昔、竹内久美子さんの本が流行って、何冊も出版されました。
動物行動学に基ずいて人間を見てみたらこんなです。という本です。
ずいぶん売れて、たくさんの人が読んだと思います。
あのころは、あの本に書いてあったことを参考に、誰かの行動を分析したりして分かった気になったりしたのでは。
でも、面白かったと思います。新しい物の見方をもらったように思うのです。
学級崩壊もああゆう見方を応用すると、問題解決に違う切り口が見えてくるかもしれないです。
最初は、荒れる子どもを見てどうしたのだろう?と思います。
次に、先生に指導力が無いのでは?と考えます。
その2つのことが目に見えるので、対応は、荒れるこどもの心のことと、先生の指導力のことになります。
その先に進むには、視点を大きくする必要があるのだと思うんです。
少し大きい目で見ると、人間という集団には、2割くらいの割合で運動能力に特に優れた人たちがいるらしい。と分かります。
きっと、良く調べれば、手先が器用で、物を作ることに優れた人たちがある割合いるはずです。
また、良く調べれば、芸術に優れて、音楽や、美術や、その他の表現に貢献する人たちもいるでしょう。
会計に優れた人もいるし、話をするのが上手な人もいる。いろんな人がいる。
人間は色々な能力の人が混ざり合って、全部で人間の集団なのだといえます。
そういう風にできていると。
学校は、いろんな人が混ざっている集団を教育するところなのです。
人間はもしかして、自分の持っている能力を、成長するにしたがい、だんだん自分で自覚するのではないでしょうか?
そして、本能的に自分の力を伸ばしたいと思うはずです。
誰でも、人に負けたくないのです。自動的に競争している。得意なことを伸ばして、人に認められたい。強くなりたい。
人間を含めて、地球上の動物、植物、生物は競争している。
そういう風にできている。
でも、人間は、考えることができるので、露骨な生存競争をしなくても、みんなで安心して、快適に暮らす知恵を探すことが可能です。
強いものが、弱いものを助ける。「そういう行動は、立派で、価値のあることだ。」という合意、これを「徳」と呼ぶらしいです。
えー、それじゃあ、道徳教育が失敗しているのか?
と、思う。
道徳も失敗かも知れないけど、もっと、大きいところが壊れたから道徳も、学級も、愛国心も壊れたのではないでしょうか?
私の考えでは、極端ですが、強いものを強いと認めることです。弱いものは弱いと認める。
強いものには強いものへの教育をする。弱いものには弱いものへの教育をする。
特に強いものには、強いものの役割、責任をよーく教える。
弱いと言う表現はよくないですね。普通といったほうが適切です。
どうして、強いを特別にしなくてはならないかと言うと、物理的な力を使って、人に危害を加える場合があるからです。
それは、特にせっかく強く生まれた当人が不幸になります。力の使い方をきちんと教えなくてはいけないと思うんです。
その方法は、「あなたは、特別だからAコースの教育をします。」なんていうことではないはずです。
本人たちには分からないように、全体の中で自然にそうなるように指導していくんだと思います。
今も教育はそうしているはずですが、今の子供たちは、どこへ連れて行かれるんでしょう?
言いたいことを言ってしまいます。
人間は競争をして、力を伸ばして、認め合って、全体の社会が発展する。と言う性質の生き物だと言うことです。
教育の目的は、人間の持っている性質を生かしながら、よくない点を補正することではないでしょうか?
思いやりと言うのは、その、補正です。
「思いやりを持ちなさい。」と言って、思いやりは育つものではないでしょう。
結果的に思いやりが育っていた。と言う風に持っていくのが教育の理想です。
思いやりが何か、考えてみたら分かります。
思いやりは”余裕”です。強い人が、弱い人を助けるんです。
「お友達にいやなことを言わないようにしましょう。」は、気配りです。
算数の得意な子が、お友達に教えてあげるのは何? 助け合い?
