獅子風蓮のつぶやきブログ

日記風に、日々感じたこと、思ったことを不定期につぶやいていきます。

増田弘『石橋湛山』を読む。(その31)

2024-05-07 01:00:52 | 石橋湛山

石橋湛山の政治思想には、私も賛同します。
湛山は日蓮宗の僧籍を持っていましたが、同じ日蓮仏法の信奉者として、そのリベラルな平和主義の背景に日蓮の教えが通底していたと思うと嬉しく思います。
公明党の議員も、おそらく政治思想的には共通点が多いと思うので、いっそのこと湛山議連に合流し、あらたな政治グループを作ったらいいのにと思ったりします。

そこで、石橋湛山の人生と思想について、私なりの視点から調べてみました。

まずは、定番というべきこの本から。

増田弘『石橋湛山』(中公新書、1995.05)

目次)
□はじめに
□第1章 幼年・少年・青年期
□第2章 リベラリズムの高揚
□第3章 中国革命の躍動
□第4章 暗黒の時代
□第5章 日本再建の方途
□第6章 政権の中枢へ
■第7章 世界平和の実現を目指して
□おわりに


第7章 世界平和の実現を目指して――1960年代
□1)第一次中国訪問... 「石橋・周三原則」
□2)「日中米ソ平和同盟」の提唱
□3)第二次中国訪問
■4)ソ連訪問
□5)晩年


4)ソ連訪問

湛山は日中関係の改善に優るとも劣らず、日ソ関係の改善を重視した。たとえ日中関係が良好な関係へと転じたとしても、日ソ関係が従来同様不安定な状態のままでは、アジア・太平洋地域の安全保障が確立されないからである。湛山にとって、やはり「日中米ソ」間の多角的安定が日本の安全と発展のためには必須条件であったわけである。
さて湛山が訪ソの意思をソ連・タス通信記者に明らかにしたのは、第一次訪中直後の1959年(昭和34)10月のことであったが、湛山の側近石田によれば、湛山はそれに先立つ3月に湛山周辺の政治家と会合した折、「日ソ領土問題については、国後・択捉両島の領土権は主張するが、もしこれが容れられない場合は、領土問題を棚上げして将来に発言権を残すか、沖縄・小笠原並みの潜在主権を認めさせるかの方法で処理し、歯舞・色丹両島の返還だけで平和条約を締結する」と言明したという(石田博英「日ソ関係の変遷と展望」5頁)。そして翌60年(同35)3月1日の『朝日新聞』は次のように報じた。「石橋前首相はかねてから岸内閣の現在の外交方針に対して批判的で、対中関係など緊張している極東情勢を緩和するため対共産圏外交の調整を図るべきだと主張し、安保条約の国会承認が終わり、同時に東西首脳会談で国際情勢の雪解けが本格化するとみられる6月ごろをとらえて訪ソする決意を固めていた。石橋氏としてはソ連政府首脳に対して『歯舞・色丹島の返還を実現し、千島における日本の漁業権益を有利にする』という条件で国後・択捉両島を放棄して、懸案の日ソ平和条約を締結する案を示し、また日中関係の打開にもソ連の仲介を求める考えをかねてからもっていた」。
しかしこの計画は、日米新安保条約をめぐる日本と中両国との関係悪化と、北方四島の一括返還を党議とする自民党内主流派からの反発により、その実現にはかなりの曲折が予想された。それでも湛山は8月2日に日ソ協会理事長松本七郎から同協会会長就任を懇請される(前掲「石橋湛山年譜415頁)と、その直後、モスクワの日本産業見本市出席のため訪ソした日本産業代表団の野原正勝(自民党衆院議員)代表を介して、フルシチョフ首相の早期訪日を要請した(『朝日新聞』8月17日)。同時に、野原には「日ソ友好親善のために平和条約および文化協定の締結を希望する旨」の書簡をフルシチョフ宛に託していた(前掲「池田外交路線へ望む㊤」)。その結果、9月19日にソ連外交官がフルシチョフの返書を湛山に手渡している(前掲「石橋湛山年譜」415頁)。返書の内容は不明であるが、その後の経過から推して、好意的な回答であったことは間違いない。つまり、湛山がフルシチョフの進める平和共存政策を高く評価し、持論の「日中米ソ平和同盟」構想への賛同を求めたのに対して、フルシチョフから基本的同意と湛山のモスクワ訪問を歓迎する文面であったと思われる。こうして湛山は同月21日、日ソ協会会長に就任した。

