宣朝慶「地方エリートと農村社会の再建――定県実験における士紳と平民教育促進会の衝突」『社会学研究』2011年第4期
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本文の基本的な観点は、近代以来の中国農村の社会再建は基本的には現代化に向かう一つのプロセスであり、社会エリートが社会の現代化を推進する重要な役割を果たしているというものである。民国時期には、国家の権威は失墜し、政治体制は全面的に音をたてて瓦解し、広大な農地農村経済は衰退し、社会は混乱し、至る所できわめて混乱した無政府状態に陥っており、社会エリートがこの権力の真空を埋めて、農村社会の再建の点で少なくない努力を行っていた。社会学の標準に照らすと、社会エリートは権力、声望と財富などの点で比較的優勢な個体あるいは集団などを指すものである。過去の研究で最も住されてきたのは紳士エリートであり、費孝通の「双軌政治」、張忠礼の「士紳社会」、デュアラ(杜賛奇)の「インボリューション」モデルなどは、ひとしく国家と社会のなかで演じされている特殊な役割を分析したものである(陳世栄「国家与地方社会的互動――近代社会菁英的研究典範与未来的研究趨勢」『中央研究院近代史研究所集刊』第54 期、2006年)。郷村建設運動のなかで、専門的な知識分子集団は一群の特殊な社会エリートとして、郷村自治(郷治)を推進する士紳階層と一緒に、農村社会の再建において重要な役割を発揮したのである。彼らと士紳エリートが最も大きく異なるのは、西洋の高等教育を受けて、学術界あるいは全国で、国際的に名声を博し、より広範な資源動員能力を有していたことである。まさに士紳エリートが、農村社会の破産のなかでその機能のマイナス面が強くなり、地方社会の転換を促進・形成することができなくなった時に、専門知識人集団が現代農業の技術や社会的な組合の技術と制度を導入し、地方社会が持続的に近代化された社会に進んでいくことを推し進めてきた。このプロセスのなかで、まさに1930年代の定県で現れたような、新旧エリートの衝突と対抗が必然的に出現したのである。
1 権威の失墜――士紳の不満の根源および表現
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定県が県政建設の実験県に指定された後に、士紳が政治生活のなかで徹底的に周辺化したことが、彼らが平民教育促進会に反対する根本原因であった。
伝統的な郷村は紳治であり、これは清末民国時期に、比較的長い期間持続したものである(費孝通『中国紳士』趙旭東訳、三聯書店、2009年、66頁、黄宗智『華北小農経済与社会変遷』中華書局、2004年、242-243頁)。これまでの観点では、清末民初は地方では「新政」が実施された後に、民衆の税費負担が激増し、伝統的なパトロン型の地方エリートは次々と辞職し、政治舞台から退出して、恥知らずにも(地皮無頼)機会に乗じて権力を握って濫用し、民衆からの恨みは頂点に達していた、と理解されてきた。李懐印の研究は、こうした現象はあくまで主に華北地区の土地が貧弱で村のコミュニティ(村社)が散漫な「周辺」の地帯で存在していることを明らかにしている。彼によると、冀中南の獲鹿県では、宗族の紐帯を基礎とした自発的な組合制度が継続的に存在しており、パトロン型のエリートは決して舞台から退出することなく、むしろ次々と村長あるいは県議事会や参事会のメンバーに選ばれて、そしてこれを舞台として官府と駆け引きをして、何度も県衙門による税金や税種の増加を打ち負かしたのだという(李懐印『華北村治――晩清和民国時期的国家与郷村』歳有生等訳、中華書局、2008年)。彼はその究極的な要因として二つ挙げている。ひとつは、清末新政は紳権を拡張し、学校建設、衛生、農工商務、道路工事、社会救済と慈善などの公共事業など、多くの伝統時代の非制度的な紳権を正式に認めさせ、郷村の士紳階層の地方の公権力と公共利益に対するコントロールをさらに直接的なものにしてきたことである(王先明「20世紀前期中国郷村社会建設路径的歴史反思」『天津社会科学』第6 期)。もう一つの原因は、家族・地主と承認勢力が地方エリートの主体部分を構成しているという、士紳集団の重層的な構造である。1905年の科挙廃止後、士農工商の四民意識は次第に廃れ、士紳の概念は次第に伝統的な士紳、新しい学問の士、商人あるいは紳商などの内に含む様々な集団を広く含むものとなった。