★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

ケンカの聖書

2018-07-19 23:59:07 | 漫画など


予習で「ケンカの聖書」を読んだ。梶原一騎の妙な言語センスってどこから来てるんだろうね……。七〇年頃の作品には、梶原じゃなくてもそんな雰囲気はあるけれども。

香×大学教室灼熱2018

2018-07-18 23:32:58 | 文学


以前は、あまりにテンションが低い学生達に対し、「香川大学微熱教室だなa」と思っていたわたくしであるが、最近はそれどころではなく単に暑い。灼熱教室、いや教室灼熱である。

それでも教室にせっせと通ってしまう学生を思うと、なんだか涙が出ちゃう……

というのは少し嘘であるが、普通に37度とかになっているのに教授会に出てしまう教員も大概であり、涙が出ちゃう……ちゃうわ、汗ですわ……。

https://www.asahi.com/articles/ASL7D5VM8L7DUCVL012.html?iref=comtop_8_04


暑さで頭がおかしくなっているのか、「18日の芥川賞選考会ではベテラン作家らによって、これまでの経緯や文学的な評価がどうなされるのか、注目されていた。」が、「18日の芥川賞選考会ではペテン作家らによって、これまでの経緯や文学的な評価がどうなされるのか、注目されていた。」に見えた。

ドラマ「カーネーション」では、戦争末期が真夏の出来事であることに注目していた。空襲から逃げ回り、夫の死亡通知を受けとっても、寝て居らず蝉の音で頭が働かない……それでも逃げなきゃ……。われわれのおじいさんおばあさん達、幼児だった親たちが経験していた戦争とは、クーラーのないなかで、頭がおかしい奴らにシねと命令され、爆弾から逃げ回ることであった。原爆が落ちたのも真夏である。われわれの支配層が、夏ばてしていた国民に「本土決戦」とかを強いようとしてたことを忘れてはならない。が、しかし――沖縄を本土とみていないという致命的なあれは一旦措いたとしても、問題は、おそらく、強いようとしていた割には、ちゃんと本土決戦なんかできなかったであろうし、本気ではなかったということであろう。われわれが、スターリングラード攻防戦のような地上戦をやるとはとても思えないのである。われわれは自分たちが考えているよりも「口先野郎」であることを自覚した方がよいと思う。

すごく久しぶりに、キース・ヴィンセントの子規論を読んだ。途中で、渡部直己の「強制的「不感症」」説がでてきてギョッとする。

戯作三昧への……

2018-07-17 23:14:58 | 文学


日高六郎の『戦後思想を考える』を捲っていたら、今日は、ゼミで、生命主義や「或る女」について考えたせいなのか、急に「戯作三昧」が読みたくなった。

光の靄に似た流れは、少しもその速力をゆるめない。かえって目まぐるしい飛躍のうちに、あらゆるものを溺らせながら、澎湃として彼を襲って来る。

実際の馬琴は、こんなベルグソンまがいの妙なものを思い浮かべるタイプではなく、書いてから自分に興奮してくるタイプのように思えるのであるが、――最近、八犬伝など読み返している暇がなくて残念だ。案外芥川の言うとおりだったのかもしれないとわたくしは最近思ったこともある。

芥川龍之介が屡々小説のなかで語る、刹那の何か、はわれわれの集中力のありようがなんとなく現れているのかもしれない。それは、神秘体験で人をひっかける宗教みたいなものにも意識されているのかもしれない。

いずれにせよ、われわれに必要なのは、非人情に思われようとも――さしあたり、テキストへの批判であり、宗教への批判である。


蝦蟇は真平に○○て

2018-07-16 22:21:13 | 文学


安倍晴明は陰陽師であるが、昔からこういう怪しげな術を使う輩をお偉方はありがたがって登用しておった。明治になってから、陰陽道みたいなのは邪宗であるからというのでお取りつぶしになったが、田舎に行くと晴明神社の名残はかなりあるし、最近は漫画や映画でおおはやりである。

