★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

余りに政治と無関係な

2024-04-02 23:46:21 | 文学


書曰、 鄭伯克段干郡。 段不弟 、 故不言弟 。 如二君、 故曰克 。稻鄭伯 、識失教也。


鄭伯荘公がはじめから弟を殺すつもりだったのを記しているのだと言っているようであるが、政治というのは本来こんなかんじで頭をつかうものであって、正しいためにどこか異常に頭を使うことが求められる。これが殺人を伴うものであれば我々の先祖達がいかにストレスのなかでくらしていたかという思うばかりだ。集団化した言葉を組織できない場合、昔はいまよりも出来事に頼っていたに違いない。分かりやすいのは人の死である。

いま、言葉は出来事よりも力となった。何かを成し遂げるのは出来事である。しかしこれをきちんと言葉で評価できる人間が少なくなったので、何かを為すよりも先に言葉で何かをやっつけようとしてしまうのである。何のつもりなのか、S県知事が、農家と県職員を比べて職業差別的発言をしたとかで辞任するとか言っている。言うまでもなく、農家と県庁職員を比べて、それを平等に扱おうと差別的に扱おうとどちらも馬鹿である。別の職業なので比較のしようがないからだ。丁寧で頭を使う人は成功するけどそうでもない人はどこにもいるし、農家も県庁職員もおなじだ。しかし、それこそそれは能力差別だから言われないだけである。――まあ、それにしても、官僚組織に依存しているくせに役人を馬鹿にしているやつが多すぎだ。とにかく、みんな思い上がりすぎなのである。政治家は、政治が仕事の怖ろしい人たちであって、我々と同じモラルを持っているとは限らない。だから、むかしから、彼らに対しては革命や何やらの手段を執ってきたのだ。

問題はむしろ、言い返せない人たちであることをいいことに県庁や役場に完全にどうでもいいクレームを毎日につけに行っておられるる各業界のおかしいひとたちのほうである。こういう話を仄聞するにつけ、御役人の資質は知性というよりなにか別のものであるような気がしないでもない。いったい、この公僕に対する庶民の態度の悪さはどこからくるものであろう。

我々の社会はおそろしいほどお役所に依存している。しかも依存先を「お上」だと思ってしまう癖がなおらない。お役所に頼るとお役所はお役所の使えるお金の範囲で何かをやるしかないので、すべてうまくいかない。で依存している方は、その必然性を、いじめの一種と思ってしまうのである。

役人たちを、「公共サービス」や机上でなにかやっている人たちというイメージするのは間違いで、彼らは、法律や決まりに適合するようにあらゆることを書類の記述に置き直す手続きの仕事を延々やらされているのである。言うまでもなく、わが国が官僚国家であることの自覚が普通ない人が多い。そのくせ民主主義だと思っている。こうして、書類仕事をなめてしまう人が多い。とにかく書類が作れない人のために膨大な仕事が誰かによって行われている。思うに、空想で外に向けて喋ってしまう政治家やなにかポンチ絵で遊んでいるような役人はまた別の種類のなにかで、そいつらには文句いわんくせに、下っ端役人の書類係いじめてる自称「現場」はなんなのだ?

役人や教師は誇りを踏みにじられている人が多いから、あなたたちこそ世の中を裏で支える頭脳なんだくらいな言い方をすべきであったと思うが、そこはたぶん知事の事務方へのルサンチマンや事務方の政治家へのある種の蔑視なども絡まり合って、ああいう発言になったと推測される。とにかく、普段弱い者いじめしているくせに、自分を馬鹿にするな、というコンプレックスだけで生きてる状態が、知事から庶民にいたるまで覆い尽くしているのがまずすぎる。某知事だけでなくあの地位にいいる政治家はすごい思いあがっている人が多いものだが、――庶民と全く同じで、たぶんすごく自分が馬鹿にされているとも思っている筈だな。明らかに庁内でも尊敬されてない場合が多いと思うから。それに議会での人間関係の調整で疲れ果ててしまっている。

小学生じゃあるまいし、差別されないからといってその他の問題がドミノ倒しのようによくなるとは限らないことぐらいは分からなくてはならない。

某知事の発言に怒っている人たちはこれからちゃんと目の前のあほ上司や部下の差別発言を放置するなよ。もっとひでえ奴が目の前にいるだろ。自分も含めて。


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