新しい士紳集団は政治参加を通じ、商会、農会、教育界などの社団組織を把握し、特定の社会利益に対するコントロールを実現したが、ここから士紳集団を基本的に官紳(政治に参与)、商紳(地方経済に参加して農会と商会を把握)、学紳(伝統的な紳士と知識分子を含み、教育界を把握し、地方文化教育に参与)の三つの部分に分けることができる(同前、255-265頁)。定県と獲鹿県の状況は互いに似ている。・・・1920年代―30年代、定県地方エリートの上層は基本的に伝統的な士紳、新式学問の知識人、商人といくつかの家族地主を主とするものであり、富農と家族の長がその支持者であった。・・・平民教育促進会も「士紳」などのその地のエリート分子にかかわる呼称を用いて、身分が自らと違うことを示そうとしていた。
士紳の地方の権力構造における重要性に鑑みて、民国時期の郷村建設者は基本的に士紳たちに支持と協力を求める傾向があった。・・・・しかし、平民教育促進会の郷村建設は完全に郷村が元来有していた長老政治や村級組織に完全に依存するのでは決してなく、平民教育学校の卒業生の同窓会を基礎とするものであり、特に1933年の県政建設の実験を転換点として、平民教育学校の同窓会は政治改革、経済発展、社会自治などの点で重要な役割を発揮し、士紳は地方の権力構造において深刻に周辺化され、平民教育会との矛盾と衝突がついに爆発したのである。
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2 組織の重層構造――平民学校卒業同窓会の士紳の権勢に対する挑戦
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3 地方自治――士紳と国家の近代化という場における役割
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実験県の任務を与えられた後に、晏陽初、陳筑山が県政建設研究院を主宰し、研究院の実験部の主任である霍六丁が県長に任命され、地方社会の発展の主導権は士紳から全面的に平民教育促進会に全面的に転換することになった。霍六丁は県政改革を主宰して、古い租税を徴収する県衙門を人民ために福利を図る気候に改造したことは、士紳の権力に極めて大きな手を加え、士紳の既得利益に深刻な打撃を与えるものであった。「官吏の統治という点では、県府と属している各局の組織を調整し、従来のおくれた規則を削除し、不正をはたらいた人員を懲戒する。民生方面では、村民が資金を収集する方法を規定し、保衛団費を随粮带征に改め、農産倉庫貸借処をつくり、禁アヘン運動を励行する」(王維顕「『模範県』期与『実験区』期的定県県政」『政治経済学報』第5 卷第3 期、1936年)。霍六丁の「新しい役人は最初は張り切る(新官上任三把火)」は、特に賭博禁止が士紳の面子をつぶし(顔面掃地)、平民学校の卒業生同窓会の摘発によって、勢力のある士紳、名のある人士が参加していた賭博集団仲間、罪を得ていた大塩商人王家、旧式の士紳である趙家および白家、谷家や趙家などの大家族を逮捕した。同時に、定県は模範県時代の地方自治モデルを取り消し、県政委員会、郷村建設員会などの部分を名誉職として現地の開明指針に残し、大部分の権力を平民学校卒業同窓会に帰属させた。こうした措置は、平民教育促進会の事業に対して非常に大きな推進作用を引き起こしたが、豪紳、劣紳たちの激しい反抗も引き起こした。
近代化の主体という角度から見ると、国家との相対で言えば、平民教育促進会と士紳集団は明らかに地方的な代表に属するものである。本来であれば、二者は国家との協力には向かわず、自主的に郷村の近代化を十分に完成できることを希望しているが、彼らは最終的に郷村建設の指導権の問題で深刻な分裂を生み出してしまった。平民教育促進会は士紳の農村の権力に対する壟断を徹底的に打破するために、最終的に国家との協力を選択したのである。こうして、表面的に見れば、定県の郷村建設過程で出現した矛盾は地方士紳階層と平民教育促進会との矛盾であるが、実のところその背後には地方士紳と中央政権との矛盾が屈折しており、それは地方社会の近代化の指導権をめぐる争奪戦だったのである。ゆえに、まさに士紳が平民教育促進会に対して不満を表明する時、政府の立場を代表する役人は、促進会を庇う態度をとり、県長を交替させることがあっても、各項の改革は依然として現状を維持することを指示してきた。しかし、こうした争いの過程で、士紳は結局のところ勝利を得た。士紳たちの激しい反対が、県政事業全体の正常な展開に深刻な影響を与えたため、霍六丁は定県を離れざるを得なくなってしまったのである。後任者である呂復は士紳たちが選んだ人物であり、基本的に規則に従って通例どおりのことしかせず、特に「輿論の尊重」「民に休息を与える」ことを施政の要とし、平民教育促進会の県政建設実験ははっきりと士紳に妥協すべきことを表明した。
