さて、高倉先生のブログですが、以前からその存在は知っていました。
「白バラ通信 パンドラの箱」
東村山市議転落事件の真相解明につながりそうな例の「陳述書」は読みましたが、他の記事は、実のところ読んでいませんでした。
高倉先生が起こされた裁判の記録が主で、読みなれていない裁判用語がならんでいたりしてとっつきにくかったからです。
でも、実名で創価学会と裁判闘争をしている勇気ある人物のブログなので、いつかは読まなくちゃと思っていました。
今回、機会があったため、高倉先生のブログを、裁判記録を中心に、最初から読んでみました。
裁判所に提出する陳述書や、裁判の記録がそのまま掲載されているので、資料価値はあると思いましたが、あまり読みやすい文面ではありませんでした。
おまけに、同じ内容が何回も繰り返し書かれていたりして、頭が混乱してしまいます。
4つほど争われた裁判は結局すべて、控訴審を含めて敗訴しています。
高倉先生と弁護人の生田先生は大変なご努力をされたことがわかります。
相手の創価学会は、弁護士を何人もつけ、大弁護団で、資金も潤沢ですから、裁判で闘うのは並大抵のことではなかったでしょう。
しかし、素人の私からみて、もっと攻めようがあったのではないかと思うところもあります。
高倉先生は大阪での勉強会などで野崎至亮氏と親しかったのですから、なんとか野崎至亮氏に証言を頼むことはできなかったでしょうか。
勉強会の他のメンバーから、なんらかの証言を引き出すことはできなかったでしょうか。
そんなことを考えました。
さて、高倉先生のブログを読んでの感想ですが、少し要点をまとめます。
高倉氏は大学生のころ創価学会に入会した。
学会活動を熱心にするうち、組織の先輩の紹介で創価学会員の女性と結婚した。
子ども(長男、長女)も生まれて幸せにくらしていたが、ある時期より創価学会と池田名誉会長に対する不信が芽生えた。
そのきっかけになったのは、大阪で定期的に開かれていた仏法の勉強会だったようである。
その参加者に、創価学会幹部の野崎至亮氏がいた。
信心強情な妻に、学会組織の疑問を分かってもらおうと、高倉氏は、かねてより書きためていた日記のコピーを妻に渡した。
それを読んだ妻は驚いて、日記を組織の上司に渡し、指導を受けた。
その日記が四国創価学会の上層部に渡り、学会本部にも知られるようになった。
学会の上層部は、日記に書かれていたことを理由に、高倉氏の組織上の先輩和田氏を査問した。
その後、和田氏から呼び出されて、東京のホテルの一室で、創価学会幹部による査問を、高倉氏は受けた……
信心強情だった妻に、学会批判の内容を含む「日記」を渡したのは、今から考えると軽率でしたね。
その「日記」は創価学会幹部の手に渡り、詳しく分析されることになります。
「日記」の中に実名で出てくる、和田公雄氏、野崎至亮氏などにとって、それは大きな迷惑だったかもしれません。
最初は、和田公雄氏は、高倉先生の身を案じ、創価学会からの査問の中でも、高倉先生をかばっていたようですが、結局は、創価学会上層部に屈し、高倉先生と敵対するようになったようです。
野崎至亮氏については、創価学会上層部から査問を受けたかどうかも分かりません。
その後、高倉先生とどういうやりとりがあったかも書かれていません。
現在、野崎至亮氏は亡くなられたとお聞きしていますが、それすら記載がありません。
(つづく)
獅子風蓮