★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

おひるねぐーぐー

2018-07-01 23:07:02 | 映画


近所が出てくるというので「ひるね姫」というのを観てみた。「君の名は。」が忘却との戦いの話であるとすると、「ひるね姫」は眠気との戦い、というか、全体的に視聴者を含めて主人公も寝ているのかもしれない、という映画であった。

夢と現実の対応や区別をあれこれ考えることは自我を考えることとほとんど同じ事のように思えるけれども、「攻殻機動隊」やら「君の名は。」などがそうやって悩んだ末にたどり着くのは、なにやら「反省せえ」みたいな説教か、素朴な自分があるかもよ、みたいな諦めである。だとしたら、もはや自分の現実も夢もスマホ上の映像も全部弁証法的に物語の要素にしてしまえば、あんがい予定調和的な幸福な情況がつくられるのではないか、――「ひるね姫」はそんな試みに見えた。つまり人生、全体的に寝てしまえばよいのである。

そうでもみなければ、近代的な映画としては倫理的にも世界観としても整合性がないような物語であるように思えた。

われわれの周囲には確かに、「寝言は寝て言え」みたいな人間が増えているわけだが、本当に寝言を寝て言っているとしたら「起きろ」と言っても無駄である。寝てはいるが既に少しは起きてもいるからである。つまり「ひるね」状態だからだ。

やくざな生活をしがちなわたくしであるが、――夜寝て昼間は起きるというのが、白昼夢による容易な誤った解決を思いとどまらせる、結局、そういうことなのかもしれなかった。最近、教育論でも「物語」の機能が云々されているのだが、ひるねの匂いがするのはわたくしの気のせいではないであろう。