獅子風蓮のつぶやきブログ

日記風に、日々感じたこと、思ったことを不定期につぶやいていきます。

ゼロさんとの「対話」おまけ~その3

2021-05-05 00:00:00 | ゼロさんのブログ

私もいちおうアンチですから、創価学会の組織悪に苦しむ人が少しでも少なくなればいいと思い、対話ブログに共感を覚え、シニフィエさんのファンになりました。
ですから、今年の1月にはじめて対話ブログにコメントを寄せたときも、本当にみなさんと仲良く情報交換がしたかったからなのです。
けっして、対話ブログを潰すつもりで近づいたなどということはありません。

でも、シニフィエさんから「創価は宗教ではないと思うか」という質問を、踏み絵を踏ませるかのように何回も何回も浴びせられ、困ってしまいました。
シニフィエさんは「創価によって救われた人は一人もいない」と主張しますが、死んだ私の母をはじめ、創価学会を宗教として信じることで救われた人、信じながら安らかに死んでいった人は、確かにいたし、今もいると思うのです。
でも、対話ブログの仲間に入れてもらいたくて、その件は「保留」ではだめでしょうか、と聞いたのです。
でも、それも聞き入れられず、結局、私は、あることないこと誹謗中傷を受けて、対話ブログから出ていかざるを得なくなりました。

その時の経験から、シニフィエさんと周りの人たちのやっていることは、創価学会でやっていることの裏返しじゃないか、と気が付きました。
これまでもROM専で、シンパの人がシニフィエさんと周りの人たちにやり込められているのを読んでいましたが、そのときは気が付かなったのに、自分がやられる立場になると、はじめて分かるものってあるんですね。
その時のことは、アメブロの記事「私の自己紹介に過敏に反応する人たち  対話ブログにコメントをしてみました(12)」に書きました。

少し引用します。

「覚醒」というのは、便利な言葉です。
でも、私自身は、恥ずかしくて使う気にはなりません。

私が創価学会の組織に疑問を持った40年前には、そんな言葉はなかったので、私は「退転者」でした。
胸の奥に、「退転者」の痛みを抱えながら、それでも自分は自分の信じる道を歩いて行くんだという覚悟がありました。
今では、創価学会をやめるとすぐ「覚醒者」になれるので、罪悪感もない代わりに、自分が信仰を捨てたという覚悟も希薄です。
どうしてみんな、対話ブログにやってきてシニフィエさんに背中を押されると、いとも簡単に信仰を捨てられるのですか。
この先、あなたやあなたの大事な人が、不治の病にかかったとき、人生の崖っぷちにたったとき、ふと題目が口に出ることはありませんか。

自分や大事な人のために題目を唱えることは、素晴らしいことだとは思いませんか。
それでもあなたは、シニフィエさんや対話ブログに集う仲間のことを思い浮かべて、必死に信仰から背を向けようとするのですか。
あるいは、シニフィエさんに背中を押されて、信仰を捨てたものの、後に鬱になったり、後悔したりすることは絶対にないと言い切れますか。
そんなとき、シニフィエさんも誰も、責任をとってくれませんよ。

つづく



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