この清明がいやなのは、案外役に立つことをやらかすからで、まさに実学野郎であるところである。現代の魔法使いもなんだか幇間だなにやら悪口を言われているようであるが、確かに、清明のおかげであるかもしれない。

『今昔物語』の24-16にでてくる時には、そんなに派手な活動をしていない。まず、鬼に襲われそうになった師匠の危機を救った。(その実、師匠を起こしただけ)それから、あるお坊さんがからかいに来たのを見破って、相手の式神を隠してしまった。また、貴族に頼まれて蝦蟇を少々殺した。それだけである。最後の蝦蟇の場面は、

庭より蝦蟇の五つ六つばかり踊りつつ池の辺りざまに行きけるを、君達、「さは、あれ一つ殺し給へ。試みむ」と言ひければ、晴明、「罪造り給ふ君かな。さるにても試み給はむとあれば」とて、草の葉を摘み切りて物を読むやうにして蝦蟇の方へ投げ遣りたりければ、その草の葉、蝦蟇の上にかかると見けるほどに、蝦蟇は真平に○○て死にたりける。僧どもこれを見て、色を失ひてなむおぢ怖れける。

てな感じである。肝心な場面で本文に欠損があって、「○○て」が何か空恐ろしい感じを逆に出しているが、まあ殺しただけである。だいたい、「蝦蟇の五つ六つばかり踊りつつ池の辺りざまに行きける」が怪しすぎる。こいつらこそ式神かなにかではなかろうか。はじめから「真平」なのではないか?

結局、彼は師匠を大事にして出世した御用学者ではなかったであろうか。いまは、清明によらなくとも蝦蟇はときどき真平になって道路に死んでいる。



ベースラインがすごい……

灼熱連休2――極く嗔かり諍ける

2018-07-15 23:16:03 | 文学


『今昔物語』のなかの性的な物語の中で割とよくしられたものの中に、「女行医師家治瘡逃語」というのがある。

宮中の医療機関の院長のところに、絶世の美女があらわれた。診察してみると、陰部の近くに腫れ物がある。老いた院長は色香に迷っていることもあろうが、一生懸命に治療してなおしてしまった。この美女、

「今、奇異き有様をも見せ奉りつ。偏に祖と憑奉るべき也。然れば、返らむにも、御車にて送り給へ。其の時に、其とは聞へむ。亦、此にも常に詣来む」

とか気のありそうなところを見せたので、院長先生、すっかり彼女に惚れてしまった。しかし、案の定、食事を運んで行ってみると、彼女は夜着でトンズラ。で、こうしたときに

女のなつかしい油の匂いと汗のにおいとが言いも知らず時雄の胸をときめかした。夜着の襟の天鵞絨の際立って汚れているのに顔を押附けて、心のゆくばかりなつかしい女の匂いを嗅いだ。


となるのは、姦通罪を恐れる近代人である。かえって、――院長は「おらおらっ、どこ行ったんならっ」と家中を探しながら、

「「忌まずして、本意をこそ遂ぐべかりけれ。何にしに疏ひて忌みつらむ」と、悔しく妬くて、然は、「無くて、憚べき人も無きに、人の妻などにて有らば、妻に為ずと云ふとも、時々も物云はむに、極き者儲つと思つる者を」


となんとか心内がダダ漏れしてしまう有様であった。弟子達には馬鹿にされるし、世間も嗤う。しかし、院長は堂々と「極く嗔かり諍ける」のであった。

この前、川崎大助氏が日本人はもともとの「農民」根性に回帰しつつある、みたいなことを書いていたが、なるほどと思った。上の話についても、われわれの大多数は、院長はみっともないな、と嗤う弟子達や世間には容易にシンクロするが、院長の気持ちにはなかなか同情できないのである。

