史報

中国史・現代中国関係のブログ

白川静と実証主義の精神

2010-11-15 18:22:25 | Weblog


 白川静氏は、現在は漢字研究の権威として知られるようになっているが、かつては学会ではほとんど「際物」扱いだった。しかし90年代以降、字書三部作が完結し、NHKなどでも積極的に取り上げられ、一般向けの解説書も多く出版されて、それまでは素人には近づき難い「知る人ぞ知る」「異端」の研究だった白川漢字学は、世間に急速に浸透して今に至っている。

 だが現在でもアカデミズムの中国研究では、白川氏の名前をはっきり出すことは、やや憚られる雰囲気がある。近年の白川氏以外の漢字源に関する本では、その解釈に明らかに白川氏の影響が濃厚に見られるものが少なくないが、白川氏の名前は慎重にも言及されてないことがほとんどである。また、中国古代文学研究の中心にいる人たちは、白川氏と論争した藤堂保明氏の弟子筋の人が多いこともあって、現在でもかなり否定的な評価を崩しておらず、そのことが学会の雰囲気に影響しているのかもしれない。

 白川漢字学というと、いわゆる神話的世界観や呪術儀礼で漢字の字源を説明した、と理解している人や、その点で魅了された人(あるいは逆に敬遠している人)が多いかもしれない。もちろんそれも間違いではないが、私は白川漢字学の魅力の根源は、第一義的にはその徹底した「実証性」にあると考えている。漢字の字源研究というのは、資料の宿命的な希少さゆえに、実証が絶望的なまでに困難であり、研究者の数も限られているため、いわゆる「はったり」による解釈が横行し、またそれが許容されやすい。しかし、だからこそ字源研究ほど実証とは何かということについて、研究者の倫理意識がこれ以上はっきりと現れる分野もないのである。

 ここで「実証的」というのは、白川氏の結論を私が受け入れているという意味では必ずしもない。たとえば、「口」は口耳の口ではなく、祝詞をおさめた器であるといった白川氏独特の解釈について、私は全面的に承服しているわけではない。むしろ深く読み進めるにつれて、解釈に対する疑問そのものは増えていると言ってよい。神話や呪術を強調する解釈についても、個人的にはしばしば紋切り型でワンパターンに感じることもある。

 私が白川漢字学が「実証的」で説得的であると評価するのは、字源を説明する際に付される膨大な文献の数、甲骨文、金文の綿密な読み込み、文字相互の連関関係の解読等々による根拠づけが、きわめて丹念かつ周到であることによる。言うまでもないことだが、実証的というのは、批判の余地もないほど明白ということではなく、あくまで実証プロセスの誠実性を意味するものである。

 たとえば白川氏は「歸(帰)」の字について、左上の部分を軍事の際に供える肉の形であると解釈し、箒で清めて戦地からの帰還を迎える軍事儀礼の一種と説明している。「師」「官」「帥」「遣」などの字も、そうした軍事儀礼に関わる字であるという。そして白川氏は、「歸」の左上の字が軍事における供肉であることを示すために、甲骨文・金文の字形をすべて書き起こし、それらが多くの場合軍事に関して用いられていることを示し、さらに『春秋』をはじめとする古典文献の軍事儀礼に関する記述を豊富に引用している。ここまで調べた上での結論であれば、納得するかどうはともかく、それ自体は尊重する以外にない。白川氏以外の字源辞典では、「女性が歸(とつ)ぐ」意味だと解釈されているが、「婦」からの類推に過ぎず、何の実証的な根拠も示されていない。

 白川氏は音から漢字の理解に接近するという手法を放棄しているが、これも実証的な理由によるものである。前にマヤ文字研究についての番組をみたが、現在は8割程度解読されているらしい。甲骨文は、一度滅んだマヤ文字とは異なり、後に漢字として継承されているにも関わらず、現在でも半分も解読されていない。その大きな理由は、甲骨文が占卜という極度に限定的な場面で使われていること、過度に抽象的であること、そして音とあまり対応していないことにある。マヤ文字は漢字以上に絵画的なのだが、その字形は表音に対応し、それを象形的な表意文字と組み合わせて文章を構築している。このように文字と音との対応関係があれば、音のパターンをいったん把握してしまえば(ここまでが大変だが)、文字の意味を簡単に読み込むことができる。

 音声と対応していない甲骨文の場合は、なにぶん古いこともあり、音から意味を判断する術がない。また、象形といっても過度に抽象化されており、鳥や象のようにわかりやすいものはともかく、当時の習俗に関するものということになると、まさに雲をつかむような話になる。だから、もし一歩でも字源の理解に近づきたければ、その文字の背後にある古代中国の政治社会を再現するような方法がどうしても必要になる。白川氏が、言語学の主流である、音源から文字を理解するという方法を放棄し、むしろ字形の中に古代中国の習俗を読み込むべきという民俗学的手法を採用して、結果として神話学的解釈に接近するようになったのは、こういう「実証的」な理由が第一義的なものであって、それ以上のものではない。対象に応じた分析手法を用いるべきというのは、実証研究のイロハであって、白川氏もこうした実証的手続きに愚直に従っているにすぎない。

