★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

船山神社を訪ねる1(香川の神社128-1)

2017-11-27 23:48:36 | 神社仏閣
歴史マニア垂涎の船山神社。仏生山町。祭神が、倭迹々日百襲姫命だからである。





天保3年の燈籠。



「船山大明神」!

 

狛犬さん(嘉永五年、痩せている)。





なにっ!犬だめなの?それでわたくしは外にいるのかしらん……



随神門(新しい)。古いやつの写真は『香川県神社誌』に載ってます。



すごく調えられた境内だ。



門の近くの右手には、「社號復舊碑」があった。文章を書いているのは、赤松景福。郷土の歌人ですね。三代実録に船山神社とあるすごい神社デアルのに、明治になって「百相神社」と変えられてしまった。氏子総代達はこれを遺憾とし明治一九年に早くも社号変更願を出していたが、それが聞き届けられたのは、戦後、昭和二十年十月であった。許可したのは幣原内閣の内務大臣・堀切善次郎である。この人は警保局出身で、戦後も東京の公安委員長などをやった人であった。

更に右手をみてゆくと……



「義勇奉公」の碑。香川県の軍を仕切っていた丸亀区の連隊長の蜂須賀喜信が書いている。というわけで、彼が丸亀区に居たのは大正末期。この大砲の裏には、「皇太子殿下御成婚記念 大正十三年十月」とあった。大将として昭和天皇は期待されておりましたな……

拝殿の右側にも入口があった。



昭和三年(御大典記念)の注連石あり。



道路に面して時計台もある。これで、神社で昼休みしてても遅れずに間に合うね……。でも外側を向いている……。

 

拝殿の前の狛犬さん。(犬猫はいないはず。たしかにこの像はライオンみたいに見えるね)



拝殿。



本殿。

『香川県神社誌』に曰く、

「社伝によれば(人皇第七代孝霊天皇の皇女)倭迹々日百襲姫命、上古讃岐の東部に来り給ひ、更に移りて当地船山に登り給ふ。此の地讃岐の中央にして好き所なりと賞でし給ひしにより、祠を立てこれを奉ず。地名百相(倭名鈔 百相 毛毛奈美)は命の御名によって起れりと。[…]創建は天平年間といい、初め浅野村船岡山に鎮座あり。船岡山は古く百相郷に属し船山と称し、当社又船山神社と、称へられ三代實録に『天慶五年十一月十四日、戊午授、讃岐国正六位上、船山神社従五位下』とあるは当社なりといえり。」


なんだ、姫の名前から来たのか。今も神社の南に船岡池・船岡山がある。もともとここに祠を建てたわけですね。近所の巨大テーマパーク田村神社もこの人を祀ってオルよ。

「鎌倉時代まで、社殿宏状、近郷の大社にして国司守護の尊崇厚く、細川頼之当社を以て岡館北方の鎮守となし、大野、百相の間にて、二石三斗を寄進し、貞治五年三月扁額を奉納せしこと讃岐細川記に詳なり。」


この栄光の時代があったか……しかし、

「天正年間に至りて、土佐国長宗我部元親当国を侵撃せし時、不幸にも当社は焼損に罹りたる。」


おのれ、長宗我部。いつもの如くことごとく焼き払いおって、go to hell

「以て別当神宮寺の境内に社殿営み奉遷せり。これ現今の鎮座地にして、爾来神宮寺大明神と称せらる。神宮寺は渡世変により廃寺となりしが当社は、氏子の奉祀する所となり存続す。然れども社号は猶神宮寺大明神と唱へられ、旧藩の帳簿に神宮寺神社と載せられたり。高松藩主松平頼重法然寺創立、神宮寺の地を以てその寺領とするに及び、領内一社の神として崇顧厚く、年毎に米一石二斗の奉納あり、慣例となり明治初年に及ぶ。」


もう、名前まで変わってもうたではないか……。頼重公、ちきり神社を隣の山に追いやったお方ですね。


神宮寺跡。

「又社にある古松は、頼重公が、日向国より移植せしものにして、他の松と種類を異にせり。」


ああ、そうですか

「明和二年正月火災により★安永二年本殿を再建し、文化三年幣殿を建築せしが、爾来久しくなりたるを以て、明治三十二年改築。明治初年社号を百相神社と改むる。」


ここまでは、案内板も忠実に写していた。しかし、案内板は、★の部分に注釈を挟み込んでいる。

(古老の言伝に曰く昔は水は清浄なるものとの概念から水堀の中に本殿を建立して居たとの事。御神体焼失はまぬかれたが瓦類其の他焦土と化したもの全て水堀の中に埋め立てしたとのこと、たまたま瓦類の出土を見るに、奈良時代和銅~大同年間の造り模様、尚瓦浦面には布にて型づくりし布目のあとあり。古人之を布目瓦といえり。今より千百年前のものと推測す)


おおっ、焼けた物で堀を埋めてしまうとはグッドアイデア。スクラップアンドビルドですね。この瓦はあれかな、昔から使い回していたということかな……。まあどうでもいいか、案内板は続いて戦後の説明に突入。

「戦後昔の社名船山神社に復旧す。昭和初期頃より御拝殿改築気運ありしが時運いたらず、昭和三十八年に宿願の御拝殿釣殿共に一般氏子各位の労務奉祀並びに崇敬者信徒の御寄進御協力によって願望達成するに至りました。同五十年御本殿の御屋根銅板に葺替え、つづいて翌五十二年慶應二年建立の随神門の御屋根葺替の大修繕。敬神の念厚き氏子は、昔の宏壮な社殿の姿を偲びつつ復旧に努力致し居ります。尚本殿傍には楠樹齢千年余り、根もとのまわり12.8メートル枝葉のひろがり約37メートル樹勢きわめてさかん(昭和三十五年七月七日県の天然記念物に指定)初夏の頃の新緑の美しさは格別、境内には数本の梛の銘木あり。」

突然、現代文になりましたね……。「宏壮な社殿の姿を偲びつつ」とは、いつのことなのかわかりませんが、たぶん鎌倉時代あたりか……。とりあえず偲ぼう……。



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