゲゼルシャフト(结合体)」関係に分けている(韋伯『韋伯作品集7:社会学的基本概念』顧忠華訳、広西師範大学出版社、2005年、54-58頁)。この種の社会的な関係の性質はテンニースの「ゲマインシャフト(共同体)」と「ゲゼルシャフト(社会)」の区別に似ているが、しかしヴェーバーは家庭などを典型とする「ゲマインシャフト」の中にも同時に「ゲゼルシャフト」的な要素が含まれることが有り得るのであり、同様に、軍隊、企業などの「ゲゼルシャフト」のなかにも多少なりとも「ゲマインシャフト」的な連帯関係が発展し得ると考えている。このように、「ゲマインシャフト」と「ゲゼルシャフト」は連続的なものであって二分されるものではないことは、ヴェーバーとテンニースの間の決定的な差異となっている。
 筆者は中国の都市社区においては、ヴェーバーの「ゲマインシャフト」関係と「ゲゼルシャフト」関係もしくはテンニースの「ゲマインシャフト」と「ゲゼルシャフト」のレベルが、同時に存在していると考えている。前者は地域内の趣味的な団体と非公式的な組織、近隣の日常的な交流などを表現するものであり、後者は公的な組織(特に業主組織や不動産会社)と財産権に基づく各項の制度的な調整を表現するものである。もしこの二つの側面を簡単に社区生活建設と社区制度建設とまとめるならば、我々はそれらの間に存在している相互の影響とりわけ相互の因果的な関係を見出すことが可能になる。たとえば、社区の社会関係資本の育成と公的な組織と制度への参加に対する社区のメンバーへの豊富な支援など、かえって合理的な社区制度の調整は社区のメンバーの間の信頼と団結の助けになるのである。
 国家・政権の建設、市場化、都市化、グローバル化や情報化などのこれらのマクロな力は、決して地域の社区を消滅させるのではなく、小さな地方と大きな社会との関係を新しく再構成するにすぎない。国家の力であろうと市場化の力であろうと、いずれも社区の「ゲゼルシャフト」と「ゲマインシャフト」の二つの側面を解消かつ構築する要素を有しているのである。
 
