★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

欺瞞的授業再開阻止

2023-05-15 23:51:04 | 思想


世衰道微、邪說暴行有作。臣弒其君者有之。子弒其父者有之。孔子懼、作春秋。春秋天子之事也。是故孔子曰、知我者其惟春秋乎。罪我者其惟春秋乎。聖王不作、諸侯放恣。處士橫議、楊朱墨翟之言盈天下。天下之言、不歸楊、則歸墨。楊氏為我、是無君也。墨氏兼愛、是無父也。無父無君、是禽獸也。公明儀曰、庖有肥肉、廄有肥馬、民有飢色、野有餓莩。此率獸而食人也。楊墨之道不息、孔子之道不著。是邪說誣民、充塞仁義也。仁義充塞、則率獸食人。人將相食。吾為此懼。閑先聖之道、距楊墨、放淫辭、邪說者不得作。作於其心、害於其事。作於其事、害於其政。聖人復起、不易吾言矣。昔者禹抑洪水而天下平。周公兼夷狄驅猛獸而百姓寧。孔子成春秋而亂臣賊子懼。詩云、戎狄是膺、荊舒是懲。則莫我敢承。無父無君、是周公所膺也。我亦欲正人心、息邪說、距詖行、放淫辭、以承三聖者。豈好辯哉。予不得已也。能言距楊墨者、聖人之徒也。


孔子が「春秋」を著したのは、孔子への理解も批判もその一冊によって為されるようにしたためだという。つまり、議論を孔子の思考の及ぶ限りに閉じ込めることである。「資本論」も「聖書」もそういうところがあったし、「論語」もそうだった。「こころ」や「万延元年のフットボール」でさえそういうところがあった。それらをめぐって起こるのは議論と言っても、解釈による批判的検討である。孟子によれば、そういう君子が書いた物以外のところでおこなわれるのは議論ではなく、邪説の繁茂にすぎない。自分のやっているのは下々のおこなう「議論」ではなく、邪説をただすことである、と。

とても権威的ないやな意見であるようにみえるが、実際、優れたの本の解釈というものが、統治や教育に向いているのは確かだ。思想の社会性というのは、思想や文学の解釈でしか生じない。わたくしは、かつての学園闘争のとりえは、それがマルクスの解釈や、裏で三島由紀夫や吉本隆明や花★清輝による古典解釈がおこなわれていた以外にあるのだろうかと思っている。決して、議論百出にあったわけではない。むろん、民主主義のプロセスとしての意味はあったと思うが、民主主義はそれほど短期的にどうにかなるものではない。昔も今も早く答えを出しすぎる若者は多いが、しかし、――それは若いからという理由だけではなかった気がする。

学生運動の資料をみていると、これを収集して本にする執念に驚かされるが、ある意味で、二十歳そこそこの経験に一生縛られるのは、きわめていやらしい意味で、受験戦争の体験をおもわせもするのである。大学時代の記憶がバリケード内での様々な体験であるのと、みじめなレジメつくっちゃったみたいなものであるのとどちらが本人にとってよいのかは人による。乾坤一擲の大勝負を遅らせるのも闘争である場合もあるような気がするのだが、熱気に煽られた受験も闘争もそれを忘れさせる。

横溝正史の『真説・金田一耕助』にたしか書いてあったが、彼の人気はどうも独身者にたいする母性愛にあるんじゃないかとか。いまの独身者もどこかしら母性愛を求めてるところあるかも、と私も一瞬おもったが、そんなことはなさそうだ。横溝は、もう老人になって、こんな与太を面白く堂々とかける男なのだ。そして、このゆっくりな俗っぽい感覚が、彼の作品の面白さをうんでいるのである。

とつぜん思い出したが、いつも「犬養家の一族」って間違えるひとがいた。これはミスにしては面白い。犬養毅から、安藤サクラにいたるまで、犬神家以上の壮大な遺産争いになるぞこりゃ。受験勉強では、こういうミスは悪なので、発展はのぞめない。横溝正史自身も言ってたが、作品のためにはあくの強さと笑いの組み合わせというのは、すごく大事なことだ。これは子どもの特徴というより、創造性の特徴なのであろう。

東大闘争の林健太郎監禁事件は有名である。林は、全共闘の荒くれ学生を軟禁された部屋で次々に論破したという伝説がある(ほんとかどうか知らないが)。が、その文学部長を林じゃなくて、その前の、萬葉学者の五味智英にしつづけておれば、そのどうでもいい論破じゃなくて、気持ちを歌に詠むみたいな闘争スタイルが流行ったかもしれんのに。ネット上で論破が流行るのはおもしろい。人は緊張感がない状況でこそ、論破を繰り返していいきになるものだ。受験勉強前の中2みたいなものである。しかし、むしろ、論破者が英雄たるゆえんは、林が監禁された文学部第弐号館みたいなところにおしこめられて全共闘を論破みたいなときであった。――とおもったが、考えてみると、林も軟禁されていたからこそ論破モードになったのかもしれん。ネット民も、視野の狭い状態で軟禁されているのと物理的に同じだから。。

その東大文学部長と東大生の正解争いは、いまでも続いている。ネットのどうでもいい正解争いのほうがまだおふざけが入っているだけましな気がするくらいである。もはや体制と反体制みたいな悲喜劇はみかけない気もするが、別に反体制が誰なのかは全共闘運動だってわけがわからなくなってしまったわけで、結局残ったのは、地域貢献対学部のミッションとか、幇間同士の戦いの頭の悪そうなあれであった。いまこそ彼らを体制側としてお餅のようにくるんで糾弾すべきである。学園闘争のスローガンじゃねえが「欺瞞的授業再開阻止」はいつも必要なのである。


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