 白川漢字学に、「神話的世界への豊かな想像力をかき立てられる」と魅力を説明する人もいるだろうが、別にそれも否定はしないが、やはりそれは徹底した実証精神に裏打ちされてこそである。白川氏は、既存のオーソドックスな研究にも漏れなく触れてその差異を明らかにしている。それに字形解釈でわからないものは、はっきりと「わからない」と言っている。単に空想豊かな人物なら、わからないものも「わかった」ことにしてしまうだろうし、また事実、白川氏以外の字源辞典では「わかった」ことになっていることが多い。白川漢字学に関する毀誉褒貶を含めた論争について、「頭のいい」振りをしたがる人ほど「どっちもどっち」と言いたがる傾向があるが、私は圧倒的に白川氏のほうがが実証的であると考える。それは、「実証すること」について、少しでも真面目に考えて論文を書いたことのある人間であれば、自ずと明らかだと思う。


追記:

 ただ付け加えると、白川氏が「実証的」といっても、その手つきそのものはかなり独特なので、これから論文を書こうとする大学院生などが中途半端に真似すべきものではない。学ぶべきは、あくまで学問の「精神」であって方法論ではない。専門研究で白川漢字学が黙殺されているのは、個人的には残念だが、ある程度は仕方がないことだとは考えている。たとえば、落合淳司『甲骨文の読み方』(講談社現代新書、2007年)は、かなり白川説に(明示されていないが)従っているが、白川氏が断言調に解釈していた字源説についての多くを「不明」としている。おそらくアカデミズムに生きる専門家としては、それくらいが白川漢字学との正しい距離の取り方だろう。

 最近の一般向けの白川漢字学の解説書も決して悪いとは言わないが、白川氏が独特の解釈を下すまでの膨大な知的プロセスが削ぎ落とされてしまっており、もともと苦手に思っていた人がますます「際物」扱いする可能性への懸念もある。繰り返すとおり、「白川ファン」を自認する自分も、その解釈を全面的に受け入れているわけではなく、あえて言えば納得しているのは6割ぐらいである。解釈に疑問をもちつつ、白川氏の膨大に提示した文献・注釈を手掛かりにして自分なりに想像力を膨らませていく、というのが白川漢字学に対する正しい接し方であろう。

 なお、北海道文教大学の蘇氷氏の文章「白川静漢字字源学一瞥」を読んだのだが、そこで自分も意外にちゃんとわかってなかったのは、白川漢字学の想像力の原点が、案外に日本の宗教的伝統にあることにある。確かに、白川説が日本人の感性に素直にフィットするのは(逆に無意味に反発したがる人がいるのも)、それが我々になじみある日本の神社の祭礼の風景を思い起こすようなものだからであろう。しかし、中国では早くに失われてしまった習俗が日本では受け継がれてきたという仮説は、大変に魅力的ではあるのだが、何重にも留保が必要であるように思われる。


追記2:

 それでも白川説の「実証性」を疑う人がいるとしたら、まず1973年に書かれた「文字学の課題」(『字書を作る』平凡社、2002年所収)という文章を熟読してほしい。白川氏が、既存の漢字学の系譜をしっかりとおさえており、その上でその実証的手続きについて(しばしば口調は激しいが)丁寧に批判されていることが理解できるだろう。例えば、白川氏はかつて漢字学の権威であった藤堂保明氏の、音の類似性から字源を探る「単語家族」説に基づく解釈を、「一見してその稚拙さに驚かされるが、特に字形解釈における全くの無原則、また無思想性を指摘すべき」と一刀両断した上で、以下のように述べている。

・・・語源の探求も、文字学の目的の一つとなしうることはもとよりであるが、それは学問的に最も困難な分野に属しており、その基礎条件が周到に用意された上で、はじめて試みられるべきものであろう。古代文字は三千年前の資料であるとしても、数万年もしくはさらに遥かなことばの歴史を、それによって追跡しうると考えるのは妄想にも近いことである。
 文字学の方法は、文字大系そのものうちから発掘すべきであり、古代文字の形義の示すところを、謙虚によみとるものでなければならない。また古代文字が、その時期における人々の生活と思惟の文字的形象化であるとするならば、その最も高度の文化的形象である文字を、そのような場においてとらえる努力が必要である。古代史学的なあらゆる領域の方法を、そのために用意すべきであろう。私自身、そのような反省の上に立って、この二十数年来、古代文字を古代社会、古代文化の中でとらえる努力を続けてきた。(『字書を作る』65-66頁、強調引用者)

 藤堂氏のような欧米言語学の方法論はいかにも「実証的」だが、白川氏はそれを漢字に適用するのはナンセンスであると考えて、むしろ民俗学的・社会学的な方法のほうが、漢字という文字の特性に即していると主張した。主張の是非の判断は読者に任せる(もちろん私は説得的であると考えている)が、白川氏が呪術的世界への執着心からあのような漢字学の体系をつくりあげた訳ではなく、あくまで漢字の字源を可能な限り実証的に解き明かそうとした、試行錯誤の帰結であることを理解しなければならない。それは白川説に批判的な人も、魅了されている人も同様である。

 私も白川説を闇雲に愛好しているというわけではなく、あくまで漢字の字源に興味があるのであって、漢字源研究者のなかで目下最も実証的かつ論理的な説明をほどこしているのが白川氏というだけにすぎない。だから、氏以上の知識と実証性による説得的な字源説が提示されれば、白川説を投げ捨ててそっちを読むようになるだろうが、そのような字源書を目にする日はいつのことになるのだろうか。

 なお、字源を明らかにするなんてそもそも無理で学問にならない、こんなものは学問ではない、という人もいるかもしれない。そういう身も蓋もない批判もありうるといえばありうるが、こうした批判は歴史学一般にも簡単に敷衍されてしまうことを理解する必要がある。