「いま一人は」など問ひて、世の常のうちつけのけさうびてなどもいひなさず、世の中のあはれなることどもなど、こまやかにいひいでて、さすがに、きびしうひきいりがたいふしぶしありて、われも人もこたへなどするを、「まだしらぬ人のありける」などめづらしがりて、とみにたつべくもあらぬほど、星のひかりだに見えず暗きに、うちしぐれつつ、木の葉にかかる音のをかしきを、「中々に艶にをかしき夜かな。月のくまなくあかからむも、はしたなく、まばゆかりぬべかりけり」
思うに、現実には光源氏はいなかったのね、などと自明の理に拘っていたからいけなかったのである。物語の主人公に惚れてしまう単純な頭の彼女であるから、現実の貴公子にも簡単に惚れてしまうのであった。わたくしも考えてみると、――アル・パチーノ、ダイアン・キートン、ナンシー・アレン、ジョディ・フォスター、ユマ・サーマン、高峰秀子様、のん様、紫の上様など、ごくごく少数のひとに惚れてきたので、現実に於いても大したことはなかった。
いったいに「中々に艶にをかしき夜かな。月のくまなくあかからむも、はしたなく、まばゆかりぬべかりけり」とかうそぶいている男が大したやつであろうか。月は煌々と照っていた方が、キレイな女性は更に輝くに決まっているではないか。
ダイアン・キートンの結構気合いの入った出演作の中で「ミスター・グッドバーを探して」というのがあるが、内容の過激さはどうでもよく、その映像の作り方が、妙にダイアン様を影ある女にしていて、いまいちだった気がする。これに比べれば、燦々としたアメリカの太陽の下の「ゴッドファーザー」の描かれ方のほうがすきだった。初代ゴッドファーザーも、アルパチーノの二代目も、影ひとつない日光の中で倒れる。我々がみたくない光景のひとつである。
影の中の人間を描きたがるというのは、どうも、権力意識の表れではないかと思うほどだ。
結局、昨今の発達障害論が社会にもたらしたものは、明治以来の「心の闇」や「変態心理学」の現代バージョンである。教師がこまるのは、よく考えている且つ空気が読めない(と自分では思っている)人間ではない。興味深い考えなら突然放り投げられても論理的に処理できるからいいが、たいがいそうではない。空気が読めない天才的なそれでなく、大概は空気が読めないような?心の方向性から生じた平凡な見解だ。そこに、なにか病的な(闇のような)要素があるかも知れないという恐怖を社会に与えたのである。これは、実際、ある人間に病や障害があるかどうかとは関係ない、社会のなかの機能であり、我々の心は「社会」ででてきるので、その機能によって働く。恐怖は打ち消されようとする。「社会」によって。
停車場の周囲の枕木の垣根にもたれて休んでいるとき、今朝は果して空が晴れて、俺と俺の隣に並んだ豚の背中に太陽の光がそそぐだろうかと伊沢は考えていた。あまり今朝が寒すぎるからであった。
――「白痴」
ここでの太陽は、社会が破壊されたからでてきたのであろう。私はそう思いたい気がする。