(3)既存の研究の不足と提案
 不断に深化する市場の変化と階層分化、都市化と情報化、国家の推し進める制度と体制の改革、公民権をめぐる社会運動、基層社会の文化と再編、空間―人口の再構成など、これらはみな必然的に都市社区研究に対してより大きな挑戦を提示するものである、まず、既存の研究の多くはケース・スタディに属しており、たとえサンプル調査の方法を採用したとしても、その研究の対象はだいたいにおいて依然として何らかのいくつかの社区に限られている。急激に変化する都市社会に対して、この種の研究が出している結論は往々にして全体的にばらばら(以偏概全)であるか、あるいは観念で現実を裁断するものであり、そのために非常に大きな限定性を帯びている。社区内部の交流を語るだけで、我々は都市の現代性と流動性が増加する影響のもとで近隣の交流が減少する趨勢を見ることができるだけではなく、空間と人口の再編のなかで新しく生まれる近隣交流の需用と、交流の新しい経路(特にインターネット)を見ることができる。言い換えれば、何らかの社区の衰退や凋落は、別の何らかの社区の生成と発育なのである。社区の参加のもこのようなものであり、古い地区を研究すると定年退職者を主な社区の積極的な分子とすることを避けられず、新しい不動産の地区を研究するとやはり自然に権益を維持しようとする中産の業主に焦点が集まる。このほか、現在の研究はその社区の類型に対して依然として十分ではない。これは我々に比較研究の重視と提唱を更に加えて要求するものであり、異なる類型と異なる発展段階の社区を比較するだけではなく、異なる地域/都市および異なるガヴァナンスモデルを比較しなければならない。
 次に、絶対多数の社区研究の背後の関心はいずれも、いかにして社区の自治組織と自治の程度を高め、およびいかにして国家と市場の間の良好な相互作用の関係を形成することにある。既存の研究が明らかにしているのは、国家は社区建設を通じて基層社会の管理を強化するというコントロールの意図が存在し、そこから社区の自主的な空間と公民社会の出現可能性を抑制するかもしれないというだけではなく、協力や権力の放任・移譲あるいは妥協を通じて社区自治のための新しい機会を提供することができることである。逆に、基層社会のなかにも、体制外の対抗と衝突が存在しているだけではなく、協力と浸透を通じて既存の体制に影響を与えようと試みているという兆候がある。これは非常に大きな程度において、国家と社会の両者の内部に確実に存在している分化と間隙によって、そこから互いのために新しい機会をしているのである。これも、国家、基層社会、社区の中の様々な組織と行為の間の複雑な弁証法的な関係をさらに仔細に検討し、特に国家の中のどの部分と社会の中のどの部分とかがいかなる条件の下でどのような関係を形成しているのかを具体的に分析することの必要を、我々に気付かせるものである。学者のなかにはコーポラティズムの視角が、多元主義の視角における国家と社会の二分法的な対立や制約・均衡という分析の限界を克服することの助けとなり、従って現代中国社会(都市社区を含む)により適合的で非常に大きな理論的潜在能力を有するものであり(陳家建「法団主義与当代中国社会」『社会学研究』第2期、2010年)、同時にさらに「国家コーポラティズム」から「社会コーポラティズム」への過程と発展の趨勢に注意することが必要であると考える者もいる(劉鵬「三十年来海外学者視野野下的当代中国国家性及其争論述評」『社会学研究』第5期、2009年)。社区のガヴァナンスに対する分析は、単に一つの組織を中心としたものではなく、街道、社区居民委員会、不動産会社、業主委員会などの多くの組織の間での相互関係と相互作用をより強調することが必要になる。
 最後に、理論モデルから見れば、近年の新しいモデルの考察と構築の試みは、明らかに「プロセス-事件分析」と「実践社会学」の影響を受けており(孫立平「“過程-事件分析”与当代中国国家—農民关系的実践形態」『清華社会学評論』(特輯)鷺江出版社、2000年、同「実践社会学与市場転型過程分析」『中国社会科学』第5期、2002年)かつこれを基礎にした一定の発展である。こうした分析視角は明らかに主流となっており、異なる利益主体の間に実践における動態的な関係を示す助けになっている。しかし、これによって同様の価値を有する「構造-制度分析」という研究戦略を軽視することがあってはならず(謝立中「結構—制度分析,還是過程程—事件分析?——从多元話語分析的視角看」『中国農業大学学報(社科版)』第4期、2007年)、あるいは両者の間に何らかの平衡を見出すことができるのかもしれない。具体的に言えば、国家の何らかの法律制度と政策の刷新、都市権力の構造と管理体制の調整、階級の形成および階級観の関係などは、社区と社区ガヴァナンスに対してどのような影響を与えるのかは、これは既存の研究ではいまだ十分に重視されていない。我々は社区の生活が具体的で細かいからといって、社区を一つのミクロな分析単位としてそれがマクロな構造と制度及びその変化に与える内在的な関係を軽視することはできないのである。

 
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 「社区」を焦点とする中国市民社会論のレビュー論文。肖林は中国社会科学院社会学研究所に所属する社会学者。これまでもそうしてきたように、「社区」は「コミュニティ」とは訳さず、敢えてそのままにしている。

 これまで、中国の市民社会論やコミュニティ論は国家との「良性互動」を強調するものばかりという印象があり、この論文も全体としてはその方向を共有しているものの、「良性互動」ばかりではない近年の多様な議論の存在を丁寧に紹介していて、とても勉強になった。

 ハーバーマスのモデルでは、「生活世界」をコミュニケーション的に組織化したものが「市民社会」であり、それが国家と対抗的な緊張関係を持ち続けることが民主主義の実現において望ましいとされている。このモデルを中国に適用できないということは既に異論のないところであるが、この論文を読んでもやはり「第三領域」「臨機応変な協働主義」「癒着」など、ハーバーマスモデルの変形や逸脱という形の表現の域を出ていない印象がある。これはもちろん、制度的には明確に「自治」が謳われているにも関わらず、例えば社区居民委員会のメンバーが街道弁事処から派遣された幹部であるなど、現実がそれに追いついていないという中国固有の問題を反映したものである。中国の市民社会やコミュニティを論じようとすると、制度理念と現実とのズレを問題化するような表現がどうしても採用されてしまう傾向がある。

 私見としては、たとえば居民委員会や街道弁事処を一つのアクターとして見ることをやめて、「社区自治」をめぐる人々の間の抗争・交渉・妥協のプロセスに着目し、そこにおけるコミュニケーションや相互行為の形式を(費孝通の「差序格局」のように)立体的に記述していくような方法論が必要になるように思われる。中国は過去の歴史についても現代社会についても、制度形式の実体を前提として議論すると、失敗するかよくても凡庸な結論にしかならないというのが私の考えである。