というわけで、沢木耕太郎『流星ひとつ』(新潮社、2013年)を読んでみました。
(目次)
□一杯目の火酒
□二杯目の火酒
□三杯目の火酒
□四杯目の火酒
□五杯目の火酒
□六杯目の火酒
□七杯目の火酒
□最後の火酒
■後記
後記
(つづきです)
私は、この『インタヴュー』という作品を新潮社から出すことにしていた。「別冊小説新潮」に一挙掲載し、それから単行本にして刊行するというのが当初からの予定だった。それは、藤圭子にも伝えており、了解を得ていた。
書き終え、しかし、公刊することに疑問を覚えるようになった私は、「小説新潮」の担当編集者である横山正治氏と出版部の初見國興氏に相談をした。
私の迷いを聞くと、横山氏が言った。
「ぼくたちはぜひ出してほしいと思うけど、沢木さんの迷いもよく理解できます。沢木さんにその迷いがある以上、発表するのはやめた方がいいかもしれません。藤圭子さんのためにも、沢木さんのためにも」
初見氏も同意見だった。しかし、こうも言った。
「いつか、きっと発表できる日が来ると思いますよ」
私は、手書きの原稿を製本所に頼んで一冊の本の形にしてもらうと、『インタヴュー』ではなく『流星ひとつ』とタイトルを変え、それをアメリカに渡った藤圭子に送ることにした。長い時間付き合ってもらい、あなたについてのノンフィクションを書き、出版させてもらおうとしたが、出来上がったのはこの一冊だけでした。申し訳ないが、この時点での出版は断念しようと思います……。
すると、藤圭子から、自分は出版してもいいと思うが、沢木さんの判断に任せるという返事が届いた。
1979年の年末にハワイに向かった藤圭子は、翌年の春にはアメリカの西海岸に渡り、バークレーで英語学校に入っていた。そして7月、私のもとに、藤圭子からさらに次のような内容の手紙が届いた。
お元気ですか。
今、夜の9時半です。外はようやく暗くなったところです。窓から涼しい風が入ってきて、どこからか音楽が聞こえてきます。下のプールでは、まだ、誰か泳いでいるみたい。ここの人達は、音楽とか運動することの好きな人が多くて、私が寒くてカーディガンを着て歩いているとき、Tシャツとショートパンツでジョギングしている人を、よく見かけます。
勉強の方は相変わらず、のんびりやっています。やる気はとてもあるのですが、行動がついていかないといおうか、テストの前の日だけ、どういうわけか別人(?)のように勉強するくらいです。
8月のはじめ頃、休みをとって、5~6日友達とハイキングに行こうと思っています。 Berkeley に一人で来て、心細かったとき、本当によくしてくれたディーンとジョーという人達と行きます。ディーンは今年 law school を卒業して、この7月29、30日と、最終的に大きな試験があるので、今は毎日一生懸命勉強しています。それが終わったら、8月の中頃、弁護士としてカンザスの方に行くので、みんなそれぞれ、ばらばらになってしまうから。
私は8月15日に学校が終わったら、16日のBerkeley でのボズ・スキャッグスのショーを見て、それからニューヨークに行くつもりです。最初は一人で旅をしようと思っていたのですが、クラスメートのまなぶさんという人が友達と車でボストンまで行くというので、一緒に行こうと思っています。車で行く方が、飛行機で行くより、違ったアメリカも見られると思うし、8月30日頃までにニューヨークに着けばいいのですから……。
ニューヨークでの学校は、まだ決めていません。着いてから探そうと思っています。なんと心細い話ですよね。本当に。
体に気をつけてください。
あまり無理をしないように。
沢木耕太郎様
竹山純子
追伸 「流星ひとつ」のあとがき、大好きです。
これを読んで、いかにも「青春」の只中を生きているような幸福感あふれる内容であることを嬉しく思った。
そして、「追伸」にあるひとことで、『流星ひとつ』についてのさまざまなことを了解してくれたのだと安心した。
やがて藤圭子はニューヨークで宇多田照實氏と知り合い、結婚し、光さんというお嬢さんを得た。さらに、その光さんが成長すると宇多田ヒカルとして音楽の世界にデビューし、藤圭子に勝るとも劣らない「時代の歌姫」として一気に「頂」に登りつめた。私は藤圭子が望んだものの多くを手に入れたらしいことを喜んだ。
この『流星ひとつ』は、コピーを一部とっただけで、そのまま長いあいだ放置されたままだった。
一度だけ、もしかしたら初見氏の言っていた「いつか」が来たのかなと思ったときがあった。
文藝春秋から私のノンフィクションの選集が出ることになったとき、そこに未刊の作品として『流星ひとつ』を収録しようかなと考えたのだ。藤圭子は宇多田ヒカルの母親として、幸せな状況にあると考えられていたし、これが出ることで困ることもないだろうと思ったのだ。
それに、時間を置いて読み返してみると、徹底したインタヴューによる作品だったということが、むしろひとりの女性の真の姿を描き出していると思えるようになった。
発表に際しては、藤圭子に連絡を取ろうとした。一度刊行を取りやめたものを新たにどうして刊行しようとするのか。それを説明しなくてはならない。
だが、どうしても直接の連絡が取れないまま時間切れになってしまった。私はその選集の巻末に回想風のエッセイを連載していたが、そこにこの作品の存在について短く触れ、それをもって『流星ひとつ』を永遠に葬ることにした。
(つづく)
【解説】
これを読んで、いかにも「青春」の只中を生きているような幸福感あふれる内容であることを嬉しく思った。
そして、「追伸」にあるひとことで、『流星ひとつ』についてのさまざまなことを了解してくれたのだと安心した。
やがて藤圭子はニューヨークで宇多田照實氏と知り合い、結婚し、光さんというお嬢さんを得た。さらに、その光さんが成長すると宇多田ヒカルとして音楽の世界にデビューし、藤圭子に勝るとも劣らない「時代の歌姫」として一気に「頂」に登りつめた。私は藤圭子が望んだものの多くを手に入れたらしいことを喜んだ。
沢木耕太郎さんは、アメリカに渡った藤圭子さんからの手紙を読んで、幸福感あふれる内容であることを喜びます。
いろいろ曲折を経たものの、この本『流星ひとつ』は永遠に葬られるはずでした。
ところが……
獅子風蓮