というわけで、沢木耕太郎『流星ひとつ』(新潮社、2013年)を読んでみました。
(目次)
□一杯目の火酒
□二杯目の火酒
□三杯目の火酒
□四杯目の火酒
□五杯目の火酒
□六杯目の火酒
□七杯目の火酒
■最後の火酒
□後記
最後の火酒
3
__ついさっきまで、あなたは絶対に歌の世界に復帰することはないだろうって感じがしてたけど、ふと、わからなくなってきたなあ。
「どうして?」
__あなたが、永遠に歌と縁を切ったままでいられるんだろうか……。
「いられるかいられないか知らないけど、絶対に戻らないよ」
__そうかなあ。
「いい加減な決心じゃないつもりだよ、あたし」
__それはわかってる。だからこそ、さ。
「いや、ここまで突きつめて、自分が決心したことだもん、戻れといっても戻れないよ、無理だよ」
__それは、逆かもしれないよ。そんな理詰めなんだから、自分を納得させられるきっかけが掴めれば、逆に戻りやすいんじゃないかな。
「そんな簡単なものじゃないつもりなんだ。だって、歌うたびに、自分で自分の傷口を拡げているような気がするんだよ。傷にさわりたくなかったら、歌わないことなんだ」
__でも、どうしても歌わなければならない理由ができたら……。
「ほかのことで悩んでいるわけじゃないでしょ? 一年休めば治るというわけじゃないでしょ? 精神的な疲れがとれればいいというふうなものでもないでしょ? 肉体的なものから来ていて、その肉体的なものは永久に治らないんだから。無理なんだよ、戻れないんだよ」
__ところが、いま、あなたが傷と思っている肉体的欠陥が……つまり喉が、何年かすると価値の基準が変わってきて、欠陥とは思わなくなるかもしれないじゃないか。
「うん、あたしもね、そんなふうに考えることがないわけじゃないんだけど……でも、やっぱり納得できないわけ。持って生まれた声なら、どんなに齢をとって声量が落ちても、下手になったとしてもいいと思うの。納得できると思うの。歌いつづけたと思うの。……でも、声が出なくなったとき、切っちゃったんだよね。休めば治るものだったのに切っちゃったんだよね。ガンなら切らなければいけないけど、持って生まれた喉を切っちゃったんだよ。あたしたちが無知なために、切れば早く楽になると思って、安易な道を選んじゃったんだ。切っちゃったんだから、傷があるんだよね、絶対。歌っていると、その傷の痕がはっきりわかるんだよ。歌に乗って、絵のように見えてくるんだ。歌うっていうことは、その傷口をさわることなんだよ」
__切ったことが、口惜しいわけだ。
「うん、でも、歌を歌うには確かに口惜しいことだけど、切ってよかった、だから歌をやめてよかったという人生が、これから送れるかもしれないし……わからないよ」
__そうだね、それは。
「それに歌いつづければいい、永く芸能界にいつづければいい、なんていうことはない、と思うんだ。永く歌っていたからといって、紫綬褒章だかなんだか知らないけど、国から勲章をもらって……馬鹿ばかしいったらありゃしない。その歌手はただ生活のために歌を歌っていたにすぎないのに。それだったら、どうしてお豆腐屋さんのおじいさんにあげないんだろう。駄目な歌は、もう歌じゃない。駄目な歌を歌う歌手は、歌手じゃないはずなんだ」