わたくしは、芥川龍之介が「鼻」で、禅智内供の鼻を秋風に揺らしてあげる穏やかな気持ちの方が分かる気がする。しかし、これは容易な道であることには変わりがない。

今日は暑い中、『尊師麻原は我が弟子にあらず』という、吉本隆明+プロジェクト猪の本を読んでみたが、なるほど、オウムの議論で吉本隆明がやたら攻撃されていたのは、岩上安身や切通理作などの若い論客が、吉本の影響圏(弟子みたいな人たち)を理解しないというある種の世代論が絡んでいたためか……と思った。しかし、いまみると、吉本氏以外の全員が似ている気がしないでもない。

吉本は、おそらく麻原と二人で戦いたいのである。一人理解しがたい行動をとった美女(麻原)をとっつかまえたいのである。それを、宮中のスキャンダルやエロ院長の話、美女に共感できるか否か、などの話題であーだこーだ騒いでいる人たちがいるので……

灼熱連休1

2018-07-14 23:44:22 | 映画


リバー・フェニックス(すごく色っぽい)がでている「旅立ちの日」を観てみたが、この話はちょうどわたくしぐらいの世代の話であった。この話は、七〇年ぐらいに武装闘争をやってFBIから逃げつづけている両親の間に生まれた子どもたちが、自立するというのはどういうことか、がテーマである。世間的なものからある種の過激な自立を行ったものの内部が絆や規律で縛られているのは、連合赤軍やオウムをみりゃわかる――みなくてもわかるけど、その中で自立するのは、世間に帰ることのなのか、否か。

われわれの世代は、団塊の世代の親をもって、上の課題につきあう者も多かったはずだ。

1、もっと自立してやるぜ→①日本から飛び出るぜ→①グローバル人材(インテリもしくは落ちこぼれ)→①挫折してネトウヨ、或いは自民党から出馬
                       →②ポストコロニアルだぜ(亜インテリ的出世主義)例・英文学者とか文化研究                            
    
            →②日本で更に潜伏だ→①実存主義的(内気なインテリ)→①調べ物しているうちにネトウヨに
                                      →②日本文学研究→①就職難しだががんばる
                                               ②がんばれない→ネトウヨに 
                      →②アニメ耽溺的(内気な……)
                      →③日本すばらしいに目覚める→①伝統芸能復興だぜ
                                    →②ネトウヨ
                                    →③民進党から出馬

            →③やっぱり運動だぜ→①フェミニズム
                      →②エコとか自然食品とか
                      →③宗教
            
            →④親と仲良く自立できず
        
2、自立はつらいやめます→①親と仲良く自立せず→①実存主義的(内気なインテリ)
                       →②アニメ耽溺的(内気な……)
             
            →②日本すばらしいに目覚める→①アニメ耽溺
                          →②伝統芸能復興だぜ

            →③普通になろう→①本当に普通になる
                    →②普通になる能力がなかった

3、自立って何?

場合分けを、自分の周辺を基に考えてみたがばかばかしくなってきたのでやめる。どうなったとしても、時間をかければ同じようなところに行ってしまったり、違う場所に思いもかけずたどり着いてしまうのが、人生なのであろう。「旅立ちの日」だと、母親がテロリズムに走る前にあった人生プラン――音楽家になる夢――を、息子のリバー・フェニックスが引き継いでしまい、彼は、家族からも自立する結末となる。人に頼らない人生をつくるという意味では、親から自立したからOKであるにもかかわらず、親の自立思想に従っているという意味では、家族から離反したわけではない。しっかり母親の夢も引き継いだ。こんなに表面上上手くいくこともあるのであろう。

しかし、上の話の過激派の両親が二〇年近くも逃げ回っているように、自立というのは始めることよりも続けることの方が遙かに難しい――にもかかわらず、引っ込みがつかないから続けるしかないのだ。リバー・フェニックスが家族から離れ、ジュリアード音楽院への道が開けるところでドラマは終わっているが、ここからが問題である。音楽院には入れたかどうか怪しいし、音楽を続けられたかどうかもわからない。わたくしなら、音楽や恋に破れた彼がテロリストとなる結末を付け加える。