4 農村の破産――士紳イメージの悪化
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5 結語
1926-37年、定県の社会エリート集団は現地の士紳と平民教育促進会のメンバーによって構成されていた。郷村建設の過程で、平民教育促進会と士紳とでは協力だけではなく衝突もあったが、協力の大部分は教育の領域で、衝突の大部分は経済と政治の領域に集中していた。これらの領域の分布をはっきりと区別することは非常に難しく、また家族、商人の勢力は農村社会で一貫して複雑な関係にあるものの、基本的には、学紳と平民教育促進会との協力は良好であり、官紳や商紳と平民教育促進会との関係は緊張に満ちたものであった。1930年代の農村破産の危機的局面の分析を通じて明らかになったことは、平民教育促進会と士紳との間の社会衝突の背後には制度の不在(缺失)という構造的な問題を暗に含むものであるということである。近代農村の破産はもはやこれまでのような天災や戦争などの固有の要因による産物ではなく、中国が西洋列強主導の工業化のルートと市場システムに否応なく組み込まれたことの産物である。こうした経済危機への対応で、伝統的な農村は全く十分な制度的準備を持たなかった。金融恐慌の中で、農村の慣習に照らして金融の調整の役割を担ってきた士紳エリートは、大体において社会が期待する役割を維持することが難しくなり、高利貸しは暴力で利益を貪り、社会的な混乱を引き起こすことになった。平民教育促進会は定県で金融組合を組織、導入し、銀行を設立し、農村の資金問題を解決したことは、農村社会の再建に対してかなりの意義を持つ制度の探究である。
同時に、特殊な歴史時期や特殊な社会構造の限定のなかで、士紳エリートと平民教育促進会の衝突は決して一つのレベルで展開したのではなく、比較的立体的な形で中国農村の近代化の複雑性を展開・表現していた。清末以来、士紳エリートは地方社会の指導階層として、地方の近代化を推進する内在的な原動力を具えていたが、彼らは知識の蓄積や専門的な職能などの点で、農業と郷村建設の重い責任を担うことは困難であった。農村が発展するには、外部組織とのコミュニケーションや接続が必要であり、新しい専門的なサービス機構を探究していかなくてはならない。平民教育促進会はまさに、こうした種類の機構として、時宜を得て出現することになったわけである。しかし、双方の協力は文化理念、経済的利益や権力コントロールなどの問題でしばしば歪んだものとなり、平民教育促進会に国家の支持を求めさせることになった。これと同時に、国家も近代を推進する独立の力として、士紳エリートが協力せずに困っていることに対して、平民教育促進会が農村復興を促進し、定県県政建設実験はこの路線で行われることに期待したのである。しかし、平民教育促進会が無力で、国家は土地制度を改革する意思がなく、士紳の大土地占有者の身分と農村の領袖という権勢も動揺することがなかったため、平民教育促進会は包容、迂回の態度をとり、粘り強く彼らの支持と協力を得ていくしかなかった。まさに改革が士紳の既得権益に抵触し、士紳の反対に直面した時に、平民教育促進会は守勢をとらざるを得なかった。このように、国家と平民教育促進会はいずれも伝統的な社会構造、特に階級構造の制限を受けて、社会建設の能力は大きく削がれることになり、これは不可避的に矛盾が一層進む伏線となったのである。
1 権威の失墜――士紳の不満の根源および表現
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定県が県政建設の実験県に指定された後に、士紳が政治生活のなかで徹底的に周辺化したことが、彼らが平民教育促進会に反対する根本原因であった。
