★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

動機と理由

2023-05-13 23:34:12 | 思想


從許子之道、則市賈不貳、國中無偽。雖使五尺之童適市、莫之或欺。布帛長短同、則賈相若。麻縷絲絮輕重同、則賈相若。五穀多寡同、則賈相若。屨大小同、則賈相若。」曰、「夫物之不齊、物之情也。或相倍蓰、或相什伯、或相千萬。子比而同之、是亂天下也。巨屨小屨同賈、人豈為之哉。從許子之道、相率而為偽者也、惡能治國家。

共産主義としばしば比定される許子先生である。孟子は、これに価値が違うというのが人のつくるものの特徴だ、見かけが同じだからと言って値段を均一にしちゃ駄目だ、と反論する。孟子は、世には精神的労働者と肉体労働者がいると言ってからこのせりふだから、価値がそこに込められた精神的なものによって違うという考え方は、むしろ人間について考えられていたことだ。統治の方便としての側面が孟子の言説にはつきまとっているような気がする。だから均田制みたいな徴税システムはかえって形式的である必要があった。徴税は、統治者の精神性を守るために、肉体労働者の精神性を無視した結果である側面がある。

ところで、許子の言う価値はその物の長さとか重さとかによって計られなければ値段に変換しようがないというのは、それは一理もそれ以上もある話である。これは共産主義というより、資本主義の理念ではなかろうか。この考えがなければユ★クロの服の大量販売はありえない。そして、その場合、服装は生活に従属し、価値から引き離されているような感覚が人々の間に均一に共有されている必要があるが、これは、無理に強要できるものではなく、知らないうちに同じような服を皆着ていることによって起こる。だから、それは売り続けないとそれが買われる根拠も同時に失うので、立ち止まることが出来ない。本当は、イノベーションとやらも賭なのであって、たいがい権力にまでみえる大企業によってイノベーションがおこなわれるのは、それを直ちに人々の買うものの均一化に持って行けるからであった。

こんななかでは、我々は何のために生きているかわからない。購買意欲は生活を維持するための「動機」に過ぎないが、それが生きる「理由」=目標になればより労働しなければならない強迫となるから、――われわれはもちろん意図的ではないが、資本主義の意図としては意図的に貧乏になっているようなものだ。すくなくとも、ある人々が労働者を低賃金に追い込んでいるのが意図的であるのは明白である。

小さい共同体で、社交があればそれも少しはましになるとある人たちは言っている。本当であるかはわからない。

このデッドロックに乗り上げた状態では、なるべく人がズルをしてさぼろうとするのは当然の流れのようにも思える。で、人集めが目的化した業界は、たいがい、「動機」と当為的な「理由」を混同させて人集めをするようになる。教師の場合もそうで、尊敬する先生にであったからという「動機」は、自分が教師でなければならない「理由」とは何の関係もない。しかしこれを混同させることでひとを集めなければならなくなっている。で、ますます現場がきついのでやめるという「動機」だけが生起するというね。。

絶望が始まったときから本当の反撃がはじまると我々は聞かされてきたのだが、思うに、最近は、その反撃とはその実自分に対する反撃であることが多いような気する。まずは、「動機」と「理由」を分離して考え直さなければいけないのだが、心の問題としては、前者のほうがより重要な気がするからで、絶望すると、生きる「理由」をまず諦めるという暴力が我々に発生する。むろん、最近のテロもそういう原因によって生起していると考えられる。


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