だいたい、学園闘争や何やらへの意識が、社会へのエディプス的な意識に置き換わってしまうこと自体が逃避である。ラディカリズムは、アメリカ内部でももっと具体的な問題を引き起こし続けている。そういえばリバー・フェニックス自身がカルト教団の出自をかかえていたことも有名である。わたくし思うに、まあいろいろあるけれども、結局

恨は長し人魂か何かしらず筋を引く光り物のお寺の山といふ小高き処より、折ふし飛べるを見し者ありと伝へぬ。(「にごりえ」)


という感じになることは避けられないという感じはするのであった。

微笑もて正義を為せ!?

2018-07-13 23:56:25 | 思想


太宰治の「正義と微笑」のなかには、正義のために落第した、とか、微笑もて正義を為せ!、とか太宰流のスカした名言が出てくるのである。今日、同僚と話していて、正義を孤立したからといって引っ込める輩には教養がないからじゃないかという話になった。わたくしも賛成である。馬鹿だから正義を貫けるというフィクションをわれわれは読みすぎたのではないか。ある種の教養のみが正義を支えるのだ。

まあ卑近な例を挙げれば、マルクス主義が廃れたのは、勇気がなくなったからでも時代が変わったからでもなく、マルクスが読まれなくなったからなのである。マルクスボーイ全盛の頃から、既に(われわれが現時点での読解可能な)マルクスは時代遅れといわれていたのだから――もう没落自体は時間の問題だったのである。あとは読まれなくなっただけだ。しかし別にマルクス自体が古くなったとは思わない。マルクスが古くなったというのなら、スミスはもっと古く、アリストテレスは古すぎる。

いずれある場所で話す必要があるのであるが――、「君たちはどう生きるか」という書物が明らかに教養主義的なものであるにもかかわらず、上の教養たり得るのかといった問題について、わたくしは、ちょっと懐疑的だと言いたい気分だ。この本は学校生活のための道徳的な教材という感じがする。教養のための書物とは、例えば、大人になって夢敗れ自分の限界も知った教養あるコペル君が卑怯なまねをしてしまうという――苛烈な書物である必要があるのではなかろうか。教養とは個人の物語(ヴィルディングスロマン=教養小説)という形をとることが多いと思うのであるが、それにしても物語をきれい事で済ませるものが多すぎる。

そういえば、今回の豪雨ではなんとなく全体的に救助その他の動きが鈍かった。首相周辺が飲み会やってたみたいな批判があるが、たとえ飲み会やっててもちゃんとやることが機能してればよいのであって(そもそも政治家というのは、そういうレベルの輩なのである。最初から頼る方が間違っている)、――この全体的な動きの鈍さは何だろう。マスコミも自治体も自衛隊も何もかも動きがゆっくりだったようにみえたのはわたくしだけではあるまいて――。そろそろ、われわれがいざとなったら人助けのために奔走する国民であるという神話も崩れるに至ったか(という感慨も気にしないようになってしまったか)。老人が増えたというのもあるだろうが、そろそろ我が国は国民を本格的に見捨て始めたようだ。わたくしが小さい子どもなら、ここ二週間の我が国からのメッセージをこう受け取るであろう、「逆らったら何人でも死刑だ、逆らわない場合でも助けないけど」と。

これは為政者を責めるだけで解決する問題じゃなく、われわれが、やることやらなきゃこうなる、しかもやってもこうなるとは限らないのだがやるしかない、と思うための教養を欠落させたことから来るものではなかろうか。何回か言ってきたが、安倍氏は多くのわれわれの似姿なのである。仕組みにやや問題あるとは言え、選挙という人気投票だけが自動機械化すれば、安倍やトランプが台頭してくるに決まっている。小泉もそうだったが、彼らはわれわれの潜在的な欲望をよく捉えているからで、実際、彼らの動きを注視して良い思いができる、もしかしたらもっとできる国民は案外多いのかもしれん。――にも関わらず、そのこととは関係なしに、社会の崩壊が止まらないのは、人気投票の独裁のためだけではなく、われわれが個人としてのまともさを失ったからである。戦争の悲惨さという教養に頼っていたのはまずかった。それがなくなったら、何もなくなってしまったのであった。