__厳しいことを言う……。
「だって、そう思うんだから」
__ひとりの歌手が、死ぬまで頂に居つづけられるということは、ないんだろうか?
「歌謡曲の歌手ではありえないね。まず声が飽きられるし……」
__そうだね、確かに、これだけ複製が出て、日々、膨大な量の声がテレビやラジオから一挙に流れ出るんだから……それは飽きがこないはずがないよね。
「やっぱり、食物と同じように、人は、声にだって飽きますよ。どんな好きな食物だって、毎日のべつ食べていれば飽きるじゃない。それと同じこと。男の人がよく言うじゃない、女房に飽きるとか、たまには違った味の女がいいとか……」
__ハハハッ、独身の婦女子にしては、ずいぶん露骨なたとえ方をしますねえ。
「エヘへ、ちょっと、はしたなかったかな」
__ま、いいでしょう。でも、そういうことはありうるな。
「うまいとかへたとか、そういうこととは関係なく、あるんだよね」
__そんな中で、とにかくあなたは、十年もやってきたんだから、すごいよ。藤圭子というスターをひとりで運営してきた、いわば藤圭子産業の社長をやってきたんだからね。たったひとりの会社だとしても、藤圭子産業は巨大会社だったからね。大変な業務だったと思うよ。
「心があると、大変だね」
__心が?
「こういう仕事をしていると、ね」
__人間的なものは、必要ないのかな?
「歌手として必要なだけの人間味はなくちゃいけないんだけど、ね」
__そうか……。
「業務用には心の取りはずしができなければ、やっていけないんだろうね」
__そうなのかな。
「そうだと思うよ」
__あなたは、一度、頂に登ったよね。その頂には、いったい何があったんだろう?
「何もなかった、あたしの頂上には何もなかった」
__何も?
「そこには、もしかしたら、禁断の木の実というのかな、そういうものがあったかもしれないんだ。下の方で苦労しているような人には、ほんと涎が出るような実があったかもしれないの。でも、あたしには、とうていおいしい味のするものとは思えなかったんだよ。もし別の人が頂に登ってきたら、もう絶対に人にあげたくないって、頑張るかもしれないんだけど、あたしにはまずかったの。あたしにとっては、何もないも同然だった」
__あなたは、その頂から降りるには、転がり落ちるか、他の頂に飛び移るかしか方法がないんだと言っていたよね。しかも、女にとって最も安全な飛び移りは結婚だって。結婚は、あなたにとって……。
「駄目だと思う。できないと思う、あたしには」
__なぜ?
「さっきも言ったけど、あたしぐらいの年齢になると、どうしたって、好きになる人は障害を持っていて、すんなりとはいかないと思うんだ。いい男って、どこにもいそうでいないし……」
__そう?
「うん。それに、あたしって、やっぱり、気が弱いんだよね。いつだってそうなんだ。電車で席が空いていると思って、知らないで坐ると、いつだって、前に疲れた人がいることに気がつくんだ。だから、慌てて立っちゃうんだ。気がつかなければ、そのまま坐っていられるのに。こっちだって疲れてないわけじゃないけど……でも、仕方ないんだ。坐りつづけている方が、もっとつらいことだから、ね」
__そうか……。
「もしかしたら、あたしって、ほんとに幸せが薄いのかもしれないね。なんとなく、この頃、そんなこと思うんだ。駄目なんだよね。知らないふりして生きていけないんだ、あたし、駄目なんだよね、きっと、そう……」
__いや……。
「ものわかりのいい、いまふうの、いい女のふりをしてれば、幸せなときが長く続くかもしれないけど、でも、そんなわけには、いつもいかなかったんだ」
__男らしい考え方だ……。
「それ、褒め言葉のつもり?」
__最上級の、ね。
「嬉しくないけど……嬉しいよ。でも、これから、どうなるのか……」
__あなたは、どう生きても崩れない。きっと崩れない。崩れないと思うよ。崩れかかっても、あなたの生命力が、それを修復して、カジをしっかりと取り直すに違いないよ。
「そうだといいな」
【解説】
__あなたが、永遠に歌と縁を切ったままでいられるんだろうか……。
「いられるかいられないか知らないけど、絶対に戻らないよ」
このように、歌手としての復帰は絶対にないと言っていた藤圭子さんですが、結婚し、子ども(宇多田ヒカル)が生まれると、住んでいたアメリカから日本に戻って生活費や子どものレッスン代を稼いだりするようになりました。
そして、宇多田ヒカルの才能を世に出そうと、日本で歌手として再出発し、娘のデビューを応援したのです。
人生って、分からないものですね。
獅子風蓮