伝統的な郷村は紳治であり、これは清末民国時期に、比較的長い期間持続したものである(費孝通『中国紳士』趙旭東訳、三聯書店、2009年、66頁、黄宗智『華北小農経済与社会変遷』中華書局、2004年、242-243頁)。これまでの観点では、清末民初は地方では「新政」が実施された後に、民衆の税費負担が激増し、伝統的なパトロン型の地方エリートは次々と辞職し、政治舞台から退出して、恥知らずにも(地皮無頼)機会に乗じて権力を握って濫用し、民衆からの恨みは頂点に達していた、と理解されてきた。李懐印の研究は、こうした現象はあくまで主に華北地区の土地が貧弱で村のコミュニティ(村社)が散漫な「周辺」の地帯で存在していることを明らかにしている。彼によると、冀中南の獲鹿県では、宗族の紐帯を基礎とした自発的な組合制度が継続的に存在しており、パトロン型のエリートは決して舞台から退出することなく、むしろ次々と村長あるいは県議事会や参事会のメンバーに選ばれて、そしてこれを舞台として官府と駆け引きをして、何度も県衙門による税金や税種の増加を打ち負かしたのだという(李懐印『華北村治――晩清和民国時期的国家与郷村』歳有生等訳、中華書局、2008年)。彼はその究極的な要因として二つ挙げている。ひとつは、清末新政は紳権を拡張し、学校建設、衛生、農工商務、道路工事、社会救済と慈善などの公共事業など、多くの伝統時代の非制度的な紳権を正式に認めさせ、郷村の士紳階層の地方の公権力と公共利益に対するコントロールをさらに直接的なものにしてきたことである(王先明「20世紀前期中国郷村社会建設路径的歴史反思」『天津社会科学』第6 期)。もう一つの原因は、家族・地主と承認勢力が地方エリートの主体部分を構成しているという、士紳集団の重層的な構造である。1905年の科挙廃止後、士農工商の四民意識は次第に廃れ、士紳の概念は次第に伝統的な士紳、新しい学問の士、商人あるいは紳商などの内に含む様々な集団を広く含むものとなった。新しい士紳集団は政治参加を通じ、商会、農会、教育界などの社団組織を把握し、特定の社会利益に対するコントロールを実現したが、ここから士紳集団を基本的に官紳(政治に参与)、商紳(地方経済に参加して農会と商会を把握)、学紳(伝統的な紳士と知識分子を含み、教育界を把握し、地方文化教育に参与)の三つの部分に分けることができる(同前、255-265頁)。定県と獲鹿県の状況は互いに似ている。・・・1920年代―30年代、定県地方エリートの上層は基本的に伝統的な士紳、新式学問の知識人、商人といくつかの家族地主を主とするものであり、富農と家族の長がその支持者であった。・・・平民教育促進会も「士紳」などのその地のエリート分子にかかわる呼称を用いて、身分が自らと違うことを示そうとしていた。
士紳の地方の権力構造における重要性に鑑みて、民国時期の郷村建設者は基本的に士紳たちに支持と協力を求める傾向があった。・・・・しかし、平民教育促進会の郷村建設は完全に郷村が元来有していた長老政治や村級組織に完全に依存するのでは決してなく、平民教育学校の卒業生の同窓会を基礎とするものであり、特に1933年の県政建設の実験を転換点として、平民教育学校の同窓会は政治改革、経済発展、社会自治などの点で重要な役割を発揮し、士紳は地方の権力構造において深刻に周辺化され、平民教育会との矛盾と衝突がついに爆発したのである。
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2 組織の重層構造――平民学校卒業同窓会の士紳の権勢に対する挑戦
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3 地方自治――士紳と国家の近代化という場における役割
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実験県の任務を与えられた後に、晏陽初、陳筑山が県政建設研究院を主宰し、研究院の実験部の主任である霍六丁が県長に任命され、地方社会の発展の主導権は士紳から全面的に平民教育促進会に全面的に転換することになった。霍六丁は県政改革を主宰して、古い租税を徴収する県衙門を人民ために福利を図る気候に改造したことは、士紳の権力に極めて大きな手を加え、士紳の既得利益に深刻な打撃を与えるものであった。「官吏の統治という点では、県府と属している各局の組織を調整し、従来のおくれた規則を削除し、不正をはたらいた人員を懲戒する。