沈黙しているのは誰なのか

2018-07-11 23:42:01 | 文学


遠藤周作の「沈黙」については、一回授業でもちゃんと取りあげてみたい。スコセッシ監督の『沈黙――サイレンス』も観たことだし……。わたくしも中学生の頃原作を読んで、すごくショックを受けた。大学生の時「深い河」を読んで、何かが間違っているような気がしたがそれ以上は何も思わなかった。

最近の感想としては――、やはり「沈黙」はあそこで終わってはならなかったのではないかというのが、小説の体裁などを無視した感想である。転んで主の声を自らの苦悩として聞いた主人公が、そのあとの長い長い人生をどう構築したのかが問題であって、――われわれだって、その長々としたなかでただ死ぬのを待っているわけじゃあるまい。日本は泥沼という形容は間違っていると思う。それこそ泥沼にもいろいろな歴史が……ある。沈黙しているのは、神ではなく、遠藤周作であり、われわれである。

遠藤周作がおそらく考えたように、われわれ日本人は大概は転向者なのである。ただ、転向したあとだっていろいろある。キチジローみたく、連続する転向みたいなタイプはむしろ幸福なのであって、もっとしたたかに生きているものが大多数である。そこをキチンと実態的に評価しないと、また泥沼にも花が咲くみたいな感じでオウムみたいな人たちが花火を上げたがるような「反応」がでてきてしまうのではないか。したたかな人たちが彼らを村八分にしてしまうのは、ただの保守性や卑劣さからは説明のつかないある感情が働いている。

NHKでやってたオウム真理教の番組みてたら、麻原というのがあんまり俗っぽいあれなので、信者達が義務感と純粋さで突っ走ったという可能性までわたくしは感じたが、いずれにせよ、組織内のことである、いろいろな忖度合戦があったはずであり、それは麻原だけが真実を述べていればワカルはなしではない。帰依した人間というのは、教祖なきあとの組織のことまで常に考えているものであり、だから、むしろ、オウム事件は、主要人物の逮捕以後が物語の本番なのである。必ず教祖より優秀なやつが出てきているはずである。なぜ、わたくしにそんな事がわかるのかっ。わたくしが属していた組織では100%そうだったからである。それははじめのオウム真理教とは似ても似つかぬものになっているかもしれないし――そもそも宗教でない形に変化しているかもしれないし、すごく似ているかもしれない。そこは分からない。吉本隆明はおそらく、そこらまで勝手に推測していて盛り上がってしまったところがある。さすがであった。

いずれにせよ、宮台真司が言うように、神秘体験とか帰依のシステムなんか、会社や政党でやっていることとほとんど同じであったに違いなく、オウム事件なんか極めてありふれたわれわれの姿の追求から考察できる事柄に過ぎない。ただ、それは「沈黙」を再度書き直すような作業であり、やればできるというものではないかもしれない。

多少牢門じみた感じながら

2018-07-11 06:10:49 | 文学


浴場は溪ぎわから石とセメントで築きあげられた部厚な壁を溪に向かって回らされていた。それは豪雨のために氾濫する虞れのある溪の水を防ぐためで、溪ぎわへ出る一つの出口がある切りで、その浴場に地下牢のような感じを与えるのに成功していた。
 何年か前まではこの温泉もほんの茅葺屋根の吹き曝しの温泉で、桜の花も散り込んで来たし、溪の眺めも眺められたし、というのが古くからこの温泉を知っている浴客のいつもの懐旧談であったが、多少牢門じみた感じながら、その溪へ出口のアーチのなかへは溪の楓が枝を差し伸べているのが見えたし、瀬のたぎりの白い高まりが眼の高さに見えたし、時にはそこを弾丸のように擦過してゆく川烏の姿も見えた。
 また壁と壁の支えあげている天井との間のわずかの隙間からは、夜になると星も見えたし、桜の花片だって散り込んで来ないことはなかったし、ときには懸巣の美しい色の羽毛がそこから散り込んで来ることさえあった。

