★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

かのをかしかりつる灯影ならば

2019-02-08 19:03:13 | 文学


君は入りたまひて、ただひとり臥したるを心やすく思す。 床の下に二人ばかりぞ臥したる。

入るなよ……

衣を押しやりて寄りたまへるに、

寄るなっ

ありしけはひよりは、ものものしくおぼゆれど、 思ほしうも寄らずかし。

一晩で太るわけはなかろうが……。はやく気づけよ、このエロ十七歳がっ

いぎたなきさまなどぞ、あやしく変はりて、やうやう見あらはしたまひて、あさましく心やましけれど、

やっと分かってきましたね……でも「あさましく心やましけれど」とは何事か。はやく女に謝罪せよ。

「人違へとたどりて見えむも、をこがましく、あやしと思ふべし、本意の人を尋ね寄らむも、かばかり逃るる 心あめれば、かひなう、をこにこそ思はめ」と思す。

何うだうだ言ってんだこいつは。

かのをかしかりつる灯影ならば、 いかがはせむに思しなるも、 悪ろき御心浅さなめりかし。

光源氏の目的はもはや人間ではなく、おかしかりつる灯影みたいなものでよいそうです。自分が光なだけに。さすがに語り手も、「この頭のワルい心の浅いヤツメ」と言っております。ともかく、光氏は、このあと空蝉の衣装を持って帰り(←窃盗だ捕まえろ)、

空蝉の身をかへてける木のもとになほ人がらのなつかしきかな

となんとなく、蝉が殻を破って白い姿で出てくるエロチックさを知っている人にはイヤラシくも感じる歌をつくったりしている。何が「人がら」じゃ。しかし源氏がそれほど頭がおかしくみえないのは、衣装を脱いだ人を「空蝉」とさらっと言えてしまうところにあるわけである。漱石なんかになると、こうなる。

肉を蔽えば、うつくしきものが隠れる。かくさねば卑しくなる。今の世の裸体画と云うはただかくさぬと云う卑しさに、技巧を留めておらぬ。衣を奪いたる姿を、そのままに写すだけにては、物足らぬと見えて、飽くまでも裸体を、衣冠の世に押し出そうとする。服をつけたるが、人間の常態なるを忘れて、赤裸にすべての権能を附与せんと試みる。十分で事足るべきを、十二分にも、十五分にも、どこまでも進んで、ひたすらに、裸体であるぞと云う感じを強く描出しようとする。技巧がこの極端に達したる時、人はその観者を強うるを陋とする。うつくしきものを、いやが上に、うつくしくせんと焦せるとき、うつくしきものはかえってその度を減ずるが例である。
――「草枕」

もはや裸がただの物にみえてしまっているので、かえって、なぜなお我々は興趣を感じるのだろうみたいな疑問と戦う羽目になる。岡崎乾二郎氏は、漱石はモダニズム芸術にある、我々の対象把握を突き崩してしまう、物質がもたらしてくる無数の感覚、すなわち「抽象の力」というものをもうみているのだと述べているが、そうかもしれない。ただ、わたくしは実際に、弱った蝉を手のひらにのせてみたりする方が好きだ。源氏も、女を眺めたりするだけではなく、火影に飛び込む蝉の如き感覚を備えていたに違いない。すごいことである。


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