史報

中国史・現代中国関係のブログ

分餐制は決して「舶来品」ではない

2020-04-24 14:28:06 | Weblog
「分餐制は決して『舶来品』ではない」
新华网 http://www.xinhuanet.com/politics/2020-04/04/c_1125814471.htm

 新型コロナ肺炎の感染拡大の期間、分餐制が再び公衆の視野に入り込み、人々の間で議論の的となっている。分餐制は西洋由来の「舶来品」であると言う人もいるが、資料によれば、分餐制はわが国の昔から存在してきたものである。歴史の大きな流れを経て、わが国はいかにして分餐から合餐へと向かったのだろうか?
 その実、われわれが常に使用している「筵席」(宴会の席)という言葉は、もともと分餐の意味を含んでいた。史料の記載によれば、「筵」と「席」は全て古代の宴会の時の地上の座具であり、昔の人の食事で「席」を用いて座る習慣があり、目の前に低い食卓を置いて、筵と席は一人ずつ設けられ、みんながそれぞれ分かれて食事をして。
 中国古代の飲食方法の変化は、高いテーブルと大きな椅子の出現と密接不可分である。記載によると、唐宋時期に、高いテーブルと大きな椅子は一般的に民衆の生活の中に適用されはじめ、絶対多数の中国人は席に座る方法を放棄し、座り方の変化が完成した。これも、中国の飲食方法の分餐から合餐への転換に直接影響与えた。

 アジア食学論壇主席の趙栄光は次のように語る。「中国には昔から分餐制が存在していて、これまで絶えたことはありません。例えば今のカクテルパーティ(鳩尾酒会)や、バイキング形式など、「一人食」などは、全て分餐の形式の体現です。ただ、合餐が主流になるにしたがって、分餐が古代のように一般的ではなくなっているに過ぎません」。
 趙栄光は、分餐制と似たものとして、中国史上で「双筷制」による食事が流行していたことを紹介している。まず、一つの箸や匙を用いて、食べたい料理を自分の碗や皿に取り分け、さらにもう一つの箸と匙を用いて食事をする。「早くも宋の高宗時期には、二つの箸で食べる形式が出現していました。100年ほど前、中国現代医学の先駆者である伍連徳がペストと闘っている時にも、双筷制で食事をとる方法を真剣に検討していたことがあります。」趙栄光によると、その他の様々な食事の方法と比べて、双筷制は中国料理という芸術品の鑑賞と中華の食卓マナーの感受性により適っており、箸を使用することでより文化的に優雅なると考えていたという。
 
  趙栄光によると、「中国料理のメニューの中には、魚の煮付け(清蒸鱼)など分餐の形式に合わないものもあります。分餐は魚全体の皿の美観を損ねてしまうので、双筷による食事方法により適しています」という。
 2003年のSARSの期間は、分餐制と双筷制が再び提起された。合餐が様々な疾病の拡大をもたらした可能性があるということで、関連する業界や公益組織などは分餐制と双筷制の提唱に力を入れた。しかし社会認知度の不足と、住民の長い間形成されてきた合餐の習慣で改革することが難しいなどの原因のために、分餐制と双筷制を効果的に広めることが全くできなかった。

 食卓は中国人にとって、食事する場所というだけではなく、様々な社会関係と人情の礼儀と密接に関係している。中国人は食事には非常にこだわりが強く、圧倒的多数の家庭にとって、合餐は団欒、幸福を象徴しており、お互いの間の感情の交流に有利である。このように、多くの人は分餐制が隔たりの感覚をもたらし食事の雰囲気を壊してしまうと考えている。
 中国飯店協会会長韓明は次のように語っている。「実際は、『分』と『合』の間は絶対的に矛盾するものでは全くありません。私たちも共用の箸と匙を置くことや、双筷などの形式で食事ができます。和気藹々の雰囲気にも影響しないだけではなく、食事用具を通じて病気の拡大を避けることもできますし、より健康な文明の食卓の習慣をもたらします。」

1917ー1918年のペストと北洋政府の対応——『大公報』を中心とした検討

2020-04-13 06:59:16 | Weblog
「1917—1918年鼠疫与北洋政府的応対 ——以《大公報》為中心探讨」
鳳凰網https://history.ifeng.com/c/7u3pfZhYfEi