あー、良く考えたら、思いやりが何か分からなくなってしまった。ちょっと自信が無いけど、
要するに、「あなたは大きいんだから、弟の面倒をみてあげてね。」と、同じです。
「あなたは、強いんだから、弱い子を助けてね。」です。
昔、子ども集団には、”おみそ”と呼ばれる子がいました。誰かの弟や妹、体の弱い子、あとなんとなく、ハンディをもらって一緒に遊ぶ子です。順位が決まっていました。
強い子には強さを自覚させて、認めてあげて、人の上に立つことを教えるんです。
もちろん、良いリーダーになる責任も。
そのためには、評価をあいまいにしていてはダメです。
しっかり、評価をすることが大事ではないですか?
通知表は、よくできる、できる、もう少し、の3段階の評価になっています。
3段階にするんだったら、1,2,3にするべきです。
昔は5段階でした。はっきり数字で。そして、相対数が割り当てられていました。
40人学級だったら、5と1は、3人づつとか。
相対数では、5に値する子どもが5人いたらどうするんだ。と言うような議論があって、ある時、絶対数に変わりました。
その時、私も、絶対数の方が理にかなっていると思ったことでした。
理にはかなっているんですが、運用を間違えました。ある時、図工か何かの先生で、全員に5をつけた先生が出たのです。
相対評価のほうが、評価の精度は高いと言うことになります。
でも、今になると、あの相対数って、人間を良く研究して割り出した、絶妙の数字だったのではと思います。
あのころは、社会の状況に、教育もあっていたんでしょう。
それから、社会が変わるに従い、教育も応じて変えていったのだと思いますが、間違ったんでしょう。
間違ってもいいんだと思います。難しいんですから。誰も責任を取らなくていいです。
ただ、間違ったと思ったら、すぐに修正することは大事です。
個人の生活も同じです。間違ったら、すぐに謝る。
「ごめんなさい。」
あー、間違ってること、いっぱい書いたかもしれません。
間違ったら、謝ります。
「本当に、ごめんなさい。」
動物行動学に基ずいて人間を見てみたらこんなです。という本です。
ずいぶん売れて、たくさんの人が読んだと思います。
あのころは、あの本に書いてあったことを参考に、誰かの行動を分析したりして分かった気になったりしたのでは。
でも、面白かったと思います。新しい物の見方をもらったように思うのです。
学級崩壊もああゆう見方を応用すると、問題解決に違う切り口が見えてくるかもしれないです。
最初は、荒れる子どもを見てどうしたのだろう?と思います。
次に、先生に指導力が無いのでは?と考えます。
その2つのことが目に見えるので、対応は、荒れるこどもの心のことと、先生の指導力のことになります。
その先に進むには、視点を大きくする必要があるのだと思うんです。
少し大きい目で見ると、人間という集団には、2割くらいの割合で運動能力に特に優れた人たちがいるらしい。と分かります。
きっと、良く調べれば、手先が器用で、物を作ることに優れた人たちがある割合いるはずです。
また、良く調べれば、芸術に優れて、音楽や、美術や、その他の表現に貢献する人たちもいるでしょう。
会計に優れた人もいるし、話をするのが上手な人もいる。いろんな人がいる。
人間は色々な能力の人が混ざり合って、全部で人間の集団なのだといえます。
そういう風にできていると。
学校は、いろんな人が混ざっている集団を教育するところなのです。
人間はもしかして、自分の持っている能力を、成長するにしたがい、だんだん自分で自覚するのではないでしょうか?
そして、本能的に自分の力を伸ばしたいと思うはずです。
誰でも、人に負けたくないのです。自動的に競争している。得意なことを伸ばして、人に認められたい。強くなりたい。
人間を含めて、地球上の動物、植物、生物は競争している。
そういう風にできている。
でも、人間は、考えることができるので、露骨な生存競争をしなくても、みんなで安心して、快適に暮らす知恵を探すことが可能です。
強いものが、弱いものを助ける。「そういう行動は、立派で、価値のあることだ。」という合意、これを「徳」と呼ぶらしいです。
えー、それじゃあ、道徳教育が失敗しているのか?