民生方面では、村民が資金を収集する方法を規定し、保衛団費を随粮带征に改め、農産倉庫貸借処をつくり、禁アヘン運動を励行する」(王維顕「『模範県』期与『実験区』期的定県県政」『政治経済学報』第5 卷第3 期、1936年)。霍六丁の「新しい役人は最初は張り切る(新官上任三把火)」は、特に賭博禁止が士紳の面子をつぶし(顔面掃地)、平民学校の卒業生同窓会の摘発によって、勢力のある士紳、名のある人士が参加していた賭博集団仲間、罪を得ていた大塩商人王家、旧式の士紳である趙家および白家、谷家や趙家などの大家族を逮捕した。同時に、定県は模範県時代の地方自治モデルを取り消し、県政委員会、郷村建設員会などの部分を名誉職として現地の開明指針に残し、大部分の権力を平民学校卒業同窓会に帰属させた。こうした措置は、平民教育促進会の事業に対して非常に大きな推進作用を引き起こしたが、豪紳、劣紳たちの激しい反抗も引き起こした。
近代化の主体という角度から見ると、国家との相対で言えば、平民教育促進会と士紳集団は明らかに地方的な代表に属するものである。本来であれば、二者は国家との協力には向かわず、自主的に郷村の近代化を十分に完成できることを希望しているが、彼らは最終的に郷村建設の指導権の問題で深刻な分裂を生み出してしまった。平民教育促進会は士紳の農村の権力に対する壟断を徹底的に打破するために、最終的に国家との協力を選択したのである。こうして、表面的に見れば、定県の郷村建設過程で出現した矛盾は地方士紳階層と平民教育促進会との矛盾であるが、実のところその背後には地方士紳と中央政権との矛盾が屈折しており、それは地方社会の近代化の指導権をめぐる争奪戦だったのである。ゆえに、まさに士紳が平民教育促進会に対して不満を表明する時、政府の立場を代表する役人は、促進会を庇う態度をとり、県長を交替させることがあっても、各項の改革は依然として現状を維持することを指示してきた。しかし、こうした争いの過程で、士紳は結局のところ勝利を得た。士紳たちの激しい反対が、県政事業全体の正常な展開に深刻な影響を与えたため、霍六丁は定県を離れざるを得なくなってしまったのである。後任者である呂復は士紳たちが選んだ人物であり、基本的に規則に従って通例どおりのことしかせず、特に「輿論の尊重」「民に休息を与える」ことを施政の要とし、平民教育促進会の県政建設実験ははっきりと士紳に妥協すべきことを表明した。
4 農村の破産――士紳イメージの悪化
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5 結語
1926-37年、定県の社会エリート集団は現地の士紳と平民教育促進会のメンバーによって構成されていた。郷村建設の過程で、平民教育促進会と士紳とでは協力だけではなく衝突もあったが、協力の大部分は教育の領域で、衝突の大部分は経済と政治の領域に集中していた。これらの領域の分布をはっきりと区別することは非常に難しく、また家族、商人の勢力は農村社会で一貫して複雑な関係にあるものの、基本的には、学紳と平民教育促進会との協力は良好であり、官紳や商紳と平民教育促進会との関係は緊張に満ちたものであった。1930年代の農村破産の危機的局面の分析を通じて明らかになったことは、平民教育促進会と士紳との間の社会衝突の背後には制度の不在(缺失)という構造的な問題を暗に含むものであるということである。近代農村の破産はもはやこれまでのような天災や戦争などの固有の要因による産物ではなく、中国が西洋列強主導の工業化のルートと市場システムに否応なく組み込まれたことの産物である。こうした経済危機への対応で、伝統的な農村は全く十分な制度的準備を持たなかった。金融恐慌の中で、農村の慣習に照らして金融の調整の役割を担ってきた士紳エリートは、大体において社会が期待する役割を維持することが難しくなり、高利貸しは暴力で利益を貪り、社会的な混乱を引き起こすことになった。平民教育促進会は定県で金融組合を組織、導入し、銀行を設立し、農村の資金問題を解決したことは、農村社会の再建に対してかなりの意義を持つ制度の探究である。