 1917年から1918年のペストは、民国で最初の大規模なペストであった。ペストは綏遠、山西で爆発し、華北および長江流域に波及し、中国全土の半分に広がった。被災地域には甚大な人員の死傷と経済損失をもたらした。北洋政府が防疫機関を設立し、防疫法規を公布し、社会力量を動員し、様々な積極的な対応を採った。感染症との闘いに勝利を獲得したと同時に、様々な問題も明るみにした。
 現在について言えば、国内の清末、民国時期の防疫史の研究は、依然として相対的に薄弱である。とくに、最初の感染症の事例に対する考察はあまり多く見られない。大多数の学者は、清末民国期のペストの研究は、主に1910年から1911年の東北地方の大ペストに集中している。しかし、6年を隔てた後の1917年から1918年のペストは、関心を持つものは比較的少なく、研究成果も限られている。現在の学界はこのペストに対して考察しているものの、その重点はほとんど北洋政府の対応に置かれていた。しかしこれまで、此の問題を当時の主要な新聞を中心に利用して行った研究は見られない。本稿は、先人の研究成果の基礎の上に、民国時期で最も影響力のあった新聞の一つである『大公報』の大量の報道を利用して、1917−1918年のペストの流行状況および政府の対応に対する簡単な検討を行いたい。

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3 不足と欠陥

 民国政府は今回の突然の大規模感染を攻撃する積極的な対応において、多くの有効な措置を採用したが、依然として多くの不足と結果を露わにした。まとめて言えば、主に以下の二つの点がある。

