三島由紀夫は「文化防衛論」のなかで、丹羽文雄の戦中の『海軍』と、終戦直後の暴露小説「篠竹」の同質性について「精巧なカメラであって、主体なき客観性に依拠していた」と言っていた。
軍隊が善になろうが悪になろうが、丹羽文雄はカメラに過ぎない。自分は爆弾を運ぶんだよ、と三島は蓮田善明を引きながら主張する。
よくわからんが、――平野謙が例の中野重治を囲んだ座談会の中で、「篠竹」の最後を「猥らしい」と述べていたのを思い出した。確かに売春の場面だからそうなんだろうけれども――、平野もそれを調べた小説として、細田民樹の『真理の春』なんかと同列と並べているから、その「猥らしい」というのは、案外カメラ的な意味であったのかもしれない。平野というのは、ときどきそういうことを言うが、確かに、今日「篠竹」を読んでみたら、どことなくリズムがイヤラシい小説であった。
何故そう感じたのであろう……。
とにかく、流れるような文章で、カメラと言うよりもむしろ音楽的な趣さえあった。戦後のデカダンスの匂いというのは、こういうことかなとも思ってみた。小説の中身からもいえるのだが、戦時中に見出されたのは、積極的にだらだらした日本人の姿である。それは、無意味に階級の下のやつをぶん殴る行為なんかを含めてもよく、三島や坂口安吾が夢みたような突撃精神は、それを脱構築したものでなかったであろうか。
この前、ルーカス監督が「スターウォーズ」より前に撮っていた「THX 1138」というSFを見たが、これも基本的にデカダンスであった。しかしだからこそ、ここから「スターウォーズ」へのジャンプが起こったのである。