と、思う。
道徳も失敗かも知れないけど、もっと、大きいところが壊れたから道徳も、学級も、愛国心も壊れたのではないでしょうか?
私の考えでは、極端ですが、強いものを強いと認めることです。弱いものは弱いと認める。
強いものには強いものへの教育をする。弱いものには弱いものへの教育をする。
特に強いものには、強いものの役割、責任をよーく教える。
弱いと言う表現はよくないですね。普通といったほうが適切です。
どうして、強いを特別にしなくてはならないかと言うと、物理的な力を使って、人に危害を加える場合があるからです。
それは、特にせっかく強く生まれた当人が不幸になります。力の使い方をきちんと教えなくてはいけないと思うんです。
その方法は、「あなたは、特別だからAコースの教育をします。」なんていうことではないはずです。
本人たちには分からないように、全体の中で自然にそうなるように指導していくんだと思います。
今も教育はそうしているはずですが、今の子供たちは、どこへ連れて行かれるんでしょう?
言いたいことを言ってしまいます。
人間は競争をして、力を伸ばして、認め合って、全体の社会が発展する。と言う性質の生き物だと言うことです。
教育の目的は、人間の持っている性質を生かしながら、よくない点を補正することではないでしょうか?
思いやりと言うのは、その、補正です。
「思いやりを持ちなさい。」と言って、思いやりは育つものではないでしょう。
結果的に思いやりが育っていた。と言う風に持っていくのが教育の理想です。
思いやりが何か、考えてみたら分かります。
思いやりは”余裕”です。強い人が、弱い人を助けるんです。
「お友達にいやなことを言わないようにしましょう。」は、気配りです。
算数の得意な子が、お友達に教えてあげるのは何? 助け合い?
あー、良く考えたら、思いやりが何か分からなくなってしまった。ちょっと自信が無いけど、
要するに、「あなたは大きいんだから、弟の面倒をみてあげてね。」と、同じです。
「あなたは、強いんだから、弱い子を助けてね。」です。
昔、子ども集団には、”おみそ”と呼ばれる子がいました。誰かの弟や妹、体の弱い子、あとなんとなく、ハンディをもらって一緒に遊ぶ子です。順位が決まっていました。
強い子には強さを自覚させて、認めてあげて、人の上に立つことを教えるんです。
もちろん、良いリーダーになる責任も。
そのためには、評価をあいまいにしていてはダメです。
しっかり、評価をすることが大事ではないですか?
通知表は、よくできる、できる、もう少し、の3段階の評価になっています。
3段階にするんだったら、1,2,3にするべきです。
昔は5段階でした。はっきり数字で。そして、相対数が割り当てられていました。
40人学級だったら、5と1は、3人づつとか。
相対数では、5に値する子どもが5人いたらどうするんだ。と言うような議論があって、ある時、絶対数に変わりました。
その時、私も、絶対数の方が理にかなっていると思ったことでした。
理にはかなっているんですが、運用を間違えました。ある時、図工か何かの先生で、全員に5をつけた先生が出たのです。
相対評価のほうが、評価の精度は高いと言うことになります。
でも、今になると、あの相対数って、人間を良く研究して割り出した、絶妙の数字だったのではと思います。
あのころは、社会の状況に、教育もあっていたんでしょう。
それから、社会が変わるに従い、教育も応じて変えていったのだと思いますが、間違ったんでしょう。
間違ってもいいんだと思います。難しいんですから。誰も責任を取らなくていいです。
ただ、間違ったと思ったら、すぐに修正することは大事です。
個人の生活も同じです。間違ったら、すぐに謝る。
「ごめんなさい。」
あー、間違ってること、いっぱい書いたかもしれません。
間違ったら、謝ります。
「本当に、ごめんなさい。」