同時に、特殊な歴史時期や特殊な社会構造の限定のなかで、士紳エリートと平民教育促進会の衝突は決して一つのレベルで展開したのではなく、比較的立体的な形で中国農村の近代化の複雑性を展開・表現していた。清末以来、士紳エリートは地方社会の指導階層として、地方の近代化を推進する内在的な原動力を具えていたが、彼らは知識の蓄積や専門的な職能などの点で、農業と郷村建設の重い責任を担うことは困難であった。農村が発展するには、外部組織とのコミュニケーションや接続が必要であり、新しい専門的なサービス機構を探究していかなくてはならない。平民教育促進会はまさに、こうした種類の機構として、時宜を得て出現することになったわけである。しかし、双方の協力は文化理念、経済的利益や権力コントロールなどの問題でしばしば歪んだものとなり、平民教育促進会に国家の支持を求めさせることになった。これと同時に、国家も近代を推進する独立の力として、士紳エリートが協力せずに困っていることに対して、平民教育促進会が農村復興を促進し、定県県政建設実験はこの路線で行われることに期待したのである。しかし、平民教育促進会が無力で、国家は土地制度を改革する意思がなく、士紳の大土地占有者の身分と農村の領袖という権勢も動揺することがなかったため、平民教育促進会は包容、迂回の態度をとり、粘り強く彼らの支持と協力を得ていくしかなかった。まさに改革が士紳の既得権益に抵触し、士紳の反対に直面した時に、平民教育促進会は守勢をとらざるを得なかった。このように、国家と平民教育促進会はいずれも伝統的な社会構造、特に階級構造の制限を受けて、社会建設の能力は大きく削がれることになり、これは不可避的に矛盾が一層進む伏線となったのである。
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1920年代から30年代にかけての中国では、農村の教育水準を上げることを通じて地域社会の秩序と自治も確立していこうという、「平民教育」「郷村建設」を掲げる運動が盛んになった。梁漱溟、陶行知、晏陽初などが代表的な運動家として知られているが、宣朝慶はこの論文で、晏陽初の河北省定県における中華平民教育促進会の運動を取り上げている。
晏陽初は、13歳から中国国内のイギリス宣教師のミッション系の学校で学んで敬虔なキリスト教徒となり、その後アメリカのイェール大学とプリンストン大学に留学する。帰国後はYMCAの活動に従事し、これを基盤に「平民教育」の運動を展開するようになる。晏陽初の平民教育運動は、そのアメリカの人脈を生かしてロックフェラー財団からの潤沢な資金援助と、南京国民政府からの政治的支援を受け、識字率の向上などに一定の成果を上げている。
晏陽初が平民教育運動の拠点としていたのが河北省定県であるが、宣朝慶はこの論文で、その運動の本拠地ですら郷紳層(士紳)との対立の中で失敗に至ったことを描き出している。つまり平民教育運動と郷村建設の失敗は、第一義的には農村社会で権威をもった郷紳層との、特に政治・経済の面での連携の失敗なのである。アメリカとキリスト教の価値観を背景とした晏陽初の平民教育運動は、中国における農村土着の生活様式の意義や経済構造の問題を軽視していたと評価されることが多いが、それは郷紳層に対する姿勢にも表れた可能性がある。
宣朝慶は、運動・郷紳層・国家という三つのアクターの関係で平民教育運動の挫折の原因を分析し、運動が郷紳層と激しく対立するなかで国家と共闘するようになったというプロセスを描き出しているが、この論文では国家に関する分析が弱い印象がある。そもそも、国家と平民教育・郷村建設運動との関係は、必ずしも一様なものではない。晏陽初のようにナショナリズムを掲げて全面的に国家の支持を得たものもあれば、梁漱溟のように「郷治」の理念からなるべく国家と距離をとろうとしたものもあり、よりプラグマティズムの哲学に忠実な陶行知などは、蒋介石から弾圧を受けていた。
全体としては、国家と郷紳層は対立関係にあったのではなく、むしろ国民国家統合と地方統治のために(伝統的には非政治的な名望的権威者だった)郷紳層に行政権限を与えたことが、農民の郷紳層に対する激しい憎悪を生み出す背景となり、共産党政権を生み出す土壌となったと理解したほうが、歴史の流れとしてはすっきり理解できるように思われる。平民教育・郷村建設運動は、こうした流れに対して農村社会という場で近代知識エリートと郷紳層とを連携させる(つまり共産党政権の出現を阻止し得た)可能性をもった試みとして位置付けることもできる。個人的には非常に興味のあるテーマであり、同様の実証研究の積み上げを期待したい。