――梶井基次郎「温泉」

昔に色をつける

2018-07-10 23:16:26 | 旅行や帰省
最近、自動色つけの技術が開発されている。詳しくは分からないが、ごくおおざっぱに言うと、AIが白黒写真に自動的に色をつけるの技術といえるのかもしれない。

http://hi.cs.waseda.ac.jp:8082/


早稲田のこのサイトに行ってわたくしも過去の写真で試してみたことがある。わたくしは一九七〇年代の生まれであるはずであるが、生まれた頃の写真がかなり割合で白黒なのだ。なぜであろう……。というのはどうでもよいとして、自動色つけをやってみたところ、これが予想を超えて生々しいのである。

面白いのは、わたくしが書いた白黒の絵にも色がほんのりついたことであった。





というのは、どうでもいいとして、――われわれの現実感というのは、色彩に拠っている部分がかなりあるというのが分かるのであるが、東大の渡邉先生をはじめ、戦前の戦争関係の写真を色付けして話題になっている。わたくしも何か、これはある種の歴史の修正にもつながるのではないかと一瞬危惧したが、結構生々しいので考えを改めた。過去が過去ではないことを自覚することがわれわれにとっては大事である。色のついた写真をみて、われわれは大事なことを思い出す可能性があるわけである。

で、

http://sensousouko.naganoblog.jp/e2217051.html


このサイトを見てみると、わたくしの田舎の昭和七年の様子がカラーになっていた。水無神社のお祭りの写真もあるが、これは、旅館蔦屋あたりから東方向をみた場所だと分かる。今でも案外雰囲気が変わっていない気がするのであるが、これはカラーになったからという理由もあるに違いない。

http://sensousouko.naganoblog.jp/e2283496.html


ここには今の木曽清峰高校のグラウンドでの軍事教練の様子が写っている。周りはいつも眺めていた山の風景だけにギョッとする写真である。

「山嶺の星座」の周辺

2018-07-09 23:42:44 | 文学


わたくしの田舎の近くに山形村というのがあるが、唯物論研究会の中心人物の一人であった永田廣志というのがそこの出身である。松本深志から東京外語のロシアを出て、何回か逮捕されているが、愚直な唯物論史を書いた。彼は戸坂潤のように獄死はしなかったが、松本に帰ってきた頃は体の調子も悪く、戦後すぐに四〇代前半で死んでしまった。

だいたい、唯物論研究会の連中がちゃんと戦後に生き残っていたら、だいぶ歴史は変わっていただろうと見なす人もいるが、わたくしは久野収とか中井正一の戦後の活動から考えて、それほど変わらなかったのではないかとも思うのである。確かに、戸坂潤一人いただけで、だいぶ黙らなくてはならかった人はいただろうが、戦争時代が戸坂を黙らしてしまったと同じように、戦後も違う意味で黙らされた可能性もある。すでに「マチウ書試論」や「デンドロカカリヤ」がその時代の感情を抉る事態だったからである。むしろ、戸坂や三木が早く死んだことの意味は、戦後も平成時代になってボディーブローのように効いてきたと思う。吉本がオウムを相対的に評価し、安部が「箱男」的に引きこもるのは、彼らの論理から必然であったが、若い頃にもう少し強敵が多かったら、もう少し違っていた可能性があるとわたくしなんかは妄想する。