(1)転換期における民国政府の社会統制能力の不足
 民国初期の社会転換は政治的統治が相対的に脆弱な時期にあり、国家の地方に対する統制は調整とすり合わせの段階にあった。中央政府の地方政府に対する統制力の低下は、防疫のプロセスで、次々と現れた民衆と防疫医師の衝突に集中的に表れている。
 例えば、主に防疫を担っていた医官である伍連徳がペスト患者の死体を解剖する時に、思いがけず、その土地の住民による殴打に遭遇した。「聞くところによると、豊鎮で二人がペストに感染して命を落とし、伍連徳医官は死者の死骸を解剖して、感染した原因およびその情況が今後どうなるかを見るために、死者の家族の同意を得ようとした。部屋を閉め切って解剖するという話に、地方の人民は非常に震撼して、大勢の人が集まって騒動を起こし、伍医官は殴打されて北京に帰る準備をはじめた。しかし政府は防疫の事業が重大であり、一帯を調査して防疫事業に赴かせた。回想録の中で、伍医官は自らが防疫のプロセスの中で遭遇したもう一つの攻撃に触れている。「この感染症の調査で内モンゴルから伯斯波つまり綏遠、山西省大同などを経てこの場所に来て、私はアメリカの教会の医師二人と山西省豊鎮に防疫総処を計画したが、不幸にも地方長官と住民が反対し、私らが乗っていた専用車両が彼らに囲まれ燃やされて、非常に危険であった」(伍连德自述回忆《得之于人用之于人》,收录于《成功之路——现代名人自述》,良友出版社,1931年)。
 中国の医師だけではなく、外国籍の防疫人員もその土地の住民の攻撃に遭遇し、流血事件をもたらすこともあった。「天鎮県は僻居边外、風気閉塞、最近防疫の事が起こって以来、この場所の人民が不満を募らせることを防ぐことができなかった。数日前、大同の教会のアメリカ医師がこの県で感染症の情勢の検査を行った。この県の人民は大勢集まって抵抗し、入城を許さなかった。アメリカの医師は銃を手にして反撃し、2人が死亡して1人が負傷した。人民の激昂は非常にすさまじいものだった(《本埠纪闻·防疫事宜之汇志》,《大公报》1918年3月2日)。
 一般の平民との衝突だけではなく、防疫活動の中でそうした防疫の措置が直接的に商人の利益の脅威となり、医師と商人の間にも衝突が発生した。「張家口旅店内で梅毒にかかって病死し、西洋の医師がこれはペストだと指摘し、店の建物を焼き払おうとした。この土地の商人はそれを許さず、そして都統はその言葉を聞かないという態度を示し、市全体をボイコットしようとした」。
 こうした衝突の過程の中で、中国の地方官は往々にして対処することができなかった。こうした衝突に直面して、地方の役人はしばしば拱手傍観し、役人の中には、民衆が防疫の医師に反抗することを容認する者もいた。これに対して、西洋の新聞は非常に多くの報道を行い、「外国および外国留学経験のある医師が山西省に赴いたが……山西省内に入った者は歓迎されないだけではなく、この地の人民から憎まれて生命の危機にさらされた。軍隊や警察は長官の意志を承けて、実際には医師を支援せず、また意図的に人民の行動を容認していた。先週5日、豊鎮に駐在していた医師4人が、彼らの滞在が徒らに人民を激怒させていること、軍隊は役に立っていないだけではなく危険であること、それゆえ彼らは現在監獄の中に身を置いているだけではなく、何の役に立たないまま北京にも帰れないことを電報で伝えた」。
 地方の役人のなかには公然と中央政府の命令を無視し、衝突事件の対処についても我関せずであった。「医師たちが豊鎮で受けた敵対的な待遇は、既にイギリス、アメリカ、フランス各国の公使が厳しい言葉で抗議しており、しかるに私がまだ疑問のところは、総統が直隷北部や山西の各軍官の権力を支配できているかどうかである。今日まで、これらの軍官は総統の疫病予防の命令に対して放置するだけだった。頼りなる軍隊を綏遠の沿路一帯に派遣しなければ、これらの野蛮で残忍な官吏に強引に分からせることができない。」
 見識のある地方の役人の中にも中央政府に電報を打って、中央政府が地方の役人と防疫の医師を協力させ、民衆にはっきり理解させるように厳しく命じることを要求する者もいた。・・・・・・・・
 こうした対抗は、たとえ文化的な落差や感情の隔たりがもたらす、現代の防疫と中国の郷土の間の衝突によるものが混じっているとは言え、他方では、社会の転換期における、中央政府の地方に対する統制力の低下を説明するものである。命令を効果的に行って、地方官吏が防疫医師の活動と密接に協力するように指導できなかっただけではなく、立ち後れた中国民衆に対して、正確かつ迅速に防疫の医者の科学的な行為を説明することや、地方の民衆と積極的に協力することができず、かえって次から次へと民衆と防疫人員の対抗と衝突事件を招いて、防疫対策の成功を深刻に阻害し、感染状況の過程を長期化させた。

(2)対応の水準の限界のために「治療」ではなく「隔離」となった
 国民政府はペストに対応する方法は主に隔離の実行をめぐるものであり、ペストの拡散を防止することが主要な目標であった。感染の発生点が確認されるとただちにに封鎖された。民衆について言えば、財産の損失に遭遇しただけではなく、死亡する可能性が高いことを意味していた。例えば感染が通州に到達し、官荘薬王病内の……感染した労働者二人の検査がペストであった。医官は二人に白い布を用いて口を隠し、それが仲間に伝染しないようにした。仕事をしていた80人余りとこの廟の僧侶はすべて廟の中に閉じ込めて外出を許さなかった。さらに建物の壁に一つの小さな門を開けて、警察隊4人が体に弾薬を巻き付けて、逃げないようにした。患者の生死は自然に任せた。
 事実上、こうした政府の隔離して治療しない「残酷」な方法は、医学の有限性で決定されたものであった。当時、ペストのワクチン注射の反応は強烈で結果は不確実なものであった。ペストを治療する抗生物質……は1930年代にようやく発明された。技術的な角度から言えば、医学はまだ明確かつ迅速および有効な治療がまだできなかった。このように、政府も小さな部分の人を犠牲にして疫病流行の拡大を防止することしかできなかった。こうした単純で乱暴かつ冷酷無情な方法は、伝統社会における優しさがあふれた救済・治療の原則と比べると、民衆の理解の難しさの点で落差をもたらした。民衆と政府との良性互動の欠如を引き起したことは、防疫の効果を制限してしまった。