態勢が整った湛山は翌61年(同36)の5ないし6月にソ連を訪問し、平和促進、軍縮、日ソ平和条約などの諸問題についてフルシチョフと会談する意向を固めた。なおフルシチョフ書簡とは別に、対外友好協会会長T・ズーエフおよびソ日協会会長M・ネステロフの両氏からも訪ソするよう招請状が届けられた(『朝日新聞』9月22日)。10月、湛山は自己の選挙区の沼津で、「世界に平和をもたらす意味で、共産圏と手をつなぐことが急務だ。来年春訪ソし、話し合う。この場合、日米の軍事関係がかなり問題になるだろう。その意味で安保条約の再改定が必要だ」との談話を発表した(『同』10月7日)。なお湛山は11月の第二九回衆議院議員総選挙で6回目の当選(5万4000票を獲得して第三位当選)を果たした。
さて11月、ソ連からネステロフが先陣を切って来日し、湛山は8日に帝国ホテルで歓迎午餐会を主宰した(前掲「石橋湛山年譜」415頁)。この折、ソ連側から湛山に対して訪ソの働き掛けがあったことは間違いない。翌61年(同36)1月にフルシチョフから電報、続いてネステロフから湛山宛書簡が届けられ、モスクワ訪問を歓迎する旨伝えられた。そこで湛山は訪ソ準備を開始したところ、3月の身体精密検査で心臓動脈に懸念があるので長途の旅はしばらく控えた方がよいとの診断が出た。 そのための計画は中止を余儀なくされた(前掲「中国を再び訪ねて」30~1ページ)。しかもソ連の核実験再開(ソ連発表、8月30日)をめぐり日ソ協会内部が紛糾 した。結局10月、核実験容認を声明した共産党系の動きに反対する北村徳太郎(前自民党代議士)、茅誠司(東大総長)らとともに、湛山も協会から脱会した(前掲「日ソ関係の変遷と展望」4頁、『朝日新聞』9月14日、10月6日)。
以降、湛山は外国旅行が可能となるべく体力の回復に努め、1963年(同38)5月に再度訪ソの意向を固め、フルシチョフから快諾を得た。しかし第二次訪中を実施したことにより準備が整わず、再び延期を余儀なくされた(前掲「中国を再び訪ねて」30~1頁)。実は湛山は密かに、中国からの帰路、ソ連に向おうとしたが、中ソ関係悪化のため松村が反対、池田首相の意向もあって取り止める経緯があった(前掲『石橋政権・七十一日』198頁)。湛山が当時苦慮していたのが中ソ論争であった。論文「日中復交と中ソ論争に対する私の見方」(『新報』11月16日号『全集⑭』)は、中ソ論争は両国にとって不利益であるばかりか、日本にとっても不利益であると論じている。そのため、なおさら訪ソの意向を強めたともいえる。
ところが湛山は11月21日に実施された第三〇回総選挙で、4万7000票を獲得しながらも、第四位となって落選するという屈辱を味わうこととなった。当初湛山は今回の選挙には立候補しない決意を固めていたが、内部事情により急遽出馬せざるをえなくなった。とはいえ湛山自身は落選に頓着する様子もなく、翌64年(同39)5月19日、創立以来深く関与していた国貿促の第三代総裁に就任し、その上で念願の訪ソの準備を進めた。こうして湛山夫妻のほか、大原万平、中島昌彦ら随員4名の一行は、9月22日から10月13日まで、3週間のソ連訪問を行なったのである。
一行は香港、ニューデリーを経て9月25日、ちょうど湛山の80歳の誕生日にモスクワ空港に到着し、全ソ商業会議所会頭・ソ日協会会長ネステロフらの歓迎を受けた。ところがフルシチョフとの会見が実現しないため、一行はシベリアからレニングラードを視察し、10月3日にモスクワに戻った。それでも依然フルシチョフとの会見が決まらず、湛山らは理解に苦しんだ。5日の日誌には「再度ネステロフ氏にフルシチョフ首相に面会の要請するも確たる返事なきため面会を断念し帰国を決意する」とある。止むなく一行は翌6日にモスクワを発ち、パリを経て13日に帰国した。フルシチョフ辞任(のちに解任)が公表されたのは帰国日から2日後のことであった(石橋湛山「フ首相退任後のソ連にのぞむ」10月『湛山叢書』第六号『全集⑭』)。
以上のように湛山が満を持した今回の訪ソは、来秋に東京で日ソ経済人会議を開催することを決定した以外には具体的成果を得られず、湛山の「日中米ソ平和同盟」は頓挫することになった。しかも湛山の期待に反して中ソ対立は激化の一途を辿ったばかりか、1965年(同40)2月から米軍のベトナム介入が本格化するに従い、米中関係も険悪化していった。また中国では時を経ずして文化大革命が発生して対外関係が悪化するなど、時局は湛山の構想とはまったく逆行する方向を示したのである。


解説
以上のように湛山が満を持した今回の訪ソは、来秋に東京で日ソ経済人会議を開催することを決定した以外には具体的成果を得られず、湛山の「日中米ソ平和同盟」は頓挫することになった。しかも湛山の期待に反して中ソ対立は激化の一途を辿ったばかりか、1965年(同40)2月から米軍のベトナム介入が本格化するに従い、米中関係も険悪化していった。また中国では時を経ずして文化大革命が発生して対外関係が悪化するなど、時局は湛山の構想とはまったく逆行する方向を示したのである。

老体にムチ打って、極東の緊張緩和のために奔走した湛山でしたが、時代の流れに翻弄されてしまいました。

獅子風蓮



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