ところで永田であるが、彼が死んだときに葬式で歌を作ったのが高橋玄一郎で、こっちは現代詩歌運動の人である。浅間温泉の旅館の経営者でもあったはずである。で、松本周辺にいた芸術家集団をえがいた小説があるので、取り寄せてみたのが、山本勝夫の『山嶺の星座』上下巻。時間ができたら読んでみたい。

イグアナ的な肉体の帰趨

2018-07-07 23:28:17 | 漫画など


萩尾望都に「イグアナの娘」という作品がある。テレビドラマにもなったらしいがみていない。

主人公の娘は、生まれたときからイグアナなのであるが、そうみえるのは本人と母親だけである。母親の葬式で、娘が、自分がイグアナから転生したものであることを思い出すことで、――一応彼女がイグアナであることは整合性がついているのであるが、母親だけがそれを知っていることの謎は残っている。人間に恋して人間への転生を願ったイグアナの、人間としての幸福を阻害してしたのは、彼女を産んだ母親であって、いわば自分の肉体の生成元であった。つまり、この作品は、おそらく、肉体と精神の同一性への希求による激しい対立が大きなテーマなのである。(少女漫画だから、それは「容姿」の問題と思われてしまうかもしれないが違うのではなかろうか)だから、彼女は母親の死と、そして、本当の(転生前の)母親はイグアナに過ぎなかったことを受け入れることで、精神としての人間の生活に完全に移行できたのであった。

しかし、なぜイグアナみたいなものが肉体の問題としてでてくるのか。

わたくしは、肉体嫌悪(翻っての過大評価)みたいな問題を、あまり軽視すべきではないと思うのである。わたくしも、生まれてこの方、肉体の不調に悩まされてきたのであるが、――こういう人に多いと思うけれども、小さい頃から、自分の体が自分ではないような感じが常にあって、これはわたくしの人格形成に大きな影響を与えていると思う。こういうタイプは必ずしも精神的な人間になるとは限らず、むしろ逆である可能性が高い。わたくしはそういう危険性に常におびえていた気がする。わたくしの思春期にもう少し挫折が多くあったら、あるいはもっと成功があったなら、まったくどうなっていたのか分からない。

先日、オウム真理教の親分と幹部が死刑になったが、彼らが、結局肉体をコントロールして精神を高めるみたいなやり方をしていたのがわたくしには印象に残っている。彼らは、まったく精神を信用していないのである。彼らのサリン事件は基本的には、おそらく対米政策だったのであるが、アメリカが攻めてこようと、アルマゲドンが来ようと、あるいは、選挙で落ちようと、精神的な人間にとっては痛くも痒くもないはずである。坂口安吾で言うと、堕落する力があるということであるが、彼らは全くそれがないのだ。だいたい、バブル崩壊やオウム事件によって、日本社会が変わったというのは一部は当たっているけれども、やや浅薄な見方で、結局のところ反映論以外の何者でない。やたら忖度しかできない最近の連中の発想もおんなじである。ただ、こういうのが上のようなある種の体の不調みたいなものからくることをわたくしなんかは推測するから、宮台真司みたく、彼らを「クズ」と呼べないだけだ。確かにクズなんだけれども。

萩尾望都のマンガは、力が入っているところで、言葉にすごく重心がかかるのだが、この作品でも末尾で

わたしは涙と一緒に わたしの苦しみを流した
どこかに 母の涙が凝っている


という表現がある。非常に居心地の悪い表現で、さすがだと思った。

内田樹氏はよく「惻隠の情」の重要性を言うが、これは氏の体がなんだか丈夫であることと関係があると思う。他人の体を心配し思い描けるということは、必ずしも自分の体の弱さを知っていることと同じではなく、相手の精神に対する信頼から来るものだと思う。残念ながら、この信頼は、体が丈夫なやつは早くから身につくのではなかろうか。体の弱さは、自分の体と他人の体をコントロールする欲望につながってしまうのが屡々であるような気がする。